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『ローティ論集』

 
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リチャード・ローティ 著
冨田恭彦 編訳
『ローティ論集 「紫の言葉たち」/今問われるアメリカの知性』

「編訳者まえがき」(pdfファイルへのリンク)〉
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編訳者まえがき
 
 アメリカの哲学者リチャード・ローティは、ギリシャ語はもとより多言語に優れ、多様な文献を渉猟しながらプリンストン、バージニア、スタンフォードの教授を務め、あるときは「プラクシス・インターナショナル」の一員としてドゥブロブニクに、あるときはベルリン高等研究所の研究員としてベルリンに、あるときはオリバー・スミティーズ講義のためオックスフォードに、またあるときは東西哲学者地域会議での講演のためインドのマウント・アブにと、三度の来日を挟んで地球上のさまざまな場所に姿を現しては自らの見解を語り続けました。「一二歳で、人生の目的とは、社会的不正義と戦って暮らすことだと知った」(自伝的エッセイ「トロツキーと野生の蘭」より)と言うローティは、社会民主主義支持の立場を鮮明にしながら、これ以上にないであろう歴史主義という意味での超歴史主義的立ち位置から、その発言と行動を続けてきました。それは、徹底した歴史主義者だからこその、今ここでという絶対主義的振る舞いであり、彼はその意味で、平準化的相対主義の傍観者的姿勢とは無縁な人でした。
 かつてローティが大学を辞めたいというのを止めようとしたことがあります。「私はもっとパープルワーズ(puriple words)を発したい。そのために、もっと時間がほしいのだ。」それが、私の余計なお世話に対する彼の返事でした。
 一九三一年一〇月四日にニューヨークに生まれ、「ニューヨーク知識人」と呼ばれる人々─左翼的立場にいながら一九三〇年代半ばに共産党と決別してそれぞれの道を歩んだ人たち─の間で育ち、「まともな人々はみな、トロツキストでなくても少なくとも社会主義者だ」と少年期に悟り、ジュニアハイスクールの二年次を終えた年にシカゴ大学(ハチンズ・カレッジ)に入学した早熟な若者は、まだまだ言い足りなかった「紫の言葉」をおそらくは山ほど残して、二〇〇七年六月八日に七五歳でこの世を去りました。
 本書は、一七歳で大学を卒業した生意気で心優しいアメリカの青年が、人生の後半に残したとびきりの「紫の言葉」を、聞き分けのないサポーターの一人が集めて日本語にしたものです。
 
 イェール大学で博士号を取得したあと、ウェルズリー・カレッジ(一九五八~一九六一年)を経て二九歳でプリンストン大学に招聘されたローティが、はじめその大学で講じるよう依頼されたのは、古代ギリシャ哲学、特にアリストテレスの哲学でした。依頼したのは二〇世紀を代表する西洋古代哲学史家の一人、グレゴリー・ヴラストス。これだけでも、ローティの古典への造詣の深さを推し量るには十分だと思います。実際、イェール大学に提出した彼の六〇〇ページに及ぶ博士学位論文「可能態の概念」は、アリストテレスの『形而上学』第九巻のデュナミスの説明、アリストテレス的可能態・現実態の区別に対するデカルトの否定的扱い、仮定法的条件法と法則性に関するカルナップとグッドマンの扱いを論じるものでした。
 しかし、ローティは古代哲学史家の道を歩み続けたわけではありません。彼はすでにウェルズリー時代にフッサール、ハイデッガー、サルトルに関する講義を開始していましたが、その一方で、分析哲学のある種の重要性をそれ以前から強く意識していました。彼は学生時代、シカゴ大学では「ウィーン学団」の代表者の一人であったルードルフ・カルナップに、イェール大学では「ベルリン学派」の一員であったカール・グスタフ・ヘンペルに出会っていました。そして、一九六〇年代に、分析哲学に関する重要論文、「プラグマティズム・カテゴリー・言語」(一九六一年)、「主観主義の原理と言語論的転回」(一九六三年)、「心身同一性・私秘性・カテゴリー」(一九六五年)を次々と発表、一九六七年には言語論的哲学の重要文献を集めて長文の「序文」を付した『言語論的転回』を刊行します。
 その『言語論的転回』序文の末尾近くに、次のような言葉があります。

過去三〇年間に哲学に起こった最も重要なことは、言語論的転回そのものではなく、プラトンとアリストテレス以来哲学者を悩ませてきたある認識論的問題の徹底的な考え直しが始まったことである。〔……〕もし伝統的な知識の「観衆」説が覆されるなら、それに取って代わる知識説は、哲学〔……〕の他のあらゆるところで考え方の変更を引き起こすであろう。

デューイの進めた「知識の観衆説」批判を言語論的哲学すなわち分析哲学の現状に重ね、それをハイデッガーやサルトルやガーダマーらのいわゆる「大陸哲学」の論点とつないで「自然の鏡」的人間観を全面的に批判しようとする彼の方向性の一端が、ここに明確に認められます。一二年後、その批判的考察の結果として世に現れたのが、『哲学と自然の鏡』(一九七九年)でした(この本は、英文原典ばかりでなく、ドイツ語やフランス語やイタリア語やポルトガル語やスペイン語や日本語や中国語や韓国語をはじめ、非常に多くの言語で今日読まれています)。
 それ自身で定まっているなにかという「自然」の原義に戻り、人間の意思とは関わりなく定まった真理を鏡のようにあるがままに映すよう努め、それに従って生きること。このような人間の使命の捉え方の、利と害とを勘案し、いまやそうした人間観と決別すべきであるとするローティの主張は、その主張自体の歴史性の自覚とあいまって、全面的な人間観の変更を私たちに促そうとするものでした。当然ながら、『哲学と自然の鏡』は、多くの論議を呼ぶことになりました。
 ローティはもとより哲学者にほかなりません。しかし、『哲学と自然の鏡』の出版から数年を経て、彼は哲学科には所属しなくなります。一九八二年から一九九八年まで、彼はバージニア大学の「人文学大学教授」(University Professor of the Humanities)を務めます。これは哲学科に属するポストではなく、バージニアの英文科主任、E・D・ハーシュ・ジュニアが彼のために特例的に設けた、どこの部局にも属さないポストでした。また、その後の七年間、ローティはスタンフォード大学の比較文学の教授を務めています。
 ローティによれば、「アメリカの一流の研究大学のたいていの哲学科は、「大陸哲学」を「おまけ」と見なし、学部生の低級な趣味に迎合するためにだけ、カリキュラムに組み込んで」いました。これに対して、バージニアとスタンフォードのポストは、ローティが学生とともにニーチェやハイデッガーやデリダを心置きなく読み通すことを可能にしました。この件についてローティは、亡くなる直前に書いた「知的自伝」(本書第7章)の中で、次のように述べています。

バージニアに移ったあと、私は二つの進路で仕事をした。私は相変わらず分析哲学者の間での論争に参加した─それは多くの場合、(デイヴィドソンやデネットのような)私が絶賛する人々を批判者から守るという形をとった。そして、他方で私は、分析哲学以外の著者や話題─例えば、フロイト、デリダ、ナボコフ、ハイデッガー、カストリアディス、道徳教育における小説の役割、社会主義の運命、文化政治と社会経済政治との関係─について、多数の論文を書き始めた。

 本書は、そのバージニア時代とそれ以降にローティが書いた論文の中から、彼の思想の特徴をさまざまな切り口で示すものを六篇選び、それと右の「知的自伝」とを合わせて訳出したものです。
 
 いわゆる「両手利き」、すなわち、「分析哲学」にも「大陸哲学」にも造詣の深いローティが、ハイデッガーを縦横に論じるさまは、それまで彼を分析哲学者の一人としてしか見ていなかった多くの人々(かつての私もその一人でした)にとって、大きな驚きでした。本書の第1章は、ローティのハイデッガー論を知る上での好個の一篇として選択されています。しかし、単にハイデッガーを論じるだけのものではありません。「ヴィトゲンシュタイン・ハイデッガー・言語の物象化」というその表題が示すとおり、その論文は特にハイデッガーとヴィトゲンシュタインを取り上げ、両者がその生涯において真逆の地点から歩み始め、途中ですれ違って反対の方向へ行くさまを描きながら、あるべき哲学の姿を示そうとします。
 このように、本書を構成する第1章から第6章までの六つの論文は、いずれも、ローティならではの広い視圏の中で、それぞれの問題へと焦点が絞られていきます。第2章では合理性と文化的差異が、第3章ではデリダを通してマルクス主義が、第4章では会話哲学が、第5章では宗教が、そして第6章ではロマン主義が、同様の仕方で論じられます。また、本書最終章となるのが、先述の、ローティが亡くなる前に準備した「知的自伝」です。
 いずれの章も、ローティが言いたかったことを、いかにも彼らしい語り口で論じています。その読解の助けとなるよう、各章に道案内として解題を付け、また、訳注をできるだけ付すことにしました(訳注番号は、例えば〔1〕のように、注番号をキッコーで囲む形で挿入しています)。解題は、最初の二章に付されたものが少し長くなっていますが、これによって、ローティの思想の基調となっているものを感じ取っていただければと思います。あとの各章については、おそらくローティの言葉を実際に見ていただくのが最善かと思い、長々と話を続けることはしていません。ということは、順番を変えて読まれることも十分にありうることで、特に興味深く思われるところから始めていただいても大丈夫です。いずれの場合にも、訳注がきっとお役に立つと思います。
 訳注を付するに際しては、多言語が混在する関係から、書肆情報等の表記のスタイルは、アメリカ英語の一般的スタイルにできるだけ統一しました。ドイツ語文献やフランス語文献に馴染んでおられる読者には違和感があると思いますが、ご寛恕いただければ幸いです。
 本文や原注における[……]はローティ自身の挿入箇所を示し、〔……〕は私が挿入した箇所を示します。訳注の引用は、三つの例外を除いて、すべて私が訳出したものです。例外は、辻村公一訳のハイデッガーの『思ひ』からの引用と、田中美知太郎訳のプラトンの『パルメニデス』からの引用と、新共同訳聖書からの引用です。故辻村公一先生、故田中美知太郎先生、および、新共同訳聖書の関係者のみなさまに、心より御礼を申し上げます。
 
 
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