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あとがきたちよみ
『メディアがつくる現実、メディアをめぐる現実』

 
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山口 仁 著
『メディアがつくる現実、メディアをめぐる現実 ジャーナリズムと社会問題の構築』

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はじめに ジャーナリズムを論じるということ
 
 「ジャーナリズムを研究する」という活動には困難が伴う。「ボクはね、メディア研究やコミュニケーション研究はわかるんだけど、『ジャーナリズム研究』という分野はどうもよくわからないんだよね、キミはどう考えているの?」。あるメディア史研究者にこう聞かれたことがある。また同世代の政治学の研究者からは「山口さんがやってるジャーナリズム研究って、科研(科学技術研究費)だとどの分野なんですか?」とも聞かれた。どちらも食事や会合での何気ない会話である。しかし、ジャーナリズム研究の置かれた微妙な立ち位置をそれとなく示す会話でもある。わかるようでわからない研究領域、それがジャーナリズム研究ではないだろうか。
 こうした問題意識は筆者だけのものとも言い切れない。例えば故・鶴木眞は編著『客観報道―もう一つのジャーナリズム論』の冒頭で、日本のジャーナリズム研究が抱える問題について以下のように述べている。

ジャーナリストやジャーナリズム組織・業界が問題を起こすたびに、それを解説し、批判することにとどまる書物が「ジャーナリズム論」として幅を利かせている。既存のイデオロギーや理論を体系的に整理し、その中から独自のモデルや仮説を提示し、それにもとづいてジャーナリズムの分析を試みるという研究書はごく少数に限られている。この現状を見ると、日本ではジャーナリズム批判は存在しても、ジャーナリズム論、あるいはジャーナリズム研究が未成熟であることが痛感される。その最大の原因は、当該分野の研究者が、マス・コミュニケーション研究の応用領域としてジャーナリズムの問題を扱うことに熱心でなかったことに求められよう。(鶴木編1999, はじめに)

 ほかにも「数多く出版されているいわゆるジャーナリズム批判の文献の多くが、研究書としては刺激的ではなく、平板に思えた」(大石裕2005, 266)といった指摘も似たようなものである。「ジャーナリズム」と呼ばれる現象は明らかに存在にするにもかかわらず、そしてそれを批判する書物は数多く出版されているにもかかわらず、なぜ「研究」にはならないのだろうか……。これがジャーナリズム研究に関して、私が常に抱えている疑問である。
 またこうした問題とも関連するが、昨今のメディア・コミュニケーション研究(マス・コミュニケーション研究)の領域では理論志向の弱さが問題視されている。例えば日本マス・コミュニケーション学会のシンポジウム「マス・コミュニケーションの現在―理論研究への視座」(2016年)では、ジャーナリズム研究、特に理論的な研究発表・論文が少ないことが問題視された。
 本書の目的は、社会学的な視座に基づいてジャーナリズムの社会的機能を理論的に検討し、具体的な事例分析を行うことで、こうしたジャーナリズム研究の「停滞」の克服に少しでも寄与することである。
 
 本書は、第Ⅰ部が理論編、第Ⅱ部が事例編・応用編という二部構成になっている。
 「第Ⅰ部 社会問題とジャーナリズムを分析する視点」では、ジョン・I・キツセを中心として社会問題研究の領域で提唱されてきた構築主義的視座(いわゆる「社会問題の構築主義」)に考察を加えながら、社会問題に関するマス・メディア報道(ジャーナリズム)を分析するための理論的フレームワークを提示する。
 第1章「社会問題研究と構築主義的アプローチ」では、社会問題研究の中で展開してきた構築主義的視座について概観する。この論文は筆者の修士論文(と初めての公刊論文)をもとにしたものである。社会問題研究の中で構築主義的な発想がなぜ生まれなければならかったのか、社会学の略史に触れながら論じている。そして構築主義論争を経て多様に分化してしまった社会問題の構築主義の意味・意義について、キツセの議論に寄り添いながら「一つ」の道筋を示す。社会問題研究そのものが内包する問題点に関する議論は現代社会でも存在している、いや現代社会にこそ顕著なものである。社会問題の構築主義が何を目指し、どのような困難にぶつかったかを振り返ることで、現代社会における社会問題研究の一つのあり方を提示できるのではないだろうか。
 第2章「構築主義的社会問題研究とマス・メディア研究」では、マス・メディア研究の中で展開してきた構築主義的研究の一つであるモラル・パニック論を批判的に考察する。社会問題をめぐる客観的現実と構築された現実とを区別しその差異を批判的に考察するモラル・パニック論の限界を指摘しながら、それとは異なる構築主義の展開可能性について、現象学的社会学の知見を借りながら議論していきたい。
 第3章「構築される『ジャーナリズム』」では、第2章までの議論を踏まえながら、本書の中心となる視座である「(マス・)メディアに関する二重の現実の構築・構成」という考え方を提示する。メディアが現実を構築・構成しつつも、そうしたメディアの活動に関する現実もまた構築・構成されているのである。もっとも、こうしたアイディアは社会学理論の中でも連綿と受け継がれてきたものであり、かつまたニュース研究の中でも暗示的に提示されてきた。本章はそうした点に触れながら議論を展開していく。
 第Ⅱ部「社会問題とジャーナリズムの構築」では、第Ⅰ部で理念的に提示した「マス・メディアに関する二重の現実の構築・構成」という考え方を、いくつかの事例に基づきながら説明する。そして後半の第7章と終章では現代のインターネット社会におけるジャーナリズムとジャーナリズム論のあり方について試論的な議論を展開する。
 第4章「公害・環境問題の社会問題化とジャーナリズム」では、水俣病事件報道の分析を通じて、日本社会の中で公害・環境問題が社会問題化されていった過程を考察する。水俣病事件は、現在でも社会問題をめぐる議論の中ではたびたび参照される事件である。しかし水俣病事件の社会問題化を阻んだのは、政府や企業といったわかりやすい「権力主体」だけではなかった。そうした主体の責任は当然あるとしても、むしろ現在振り返るべきは初期水俣病事件報道において作用していた別個の力である。その力は逆に1960年代中盤以降は、水俣病事件の社会問題化に寄与したのである。その様子を新聞報道・関連雑誌の分析を通じて明らかにしていきたい。さらに公害・環境問題の社会問題化が、公害・環境問題報道の規範を変えていった過程にも言及していく。
 第5章「不確実性下におけるジャーナリズム」では、1990年代に社会問題化したダイオキシン問題とジャーナリズムとの関係について論じている。ダイオキシン問題はその発生源や毒性が未知のもの(いわば不確実性の高いもの)である社会問題として構築・構成された。こうした過程を分析するには「客観的現実」と「構築された現実」とを比較するモラル・パニック論では不十分である。そうした問題をどう分析すべきか、第2章で示したフレームワークを活用するのが本章である。後半では、ダイオキシン問題報道0 0 によって発生した「風評被害」に関する社会的論争について考察し、マス・メディア報道に関する現実が構築・構成されていく過程の特徴を明らかにする。本書のタイトル「メディアがつくる現実、メディアをめぐる現実」が端的に表れる事例がダイオキシン問題なのである。
 第6章「論評主体から論評対象になるジャーナリズム」では、ジャーナリズムは社会問題の報道・論評の「主体」であるだけではなく、ときに報道・論評の「対象」になることについて、『朝日新聞』をめぐる社会的批判を事例に考察していく。『朝日新聞』の報道はどう問題化されていったのだろうか。キツセが提示した「対抗レトリック・カウンターレトリック」という概念を用いて分析している。なお、補足事例として近年の『朝日新聞』批判についても言及している。
 第7章「何が『ジャーナリズム』とみなされるのか?」では、特定のメディア・コミュニケーション(およびその主体)が「ジャーナリズム」として構築されていく過程を考察するために「信頼」概念に関する社会学的な検討を行う。奇しくも今日、「ジャーナリズム(ニュース・メディア)の信頼性」「フェイクニュース」「ポスト真実」などが時事的問題となっているが、本章では第6章までの議論をもとにしながらメディアの信頼性を構築主義的にとらえていく。その上で、現代のメディア環境において信頼性の構築・構成過程がどう変容している/しうるのか考察する。
 終章「ジャーナリズム論と情報化社会論」では、インターネットが台頭してきた現代社会(情報化社会)におけるジャーナリズムのあり方について、第7章までの議論を踏まえて試論的に論じる。マス・メディア産業の「斜陽化」が顕著になってきた現在、インターネットをはじめとするニュー・メディアに関する期待がジャーナリズム論として展開されてきた一方、インターネット特有のコミュニケーションのもたらす問題がジャーナリズムと社会問題のあり方に変容をもたらしてきた。さらにそうしたインターネット社会においてジャーナリズムを論じること自体がもたらす問題について論じ、今後のジャーナリズム研究と研究者としてのあり方について展望する。
 本書の目的は、社会的行為・主体としてのジャーナリズムを一般的・理論的に論じることである。ジャーナリズム研究の発展には個別の時評、個別の事例分析を超えた議論が必要なのである。本書がジャーナリズム研究をそうした方向に牽引できることを心から願っている。
 
 
 
おわりに
 
 近代以降、社会的な事件・出来事に関する情報の伝達をする活動の大部分をマス・メディア組織(新聞社、放送局など)が担ってきた。それらの行為は社会の人々の間で「ジャーナリズム活動(報道活動・評論活動)」として理解され、そうしたマス・メディアの活動をめぐるさまざまな現実(例:「マス・メディアとはニュースを伝える存在だ」、「マス・メディアはニュースを正しく伝えられるべきだ」、「マス・メディアはその役割を果たしている(果たしていない)」)が構築・構成されてきた。
 だが、このような現実の構築・構成の過程はあくまでも現象学的社会学やその流れを汲んだ社会構築主義的な視座に立つことで見えてくる理念上の過程であった。日常的にこうした過程が常に活性化しているわけではない。そのため、こうした過程をわざわざ研究対象に据えようという試みはほとんど存在しなかったのも無理はない。
 もちろん日常生活を営む人々が、彼らが普段接しているマス・メディア報道に関して解釈をしてこなかったということではない。ただ、その解釈を他者に伝えたり、社会的に共有したりするには、やはりマス・メディアに相当程度依存せざるをえなかった。もしくは「メディア・リテラシー」や「NIE(教育に新聞を活動)」と呼ばれる教育の場において、マス・メディア報道に対する解釈が行われてきた程度であろう。あるいは、本書の第Ⅱ部で取り上げたダイオキシン問題報道のように、特定のマス・メディア報道が社会問題化していくという特殊的状況においてのみ、マス・メディア報道をめぐる現実の構築・構成過程は活性化していたのである。
 だが、インターネットの普及によってそれらの特殊的状況は一般的状況へと変化しつつある。人々はインターネットを活用することで、マス・メディア報道に関する解釈を他の人々と共有することが極めて容易にできるようになった。この傾向を加速させたのが、マス・メディア組織の「斜陽化」である。マス・メディア組織にとって、インターネットの台頭は自らの経営基盤を揺るがしかねない事態だった。多くの経営者が、マス・メディアの従来のビジネスモデルはもはや通用しないと繰り返し述べている。「マス・メディア報道に関する現実の構築・構成過程」は、インターネット利用者によってだけではなく、マス・メディア組織によっても活性化させられている。
 そして「フェイクニュース」「オルタナティブ・ファクト」「ポスト真実」というキーワードで、インターネットのあり方もまた激しく論じられている。メディアをめぐる現実の構築・構成過程が活性化した時代、それが現代社会なのである。そうした時代では「ジャーナリズム」の構築・構成のあり方も変わらざるをえないだろう。
 
 本書は2012年に慶應義塾大学大学院法学研究科へ提出した学位請求論文「ジャーナリズムに関する構築主義的アプローチ―マス・メディアと二重の現実の構築・構成―」をもとにしたものである。この博士論文をとりまとめていたのは2010年4月から2012年5月であるが、その最中に戦後日本社会の転換点である東日本大震災が発生した。しかし、それが論文の内容に大きな変化をもたらすことはなかった。むしろ自分がまとめてきたジャーナリズムに関する議論が裏付けられたような気すらした。不確実性・予防原則を唱えながら「警鐘的」な報道を正当化するマス・メディアがある一方で、そうした報道を批判する別のマス・メディア、マス・メディア批判を自らの正当性の根拠にしながら報道を行う非主流派のマス・メディアやネット・メディア、さらにはそうした論争に巻き込まれる研究者……、どれも本書で議論してきた枠組みで把握できると思えたからである。
 もっとも本来、論文博士(乙種)であれば学位授与と同時並行的にその成果を出版するべきであろう。これに関しては、筆者の生来の憶病なところと面倒くさがりなところもあって、出版までこうして何年も経ってしまったのは不徳といたすところである。その代わりと言っては何だが、いくつかの論考(6章の一部、7章、終章)を追加することで、現代社会の問題に少しでも迫ったつもりではあるが……。
 
 ジャーナリズムと社会問題を研究することの奇妙でやっかいなところは、その対象領域が何重にもメタ的構造に重なり合っていることである。すなわち、①社会問題とされる現象(事件・出来事そのもの)、②それを報道・論評するメディアの記事(出来事の解釈)、③そうしたメディアの活動を分析する活動(出来事の解釈に関する解釈)である。もっとも、人間はこうした理念型的分類にそって活動しているわけではない。事件・出来事の当事者が自前のメディアでそうした事件を伝える、メディアがメディアの活動自体に規範的に自己言及する、など複数の次元にまたがってメディアにまつわる現実は構築・構成されている。
 こうした日常生活において「すで」に行われている諸活動に、研究者はどういう立場で臨むべきか。ここでしばしば主張されるのが「社会科学は立場性が避けられないので、それを自覚しながら研究すべき」というという見解である。こうした見解は、ジャーナリズム研究以外ならば通用するかもしれないが、①のように社会問題そのものに対する見解が②や③の研究に影響を与えてしまう以上、①に関して安易な覚悟はあまり意味をなさない。もちろん、自分が有する価値観・イデオロギーを「限界を抱えたもの」として自覚することは必要であるが、それはあくまでも研究のスタートにすぎないのである。
 筆者は、ジャーナリズムの研究は一般的な説明、すなわち理論構築を目指すべきであると考えている。そのためには「社会問題とされるもの」や「ジャーナリズムとされるもの」についての「カッコ入れ」、とくに現代の研究界隈の中で当たり前とされているものについてそれをする必要があると思う。そうでなければメディアにまつわる現実の構築・構成過程を普遍的・網羅的に把握することは困難であろう。特に現代のように、「正統的な」秩序それ自体が問題視されている状況においては、自分自身が拠って立つ価値観すらもポーズではなく疑う姿勢が求められる。
 そしてジャーナリズムの研究は、ジャーナリズムの実践とは異なる論理で行われるべきだとも筆者は考える。これはジャーナリズムの論理をどうとらえるかにもよるだろうが、少なくともジャーナリズムに対して対抗的言論を展開することはジャーナリズム研究とは言えないと思う。ではジャーナリズム研究とは一体どんな論理で展開されるべきなのだろう? その問いに対する回答(のごく一部)を本書で示してきたつもりだが、まだまだ先は長い。そういう点で「はじめに」でとりあげた「ジャーナリズム研究というものはない」という意見は、この研究を行っていく以上、筆者が立ち向かっていかなくてはならないものである。
 さらに一人ひとりが情報発信できる時代に、そうした研究を学術出版物として情報発信することの意義とは何だろうか。かつて筆者はソーシャル・メディアで情報発信の真似事をしたことがあるのだが、情報発信の「サイクル」の差が重要なのだと痛感した。幸いにも大学教員(研究者)として活動することが許されている筆者ではあるが、どのような情報発信をするべきなのだろうか。おそらく「社会」の流れとは異なった視点やサイクルで活動することが、研究者としての責任なのだと思う(もちろん研究者といえども「社会」から独立することはできないのではあるが……)。
 そしてそうした研究から生まれる概念、理論、モデルは、ジャーナリズムの実践とは異なるスパンで存在するものになるだろう。もちろんジャーナリズムを研究する者が、ジャーナリズムの実践をすることもできるし、逆にジャーナリズムの実践をする者がジャーナリズムを研究することも可能である。しかしそれは別の作業なのである。
 インターネット、とくにSNSの普及に伴い、人々の表層的なコミュニケーションは活性化する一方、社会の「分断」がまた指摘されるようになってきている。それは社会問題をめぐる状況、そうした社会問題を報道するジャーナリズム、さらにジャーナリズムを考察する議論・研究にまで「分断」をもたらしつつある。そうした中で、ジャーナリズムを研究することを通じて社会に「統合」をもたらす、少なくとも共通の議論の土台を作っていくことがジャーナリズムの研究にも求められると筆者は考えている。
 こういう状況下で「社会科学としてのジャーナリズム研究」、さらには(社会)科学の基底となる「哲学」について考えるときに、筆者が共感するのがある哲学の入門書に書かれていた竹田青嗣の言葉である。

哲学は〝この問題について、誰が考えてもこういうのがいちばん妥当だ〞と言えるような道だけを探して進む。それが哲学の独自の方法だ。そこですぐれた哲学の考えは、何度も何度も読んでいく内に、必ず、だんだんかみ砕かれて、一般の人に理解できるようなものになってゆく。それが哲学の思考のとても重要な特質だと私は思う。すぐれた哲学ほど、複雑な問題を扱っていながら、それをよく追いつめて、誰もがなるほどこれはこう考える以外にないな、と思えるような「原理」にまで届いているのである。(竹田・現象学研究会編2008, 011)

 ジャーナリズム研究に求められるものがあるとすれば、ジャーナリズムに関する諸現象の「原理」に向かって、概念と理論を精緻化していくことにほかならないと筆者は考える。
 
 こうした「思い」の一方で、本書の理論的な「詰め」はまだまだ発展途上であると痛感している。本書は社会学理論(のごく一部)に依拠しながら、ジャーナリズムを論じてきたわけだが、社会学理論は膨大な歴史があり、それは現在でも進化し続けてもいる。例えば一言で「ジャーナリズムを社会的行為としてとらえる」といっても、その社会的行為の基底にあるものは何かという問いはもっと深く掘り下げることができるだろう。現に、現象学的社会学の発想は意識的・言語的な領域のみにとどまらず、人々の身体的側面にも注目するようになってきているという。またブルデューの「界・領域の理論」を用いながら、「ジャーナリズム」という特殊な業界・領域で通用する論理を探っていくという方向もあるだろう(例えばニック・クドリーは「界の理論」に基づいてメディアの「界」を論じている)。
 ほかにも、現象学的社会学と社会システム論を組み合わせることでより総合的な社会理論を展開したルーマンのコミュニケーション論に基づいてジャーナリズム研究を展開していくことも可能であろう。ルーマンの議論は、本書の第7章で「信頼」の構築・構成過程を論じる際にわずかに言及したが、近年、ジャーナリズム研究の観点からルーマンに言及するもの、特に若手の研究者の論文も公刊されるようになってきている(たとえば梅田2018 参照)。社会学理論が進化・深化するかぎり、その知見はジャーナリズム研究にも反映できるし、そうならなければならない。
 また本書では、政治過程研究における規範論としてのジャーナリズム研究という側面についてはほとんど言及しなかった。現在のジャーナリズムを支える主要な規範、例えば表現の自由や民主主義などに関しては、政治哲学の途方もない蓄積がある。今後はそうした領域の議論をふまえつつもそれを超えた政治哲学に基づいてジャーナリズムの規範を論じる必要性も生じてくるはずである。
 いずれにせよ具体的な社会問題報道に関する時事的な評論へと引き寄せる重力から離れてジャーナリズムを俯瞰的に論じるためには社会理論・政治理論の推進力が必要なのである。本書にもその推進力が少しはあると自負はしているものの、それが「ジャーナリズム批判」の重力圏を抜けられたのか、それとも途中で再度地面に落下する試みだったかは、読者の評価を待たねばならない。なお、本書で用いたデータや文献の引用・参照については注意を払ったつもりではあるが、お気づきの点はご指摘くだされば幸いである。
 学際的・応用的な研究分野ということもあって、本書はまさにさまざまな人々との「出会い」によって構築・構成されたものである。学術書の「あとがき」ではこうした人々に対して御礼を表明することが通例になっているようだが、本書は特に幾多の人との対面的相互作用の産物である。長い自分語りになるが、思考の過程を吐露するものとご笑覧くだされば幸いである。
 筆者の研究人生の中で最初の「就職」先としてお世話になったのが、財団法人国際通信経済研究所(2007年3月に解散し、現在は一般財団法人マルチメディア振興センターにその事業が継承されている)である。筆者が所属していた情報通信研究部は、主に海外の情報通信政策や情報経済に関する調査・研究業務を行う部署だった。この研究所で行った情報化社会に関する共同自主研究は、筆者がその分野に興味を持つきっかけにもなった。それは最初に担当した講義「情報化社会論」でも活かされた。大学の教壇に立つ機会を与えてくださった尚美学園大学の三野裕之先生には感謝している。そして筆者の人生に影響を与えたのは、こうした調査・研究の〝内容〞だけではなかった。おりしも小泉郵政改革の影響を受け、財団も収益構造に大きな変化があって財務状況は急速に悪化していた。筆者はたまたまそうした時期に勤務していたが、「研究所」としてのアイデンティティが大きく揺らいでいくのがひしひしと感じられた。豊富な財源に支えられていた自主研究・公益研究はどんどん縮小され、官公庁や民間企業からの受託研究、情報サービスの割合が増していった。別にどの仕事が崇高であるのかという区分をするつもりはない。ただ全職員数十人という小さな組織だったこともあり、経営環境の変化が業務内容の変化に直結しやすかった。こうした環境の激変が、それまで「ただ良い研究をしていればよい」と思い込んでいた自分の認識を大きく変えたことは確かである。そして「自分たちの仕事の意味・意義について考えながら仕事する」という行為をまさに実践することになった。同僚との日常的な会話、上司との衝突を含んだ相互行為、そして「研究とは何か」「研究をする環境はどう維持されるべきなのか」と繰り返し考えるようになった。今になって思えば、「ジャーナリズムとは何か」「大学とは何か」を自問自答するジャーナリズムの関係者や大学関係者と似たようなものだったのかもしれない。ジャーナリズムを特殊な領域とみなしすぎず、ほかの領域と比較しながら考える癖はここらへんで着いたのだろう。そういう意味では、一緒に「苦難」を乗り越えたかつての同僚達には感謝している。
 
 筆者が本格的に博士論文の取りまとめにかかったのは、2010年に帝京大学文学部社会学科に有期助教として赴任してからである。その際、筆者が論文に集中して取り組めるように、授業や事務作業の負担を軽減してくれた同僚諸氏には非常にお世話になった。
 さらに同僚の社会学者たちとの日常的なコミュニケーションが研究のヒントにもなった。たとえば私の「みんな、ジャーナリズムのことを語りたがるんですよね。不思議な研究領域です」という何気ない一言に「実は教育も同じなんですよ。みんな『教育』の経験者ですからね。みんな教師とか学校とかには一家言あるんですよ。そういう点でジャーナリズム論と教育学は似ているんですね」とコメントしてくれた教育社会学者。「人々の意識が社会を動かす。でも社会意識に影響を与えるのはメディアだけではなくて、教育もそうだし、国によっては宗教がいちばん影響力持っているんです」という宗教学者の会話、「社会学もジャーナリズムもどちらも社会問題を扱うと思うんですけど、社会学独自の特徴って何なんでしょうね」という私の素朴な疑問に「やはり社会学は理論化を意識しないといけないと思うんだよね」と返してくれた理論社会学者の同僚。逆に「人々の行為は意識なんかに影響されない、社会構造で決まる」とウェーバー批判を展開する人口学者との世間話では、メディアや社会意識・世論を論じることそれ自体の意味を再度考えさせられた。自分の経験を巨匠と比べるのは気が引けるが、ジョン・キツセはエスノメソドロジー研究者のハロルド・ガーフィンケルの同僚であったらしい。ガーフィンケルからの耳学問がキツセの議論に影響を与えたという話は、なるほど同僚との何気ない会話が研究を発展させる思わぬヒントになるものだと再確認する。そしてジャーナリズムを社会学的な観点から考察するというのは「わかりづらい分野」ではある。本書のいくつかの章は間接的には競争資金の支援を受けて実施した研究をもとにしているが、大学の個人研究費に大きく依存していることも確かである。競争資金のために企画書を書くということなしに〝とりあえず〞研究を始められるのは非常にありがたい。応用研究というよりは基礎研究としての要素が強い本書ではあるが、こうした研究を可能にする経済的・時間的・精神的余裕を与えてくれる帝京大学には感謝したい。(以下つづく)
 
 
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