「名もなき家事」の、その先へ――“気づき・思案し・調整する”労働のジェンダー不均衡
vol.06 なぜ男性はつながれないのか――「関係調整」のジェンダー非対称性を再考する/山根純佳

ジェンダー研究者・山根純佳×『介護する息子たち』著者・平山亮による、日常に織り込まれたジェンダー不均衡の実像を描き出し、新たなジェンダー理論の可能性をさぐる交互連載(月1回更新予定)。「ケアとジェンダー」の問題系に新たな地平を切り拓き、表層的な“平等”志向に陥らない「家族ケア」再編への道筋を示します。

 
「名もなきケア責任」は今どう配分されていて、これからどう配分しなおせるのか――平山亮さんと山根純佳さんの往復書簡連載、今回は山根さんから平山さんへの応答です。[編集部]
 
 
平山 亮さま
 
 梅雨明けが待ち遠しい今日この頃、いかがお過ごしですか。ケアの「協働」をめぐる刺激的な論考ありがとうございました。平山さんの論考から、〈思案・調整〉の「分有」に向けた課題が新たにみえてきました。姉妹と協働してくれない息子介護者の例から、平山さんは以下のようなご指摘をくださいました。男性が〈思案・調整〉に参加してくれても、協働してくれるつもりがなければ、かえって女性の負担は増えるばかり。「男性なりのやり方で、自由にケアに参加させてあげなさい」というメッセージは、ケア負担のジェンダー不均衡の上塗りにしかならない。こちらがやっていることをみて、聞いて、歩調を合わせてくれなければ、 さらなる「調整」作業を女性が負担することになる。
 
 相手を「協働ケアラー」だと認識して、ケアの方針を決める。これは、確かに、フォーマルなケアの現場では、「引き継ぎ・記録・ケース会議、職員会議」などをとおしておこなわれていることです。受け手の状況や変化を察知し、情報を共有し、職員全体で方向性を定める。こうしたプロセスがなければ、問題の共有、状況の改善をすることができません。少なくともフォーマルなケアの現場では「男の人だからニーズが察知できない」「男の人だからケア記録が書けない」などいうことはなく、男性であれ女性であれ、やっていることです。
 
 そして「ケアワーク」に限定しなくとも、平山さんがおっしゃるように、男性は職場では顧客の反応や同僚との情報交換や話し合いをしているはずです。顧客のニーズは察知できるのに、同僚との「関係調整」はできるのに、なぜそれが家庭ではできないのか。家庭の「関係調整」とは、事前の資料作成や議事録が必要となる会議である必要もなく、「自分はこう思うのだけど、あなたはどう思う?」「このあいだこんなことがあったけど、どうしたらいいだろう」というおしゃべりでいいわけです。ではなぜ、家族・親族という私的領域では、男性は共有して支え合っていく相互依存の関係をつくれないのか。なぜ、そのためのおしゃべりをしてくれないのでしょうか。平山さんは、男性が
 1.ケアを仕事とみなしていないから
 2.女性を対等な人として見ていないから
と手厳しい分析をされていますね。
 

 男性は、ケアがおこなわれているのが「家のなかであり」「相手が女性だから」、メンバーのようすをみない、話を聞かないのだと。つまり、男性には「関係調整能力」はあっても、女性に対してはしないという説明です。人気ドラマ「逃げるは恥だが役にたつ」では主人公のみくりと平匡のあいだで家庭内CEO(共同経営責任者会議)が実施されましたが、これはみくりが家庭内の雇用関係の不安定性を訴えたゆえに導入されたものでした。確かに家庭内の労働も仕事であるがゆえ、女性を社員としてみなし「会議」を家庭にも導入しようという提案は、男性の視界を変えるには有効かもしれません。家事の分担について、同居人との間で取り決めをおこなうことは、シェアハウスなどの生活においても実践されているでしょう。とすれば、家庭に職場の原理と同じ人間関係を持ち込めば、「協働」はうまくいくということになります。
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つづきは、単行本『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』でごらんください。

 

ジェンダー研究者・山根純佳×『介護する息子たち』著者・平山亮による、日常に織り込まれたジェンダー不均衡の実像を描き出し、新たなジェンダー理論の可能性をさぐる交互連載(月1回更新予定)。「ケアとジェンダー」の問題系に新たな地平を切り拓き、表層的な“平等”志向に陥らない「家族ケア」再編への道筋を示します。
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