「名もなきケア責任」は今どう配分されていて、これからどう配分しなおせるのか――平山亮さんと山根純佳さんの往復書簡連載、今回は平山さんから山根さんへの応答です。[編集部]
山根純佳さま
新年度の初め、いかがお過ごしですか。春の陽気とともにやってくる花粉のピークが過ぎ、わたしは温かな空気を怖がらずに浴びることができるようになりました。
このたびは丁寧なご返信をありがとうございました。察知し思案し調整する「sentient activity(以下SA)」に必要な資源について、わたしが挙げた論点を拡げ、深めてくださったことに感謝します。資源は思案されたニーズとそれを満たす方法を実現可能にするためにこそ必要、という主張には深く納得しましたし、資源が調達できなかったことを思案の不足に結びつけるリスクのご指摘にも心を打たれました。
山根さんがこうした分析をされた理由は、思案や調整の分有について考えるためであり、お手紙の最後にも、その分有を可能にするための条件について、議論を呼びかけてくださいました。ですので、わたしからのお返事も、分有をテーマに「球出し」をさせていただこうと思います。
思案・調整の「切り出し」はなぜできないのか
お手紙のなかで山根さんは、相手の必要なもの・ことを判断すること、それにもとづいて実現可能な方法を探すことは、簡単に外注できるものではない、と指摘されていました。
このしごとは家族によって、なかでも女性によって担われてきましたが、この部分だけを切り取って単発的に他の誰かに任せることはできない。なぜなら、そうしたしごとは、相手の好みやふだんの様子に対する理解にもとづいて行われる必要があり、また、そうした理解は、相手をよく見てよく話を聞いて、という時間をかけた関わりを通してでないと得られないものだから。したがって、思案や調整の分有とは、こうした関わり込みのプロセスをともに行うこととして考えなければいけない。
つづきは、単行本『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』でごらんください。