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あとがきたちよみ
『現象学入門』

 
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ステファン・コイファー、アントニー・チェメロ 著
田中彰吾、宮原克典 訳
『現象学入門 新しい心の科学と哲学のために』

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 現象学とは、1890年代にエトムント・フッサールによって始められ、今日でも実践されている緩やかなまとまりをもった哲学的伝統である。ただし、現在の現象学的研究の実例のなかには、もはや現象学という名称を用いていないものもある。現象学の伝統は歴史があるくらいには古いため、そこには奇妙、古風ないし時代遅れに思われる主張もある。だがその一方で、その創始者たちの仕事でさえ、今でも私たちに挑戦をつきつけ、大いに期待を抱かせるような考えで溢れかえっているくらいには新しくもあるのである。現象学の枠組みのなかで知覚と認知にかんする厳密な分析が構築できるようになるとともに、哲学者たちは今頃になってようやく現象学の核心的な洞察を十分に理解し始めている、といってもよいだろう。
 本書が扱うのは、現象学、現象学の歴史、現象学における最も重要な著者たちと彼らの成果、そして、現象学が現在の哲学・心理学・認知科学のいくつかの部門に及ぼした影響について、現象学に関心のある読者なら知っておくべきだと私たちが信じているものである。私たちは、フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティ、サルトルの仕事、彼らが科学的心理学に反対しておこなった議論、ゲシュタルト心理学に対する彼らの批判的検討を通じて、現象学の歴史を論じる。また、生態心理学、人工知能への認知主義的アプローチに対する批判、身体性認知科学における現代の展開を論じる。このように多彩なトピックを一定の詳しさで論じることで、本書は哲学や心理学や認知科学を学ぶ学部学生にとってはよい教科書に、現象学に初めて触れる大学院生や研究者にとってはよい出発点になっている。
 
本書に書いていないこと
 現象学において最も重要だとされていることのひとつは、共有された客観的世界というものを理解可能にする構造に説明を与えることである。その説明においては、身体や技能が共有された客観的世界の理解可能性にとって基礎的であるという認識がある。私たちはこれが現象学における最も重要で最も生産的な系譜だと考えており、本書の狙いは、この成果、および、それが知覚・行為・認知にかんする現代の研究に対してもつ含意を明快に説明することにある。
 本書では簡単に検討することしかできないが、現象学の別の系譜では、主観的経験の記述、とりわけ、非日常的で説明するのが難しい経験の記述が与えられる。たとえば、現象学においては、宗教的信仰、愛や不安など私たちを圧倒するような感情、美的な高揚感、逃れられない不確かさや逆説などといったものを経験するとはどのようなことであるかについて分析が提供されることがある。これは重要な課題であり、〔客観的世界というものを理解可能にする構造に説明を与えるという〕最初の課題と交じり合うこともしばしばある。たとえば、ハイデガーの仕事においては、不安と偶然性にかんする理解が世界の理解可能性にかんする説明の一部をなしている。大まかにいって、フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティ、サルトルは幅広い分野を網羅した革新的な思想家であり、彼らの著作は芸術も、宗教も、政治も、美学も、道徳も取り扱っている。実存主義はほぼ現象学の分派のようなものであり、文学研究における批判理論の多くもそうである。それゆえ、現象学は多くのさまざまな分野に影響を与えている。一冊の本で網羅するには多すぎるくらいである。大学のウェブサイトの教員紹介のページを見てみれば、文学部、映画学・演劇学、神学、芸術、政治学の分野で、多くの人が自分の仕事を「現象学」と認識していることが分かるだろう。私たちはこうしたさまざまな分野におけるこの種の現象学の重要性を否定するものではない。しかし、一冊の本でこうした題材のすべてを網羅するなどというおこがましいことはできない。本書で扱う主題と著者にかんする私たちの選択は、身体性認知科学にかんする現代の研究がフッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティによって追求されていた最も中心的な関心をとりわけ明快かつ密接に関連したかたちで引き継いでいる、との信念におもに動機づけられている。
 
 もうひとつ予備的な区別を立てておくと便利かもしれない。よく知られているように、英語圏の哲学では半世紀以上ものあいだ、いわゆる「分析的」アプローチと「大陸的」アプローチの分断が認められている。分断のどちらの側にも現象学を大陸的アプローチと結びつけて考える哲学者がおり、それは現象学の伝統をまるごと賞賛するためである場合もあれば、貶めるためである場合もある。「大陸的」アプローチを好む人々であれば、レヴィナス、ドゥルーズ、デリダ、そしておそらくより最近の著者としてバデューなどに連なる著者の系譜を選んでくるだろう。これは研究するに値する著者の系譜であり、そうした系譜の概説は他の多くの本で手に入るだろう。しかし、これは私たちがとるアプローチではない。私たちは、「大陸的」が地理の用語なのに対して「分析的」はスタイルないし方法にかんする用語だという明白な不一致を別にしても、こうした区別はまったく便利でも正確でもないと考える。分析哲学はヨーロッパ大陸でもたくさんおこなわれているし、英語圏の哲学におけるすぐれた仕事の多くは、分析的方法を用いてヨーロッパの哲学者の仕事を説明することによって成り立っている。私たちが本書でやりたいのも、これである。私たちの考えでは、あらゆる哲学の目標は、そもそも哲学を動機づけている大きな問いに対してえられている最もすぐれた見方について、できるだけ明快な説明を与えることにある。私たちは、フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティ、サルトルが、世界を理解する人間の能力の本性にかんして苦労の末にえられた洞察を明確に述べていると考える。彼らはきわめて根本的な問いに取り組み、何世紀にもおよぶ哲学の伝統に真っ向から対立する予想外の提案をおこない、しばしば自分の考えを表現するために新たな言語を発明するので、その文章はときに分かりにくいこともある。私たちの仕事は、学者たちがこの数十年のあいだに学んできたことを用いて、今日の学徒たちが現象学の洞察を容易に理解できるようにすることなのである。
 
現代における現象学
 哲学科や心理学科に所属するさまざまな研究者がアフォーダンス、あるいは知覚と認知における私たちの身体の役割、あるいは自己感覚を維持するための条件としての行為を経験的および概念的に探求している。現象学からの影響があることは、ハイデガーを読んでいようといまいと、こうした研究者たちのほとんどが認めるだろうが、私たちは、そうした仕事はたんに現象学に影響されているにすぎないわけではない、と主張する。私たちの考えでは、現象学の伝統の基礎となった基本的な考えと洞察にしたがっている限りにおいて、彼らは現象学を実践している。しかし、生態心理学と身体性認知科学がハイデガーとメルロ=ポンティの正式な後継者だと聞いて仰天する読者もいるかもしれない。ハイデガーからたとえばギブソンやダイナミカルシステム理論やエナクティヴィズムにいたる影響関係は明快でもなければ、よく知られているわけでもないので、こうした反応も理解可能である。
 詳しくは本書の論述を通して正当化したいと思うが、ここで私たちの主張がそもそも妥当であることを示してくれる二つの点を簡単に述べておこう。サルトルとメルロ=ポンティは、二人とも明らかにフッサールに負うところがあり、ハイデガーに対してはさらに多くを負っている。二人の思想の三つ目の大きな源泉はゲシュタルト心理学に対する持続的な批判的検討である。ゲシュタルト心理学は、1930年代の数年間にスミス・カレッジでクルト・コフカの同僚であったギブソンにも大きな影響を与えた。ちょうど彼が生態心理学という考えを最初に展開し始めた頃のことである。ゲシュタルト心理学の影響を並行して受けていただけでなく、メルロ=ポンティからギブソンに対する直接の影響関係もあった。ギブソンは、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』にかんする詳細なメモをとっており、1970年代に『生態学的視覚論』の執筆に取り組んでいた頃には、メルロ=ポンティにかんするセミナーを教えていたのである。
 ゲシュタルト心理学を共通の祖先としていること以上に重要なのは、ハイデガーとメルロ= ポンティの見方を現在の哲学と認知科学に持ち込んだヒューバート・ドレイファスの仕事である。1960年代と1970年代に、ドレイファスはハイデガーの仕事に対する見識を利用して、当時、人工知能の分野で急速に発展していた研究プロジェクトに対する辛辣な批判を練り上げた。人工知能研究におけるその後の30年の展開は、ドレイファスの最初の批判がこの分野における人間知性にかんする理解をさまざまな仕方で変容させてきた歴史を示している。ドレイファスの批判は、知的行動を主体・身体・環境のカップリングと
いう観点から説明しようというたくさんの試みへと結びついたのである。
 
どうして現象学を学ぶのか
 あなたが現象学を学ぶべき最も簡単な理由は、すべての人が現象学を学ぶべきだからである。フッサールやハイデガーやサルトルやメルロ=ポンティ、そして、彼らから影響を受けた人々をほとんど表面的といってもいいくらいに学ぶだけでも、知覚や認知や人生の一般的な意味に関係する多くの問題に対する私たちの理解に根本的な好影響がもたらされる可能性がある。現象学的アプローチは、幅広い方面の問題に対して、興味深く、正確で、有望である。哲学または心理学にかんする真剣な研究は、どのようなものであっても、多少なりとも現象学に触れておくべきなのである。
 〔現象学的アプローチがとられる〕多方面の問題のなかでもいかめしい側のものでいうと、現象学とは人間存在の存在論である。ハイデガーとサルトルはこのことをはっきりと述べていたが、メルロ= ポンティとギブソンもこうした観点から自分たちの仕事を理解していた。それゆえ、彼らの仕事は、あなたが人間を今まで思っていたのと違う種類の存在だと考えるにいたるきっかけになるかもしれない。具体的にいうと、あなたは反省的で意識的な認識者ではなく、たいていは熟練した非反省的な行為者なのだ、と。生き生きとした側の話でいうと、私たちがここで論じる著者や理論においては、私たちが何を知覚し、何を経験しているのかということにかんする基本的な前提を問い直すきっかけとなるような示唆に富んだ多くの観察や具体例が与えられる。そうした具体例は、現象学について読むことを有意義で楽しいものにしてくれる。
 現象学が重要性と影響力をもった学派であるとすると、それは主要な現象学者たちが特筆すべき洞察と創造性でもって思考と文章を連ねているからである。それゆえ、現象学を学ぶべきもうひとつの理由としては、著者としてのフッサール、ハイデガー、メルロ= ポンティ、サルトルに親しむためだというのがある。彼らの論述は、ときに不明瞭で歯痒いこともあるが、最終的には刺激に満ち満ちているのである。
 
概 観
 本書はおおむね時系列にそって進行し、各章で一人の主要な人物ないしひとつの主要な動きをとりあげる。ただし、第1 章は例外で〔その後の現象学の展開と〕密接に関連した18世紀と19世紀の背景を簡単に紹介する。どの章も自立しているので、時間がなかったり、とくに興味のあるトピックがあったりするのであれば、好きな章を選んでもよい。しかし、全体の論述にはそれぞれの叙述を寄せ集めた以上に豊かな内容がある。
 私たちは、内容の正確さや詳しさを犠牲にすることなく、本書を読みやすいものにすることを目指した。ジャーゴンは避けている。さまざまな著者たちが用いる鍵となる専門用語は使用し、定義するが、私たちの考えでは、彼らの洞察はそれを表現する特定の仕方に依存するものではない。もっというと、本書で出会われるさまざまなスタイルの著者たちが同じアプローチと同じ基本的な考え方によって駆り立てられていることが分からなければ、現象学が死んでおらず、現在も進行中であることは理解できないだろう。参考のために、各章の最後には鍵となる専門用語の解説と簡単な文献案内を載せている。引用文献の出典は、詳しい脚注を載せるのではなく、本文中に簡潔に組み込んだ。
 
 
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