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『ヒューム 因果と自然』

 
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萬屋博喜 著
『ヒューム 因果と自然』

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 因果関係は、私たちの生活のいたるところに張り巡らされている。たとえば、なぜ商品の売り上げが伸びたのかを調査したり、新しい教育プログラムの効果がどうなるかを検証したりするとき、私たちは、何が何によって引き起こされているのかを明らかにしようと試みるだろう。また、私たちは自分の経験していないことについても、どういう結果が起こるのかを事前に予測できる。たとえば、前方の車と自分の車の距離が十分に確保されていないとき、「相手が急ブレーキをかけたら、追突事故が起こるかもしれない」と予測して十分な車間距離をとることで、追突事故を未然に防ぐことができるだろう。
 このように、私たちは日常生活のさまざまな場面で、因果関係の網の目を読み取って生活を営んでいる。野家啓一の指摘するように、「とりわけ、われわれが因果関係を意識し、原因を探し求めずにいられないのは、何らかの不具合や不都合な結果が生じ、日常生活に支障をきたすような場合である」(野家2008, 54)。たとえば、コンロの火が突然つかなくなってしまったら、コンロが故障した原因が何なのかを探るだろう。より深刻な場合で言うならば、大規模なトンネルの崩落事故が発生した場合に、工学的観点から安全性の向上を目的とした原因調査が実施されたり、法学的観点から当事者の刑事責任が追及されたりすることになるだろう。このように、日常生活だけではなく科学的探究においても、因果関係は私たちにとって中心的な位置を占めているのである。
 以上のように私たちが重要だと考えているはずの因果関係について、するどい懐疑の目を向けた哲学者がいる。十八世紀のスコットランドを生きたデイヴィッド・ヒュームである。一般に知られているヒュームの見解を要約すれば、次のようになるだろう。ヒュームによれば、ある事象が別の事象を引き起こすとき、私たちは事象の間に因果関係そのものを観察することができない。私たちが観察できるのは、ただ一方の事象がそれに引き続いて起こる他方の事象にいつも伴ってきたということ、すなわち、事象の間の恒常的連接(constant conjunction)だけである。たとえば、私たちは地震の発生と家屋の倒壊という事象をそれぞれ観察できる。だが、地震の発生が家屋の倒壊を「もたらす」あるいは「引き起こす」という関係そのものを、どうやっても観察することはできない。けれども、一方の事象が他方の事象に引き続いて起こるのを観察すると、私たちの心のなかに一つの変化が生じる。それは、一方の事象を観察すれば他方の事象を思わず考えてしまうという、習慣(custom)が心の中に形成されるという変化である。こうした心の習慣によって、私たちは事象の間に因果関係があると思い込んでしまう。このようにして、何かが何かを引き起こすということは、事象の間の恒常的連接と心の習慣によって説明されることになる。
 以上の議論は、私たちの日常的な感覚からすると奇妙なものに思われるだろう。というのも、もしヒュームの言い分が正しければ、私たちは雄鶏の鳴き声が夜明け前に聞こえるのを繰り返し経験すると、雄鶏の鳴き声を夜明けの原因としてみなさざるをえなくなると思われるからである。こうした主張は単に奇妙なものであるだけでなく、因果関係を基軸とする科学的探究を否定する法外なものとしても評価されてきた。スコットランド常識学派の一人として知られるジェームズ・ビーティは、「ヒューム氏は、彼の先駆者よりも巧妙かつ大胆であり、よりいっそう常識の破壊へと向かったのである。そして、その代わりとして、きわめておぞましい構造の学説を建てた。もしも仮にその材料がもろくなれば、すべての信念、美徳、学をその基礎から覆すのに十分な道具が容易に組み立てられうることだろう」(Beattie 1770, 248)という評価を下している。
 しかし、ヒュームの因果論に対する以上のような評価は妥当だと言えるのだろうか。私たちは因果関係に関する哲学的議論について、ヒュームを破壊者としてみなすのが適切なのだろうか。
 
本書の目的
 以上の問題意識をふまえ、本書では、ヒュームの因果論に対して評価を下す前に、あらかじめ取り除いておくべき誤解や偏見を明らかにした上で、因果関係に関するヒューム自身の議論が正確にはどのようなものかを、綿密なテクスト読解を通じて明らかにすることを目指す。この目的を達成するために、まずはヒュームの因果論に関する一般的な理解がどのようなものかを確認しておけば、以下のようになるだろう。
 
(T1)帰納推論は、事象の原因の推定や結果の予測を目的として用いられる。しかしながら、帰納推論はいかなる仕方でも正当化することができない。よって、帰納推論は不合理である。
(T2)原因や結果に関する蓋然的信念は、主観的な信念の度合いによって理解することができる。こうした信念の度合いは確率によって表現されず、むしろ勢いや生気といった心的状態によって表現される。
(T3)因果的性質や因果的事実は、世界の側には実在していない。世界の側に実在するのは、個別の事象とそれらの間の規則性だけである。また、私たちの因果判断は、実際には実在していない因果的性質や因果的事実についての誤った認知にもとづいている。
(T4)原因と結果の間の必然性は、世界の側には実在していない。また、因果的必然性に関する判断は、世界の側の必然的性質や必然的事実の認知を前提する。こうした性質や事実が実在しなければ、その判断は誤った認知にもとづいており、判断としては常に偽になる。したがって、因果的必然性に関する判断は常に偽になる。
(T5)自然法則は、世界の側には実在していない。世界の側に実在しているのは、個別の事象とそれらの間の規則性だけである。私たちは、規則性と法則性を混同している。
(T6)帰納推論や因果判断は、理性的な根拠を欠いているため、私たちの日常生活や科学的探究の基礎にはならない。
 
以上のテーゼは、因果論の個別のトピックに関するヒュームの主張として、一定の支持を集めてきた解釈である。これらのテーゼがテクスト解釈として正しければ、ヒュームは因果関係についての私たちの常識を揺るがす法外な懐疑論者としてみなされたとしても仕方がないだろう。しかしながら、私は(T1)から(T6)までのすべてのテーゼが誤解や偏見にもとづいており、ヒューム自身の主張ではないと考える。
 では、ヒュームは因果関係についてどのような見解を提示したのだろうか。私の理解では、因果関係の考察におけるヒュームの基本的な姿勢は、次のようなものである。すなわち、因果関係そのものに直接アプローチするのではなく、因果関係を理解するという私たちの実践の観点から、因果関係の本性を解明しようとする姿勢である。こうした姿勢のもとで、ヒュームは因果論において次の三つの考察を展開している。
 
①意味論的考察:私たちが「原因」や「結果」といった因果関係にかかわる言語表現で何を意味しているのかを明らかにする考察。
②心理学的考察:私たちの帰納推論や因果判断がどのようにして生じるのかを明らかにする考察。
③認識論的考察:私たちの帰納推論や因果判断がどのようにして正当化されるのかを明らかにする考察。
 
 これらの考察は、それぞれ異なる問題関心に沿ってなされる。まず、意味論的考察にとっては、因果的な発話や判断に含まれる言語表現の意味とは何か、という問題関心が中心になっている。たとえば、「トンネル崩落事故の原因を調査してほしい」と職場の上司から命じられたときに、その上司はいったいどのような意味で「原因」という言葉を用いているのだろうか、ということが問われるだろう。
 次に、心理学的考察にとっては、因果推論によって事象の原因や結果を推定したり、事象の原因や結果について判断したりするときに、それらがどのような心的プロセスによって生じるのか、という問題が重要となる。たとえば、トンネル崩落事故が起きた原因について、ああでもないこうでもないと考えているときに、その人の心的状態はどうなっているのか、どういう心的プロセスで推論がなされるのか、といったことが問われる。
 そして、認識論的考察にとっては、なぜ私たちは事象の原因や結果について推論したり信じたりしてよいのか、という問題が焦点となる。たとえば、「トンネル崩落事故の原因は設計ミスである」という判断を下したときに、そうした判断を正しいとみなしてよいのかどうか、ということが問われるだろう。
 以上の三種類の考察は、ヒューム自身が自らの論の中で明確に区別しているわけではない。むしろ、それぞれの考察が複雑に交差しながら展開されている、というのが実情である。こうした事情のために、私たちは個別のトピックに関してヒュームが何を論じているのかをある程度明確に理解できるのに対して、結局のところ全体として何が言われているのかはわからない、という印象を受けがちなのである。
 以上のことをふまえ、本書では、①~③の考察がそれぞれ議論においてどういう役割を担っているのかを整理しつつ、因果関係についてのヒュームの議論を包括的な観点から解釈したい。ここで、あらかじめ本書の解釈を提示しておこう。
 
(H1)帰納推論は、理性的推論によって正当化できないにもかかわらず、正当なものとそうでないものを区別できる。
(H2)原因や結果に関する蓋然的信念は、主観的な信念の度合いによって理解することができる。こうした信念の度合いは確率によって表現される。
(H3)因果性は、本当は実在していないにもかかわらず、私たちの社会の中であたかも実在するかのようにふるまい、現実に実在するときと同様の機能を果たしている。そのため、因果性の実在を前提する発話や判断は、誤った認知にもとづくものと考える必要がない。
(H4)原因と結果の間の必然性は、本当は実在しないにもかかわらず、私たちによって実在するように語られ、受け入れられている。こうした必然性に関する発話や判断は、原因から結果(あるいは結果から原因)への推論の傾向性を表出する機能をもっており、何らかの性質や事実の認知を前提しないため、誤っているとはみなされない。
(H5)自然法則は、本当は実在していないにもかかわらず、私たちによって実在するように語られ、受け入れられている。こうした自然法則に関する発話や判断は、いくつかの制約条件によって、単なる規則性に関する判断から区別される。
(H6)帰納推論と因果判断は、理性的な根拠がなかったとしても、人間の自然本性に根差した感情のゆえに、日常生活や科学的探究の基礎となる。
 
 本書の解釈によれば、以上の一連のテーゼは「意味」の概念を基軸として包括的に理解することによって、ある一つの構想へと収斂することになる。その構想とは、人間の自然本性に根差した、私たちの探究─狭義の科学的探究ではなく、道徳や政治や歴史を含めた広義の科学的探究─のための新たな論理(logic)の構築というものである。このことは、ヒュームが、当時の標準的な論理学の教科書だった『ポール・ロワイアル論理学』の提示する論理に変わる、新たな論理の構築を目指していたということを意味する(cf. Buckle 2001, 41)。それによれば、ヒュームは「論理学」を狭義の記号論理学としてではなく、『ポール・ロワイアル論理学』から継承した「思考の技術(art of thinking)」として理解したのである。こうしたモチーフのもとで、ヒュームは従来の論理学の限界を示しつつ、人間の自然本性に根差した新たな探究の論理の構築と展開を目指したのだと言える。
 したがって、本書の解釈によれば、ヒュームの因果論は全体として「論理学」研究の一環として理解されることになる。「論理学」研究の一環としてのヒュームの因果論がいかなる構造をもち、いかなる目的と根拠のもとで展開されたものかということが、本書の議論によって明らかになるだろう。このことは、ヒューム哲学における因果と自然のかかわりの一端を描き出すことにも繋がると考えられる。
 
先行研究と本書の位置づけ
 さて、本書の解釈を詳細に展開する前に、ヒュームの因果論に関する先行研究と、本書の位置づけについて述べておくことにしよう。先行研究に見られる大きな傾向について言えば、ヒュームの議論における意味論的・心理学的・認識論的考察をそれぞれ別個のものとして扱い、それらのうちのいずれかだけを重視することによって、ヒュームの因果論の本質を特徴づけがちだったという点を指摘することができる。
 まず、意味論的考察を重視する論者は、ヒュームの立場を実証主義(positivism)として解釈する傾向にあったと言える。ジョナサン・ベネットによれば、ヒュームは感覚経験によって検証可能なことだけを有意味な言明の対象とみなした上で、そうした経験にもとづかない言明を無意味なものとみなしている(Bennett 1971)。たとえば、「モアイ像はイースター島にある」という言明は観察によって真であるかどうかを確かめることができるのに対して、「ブレーキの作動と車の停止の間に必然的なつながりがある」という言明は観察によって真であるかどうかを確かめられない無意味な言明だということになる。
 次に、心理学的考察を重視する論者は、ヒュームの立場を連合主義(associationism)として解釈する傾向にあったと言える。ドン・ギャレットは、心理学者としてのヒューム哲学の意義を高く評価して、認知や情動に関する心理学的研究の先駆者の一人としてヒュームを解釈しようとしている(Garrett 1997)。最近では、想像力や信念についての認知心理学的研究、あるいは共感や道徳感情についての社会心理学的研究の先駆けとして、ヒュームの心理学的考察が再評価されつつある(Prinz 2016)。
 そして、認識論的考察を重視する論者は、ノーマン・ケンプ・スミスの先駆的論文である「ヒュームの自然主義」(Kemp Smith 1905)が発表されたことによって、ヒュームの立場を自然主義(naturalism)として解釈する傾向にあったと言える。この解釈は、私たちが理性によって信念を正当化できないにもかかわらず、自然本性によって信念をいだかざるをえないというヒュームの議論に光を当てたものである。バリー・ストラウドによれば、ヒューム哲学は、知識や行為といった人間の営為を一種の自然現象として理解しようとしているという点で、哲学と自然科学の連続性を強調する自然主義の態度を打ち出していることに最も重要な特徴があると言える(Stroud 1977)。
 こうした先行研究の動向は、現代哲学においてヒューム主義(Humeanism)と呼ばれる見解の形成に大きく貢献してきたと評価できるだろう。特に、ヒュームの因果論を単なる過去の遺物とみなすのではなく、現代における形而上学、心の哲学、認識論の発展に寄与するものとみなすことは、私たちがヒュームを生きた古典として読むときにいつも念頭に置かれるべき姿勢である。たとえば、現代形而上学者のデイヴィッド・ルイスは、ヒュームの『人間知性研究』で提示される「原因の定義」を手がかりとして、反事実的条件法による因果関係の概念分析を試みている(Lewis 1973)。ルイスのねらいはヒュームのテクストを解釈することではなく、ヒューム主義の観点から因果関係に関して哲学的な論証を展開することにあるため、テクスト解釈の観点からルイスの議論を評価するのは筋違いである。しかし同時に、ルイスの議論に影響を受けた研究者が、論証の定式化や過度の単純化を優先するがあまり、ヒューム自身の議論を形骸化してしまう傾向にあった。このことがヒュームの因果論に潜む豊穣な思索の広がりを歪め、すでに述べたようなありふれた誤解や偏見に影響を与えてきたと考えられる。
 以上の現状認識をふまえ、本書では、多くの先行研究に見られる典型的な誤解や偏見をときつつ、包括的な観点からヒュームの議論を再構成することで、ヒュームの因果論を適切に評価するための土台を築くことを試みる。ただし、本書では以下のことを試みない点に注意してほしい。まず、ヒュームの議論に依拠して、因果関係に関する独自の哲学的立場を提案するということ。また、ヒュームが活躍していた当時の論争状況において、彼の議論を思想史的観点から適切に位置づけること。これらの主題は言うまでもなく重要であるが、本書で論じることのできる範囲を大幅に超えている。そのため、本書ではヒューム因果論の擁護と展開、ならびにその哲学史的・思想史的意義というきわめて大きな課題には立ち入らず、あくまでもテクストの整合的な解釈を目指したい。
 
本書の構成
 以下、本書の構成を示しておく。まず、第一章「合理性と帰納推論」では、帰納推論に関するヒュームの議論がどのようなものかを論じる。伝統的に、ヒュームは「私たちの帰納推論が正当化できるのかどうか」という帰納の問題(the problem of induction)を提出したと解釈されてきた。しかし、実際にはヒュームは帰納の問題を提出していないという論点を確認する。その上で、ヒュームは帰納の問題とは異なる仕方で、正当な帰納推論と正当でない帰納推論がいかにして区別されねばならないかという問題に取り組んでいることを明らかにする。そして、こうした問題に対し、ヒュームが人間の自然本性に訴える自然主義の観点から解決を試みていることを示す。
 次に、第二章「蓋然性と帰納推論」では、蓋然性に関するヒュームの議論がどのようなものかを論じる。従来の解釈では、ヒュームは蓋然性を確率とは無縁なものとみなしていると理解されてきた。しかし、ヒュームが蓋然性を確率によって解釈していたと理解できるということ、さらには、蓋然的信念の確証に関してベイズ主義(Bayesianism)と呼ばれる立場をとっていたということを確認する。これらのことを確認したのち、ヒュームの蓋然性理論をベイズ主義の観点から解釈する上では、主観的ベイズ主義と客観的ベイズ主義という二つの道があることを見る。そして、主観的ベイズ主義解釈の問題点を指摘したのち、客観的ベイズ主義解釈の方に分があることを示す。
 第三章「因果性と意味理解」では、「原因」や「結果」といった言葉の意味に関するヒュームの議論がどのようなものかを論じる。従来の研究では、ヒュームが『人間本性論』と『人間知性研究』で提示した「原因の二つの定義」をめぐる解釈論争が展開されてきた。しかし、この論争は意味に関するヒュームの見解を十分に理解しないまま、彼の主張に対して不当な評価を下してきたと考えられる。そのためここでは、意味に関するヒュームの見解の再評価を軸として一九九〇年代以降に展開された、いわゆるニュー・ヒューム論争(The New Hume Debate)を検討することで、従来の解釈のメリットとデメリットを明確にすることを試みる。特に、ニュー・ヒューム論争では見落とされてきた意味に関するヒュームの見解をテクストから析出することで、ヒュームが意味の使用説(the use theory of meaning)の観点から「原因」や「結果」という言葉の意味を解明しようとしたことを示す。
 第四章「必然性と精神の被決定性」では、必然性の思考に関するヒュームの議論がどのようなものかを論じる。ヒュームによれば、必然性の観念の起源は、一方の対象や出来事を思い浮かべれば他方の対象や出来事を思い浮かべてしまうという精神の被決定性(the determination of mind)にある。だが、精神の被決定性という心的状態がいかにして必然性の思考を生じさせるのかということが、先行研究では解明されないままだったと言える。こうした謎を解くために、ここでは『人間本性論』に登場する「精神の被決定性を感じる」という表現をいかに解釈すべきか、という問題に焦点を当てることにしたい。「精神の被決定性を感じる」という表現については、錯誤説解釈(error theoretic interpretation)と表出説解釈(expressivist interpretation)がそれぞれ対立した見解を示している。これら二つの解釈のうち、錯誤説解釈よりも表出説解釈の方に説得力があるということを示す。
 第五章「法則性と偶然的規則性」では、自然法則に関するヒュームの議論がどのようなものかを論じる。伝統的に、自然法則に関するヒュームの見解は、法則性を単なる規則性にすぎないものとして理解する規則性説(regularity theory)として解釈されてきた。しかし先行研究によって、ヒュームは自然法則そのものを論じようとしたのではなく、自然法則に関する私たちの信念が成立する条件が何であるかを模索しようとしたのだという点が明らかにされている。これは、自然法則に関する認識説(epistemic theory)という考え方である。それによれば、ヒュームは自然法則に関する信念の成立条件として、帰納的支持の条件(the Condition of Inductive Support)と予測的確信の条件(the Condition of Predictive Confidence)を挙げている、というのである。けれども、以上の条件だけでは、自然法則と単なる規則性の境界があいまいになるという困難がある。この困難を克服するために、理想的観察者の条件(the Condition of Ideal Observer)がもう一つの成立条件だと論じる先行研究を批判的に検討する。こうした検討をふまえた上で、自然法則に関する信念についてヒュームが正確にはいかなる議論を展開したのか、また、そこに残されている課題があるとすれば、それはいかなるものであるのかを明らかにする。
 第六章「確実性と懐疑論」では、ヒュームが因果論と懐疑論の関係をいかなるものとして考えているのかについて論じる。伝統的に、ヒュームは因果関係に関する徹底した懐疑論者として解釈されてきた。だが、実際には自然主義の立場から人間の自然本性に訴えることで、懐疑論の無力さを示そうとしていたのである。ここでは、ヒュームにおける懐疑論と自然主義の関係を明確にするため、彼が『人間本性論』において提示した「理性に関する懐疑論」と「探究に関する懐疑論」を取り上げ、それらに対するヒュームの態度がどのようなものであったのかを明らかにする。特に、ヒュームはこれら二つの懐疑論を独自の仕方で無効化することによって、理性の習慣的基盤と探究の感情的基盤をあらわにすることを目論んでいた、という解釈を示す。
 以上のことから、ヒュームは、私たちが探究を行う際にしたがうべき「論理」の解明を自らの因果論で試みたと同時に、探究の出発点となる特殊な感情の「論理」の解明を自らの情念論で試みることへと向かった、ということが明らかになるだろう。
 
テクストの扱いに関する方針
 最後に、本書におけるヒュームのテクストの扱い方について、基本的な方針を示しておきたい。第一に、本書では『人間本性論』と『人間知性研究』を主なテクストとして扱う。これらのテクストに加えて、本書では必要に応じて『道徳原理研究』や『道徳・政治・文芸論集』に収められているエッセイも参照する。こうした方針をとる理由には、ヒュームの因果論が、彼の人の同一性論や外界存在論、そして道徳論や宗教論の基礎をなしているということ、そして、多数の著作やエッセイの中に因果論に関連する議論が散りばめられているということがある。以上の事情をふまえて、ヒューム因果論のエッセンスを取り出すためには、『人間本性論』と『人間知性研究』にテクストを限定せず、その他の著作も視野に入れた包括的な視点からテクストを読解する必要があると考えられる(ただし、本書では『宗教の自然史』(The Natural History of Religion, 1757)や『自然宗教に関する対話』(Dialogues concerning Natural Religion, 1779)といった宗教的著作、そして『イングランド史』(The History of England, 1754─1761)といった歴史的著作にまでは配慮することができなかった。これらの著作の検討は今後の課題としたい)。
 第二に、本書では『人間本性論』と『人間知性研究』が内容的に連続しているのかどうかという論争に立ち入らない。むしろ本書では、ヒュームの因果論にかかわる範囲に限って、現代哲学やそれを背景にした解釈から距離を測りつつ、集中的にテクストを分析する手法をとることにしたい(この手法については、久米2005を参考にしている)。
[傍点・注番号・注は省略]
 
 
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