「名もなきケア責任」は今どう配分されていて、これからどう配分しなおせるのか――平山亮さんと山根純佳さんの往復書簡連載、今回は山根さんから平山さんへの応答です。[編集部]
平山亮さま
お手紙ありがとうございます。〈Sentient Activity=感知・思案〉はいっしょにいれば「自然にできる」ものではなく、アンテナを張り巡らせ、 自分の認知機能を相手のために割く「能動的な活動」であるという点、また終末期の高齢者介護を例に「ニーズ」がわかっていても、なにをしたらそれを満たすことになるのかその具体的方法の〈思案〉は別に必要とされるというお話、大変興味深く読ませていただきました。〈感知・思案〉を可能にするための資源(構造)の役割について、思考を深めることができました。平山さんの論考を踏まえて、あらためてみえてきたことをお返事させていただきます。
「感知・思案」には「かかわり」(相互行為)が必要
まず、「タスク」を含んでマネジメントを定義したり、保育園との連絡ノートのやりとり保護者同士の連絡といったマネジメントをSAに含めると、その前提となる「頭のなかでおこなわれている」〈感知・思案〉を女性だけがしている「性別不均衡」がみえなくなってしまうというご指摘、なるほどと思いました。おそらく私の「SAのリスト」でうまく整理しきれていなかった部分だと思います。私はSAのタスクとしてあげたもののなかには、確かにアウトソーシングできる「大掃除」とか「見守り」などが含まれていました。一方で、たとえば子どもや高齢者の感情の受け止め、会話や関係機関との相談などは、子どもや高齢者の性格や日常の心身の状況などを把握し、何が子どもにとって必要かを思案しているケアラーが実際におこなわなければ、「ケア」としては意味をなしません。その意味で「思案」のプロセスには、受け手との相互行為や相談など「時間のかかる」作業が必要になります。相手の「不調」を発見するためには、日常の「好調」も把握していなければなりません。子どもの状態や問題を把握したり思案していない夫や第三者に、関係機関との相談や調整を「外注」しても、情報収集にはなったとしても、改善策や解決策がみつかるわけではありません。その意味で私は、「ニーズの感知」だけでなく「調整」もマニュアル化が難しいものと考えています。
平山さんがおっしゃるとおり「頭のなかで行われているプランニングの過程」だけをSAとするだけでは、こうした相互行為の重要性がみえなくなってしまう、というのが私の考えです。たとえば子どもの食事の献立や時間調整も、帰りの電車の中で、 もしくは買い物途中の〈思案〉だけで成立するものではありません。 これまでの子どもの食べ方や生活リズムや体調を見た上で、 いつ何を食べさせるかを判断する必要があります。 その意味で、 私は実際にケアの受け手とかかわっているケアラーでなければできない(=外注することはできない)会話や観察などの活動の重要性に注目したいと思います。これまでのやりとりのなかで、〈Sentient Activity感知・思案〉は、A)「主観的ニーズ」やそれを踏まえた「必要」(庇護的ニーズ)の〈感知・思案〉と、B)Aを実現するための方法の〈思案〉からなることがわかりましたが、そのどちらにおいても、受け手との相互行為とそれにかかる時間は必要不可欠です。もし男性が、ただ「子どもと遊んでいる」だけでなく、他の子と遊んでいる子どものようすを観察したり、子どもの話を聞いたりという作業をとおして「子どもの必要」を考えてくれるなら、女性にとっては十分にケアを共有してくれているということになるでしょう。
つづきは、単行本『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』でごらんください。