「名もなきケア責任」は今どう配分されていて、これからどう配分しなおせるのか――平山亮さんと山根純佳さんの往復書簡連載、今回は平山さんから山根さんへの応答です。 [編集部]
山根純佳さま
ご多忙のなか、ご丁寧な返信をありがとうございます。刺激的な内容のお手紙に、真冬の寒さで絶不調なアタマとカラダもピリッとよみがえる思いでした。
「見えないケア責任を語る言葉を一緒に紡いでくれませんか」というわたしのお願いを快く引き受けてくださっただけでもわたしには感謝&感謝ですが、それだけでなく、山根さんが第一打から「そもそもsentient activity(SA=ケアにかかわる感知・思案)とは何か」というド真ん中の問いに挑んでくださったことは、わたしにとって嬉しい驚きでした。「SAとは何か」をはっきりさせられて初めて、「じゃあ、そのSAを行う責任は今どんなふうに配分されていて、これからどんなふうに配分しなおせるの?」という問いに進むことができるからです。その意味では、山根さんは「名もなきケア責任」を名ざす企画の最初の関門をロケットスタートで突破しつつ、このプロジェクトを一気に進めてくださった、と思っています。
ケアの社会化って、何を社会化すること?
ちなみにこの次の問い、「どんなふうに責任配分をしなおせるの?」は、山根さんが最後に「お時間のあるときに議論できれば」と誘ってくださった「SAはどのように社会化できるのか」という論点に繋がるものです。実を言うと、SAに対するわたしの関心も、つまるところはそこにあります。依存的存在をケアする責任は家族にある、という家族主義から離れて、ケアの責任を社会全体で分かち合うのがケアの社会化ですが、その前にまず考えなければいけないのは、社会化の対象となるケアってそもそも何なの、という問いです。家族主義のもと、家族が担わされているケアとは何かがわかって初めて、わたしたちはその責任をどのように分かち合えるか/分かち合うべきなのかを、具体的に構想することができます。
わたしが『介護する息子たち』のなかでSAを持ち出したのも、そのためです。家族の間で行われているケア、女性に偏って担われているケアのなかには、まだはっきりと見えていないもの、きちんと言葉にされていないものがいっぱいある。既に見えているケア、もう語られているケアの負担だけを議論の俎上に載せて「ケアの社会化」が進んでも、「見えないケア責任」における男女のインバランスは置き去りにされ、結果としてジェンダー不平等はより隠微に巧妙に、残されてしまうのではないか……。「見えないケア責任」の「見える化」という企てへとわたしを突き動かしたのは、そんな危惧なのです。ご著書である『なぜ女性はケア労働をするのか』の最後で、性別分業を再生産しないケアの社会化の方向を具体的に提案しておられた山根さんですから、マネジメントとしてのSAについても社会化の議論へと進んでいかれるだろう、と予想はしていたものの、山根さんとわたしの関心がシンクロしていることを改めて確認でき、心強く感じている次第です。
母たちの苦悩と構造的不平等のリンク――SAのレンズを通して見えるもの
つづきは、単行本『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』でごらんください。