「名もなきケア責任」は今どう配分されていて、これからどう配分しなおせるのか――平山亮さんと山根純佳さんの往復書簡連載、今回は山根さんから平山さんへの応答です。[編集部]
平山 亮さま
梅雨明けが待ち遠しい今日この頃、いかがお過ごしですか。ケアの「協働」をめぐる刺激的な論考ありがとうございました。平山さんの論考から、〈思案・調整〉の「分有」に向けた課題が新たにみえてきました。姉妹と協働してくれない息子介護者の例から、平山さんは以下のようなご指摘をくださいました。男性が〈思案・調整〉に参加してくれても、協働してくれるつもりがなければ、かえって女性の負担は増えるばかり。「男性なりのやり方で、自由にケアに参加させてあげなさい」というメッセージは、ケア負担のジェンダー不均衡の上塗りにしかならない。こちらがやっていることをみて、聞いて、歩調を合わせてくれなければ、 さらなる「調整」作業を女性が負担することになる。
相手を「協働ケアラー」だと認識して、ケアの方針を決める。これは、確かに、フォーマルなケアの現場では、「引き継ぎ・記録・ケース会議、職員会議」などをとおしておこなわれていることです。受け手の状況や変化を察知し、情報を共有し、職員全体で方向性を定める。こうしたプロセスがなければ、問題の共有、状況の改善をすることができません。少なくともフォーマルなケアの現場では「男の人だからニーズが察知できない」「男の人だからケア記録が書けない」などいうことはなく、男性であれ女性であれ、やっていることです。
そして「ケアワーク」に限定しなくとも、平山さんがおっしゃるように、男性は職場では顧客の反応や同僚との情報交換や話し合いをしているはずです。顧客のニーズは察知できるのに、同僚との「関係調整」はできるのに、なぜそれが家庭ではできないのか。家庭の「関係調整」とは、事前の資料作成や議事録が必要となる会議である必要もなく、「自分はこう思うのだけど、あなたはどう思う?」「このあいだこんなことがあったけど、どうしたらいいだろう」というおしゃべりでいいわけです。ではなぜ、家族・親族という私的領域では、男性は共有して支え合っていく相互依存の関係をつくれないのか。なぜ、そのためのおしゃべりをしてくれないのでしょうか。平山さんは、男性が
1.ケアを仕事とみなしていないから
2.女性を対等な人として見ていないから
と手厳しい分析をされていますね。
つづきは、単行本『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』でごらんください。