「名もなき家事」の、その先へ――“気づき・思案し・調整する”労働のジェンダー不均衡 連載・読み物

「名もなき家事」の、その先へ――“気づき・思案し・調整する”労働のジェンダー不均衡
vol.05 思案・調整の分有と、分有のための思案・調整――足並みを揃えるための負担をめぐって/平山 亮

 
「名もなきケア責任」は今どう配分されていて、これからどう配分しなおせるのか――平山亮さんと山根純佳さんの往復書簡連載、今回は平山さんから山根さんへの応答です。[編集部]
 
 
山根純佳さま
 
 新年度の初め、いかがお過ごしですか。春の陽気とともにやってくる花粉のピークが過ぎ、わたしは温かな空気を怖がらずに浴びることができるようになりました。
 
 このたびは丁寧なご返信をありがとうございました。察知し思案し調整する「sentient activity(以下SA)」に必要な資源について、わたしが挙げた論点を拡げ、深めてくださったことに感謝します。資源は思案されたニーズとそれを満たす方法を実現可能にするためにこそ必要、という主張には深く納得しましたし、資源が調達できなかったことを思案の不足に結びつけるリスクのご指摘にも心を打たれました。
 
 山根さんがこうした分析をされた理由は、思案や調整の分有について考えるためであり、お手紙の最後にも、その分有を可能にするための条件について、議論を呼びかけてくださいました。ですので、わたしからのお返事も、分有をテーマに「球出し」をさせていただこうと思います。
 
思案・調整の「切り出し」はなぜできないのか
 
 お手紙のなかで山根さんは、相手の必要なもの・ことを判断すること、それにもとづいて実現可能な方法を探すことは、簡単に外注できるものではない、と指摘されていました。
 
 このしごとは家族によって、なかでも女性によって担われてきましたが、この部分だけを切り取って単発的に他の誰かに任せることはできない。なぜなら、そうしたしごとは、相手の好みやふだんの様子に対する理解にもとづいて行われる必要があり、また、そうした理解は、相手をよく見てよく話を聞いて、という時間をかけた関わりを通してでないと得られないものだから。したがって、思案や調整の分有とは、こうした関わり込みのプロセスをともに行うこととして考えなければいけない。
 
 山根さんのご趣旨をわたしはそのように理解したのですが、この理解が正しいとすれば、山根さんとわたしのあいだで、目指すべき分有のイメージは共有できているように思います。というのも、お手紙に書かれていた「なぜ分有が必要なのか」の根拠となる関わりの部分こそ、わたしが『介護する息子たち』のなかで、ケアにおけるマネジメントの大変さとして挙げた点だからです。もろもろの調整が相手への理解にもとづいて行われなければいけないこと。そのためには時間も労力もかかること。それこそがSAの負担の大きい部分であり、そこを女性に丸投げしている限り、目につきやすいタスクの分担状況だけをちょっと変えてみたところで、ケア責任のジェンダー不均衡は変わらない。それが、『介護する息子たち』でわたしがSAという概念で切り取ることのできた現実でした。
 
思案・調整、みんなでやれば負担は軽く?
 
 ところで、ひとりの子どもや高齢者に複数の人が関わり、得られた理解にもとづいて皆が思案や調整を行いさえすれば、現在それを一手に担わされている女性の負担は軽くなるのでしょうか。わたしは、必ずしもそうは言えないと思っています。
 
 当たり前すぎる結論かもしれませんが、負担が軽くなるのは、同じ相手に関わる他の人たちに協働するつもりがある場合に限られるでしょう。誰かが加わってくれたところで、その人たちが好き勝手に思案や調整を始めれば、負担は結局変わらないか、むしろ増えるかもしれません。
 
 ケアをめぐるジェンダー関係の問題の一端も、実はこのあたりにあるように思います。つまり、女性が大変になるのは、必ずしも女性だけが思案や調整をしているから、とは限らない。思案や調整に男性が積極的に加わってくれたとしても、それをともにしてくれるとは限らないから、という可能性もあります。
 
「それぞれ好きなように」思案・調整する息子たち
 
 このことは、高齢の親のケアをめぐるきょうだい関係の研究のなかで、示唆されてきたことです。
 
 老年学の分野には、親にケアが必要になると、男きょうだいが一人でもいる女性は、そうでない女性よりも負担感やストレスに苛まれやすい、という疫学的な知見があります[1](もちろんこれは、確率的に言ってそうであることが多い、という意味であって、男きょうだいがいると必ず大変になる、という意味ではありません)。
 
 これがなぜか、ということを考えた研究があります。アメリカの社会学者、サラ・マシューズの研究です。マシューズは、個人単位ではなくきょうだい単位で調査をする(つまり、それぞれの家族の、複数もしくはすべての子どもたちにインタビューする)という手間ひまかけた研究で有名ですが、娘のケア・息子のケアに関する彼女の発見の一つにこんなものがあります。それは、息子たちは非常時を除き、他のきょうだいと足並みを揃えてケアにあたる必要を感じていないようだ、というものです[2]。
 
 マシューズの報告によれば、息子たちは必ずしも思案や調整をしていないわけではないのです。彼女がインタビューした息子たちのなかには、自分が見聞きした親の様子にもとづいて、独居の親の生活に必要な手立てを整えていた息子もいました。実際、マシューズは、彼らがしていることはいわゆるケース・マネジメントだ、とも評しています。
 
 しかし、彼らが思案や調整を行う時、他のきょうだいのことは視界に入っていないのではないか、とマシューズは言います。つまり、彼らがしているのは、自分が必要だと判断したことを、自分が判断したやり方で、自分のペースで行う、それだけだと。他のきょうだいがいつ何をしているかに注意を向けたり、自分が何を考えてどうしてきたか、共有したりすることへの必要を特に感じていないし、「それぞれ好きなようにやればいい」というスタンスが色濃く見られるというのです。
 
 要するに、息子のケアは、親に対して自分が何をするか・してあげたいかで動いている。きょうだいとともに何をどのようにするかを思案し調整することは、彼らのなかでは親のケアというしごとのなかには入っていない、または、それとは独立したしごとになっているのです。
 
シェアするために、シェアすること
 
 マシューズによれば、男きょうだいがいる娘たちを悩ませるのは、彼らがケアに携わらない場合だけでなく/というよりも、「足並みを揃えて」携わろうとしない場合だといいます。きょうだいそれぞれが必要や方法を考えて事に当たっていたとしても、個別にそれを行うだけでは、結局のところ一人でそれを行っているのと一緒だからです。自分が見聞きした親に関する情報をシェアし、きょうだいとともに何ができるかに意識を傾けることに息子たちが消極的な場合、親のケアに携わる上で、姉妹は姉妹で思案・調整のプロセスをイチから経なければなりません。
 
 マシューズによると、親にケアが必要になってくると、娘たちは特別に話し合いをしようとしなくても、自分が気になった親の様子を「ねえちょっと聞いて」と伝えあったり、おしゃべりのなかで「こうしてみようか」と考えを共有したり、そんなことが自然に行われる場合が多いとのこと。そして、それが思案や調整をともに行うことに役立っていることも示唆されています。女きょうだいとの間であれば、尋ねなくても情報がシェアされ、わざわざ持ち掛けなくても相談のようなことが行われる。しかし、男きょうだいに対しては、いちいち尋ね、こちらから促さないと、なかなかそれが進まない――。親にケアが必要になったとき、男きょうだいのいる娘を苛む負担感やストレスの原因の一つはそういうところにあるのではないかと、マシューズは示唆しているのです。
 
距離を超えるための一手間
 
 思案・調整の分有について、マシューズの研究が教えてくれること。それは、ともにケアに携わる人が、思案・調整のプロセスを共有するつもりがない限り、本当の意味での分有は難しい、ということではないでしょうか。
 
 例えば、山根さんはお手紙のなかで「男性が、……他の子と遊んでいる子どものようすを観察したり、子どもの話を聞いたりという作業をとおして『子どもの必要』を考えてくれるなら、女性にとっては十分にケアを共有してくれている」と書かれていました。でも、マシューズの話をもとにすると、女性にとって男性が「十分にケアを共有してくれている」ことになるためには、その男性が上のような「作業をとおして『子どもの必要』を考えてくれる」だけでは、実は足りないのではないかと思います。他の誰かが自分にとってケアを共有してくれる存在になるためには、その人がどのように考え、どんな判断を下して何をしたか、その一連のプロセスが自分にとって把握できること、少なくとも「あ、相手はこうしようとしているんだな」「こうしたんだな」と推測できることが、最低限必要ではないでしょうか。
 
 おそらく山根さんは、女性と男性が世帯をともにしていたり、お互いのしていることが観察可能な状況(子どもの母・父が同居している場合など)を想定していたのではないでしょうか。しかし、それぞれ別に暮らす子どもたちが、親のもとに通いながらケアにあたるような場合は、だいぶ話が違います。親の家を訪れるときもバラバラで、場を共有する機会が物理的に限られているきょうだいが思案・調整というケアをともに行うためには、そのプロセスを互いに共有する一手間が必要になります。
 
 残念ながら、マシューズの研究に登場する息子たちは、自分のペースで親の家に行き、そこで見聞きした情報をもとに自分なりに思案・調整を行う「だけ」でした。「それぞれ好きなようにやればいい」というスタンスの彼らは、その過程に起きたこと・知ったこと・考えたことを、わざわざきょうだいと共有する必要も意味も感じていなかった。そのため、この子どもたちは、それぞれが親との関わりを通して必要や方法を考えていたにもかかわらず、「十分にケアを共有」できる関係にはならなかったのです。
 
 思案・調整する人が増えるだけでは負担軽減にならない、という点は、男性によるケアへの参加を考える上でも重要だと思います。
 
 例えば、現状として女性のほうにケアの負担が偏っているのだから、何はともあれ、男性がケアに参加することが大事、と考える人もいるかもしれません。どんなかたちであれ、家のこと、子どものこと、親のことを彼らが考え携わろうとすることを認めよう、と。
 
 これに与する考え方として、次のようなものもあります。男性には男性のやり方がある。家事も含め、男性が家族のケアに携わろうとしているときに、女性は自分のやり方を押し付けるのではなく、彼らなりのやり方を受け入れてあげる必要がある、というものです。
 
 このベースにあるのは、家事や育児における女性の「ゲートキーピング」という考え方でしょう[3]。「この家では、この子には、こうしなければダメ」と、家事や子どもの世話のしかたに関する「わが家の基準」を女性が一方的に定めてしまうこと。それによって、男性が自分の生活スタイルにあわせて家事や育児をすることを難しくし、結果的に男性の関与を阻んでしまうこと。それが女性による「ゲートキーピング」として言われてきたことです。
 
 女性による「ゲートキーピング」のように、男性がケアに参加しない/できないことの一端は女性が担っている。女性は、男性には男性のやり方があることを理解し、彼らが彼らなりのやり方でやる自由を認めてあげよう。男性によるケアの参加を促すための一つの方略として、こんな提言が出てきてもおかしくはないし、実際、これに類するメッセージを見聞きすることもあります。
 
コーディネートという思案・調整
 
 でも、男性がケアに携わるようになりさえすれば、それでよいのでしょうか。男性のケア参加が求められてきたのは何よりも、ケアの負担が女性に偏っている状況を変えるためだったはずです。男性のやり方を承認し、自由にやらせてあげさえずれば、その目的は達成されるのでしょうか。例えば、マシューズの研究に出てきたような息子たち、つまり、思案も調整もするけれど、「それぞれ好きなようにやれば」の通り、自分のやり方で自由かつ自己完結的にケアに携わる男性がパートナーになれば、女性たちの負担は本当に減るのでしょうか。
 
 「男性なりのやり方で、自由にケアに参加させて」というメッセージが曖昧にしていること。それは誰かと誰かがともにケアを担うためには、その人たちのあいだの調整=コーディネートが必要だということです。
 
 極端な例かもしれませんが、子どもの母親と父親が、まったく別々に思案と調整を繰り広げたらどうでしょうか。母親も父親も、自分が子どもについて観察したこと、自分が子どもと話したことをもとに、それぞれバラバラに必要を考え、自分が良いと思ったサービスをそれぞれ申請してくる。あまりありえないような話ですが、もしそんなことになれば、同じようなサービスをひとりの子どもに何重にも用立ててしまう、という非効率が起こるだけでなく、「それぞれ好きなように」やる両親に振り回されて、子どもは生活を支えられるどころか、逆に生活しにくくなるでしょう。要するに、子どもの生活を支えるというケア本来の目的を果たしにくくなってしまうのではないでしょうか[4]。
 
 ケアをともに担うためには、担う人どうしでのコーディネートが必要です。例えば、やり方を統一しないにしても方針をシェアしておく。あるいは、互いのしていることに注意を払って、それを活かすように、あるいはそれを補うように、自分のすること・したほうがよいことを考える。思案と調整のプロセスの共有はそのために行われるのだし、マシューズの研究に出てきた娘たちが、女きょうだいとのおしゃべりのなかで/を通してしていたのは、このコーディネートでしょう。
 
 要するに、「それぞれが好きなようにやれば」を全員が本気でやってしまえば、ケアとしてはうまくいかないのでは、ということです。両親それぞれがバラバラに思案・調整を繰り広げることが子どもにとって必ずしもメリットにならないように、コーディネートもなく2人、3人、……と複数の人がケアに参加したところで、二重三重に手厚いケアになるわけではないし、むしろ受け手にとっては迷惑かもしれません。
 
 名前のある家事であれ、SAのような名もなきケア労働であれ、複数の人がそれに携わったときにコーディネートが行われないと、受け手にとってそれはケアにならないかもしれない。だとすれば、このコーディネートは複数の人のすることがケアとして結実するために必要な、いわばケアの前提としての活動です。わたしは『介護する息子たち』のなかで、SAの1つの機能は、(見える)活動をケアとして成り立たせるための「お膳立て」だと書きました。それに沿って言えば、このコーディネートもSAの1つに数えてよいでしょう。
 
コーディネートの丸投げ・丸抱え
 
 ところで、もしケアに参加する誰かひとりが「それぞれが好きなようにやれば」を貫いて、自分のやりたいように自由にやり続けたらどうでしょう。そのとき、コーディネートというSAの負担は、一緒にやる他の人が引き受けざるをえなくなるということです。相手が「好きなように」やっているからといって、それに対抗して「好きなように」やってしまっては、ケアにならなくなるかもしれないからです。
 
 ここまで書けば、「男性なりのやり方で、自由にケアに参加させてあげなさい」というメッセージが、ケア負担のジェンダー不均衡の上塗りにしかならないことがわかると思います。何よりもまず、男性にケアに携わってもらうことが大事、という名目のもと、彼らが好きなようにやるのを女性が受け入れるとき、女性は、というより女性だけが、相手が何をどうやるかに注意を払い、それに合わせてすること・しないことを考えて実行せざるをえません。つまり、コーディネートというSAの負担は、女性が丸抱えすることになります。
 
 こんなふうに書くと、「じゃあ男はみんな女に合わせろっていうのか」「それじゃ男が全負担することになるんじゃないのか」と息巻く方がおられそうですが、わたしが問題にしているのは、女性だけがそれを負担させられる状況です。マシューズの研究の娘たちがしていたように、話し合いでお互いのやること・やり方・やる順序を調整するとか、コーディネートをともに行うというオプションもあるはずでしょう。女性と男性、どちらが負担を丸抱えするべきか、という話をしているわけではありません。
 
なぜ男たちの「手伝い」は腹立たしいのか
 
 わたしは、女性が男性の家事や育児への「手伝い」に批判的な反応を示すのは、必ずしも「ゲートキーピング」の議論で言われているようなこと、つまり、自分が立てた基準で男性のやり方を無下に否定しているからではないのでは、と思っています。女性が男性の「手伝い」に不満を抱えるのは、コーディネートに係る負担を自覚なく女性に要求してくる、男たちのナチュラルな不遜さのゆえではないでしょうか。
 
 何度でも言いますが、大前提として日本では、いまだに多くのヘテロカップルで、家族へのケアを主に担っているのは女性です[5]。「名前のある家事」にかける時間で見た場合はもちろん、わたしが最初のお手紙に記したように、「名もなき家事」や、SAのような名もなきケア責任においても、負担は一貫して女性側に偏っています。だとすれば、大抵のヘテロカップルでは、主に女性がケアをしているところに男性が「参入」しているという現状認識で、誤りではないと思います。
 
 男性たちがケアに「参入」する気になったからといって、自分のやり方で乗り込んでくるだけであれば、それは、そのやり方に合わせることを相手に要求しているのと変わりません。女性たちが納得いかないのは、男性のやり方そのものというよりも、男性が自分に合わせることを当然のごとく求めて「参入」してくる場合であるように思います。
 
 というのも女性たちは、ケアを実際に行うための肉体的・認知的負担だけでなく、それを自分一人でまわすため/まわさざるをえないために、時間や予定のやりくりを含め、これまでずっと試行錯誤してきたわけです。その上、今度は「男性なりのやり方を認めて、自由にやらせてあげる」ための調整まで求められる。このとき、彼らがやったことが無駄にならないよう、それを補う形で自分のすることを考えたり、あるいは試行錯誤しながら考えた自分なりのやり方を、彼らがやること・やりたいようにやることに合わせて改めたりするのは、女たちのしごとになってしまいます。
 
ケアのときだけコーディネートを丸投げすることの意味
 
 もちろん、こういうしごとは、何かを一緒にする新たな「メンバー」を加える際に、必ず発生するものです。したがって、これ自体をゼロにすることは難しいでしょう。とはいえ、男性たちは仕事の場面では、それに係る負担を相手に丸投げすることを、していないのではないでしょうか。少なくとも仕事の上では、自分が新規参入する際に、「自分は好きなやり方でやるから、みんなはそれに合わせてやっといて」と、既にいるメンバーに無言の要求をすることなど、しないのではないでしょうか。
 
 例えば、そのチームではこれまでどのように仕事がまわされているのかを観察し理解しながら、その流れにうまく入れるよう自分なりに考えてみたり、とか。別のやり方を考えて試してみるにしても、何も言わずにそれを始めたりはしないはずです。「こういうふうにしてみたいんですけど」とまずは提案してみたり、合意を得られるよう交渉してみたり。一緒に仕事をしていく以上、それを導入することで影響を受けるかもしれない他のメンバーに対し、配慮しながら進めるでしょう。それは、ともに「プロジェクト」にあたる上でのメンバー間の調整=コーディネートを、自分以外の人に丸投げしないために必要な段取りです。
 
 それだけではありません。「それぞれが好きなようにやればいい」という名目で、マシューズの研究に出てきた息子たちが省いたプロセスの共有だって、男性は仕事の上では大抵やっているはずです。例えば、取引相手や顧客の要求や反応はどうなのか、自分がそれに対してどう対応しておいたか、どう対応するつもりなのか。そういう情報は、一緒に仕事をするメンバーとは当然のように共有するでしょうし、それをめぐって話し合いもするでしょう。そして、それがなければ一緒に仕事に当たれないことなど、彼らもよくわかっているはずです。取引相手や顧客をケアの受け手、対応したことをケアにおける思案や調整に置き換えて考えてみれば、「それぞれが好きなように」と言ってのけること、それで本当にできると思い込んでいることがいかに「異常」か、マシューズの研究に出てくる息子でもわかりそうなものです。
 
 つまるところ、思案や調整のプロセスの共有も、ともにしごとをする相手とのコーディネートも、男性はもともとそれが不得手だということではありません。ましてや、女性のほうがもともと得意だからやっているわけでもないはずです。男性はケアという「プロジェクト」においては、とりわけ、一緒にする相手が女性である場合においては、そうしたしごとの負担や意義を途端に気にしなくなる。そう言ったほうが正しいでしょう。
 
 翻って、職場での仕事でなら、そしてそこでともに働く(男性)相手になら、当然しなければいけないと思い、実際しているはずのことを、女性とともに、家庭でケアに携わるにあたってはしなくなるとしたら、その理由は何でしょうか。考えられるのは次の3つのいずれかです。
 
 1つ。ケアをしごととして見なしていないから。仕事の上では常識のようにそれをしている男たちが、家庭でのケアにおいてはそれをする気もなく、する必要も途端にわからなくなるのなら、彼らにとってそれはしごとの1つではないことを意味します。
 
 2つ。女性を人として見なしていないから。ともに仕事をしていく「人」がいる場合には、自分も当然すべき作業、当然シェアすべき負担だと考えていることを、相手が女性だと自動的にしなくなるのだとすれば、それは認識上、女性が「人」カテゴリから外れているからでしょう。
 
 3つ。上の1と2の両方だからでしょう。
 
「偏狭な女たち」から覗くミソジニー
 
 男性が自分のしかたでケアに「参入」するときに、女性がそれを非難する場合があるのはなぜなのか。それは、必ずしも男性のしかた自体が気に入らないわけではないことは、このように考えてみれば理解可能です。
 
 ケアの負担が女性に偏っている現状で、男性がコーディネートの負担も意義も考えずに「参入」してくれば、それに係る負担を女性が丸抱えする分、ケアに係るジェンダー不均衡は上塗りされます。しかも、男性のそうした「参入」は、ケアをしごととして見なしていないこと、ともに働く相手として女性をまともに扱っていないことを態度として示すことになる。なぜなら男性は、仕事の場面ではおよそ堂々とそんなことはしないからです。そういう態度表明が無自覚に行われているとはいえ、あるいは無自覚に自然にできてしまうからこそ、女性がそれに抗議の意を表明するのは当然です。
 
 にもかかわらず、その女性の抗議を、男性のやり方を認めない女性の「偏狭さ」のように読み替えるとき、それは、コーディネートの負担丸投げでケアに「参入」する男性と、彼らが暗黙のうちにしている、しごととしてのケアへの蔑視、女性を「人」として扱わない性差別を「大目に見た」上で、責任を女性に転嫁することになります。
 
 本音を言えば、仮に「ゲートキーピング」の議論が正しく、女性がケアの基準を自分仕様に定めてしまったからといって、女性個人が責められなければいけない理由がどこにあろうか、とも思います。女性たちがそういう基準を定めてしまうのは、自分が、自分こそがケアをしている・できている、と確信できるよう駆り立てられているからです。それは、山根さんが論証してくださったように、女性の「能力」が(ほかの労働ではなく)ケア労働でしかまっとうに認められない「ジェンダー化された評価構造」のせいでしょう[6]。女性が自分仕様にケアの基準を立てたことを、彼女たちの「偏狭さ」と読むことは、こうした「構造」の問題を素通りし、現在のケア責任のジェンダー不均衡を「心の持ちよう」の問題にしてしまいます。
 
 わたしにとって最も悪質に思えるのは、「偏狭さ」への非難に込められているのが、思いやりや共感性の欠如に対する非難だからです。というのも、そうした思いやりや共感性が「女らしさ」と結び付けられていることを考えれば、その「偏狭さ」への非難には、型通りのジェンダー観でもって女たちを「女らしくない」と裁定しようとする欲望が見え隠れするからです[7]。だからこそわたしは、「男性なりのやり方で、自由にケアに参加させてあげて」というメッセージが無批判に垂れ流されるとき、その配慮に満ち満ちたつもりの無自覚なミソジニーに、ひたすら反吐が出るのです。
 
足並みを揃えるための負担は誰が・どのように
 
 思案・調整を含め、ひとりのケアに複数の人が関わり分有するためには、そのプロセスの共有や、関わる人々のあいだでのコーディネートが必要。協働するためには当たり前に思えるようなこの条件をしつこく書いてしまったのは、職務・お勤めとしての仕事なら誰もがわかっているはずなのに、ケアというしごとになると、このことがあまりきちんと語られていないように思われたからです。
 
 ただし、プロセスの共有やコーディネートの必要を認識することは、それだけで協働が容易になることを意味しません。共有やコーディネートの核になるのは、ともに携わる人のあいだでの合意形成ですが、それ自体、簡単なことではないからです。その理由は、これまで山根さんもわたしも書いてきたように、必要や方法についての解は、1つに定まらないからです。たとえ同じ相手をみんなで見て/看ていても、いまこの人に何をするのがよいか、それをどう満たすべきかについて、全員が同じ答えを出すとは限らないからです。
 
 このことはケアの与え手と受け手の関係の個別性を考えれば、ますます厄介になります。子どもであれ高齢者であれ、ケアの受け手は自分に関わる相手の全員に、同じ「顔」を見せるとは限りません[8]。高齢の母親が、娘に対してと息子に対してとではまったく違う「お母さん」として振る舞ってしまうように、その人の必要を考える上での材料になるはずの「この人はどんな人か」の理解がバラつく原因を、ケアの受け手側がつくってしまうこともあります。
 
 わたしは、高齢者介護を中心にこれまでケアの研究をしてきましたが、分有がうまくいくための下支えになるこの合意形成にこそ、サポートが必要なのではないかと考えてきました。高齢者、とりわけ終末期の高齢者のケアについては、関わる人々のあいだでの合意形成が特に難しいからです。というのも、不可逆的に衰えていくプロセスである終末期においては、大抵のケアで目指されるべきこと、例えば「健康を維持する」といった「わかりやすい」目標を立てられないからです。このとき、自分が知るその高齢者の「人となり」をもとに、関わる人それぞれが思案を繰り広げることによって、ときに意見はぶつかりあい、協働どころか葛藤も生まれます。プロセスの共有やコーディネートと密接に関わるこの合意形成は、皆が思案に取り組んでいたとしても、というより、皆が熱心に思案に取り組むからこそ、簡単にはできなくなると言えます。
 
 他方、プロセスの共有やコーディネートと関わる「足並みを揃える」ことに係る負担は、それがきちんと認識されず、私的な解決に「何となく」任されている限り、その多くが女性にまわってくることになるのでは、という懸念がぬぐえません。「それぞれが好きなようにやれば」といってのけるマシューズの研究の息子たちしかり、自分のやり方でマイペースにケアに「参入」してくる夫たちしかり、そうした負担を気にもかけない者が「プロジェクト」の一員になる場合、ともにケアに携われる状態にもっていくために思案し調整するのは、娘たち・妻たちばかりになるからです。
 
 プロセスの共有やコーディネートといった協働するための「当たり前」は、ケアにおいても例外ではないこと。その強調は、それに係る負担の不均衡を「見える化」し、是正していくためにも必要であると考えています。

2018年4月
平山 亮
 


 
次回は、山根純佳氏が2018年5月にご登場です。[編集部]
 
【プロフィール】平山 亮(ひらやま・りょう) 1979年生。2005年東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了、2011年オレゴン州立大学大学院博士課程修了、Ph.D.(Human Development and Family Studies)。現在、東京都健康長寿医療センター研究所 福祉と生活ケア研究チーム研究員。著書に『迫りくる「息子介護」の時代』(共著、光文社新書、2014年)『きょうだいリスク』(共著、朝日新書、2016年)。気鋭の「息子介護」研究者として、講演、メディア出演多数。『介護する息子たち 男性性の死角とケアのジェンダー分析』のたちよみはこちら→「序章」「あとがき」
 

[1]例えば、Coward, R. T., & Dwyer, J. W. (1990). The association of gender, sibling network composition, and patterns of parent care by adult children. Research on Aging, 12, 158 – 181.
[2]Matthews, S. H. (2002). Brothers and parent care: An explanation for sons’ underrepresentation. In B. J. Kramer & E. H. Thompson, Jr. (eds.), Men as caregivers: Theory, research, and service implications (pp. 234 – 249). New York, NY: Springer.
[3]Allen, S. M., & Hawkins, A. J. (1999). Maternal gatekeeping: Mothers’ beliefs and behaviors that inhibit greater father involvement in family work. Journal of Marriage and Family, 61, 199 – 212.
[4]これは「(資源の)調整」といったSAのケアに限りません。例えば、母親・父親の両方が、それぞれの考えにもとづいて、それぞれごはんをつくって、それぞれ食べさせようとすることが、子どもへのケアになりうるかどうかを考えてみれば、わかります。ごはんはそんなに要らないし、母と父両方からそれぞれのごはんを食べることを求められるなら、ほとんど虐待です。
[5]総務省(2017)『平成28年社会生活基本調査 生活時間に関する結果』.
[6]山根純佳(2010)『なぜ女性はケア労働をするのか:性別分業の再生産を超えて』勁草書房より「ジェンダー化された評価構造と女性のケア能力資本」(pp. 162 – 164).
[7]2014年に非難を浴びた旭化成の「家事ハラ」広告は、その象徴です。家事に「参入」する男たちの前に立ちはだかる妻たちは、暗い影を帯び、顔も見えず、まるで異形の怪物のような女性として描かれていました。
[8]終末期の事前準備についてのインタビューに参加したある女性は、最期の過ごし方についての希望をなぜ書き残せないのか、その理由を次のように語りました。最期にどんな自分でいたいかは、その自分と関わる相手が誰かによって変わる。だから、誰が読むかわからないような、宛先不明の希望の記録など残せない、と(平山亮[2018]「身体・認知機能が低下した人とその家族に看護師ができること⑩:『その人らしいケア』に唯一の正解はあるのか」『看護のチカラ』、485、60 – 61)。
 
 
》》山根純佳&平山亮往復書簡【「名もなき家事」の、その先へ】バックナンバー《《
 
vol.01 見えないケア責任を語る言葉を紡ぐために from 平山 亮
vol.02 女性に求められてきたマネジメント責任 from 山根純佳
vol.03 SAには「先立つもの」が要る――「お気持ち」「お人柄」で語られるケアが覆い隠すこと from 平山 亮
vol.04 〈感知・思案〉の分有に向けて――「資源はどうして必要か」再考 from 山根純佳
vol.05 思案・調整の分有と、分有のための思案・調整――足並みを揃えるための負担をめぐって from 平山 亮
vol.06 なぜ男性はつながれないのか――「関係調整」のジェンダー非対称性を再考する from 山根純佳

「名もなき家事」の、その先へ

About The Author

ジェンダー研究者・山根純佳×『介護する息子たち』著者・平山亮による、日常に織り込まれたジェンダー不均衡の実像を描き出し、新たなジェンダー理論の可能性をさぐる交互連載(月1回更新予定)。「ケアとジェンダー」の問題系に新たな地平を切り拓き、表層的な“平等”志向に陥らない「家族ケア」再編への道筋を示します。