「名もなきケア責任」は今どう配分されていて、これからどう配分しなおせるのか――平山亮さんと山根純佳さんの往復書簡連載、今回は山根さんから平山さんへの応答です。[編集部]
平山亮さま
お手紙ありがとうございます。〈Sentient Activity=感知・思案〉はいっしょにいれば「自然にできる」ものではなく、アンテナを張り巡らせ、 自分の認知機能を相手のために割く「能動的な活動」であるという点、また終末期の高齢者介護を例に「ニーズ」がわかっていても、なにをしたらそれを満たすことになるのかその具体的方法の〈思案〉は別に必要とされるというお話、大変興味深く読ませていただきました。〈感知・思案〉を可能にするための資源(構造)の役割について、思考を深めることができました。平山さんの論考を踏まえて、あらためてみえてきたことをお返事させていただきます。
「感知・思案」には「かかわり」(相互行為)が必要
まず、「タスク」を含んでマネジメントを定義したり、保育園との連絡ノートのやりとり保護者同士の連絡といったマネジメントをSAに含めると、その前提となる「頭のなかでおこなわれている」〈感知・思案〉を女性だけがしている「性別不均衡」がみえなくなってしまうというご指摘、なるほどと思いました。おそらく私の「SAのリスト」でうまく整理しきれていなかった部分だと思います。私はSAのタスクとしてあげたもののなかには、確かにアウトソーシングできる「大掃除」とか「見守り」などが含まれていました。一方で、たとえば子どもや高齢者の感情の受け止め、会話や関係機関との相談などは、子どもや高齢者の性格や日常の心身の状況などを把握し、何が子どもにとって必要かを思案しているケアラーが実際におこなわなければ、「ケア」としては意味をなしません。その意味で「思案」のプロセスには、受け手との相互行為や相談など「時間のかかる」作業が必要になります。相手の「不調」を発見するためには、日常の「好調」も把握していなければなりません。子どもの状態や問題を把握したり思案していない夫や第三者に、関係機関との相談や調整を「外注」しても、情報収集にはなったとしても、改善策や解決策がみつかるわけではありません。その意味で私は、「ニーズの感知」だけでなく「調整」もマニュアル化が難しいものと考えています。
平山さんがおっしゃるとおり「頭のなかで行われているプランニングの過程」だけをSAとするだけでは、こうした相互行為の重要性がみえなくなってしまう、というのが私の考えです。たとえば子どもの食事の献立や時間調整も、帰りの電車の中で、 もしくは買い物途中の〈思案〉だけで成立するものではありません。 これまでの子どもの食べ方や生活リズムや体調を見た上で、 いつ何を食べさせるかを判断する必要があります。 その意味で、 私は実際にケアの受け手とかかわっているケアラーでなければできない(=外注することはできない)会話や観察などの活動の重要性に注目したいと思います。これまでのやりとりのなかで、〈Sentient Activity感知・思案〉は、A)「主観的ニーズ」やそれを踏まえた「必要」(庇護的ニーズ)の〈感知・思案〉と、B)Aを実現するための方法の〈思案〉からなることがわかりましたが、そのどちらにおいても、受け手との相互行為とそれにかかる時間は必要不可欠です。もし男性が、ただ「子どもと遊んでいる」だけでなく、他の子と遊んでいる子どものようすを観察したり、子どもの話を聞いたりという作業をとおして「子どもの必要」を考えてくれるなら、女性にとっては十分にケアを共有してくれているということになるでしょう。もちろん「いっしょに過ごす」=〈思案〉ではありません。しかし一定の時間かかわらなければ、たとえばこの子には「これが合っている」もしくは「こういうことに葛藤しているのではないか」という「A 必要」を暫定的に判別できません。同様に、B)実現するための方法の〈思案〉についても、親族間や専門家との調整という時間が必要とされることから、頭のなかのみでおこなわれている、という意味で「目にみえない活動」とはいえないでしょう。最後に、B)必要を充足する「方法」の判断だけでなく、C)それを実現する「手段」=資源の調整においても、相談、依頼、申し込み等のやりとりは必要となります。
ここまで私たちが議論してきたことを踏まえ〈感知・思案〉を、以下のようなプロセスとして整理したいと思います。
ちょうど前回のお手紙で平山さんは、SAを成り立たせるための「時間」「お金」「健康」という資源について言及してくださいましたが、上述のプロセスはすべて「時間」のかかる労働です。時間という資源がなければ「必要」の判別も、それを実現するための方法の暫定的な判断もできません。その意味で時間は、〈感知・思案〉のための必要条件といえるでしょう。
そしてこれら〈感知・思案〉のための「時間のかかる作業」は、家事(外食や掃除サービス)のように外注化はできず、実際に子どもや高齢者とかかわっているケアラーとその他の関係者のなかで「分有」するしかありません。誰でも利用できる保育・介護サービスや相談事業を制度化して、できるだけ多くの大人のあいだで子どもや高齢者との「かかわり」と〈感知・思案〉を分有できることが、女性の負担を減らしていくために不可欠だと思います。その点、高齢者介護では、介護保険制度のなかでケマネジャーが「B 方法について判断」や「C 資源の調整」という〈思案〉を分有してくれることになったのは、「ケア責任の軽減」の前進といえるでしょう。
ケアには時間が必要
一方、介護労働の現場では〈感知・思案〉にかける時間の確保は、重要な課題となっています。介護には身体介護やADLの向上だけでなく、高齢者の生きる意欲を引き出したり、異変を察知したり、生活歴をふまえて掃除の方法を工夫するという「みえない労働」が含まれています。 在宅介護を担うホームヘルパーは、上の図式でいえばAとBにかかわっています(しかし以下でみるように、「時間」という資源を調整する裁量=Cはありません)。
カナダのソーシャルワーク研究者ネイスミスとアロンソンは、「ホームヘルパーが自分の労働を語る」という論文のなかで、ホームヘルパーが表現する「助けるhelp」とは、「観察、利用者についての知識、利用者の自己決定を慎重に承認すること、ホームヘルパーの側の柔軟性」(1996:8)といった複雑な事柄を含んでいる指摘しています。ネイスミスらはこうしたホームヘルプ労働の関係的な要素はまさに不可視化され「名前のない」労働だとも述べています[1]。
日本のホームヘルプ労働においても、利用者の状況を感知し、ニーズやケアの方法を思案する活動が評価されていないのは同様です。介護保険制度以前の制度[2]では、ホームヘルパーの職務は「家事」「身体介護」「相談・助言」の3本柱からなっていました。ところが次第に「相談・助言」は姿を消し、「家事」と「身体介護」だけに限定され、現在の介護保険制度にいたっています。介護保険制度の訪問介護のケアプランは、身体介護は「サービス準備・記録」「排泄・食事介助」「清拭・入浴、身体整容」、生活援助では「掃除」「洗濯」「ベッドメイク」などのサービス行為区分に分けられています[3]。たとえば「このご飯なら食べたい」と思わせるための声かけや本人が喜ぶメニューを考えるための観察、「お風呂に入りたくない」利用者から「入ろう」という意欲を引き出すための声かけがなければ「食事介助」や「入浴」は実現しません。しかし介護保険ではこうした〈感知・思案〉のための時間や労力は報酬の対象になっていません。 個々の利用者のニーズを聞き出し、そのうえで必要を判別し、具体的なケアの方法を確定するための時間と労力は無視されているといえます。
ただし介護保険制度開始当初は2時間や1時間半のサービスのなかで「会話」や「観察」の時間も確保できていました。ところが度重なる制度の改変でサービスの短時間化が進み、会話の時間が取れなくなっています。生活援助サービスは当初2時間以上可能だったものが、2012年には45分にまで短時間化されました。生活援助の45分への短縮を提案した厚労省の資料[4]は、生活援助の平均時間のイメージとして「準備6分、掃除15分、調理15分」という例をあげていますが、ここではホームヘルプ労働が、「タスク」としての「家事」の提供として切り出され、それらをつなぎあわせて「必要時間」が算出されています。
現場からは、短時間化により会話ができない、コミュニケーションがとれない、利用者の不安が大きくなっているという声があがっています[5]。一人暮らしの利用者が求めてくる会話が、ヘルパーのサービス残業になってしまうという問題もあります。また会話は、利用者が求めているだけでなく、ヘルパーにとっても利用者の異変や認知症の症状を発見したり、生活歴を把握し業務内容を確定したりするために必要です[6]。一定の時間、 利用者とかかわる「時間」は〈思案〉のため重要な資源となります。
また事業者に支払われる介護報酬は「身体介護」よりも「生活援助」が低く位置づけられていますが、ホームヘルプ労働の現場では「生活援助」は「身体介護」と同じくらい、もしくはそれ以上に難しいということが言われつづけています。これは生活援助に伴う〈感知・思案〉の必要性や困難に起因すると考えられます。なぜ生活援助が困難であるのか。部屋がきれいになることや食べさせることが目的なのではなく、それによって生活環境を整え本人の心身の状態を安定させるためです。そのためには、どのような料理なら喉をとおるのかといった判断や、心地よく過ごすためにどこを優先してきれいにすべきなのかといった「A 必要」の判別と「B 実現する方法」についての判断が必要になるからだといいます。ある在宅介護事業者は、一人暮らしで全盲の利用者が玄関のマットで滑って転倒したことに対し、「マットが滑りやすい事に誰も気付かなかった」ことを反省し、自宅内の家財道具の配置や整理にも、心配りが必要だと勉強させられたと指摘しています[7]。利用者が安全に暮らすためには、単に「物を片付ける」というタスクをすればよいのではなく、受け手の状態に合わせた配置や工夫をするための〈感知・思案〉が求められているのです。また、住み慣れた自分の部屋を掃除するのとはまったく異なる〈思案〉が必要とされていることもわかります。 しかし現在の介護保険制度では、このような〈思案〉にもとづいたケアは評価されていませんし、ホームヘルパーの待遇にも反映されていません。前回、平山さんは相手の求めているものに気付いたり「何とかしてあげなくちゃ」と思ったりというのは、それを「やろう」「やらなければ」という構えなしにはできない、その意味で能動的(active)に行われていることなのだとご指摘してくださいました。ホームヘルパーであれ、家庭のケア労働であれ、この「能動的な構え」の部分をもっと評価してほしいと思います。
女性はSAをしたいのか――「子育て言説」の増大と育児不安
一方で、家庭でケアする側の立場にたってみると〈感知/思案〉の時間が多ければ多いほどいい、というわけではありません。なぜならこれらは「やらざるをえない」からしているのであり、「したくてしているわけではない」、「減らせるなら減らしたい」ものでもあるからです。前便で、いじめや不登校、 病気や体調不良、 さらには原発事故よる被曝のリスクなど、 「問題」が生じた際に求められるマネジメントの負担について書きましたが、どんな親もこうした〈思案〉を要する問題には、できる限り直面したくないと願っているでしょう。
しかし〈思案〉の負担の原因は「問題」状況の発生だけにあるわけではありません。特に子育てをめぐっては子どもの「A 必要」の判別の〈思案〉が、「望ましい子育て」言説の多様化によって増幅されているという側面もあります。現代社会では、何が子どもの最善かをめぐる多様な情報(言説)を処理したうえで自分の子どもにあっているケアの方法を判断することが求められています。たとえば3歳までは母親が育てたほうがよいという「3歳児神話」が残る一方で、早くから保育園に入って集団生活をしたほうがコミュニケーション能力があがるという言説も日常生活のなかで耳に届くようになっています。保育園を利用するかしないかは親の就労状況に規定されているので、親の「選択」ではないのですが、「幼稚園の子はコミュ力がない」「保育園の子は放置されている」と自分の子育てを正当化したり、何か「問題」を発見したときには「自分とは違った選択をした」として親を非難したりします。
また、インターネットには食育やしつけなど「何がよいケアか」をめぐる言説があふれています。朝食を食べさせるべきからはじまり、メディア接触、叱り方、アレルギー対応など、子育てをめぐる言説が日々更新されていきます。もちろん「食育」や「しつけ」については、「そんな考え方もあるんだな」ぐらいに「自分なり」の子育てをやることも可能です(ただし何か問題が起きたときには「選択の責任」が帰せられます「子どもがアレルギーになったのは親の食生活のせいだ」など)。一方医学的リスクに関する判断を本人の主観的ニーズや親が把握した子どもの特性から導き出すのは困難であり、なんらかの「正しそうな知」に依拠する必要があります。前便で書いた原発事故の問題もそうですし、ワクチン接種や薬の服用などをめぐっても対立する説明が流布するなかで、現時点の「必要」について「暫定的判断」をせざるをえないのです。許された時間内では答えがでず「吊り橋を渡る」ような気分で「正しそうな」方法を選びとっている親もいるでしょう。それにもかかわらず、この「暫定的判断」そのものを周囲から非難されたり、その結果起きた問題について「親の自己責任」として批判する風潮があります。イギリスの社会学者ギデンズは、専門家のあいだでのコンセンサスがなく、科学自体も証拠を得られていない事柄に対し自己選択を求められるのが、個人化されたリスク社会の特徴だと分析しています[8]。これを「ケア」という文脈でみれば、「望ましいケアとは何か」について〈過剰な思案〉を求められ、必要の暫定的判別のための責任が増幅されている社会ともいえます。
よって、女性だけに偏る〈思案〉を評価したり、男性と分有するという方向だけでなく、過剰にやらされている〈思案〉の「スリム化」も考えるべきでしょう。極端に言えば「正しい子育て」をめぐって多様な言説があるよりは、拠り所となる唯一のスタンダードという基準があるほうが、親は「選択の責任」を負わされなくてすみます。もちろん因果関係が明確ではない医学的リスクに対しては、 一律の安全性の基準を定めることより、 結果の不利益についてきちんとした保証がなされるという「安心」が与えられることが大前提です。そのうえで医者などの個々の専門家は、自分の「科学的知識」の正しさだけを主張するのではなく、対立する複数の説がどのようなデータから導きだされたものなのか、それぞれの説においてリスクはどのように査定されているのか、日常言語で適切に説明する役割を担っていただきたいと思います。それでも、決断のための思案が完全になくなるわけではないですが、データの収集と解釈のプロセスを親個人に求めるよりは、〈思案〉の「スリム化」がすすみます。
〈思案〉の不足を誰が判定するか
子育て言説の多様化とは違う論点ですが、保育サービスなどの社会資源の利用をめぐる思案もスリム化したいもののひとつです。「どこの保育園に預けても安心できる」というように、社会資源の質が保証されていれば、調整のための〈思案〉作業はスリム化します。現実には保育の質は多様であり、なおかつ「量」が足りないなかで、認可保育園であれば「ポイント」(といういわば運)に、認可外であれば親の責任に委ねられています。そして(繰り返しますが)、介護と異なり子育てにはケアマネジャーがいない=分有がされていないのです。
さてここで考えたいのは、思案のプロセスのうち、「A 必要」と「B 実現する方法」を判別したとしても、その方法を実現可能にする「C 資源」がなかった場合、それは「ケアラーの思案」不足として非難されるべきことなのか、という論点です。
平山さんは前便で「経済状態・生活状況の厳しさからSAがおざなりになってしまう」と書かれていますが、「おざなり」を誰がどう判断するかというのは重要な点です。2014年に2歳の男の子がベビーシッターに殺されるという事件が起きた際、インターネットを利用してベビーシッターに子どもを預けた「思慮不足」として母親が非難されました。被害者の母親のベビーシッターサイトへの書き込みからは、子どもとの時間がほしい、けれど稼ぐためにがんばらなければいけない、という葛藤がうかがえますが、結果として安い価格でサービスを提供してくれるベビーシッターを募集し、子どもが犠牲になってしまいました。ここで不足していたのは、母親の子どもへの〈思案〉なのでしょうか。もしくは適切な〈思案〉ができなかった母親に責任があるのでしょうか。
平山さんは「何が必要か」についてたとえ暫定的であれ答えを出せたとしても、 それを実現させるための具体的な「解」が自動的に出てくるわけではないと指摘してくださいました。そこに加えるなら、ある「A 必要」と「B 方法」を感知・思案したとしても、それを実現するために「C 必要な資源」が手に入るかどうかはまた別の次元で考える必要があります。たとえば、「親といっしょにいたい」という子どもの「必要」を実現しようとすると、 子どものために給料を獲得してくることが困難になるというジレンマ状況は容易に想像できます。 この場合、 「C 経済的資源」や「時間」の不足が子どもの必要を満たすことを困難にしています。また夜勤のあいだ子どもが「安全な場所で過ごせる」という「必要」を察知したとしても、その必要を満たすためのサービス資源が入手できなければ、それを実現することは不可能です。先のケースでは、夜間アルバイトの収入よりも安価で利用できる安全な24時間保育やトワイライトステイなどの社会サービスだといえるでしょう。これらの「C 資源」の調整がうまくいかない場合には、 「B 実現する方法」を修正する必要がでてくる可能性もあります。また場合によっては、「C 資源」の不足から「A 必要」を否認するということも起こるでしょう。
こう考えると(結果として調達できなかったという意味での)「資源」の不足を「思案のおざなり」に結びつける議論にも、「母親非難」の危険がつきまとうのではないでしょうか。ケアラーが葛藤しているのは、資源がないことで〈思案〉ができないことというよりも、「こうしてあげたい〈必要〉と、やってあげられる〈現実〉」の乖離であり、求めているのは、思案された必要と方法を実現可能feasibleにするための「社会資源」です。もちろんケアする側の「健康」も、「ニーズに応えられるかどうか」を規定しますが、ヘルパーや保育園など社会サービスの利用によってカバーできる部分もあります。社会が親に対して冷たいのは、〈思案〉された必要と方法を「実現可能にするための資源」を配分しないでおいて、問題が起きたときにはそれを親の「思案不足」として批判するという点にあります。平山さんが〈思案〉のための資源としてあげた「お金」や「健康」は「社会サービス」と同様、この「実現可能性」のほうに大きくかかわってくると考えられます。
「資源」としての人的ネットワークと「余計なお世話」
もちろんこうした「実現不可能」な必要充足を可能にするべく「経済的資源」や「社会サービス」の再分配が求められていますが、これらは無尽蔵ではありません。一方で「コミュニティ」「地域」のような、「人的資源」は無尽蔵な資源だと考えられている節があります。 確かに、いざというときに子どもをみてくれたり、 相談にのってくれる人間関係は大事な「資源」であることは間違いありません。しかし、「人的資源」は社会が分配してくれるわけではなく、「自助」でつくりあげていく必要があります。さらに人間関係という資源は、必ずしも「必要の実現」を可能にしてくれるわけではありません。
最後にケアを支える人的資源とジェンダーという論点について考えてみたいと思います。
平山さんが「息子介護者」をめぐる研究で詳らかにしてくださったように人間関係マネジメントは女性親族の担当になってしまっているというのは、子育てにおいても同じことがいえるでしょう。こうした人的資源の獲得は「自助」に委ねられているようでいて、女性のほうがその機会を与えられている、という側面もあります。たとえば地域の「ママサークル」や自治体の子育て支援事業の対象も暗黙に母親を対象としており、父親が親同士のネットワークを構築していくにはさまざまなハードルがあります。こうした環境のなかで男性がひとり親になった場合には、世帯ごと「人」とのつながりから切り離されてしまうことになります。 ひとり親世帯を対象にした調査で「困りごとの相談相手」が「なし」とする回答は、母子世帯では23.1%に対し、父子世帯では40.6%になっています[9]。
ただし、親族であれ、友人であれ関係する「人間」は必ずしも数が多ければ多いほど「助かる」わけではありません。上述した子育てをめぐる言説の多様化のなかで、自らが判別した「必要」やそれを実現するための「ケアの方法」を批判したり否定したりする人に出会うこともあります。こうした「余計なお世話」のひとつに、「誰が適切なケアラーか」をめぐる社会の規範=言説があります。
以前、シングルマザーの方に仕事と育児の両立について話していたときに「私、母親感ないんです」と前置きしたうえで、「小学生の子なら熱がでても寝かせて私は仕事に行ってしまう」と話してくれた方がいました。よく聞くと、以前の職場で子どもの熱の休みで解雇されたこともあったと、そして繰り返し自分は働いて生活を支えなければならない、とおっしゃっていました。子どもが熱をだしたときは有給休暇を取得し、子どもといるのが〈普通の母親〉だと考えられています(子どもが小学生になると看護休暇は使えません)。その方は、社会で考えられている「母親らしいケア」を自分はしていないのだということを言うために、「母親感がない」という言葉を用いたのでしょう。もしくは、「普通の母親」らしくない、と聞き手(である私)に心配されるといういわば「余計なお世話」をされないように、先回りしてそのような表現をしたのかもしれません。
上述したように「望ましいケア」をめぐる言説は多様化していますが、「母親こそケアに適している」という言説はなかなか多様化しません。そして母親が担うべき望ましいケアとは「仕事より子どものケアを優先すること」として考えられています。そのようななかで、シングルの親が自分のケアのやり方を他者から非難されやすいということは容易に想像できます。さらには男性がひとりで子育てや介護をする場合に、自分のケアを認めてくれる「人」をみつけてつながるのは、専業主婦より難しいでしょう。そう考えると(「男性がSAをしない」という面だけでなく)「男性のケアのやりにくさ」について、今一度考える必要があると思います。
今回は〈感知・思案〉のための時間の重要性、「正しい子育て」言説の増大による〈感知・思案〉の過剰化、「必要」を実現可能にする「資源」(社会サービス、人的ネットワーク)の入手可能性について考えてみました。平山さんの議論に触発されてお伝えしたいことがいろいろと溢れてきてしまい、整理不足の感も否めません。これに懲りずに、〈感知・思案〉のジェンダー間の不均衡な割り当てを乗り越えるべく、〈感知・思案〉のスリム化と「分有」を可能にするための条件について今後も議論いただければ幸いです。
2018年3月
山根純佳
次回は、平山亮氏が2018年4月にご登場です。[編集部]
【プロフィール】山根純佳(やまね・すみか) 1976年生。東京大学院人文社会系研究科修士課程・博士課程修了し、博士(社会学)取得。2010年山形大学人文学部講師、同准教授を経て、2015年より実践女子大学人間社会学部准教授。著書に、『なぜ女性はケア労働をするのか 性別分業の再生産を超えて』(勁草書房、2010年)、『産む産まないは女の権利か フェミニズムとリベラリズム』(勁草書房、2004年)、『現代の経済思想』(共著、勁草書房、2014年)、『正義・ジェンダー・家族』(共訳、岩波書店、2013年)など多数。
注
[1]Neysmith, Sheila M. & Jane Aronson, 1996 ‘Home Care Workers Discuss Their Work: The Skills required to “Use your Common Sense”,’ Journal of Aging Studies, 10, Nov.1, 1-14.
[2]在宅介護労働は1963年の老人福祉法で「老人家庭奉仕員制度」として制度化。
[3]平成12年3月17日老計第10号 厚生省老人保健福祉局老人福祉計画課長通知「訪問介護におけるサービス行為ごとの区分等について」。
[4]この資料(平成23年10月17日社会保障審議会介護給付分科会「訪問介護の基準・報酬について」では、ヘルパーの自記式の調査にもとづいて各行為の平均時間が「掃除27分」「洗濯16.6分」「一般的な調理・配下膳32.2分」と算出されていますが、この調査自体が、ヘルパーがやってくる労働のうち「タスク」だけを切り出すという設計になっているといえます。
[5]高齢社会をよくする女性の会・大阪(2014)「介護保険制度の生活援助に関するアンケート」。
[6]齋藤曉子(2015)『ホームヘルプサービスのリアリティ:高齢者とヘルパーそれぞれの視点から』生活書院。
[7]結城康博・松下やえ子・中塚さちよ編著『介護保険改正でホームヘルパーの生活援助はどう変わるのか』ミネルヴァ書房。
[8]アンソニー・ギデンズ(1990=1993)『近代とはいかなる時代か』而立書房。
[9]厚生労働省「平成18年度全国母子世帯等調査結果報告」
》》山根純佳&平山亮往復書簡【「名もなき家事」の、その先へ】バックナンバー《《
vol.01 見えないケア責任を語る言葉を紡ぐために from 平山 亮
vol.02 女性に求められてきたマネジメント責任 from 山根純佳
vol.03 SAには「先立つもの」が要る――「お気持ち」「お人柄」で語られるケアが覆い隠すこと from 平山 亮
vol.04 〈感知・思案〉の分有に向けて――「資源はどうして必要か」再考 from 山根純佳
vol.05 思案・調整の分有と、分有のための思案・調整――足並みを揃えるための負担をめぐって from 平山 亮
vol.06 なぜ男性はつながれないのか――「関係調整」のジェンダー非対称性を再考する from 山根純佳
vol.07 SAの分有に向けて――ケアの「協働」の可能性 from 山根純佳
vol.08 Sentient activityは(どのように)分けられるのか――構造、自己、信頼の3題噺 from 平山亮
vol.09 ジェンダー平等化の選択肢とケアにおける「信頼」 from 山根純佳
vol.10 SA概念で何が見えるか(前編)――「男は察知も思案も調整も下手」で「やろうと思ってもできない」のか from 平山亮
vol.11 SA概念で何が見えるか(後編)――“ゆるされざる”「信頼」の対象と“正しい”思案のしかたをめぐって from 平山亮
vol.12 [対談]社会はケアをどのように分有し、支えるべきなのか/山根純佳・平山亮
vol.13(最終回) [対談後記]連載の結びにかえて/平山亮・山根純佳