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『科学と社会はどのようにすれ違うのか』

 
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定松 淳 著
『科学と社会はどのようにすれ違うのか 所沢ダイオキシン問題の科学社会学的分析』

「はじめに」「序章」(pdfファイルへのリンク)〉
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はじめに
 
 「科学と社会はどのようにすれ違うのか」.それを「所沢ダイオキシン問題」という事例を通じ,「科学社会学的分析」によって考えていくというのが本書の内容である.
 「ダイオキシン問題」を事例とすると聞いたとき,「科学と社会のすれ違い」として思い浮かぶのは,「社会の側が科学を十分に理解しない」という状況や,逆に「科学の側が社会を十分に理解しない」という事態ではないだろうか.例えば「ダイオキシン類のリスクの大きさを十分理解せずに,社会の側が大騒ぎしている」といった見方であり,あるいは「廃棄物焼却という問題のなかでダイオキシンに焦点を当てているのに,科学の側は『ダイオキシン』のみに注目してしまう」といった見方である.「ダイオキシン問題」はかつてマスメディアでさかんに報道され,また報道に対する批判的な言説も少なからず見られた.そこから来るイメージである.
 これに対し本書では,マスメディア上の言説を再度追うのではなく,できるだけ現場の一次情報に当たり,自分で確認できる情報に基づいて「所沢ダイオキシン問題」を捉えなおそうとした.本書で焦点を当てた「現場」は,①所沢の住民運動,②そこに関与した科学者,③日本政府のなかのダイオキシン規制を担当した省庁,の三者である.このとき「科学と社会のすれ違い」は,科学者と住民運動,また科学者と行政のあいだで分析されることになる.主に第3章では科学者,第4 章では日本政府,第5 章では住民運動を分析しているが,それぞれの章には本書なりの新しい事実発見が含まれている.
 第3章では,ダイオキシン研究者・宮田秀明の行動について分析を行った.宮田は1995 年に所沢で最初にダイオキシン測定を行った研究者である.また90 年代後半,所沢以外の全国各地でもダイオキシン測定を行っていた.このことから宮田は運動と一体化した科学者,運動のために行動する科学者とみられがちであり,そのような見地から批判もされてきた.しかし,本書では彼の行動の文脈を丁寧に辿り,また彼を所沢に招いた初期の住民運動の文脈を丁寧に辿っていった.その結果,「データを示すことが科学者としての責任である」という,専門家としての責任感に従って行動する,むしろオーソドックスな科学者であることが浮かび上がってきた.
 第4 章では,1997年からスタートした日本政府によるダイオキシン規制における数値の設定のされ方を分析した.97年の規制に際しては,厚生省と環境庁(ともに当時)がそれそれ基準となる数値を設定したことが知られている.厚生省は「耐容一日摂取量」を,環境庁は「健康リスク評価指針値」を設定したが,実質的な位置づけは同じものであった.本稿ではそこからさらに,各省庁が設定した下位の数値についても分析を行った.厚生省による廃棄物焼却炉の「排出の目安」80 ng/㎥と,環境庁による「大気環境指針値」0.8pg/㎥である.本書ではこれらの数値の設定のされ方を精査し,数値の意味を明らかにして,実際に環境の状態を変化させうる数値は,「耐容一日摂取量」ではなく「排出の目安」であったことを指摘した.
 第5 章では,所沢の住民運動についての分析を行った.「廃棄物焼却からのダイオキシン排出」というマスメディア報道を受けて拡大した所沢の住民運動に対しては,「ダイオキシンという言葉に踊らされたに過ぎない」といった批判も存在する.しかし本書では,中心的な住民運動が状況の改善をめざして試行錯誤するなかで「ダイオキシン」とは異なる彼ら独自の問題設定を構築していったことなどを明らかにした.その結果、むしろ所沢の中心的住民運動が包摂できなかった論点にフォーカスすることで,テレビ朝日「ニュースステーション」による報道がなされ,いわゆる「所沢ホウレンソウ事件」が引き起こされることになったのである.
 第6 章ではここまでの三者についての分析を総合し,「所沢ホウレンソウ事件」後に成立したダイオキシン特措法と,その後の所沢について分析を行った.ダイオキシン特措法では97年に設定されていた「耐容一日摂取量」がどこまで厳格化されるかに社会的な注目が集まっていた.結果,若干の厳格化が実現したのだが,実はその裏で,環境の状態を実際に変化させうる数値である「廃棄物焼却施設からのダイオキシン排出基準」については97年に設定された数値がそのまま維持されていた.社会的にも科学的にも対策が求められていたにもかかわらず,排出基準の厳格化は見過ごされていたのである.
 これが本書のいうところの「科学と社会のすれ違い」である.このように,本書が描き出す「科学と社会のすれ違い」は,冒頭に例を挙げたように「社会の側が科学を十分理解しない」から生じているのではなく,「科学の側が社会を十分理解しない」から生じているのでもない.当時,世論もダイオキシン対策の促進を求めていた.そして立法・行政も科学的潮流に基づいてダイオキシン対策を促進する法律を制定した.この意味では科学も社会も同じ方向を見ていた.それにもかかわらず科学からも社会からも見落とされる重要な論点が存在した,というのが本稿の分析結果である.なぜそのようなことが起こるのか? それは,科学的な論点と社会的な論点が完全に重なっていない状況があるなかで,科学的に重要な論点に即して対策が行われるために(あるいは関心が集中するために),「社会的に重要な科学的論点」への対策が見過ごされるからだろう(そしてまた,行政がそのような対策を打たなかったのは,対策を嫌がっただけではなく,制度的な制約が存在していたためである可能性があることを,第7 章の考察では指摘している).
 本稿ではこのような指摘を,対象の具体的な分析から論理的に首尾一貫させて取り出すことに意を注いだ.いわば,社会学という立場からの分析に基づいて独自に言えることは何か,それをその場の思いつきではないかたちで示すことを目指した.それが「所沢ダイオキシン問題」から20年近くが経過しようとするなかで本書を出版する意味ではないか,と考えている.その意図がどれくらい実現できているか,本書を通読しての読者のご批判をお待ちしたい.
 
 
序章 問題提起としてのダイオキシン論争
 
 ダイオキシン問題は1990 年代後半,日本国内で最も注目を集めた環境問題であったと言っても過言ではないだろう.産廃業者による産業廃棄物焼却施設,市町村レベルでの一般廃棄物焼却施設,いずれについても排出されるダイオキシンが全国各地で問題視された.当時日本国内にいた人であれば,黒煙を吐き出す廃棄物焼却施設が映像や写真でマスメディア上を騒がせたことを思い出すことができるに違いない.あるいは小学校や中学校の校内にあった焼却炉が,小型焼却炉からダイオキシンが多く発生するということで,使用されなくなったことを思い出す人もいるかもしれない.
 そのように問題化する過程において特に注目を集めたのが,埼玉県所沢市周辺地域での産業廃棄物焼却施設から排出されるダイオキシンの問題である.所沢市は埼玉県西部に位置する東京のベッドタウンであるが,その北方には他の市町にまたがりつつ江戸時代以来の三富(上富・中富・下富)新田が広がっている.三富新田に形成された平地林(通称「くぬぎ山」)を中心に,この地域には当時産業廃棄物焼却炉が無数に集中していた.よく知られているように,摂南大学(当時)のダイオキシン研究者・宮田秀明が1995年に周辺土壌からの高濃度のダイオキシンを検出し,大きく社会問題化した.所沢市内を中心に数多く結成された住民団体は,やがて「公害調停」を申請する運動に集結していった.一方で,この過程で有機農家Oさんが,産業廃棄物ではなく所沢市の清掃工場(一般廃棄物焼却施設)からのダイオキシン排出も問題化しようとして容れられず,独自に農産物のダイオキシン測定に踏み切ったことから,いわゆる「ニュースステーション報道」が起こった(成2002,など).その後,「ニュースステーション報道」の影響もあって「ダイオキシン類対策特別措置法」が成立し,また産廃焼却に対する世間の目も厳しくなり,所沢周辺地域では焼却は激減していった.つまり,ダイオキシン問題は皆無とはいえないが,大変小さくなった.
 ところがその後,「ダイオキシンのリスクは大したものではなく,あそこまで大騒ぎする必要はなかった」と主張する書籍『ダイオキシン神話の終焉』(渡辺・林2003)が出版され,話題を呼んだ.この主張の先駆としては,中西(1997,1998d,1999b),日垣(1998),林(1999)がある(また渡辺・林2003,の出版に前後するものとして,渡辺2003a,2003b.がある).渡辺・林は科学者であるが,ダイオキシンの専門家ではない.また日垣はジャーナリストで科学の専門家ではない.そのような彼らの主張を裏支えしているのは,中西準子の主張である.中西はもともと衛生工学(下水道)の専門家であり,かつて宇井純とともに東京大学工学部で反公害闘争にかかわり助手に据え置かれた人物である.近年では「環境リスク論(学)」(1)を提唱し,その枠組みのなかで実際にダイオキシンのリスクはそれほど大きくなかったという研究を発表している.そのことが,一般的なアンチ環境言説よりも大きな説得力を,「ダイオキシン対策批判」に付与しているのである.
 例えば中西は,「多くの人は必ずマスコミが悪いと言う.しかし,その元のデータを提供しているのは,学者(大学の教官か,国立研究機関の研究員)である.マスコミより,学者の責任の方が大きいというのが私の意見」(中西2003)としている(下線は中西による).この科学者を批判する言葉は結局,科学者に“煽られた”という形でマスメディアや環境運動も批判していることになる.同時に,その影響を受けて成立したかに見える行政の対応も批判していることになる(2).つまり,この種の批判には,社会的なメカニズムとして大雑把に,

①科学者による情報発信→②マスコミの議題設定→③環境運動の高揚→④環境対策の進展

というモデルが前提されており,①〜④のそれぞれに対する批判となっている.つまり単なる科学者集団内の論争に止まる議論ではなく,社会科学的な論点も含みこんだものである.
 これに対して,ダイオキシン研究者や環境運動に近い立場の側からの反批判(川名2004a,2004b,2008,長山2007)や,双方を交えての議論(宮田ほか1999,ダイオキシン関西ネット2004)が行われてもいるが,明快な結論が得られているとは言い難い.例えば,朝日新聞の編集委員の川本裕司は2009 年の時点で,

10年余り前,ごみ焼却炉で出るダイオキシンの発がん性や,環境ホルモンの人体への影響が非常に大きくクローズアップされた.反論が出されるなどして,メディアに取り上げられなくなっている(村山ほか2009 :17).

と述べている.もちろん社会的には「有害物質ダイオキシン」といった認識は依然根強いけれども,他方でかつてダイオキシン問題をさかんに報道した側では以前の報道に対する懐疑が強まっているのである.
 このような状況は,「科学と社会の関係」という観点から見るとき,大変興味深い.科学に端を発してダイオキシン問題が社会問題化し,その後今度はその社会問題化したダイオキシン問題が,科学の名のもとに批判される.このような状況に社会の側が戸惑うのは,「科学が唯一の真理を導いてくれる」というナイーブな想定を持っているからであることは容易に想像がつく.これに対しまずは,科学的知識も一定の不確かさを持ちながら進んでいくこと,そしてその不確かさをめぐって科学者集団内に論争や対立が生じうることを指摘することができる.しかし,そのような科学論争の理解にとどまるのではなく,現実に展開した社会的過程に即して,このダイオキシン問題がどのような問題であったのか,そのなかで科学はどのような役割を果たしたのか,あるいは果たさなかったのか,を明らかにする必要がある.論争が示しているのは,あれだけ報道された問題であるにもかかわらず,(あるいはあれだけ報道された問題であるからこそ,)われわれが「ダイオキシン問題と呼ばれていた問題」について,実はあまりよく認識できていない,という事実だからだ.環境問題に限らず,科学は現代社会を規定する大きな要因のひとつであるから,科学と社会の関係は社会科学的に探究される必要がある.それにもかかわらず,社会科学的な探究はまだまだ十分とは言えない.そしてさらにわれわれにとっては,日本社会という固有の文脈の把握を含みながら探究される必要がある.
 このような状況に対して,本書では日本国内における「所沢ダイオキシン問題」を事例とした詳細なモノグラフ的分析を行う.所沢周辺地域における「ダイオキシン問題」は,どのようにして現れ,どのようにして社会的関心を集めるようになり,そしてどのように対処されていったのか.時系列に沿いながら,各アクターに即してその関与と問題認識を明らかにし,かつそれらがどのように変化していったかを分析してゆこう.住民運動や(地域に限定されない)環境運動,そして科学者や行政はどのように問題に関与したのか.あるいはマスコミ上で展開された「ダイオキシン問題」と,科学者の認識していた「ダイオキシン問題」,住民運動が目の当たりにしていた「ダイオキシン問題」との食い違いはどのようなものであったか.さらにそれらの認識の食い違いが,社会問題総体の中ではどのような意味を持っていたのか.そういった点を明らかにしてゆくのが,本書の分析のねらいとなる.
 この分析においては,一方では科学的論点についての微妙な認識の異同を捉えつつ,他方では社会問題総体としての的確な把握を行って,両者を適切に結びつける必要がある.そこで本書に要請されるのが,科学社会学的な分析視角である.第2 章でくわしく述べるように,本書でいう「科学社会学」とは,対象を科学に限定する社会学という意味ではない.本書で取り上げる事例に対しては,科学的な論点についての分析と,社会的な論点についての分析の両方が必要である.そして,その両者の関係のあり方自体を分析対象とし,両者が複合する様子を明らかにする必要がある.つまり,本書でいう「科学社会学」とは「科学と社会の関係についての学」と捉えられるものである.
 よって,それを全面的に展開しようとする本書の意義のひとつは,環境社会学に対する科学社会学的な視点の導入ということになる.本書で取り上げる事例の「所沢ダイオキシン問題」は環境問題であり,本書の分析は環境社会学の蓄積の延長線上にある.問題の社会的な側面の分析においては,科学者のみならず環境運動や行政の対応についても分析を行う必要があり,これらについてはこれまでの環境社会学の蓄積は小さくない.しかし,科学的論点を中心的に取り込んだ分析は,先駆的な研究は見られるものの,依然全面的に展開されているとは言えない.科学的認識が運動と科学者の間で一致していたのか,食い違いがあったとしたらそれはどのような形だったのか.あるいは運動と行政のあいだでは食い違いはどのようなものであったのか.さらに行政と科学者のあいだではどうだったのか.単なるコミュニケーション上の齟齬としてではなく,環境問題に対する社会的応答として,それらがどのようにくい違い,そのような課題が残されたのか.科学的知識を所与のものとして分析を行うのではなく,その中にある不確かさや曖昧さを分析の俎上に載せ,それらが社会的にどのように処理されているかにこそ注目する必要がある.本書では科学的内容と社会的争点の境界面に踏み込むことによって,一般論ではない形で,論点を特定した分析を試みたい.
 一方でこのことは,出来合いの「科学社会学的視点」を環境社会学に導入すれば,それで一挙に何かが解決されることを意味しているわけではない.つまり,科学的論点と社会的論点を適切に結びつけるという作業は,それ自体が科学社会学的に重要な課題である.確かに欧米では科学社会学の一定の蓄積がなされてきており,それに対して目配りをすることは欠かせない.けれども,欧米の科学社会学はいわば「拡大科学論」(定松2008)として発展してきているがゆえに,問題の社会的側面についての分析は系統的な掘り下げが手薄になるきらいがある.科学的な論点はそれ自体でほとんど無限ともいえる広がりを持っている.けれども,環境問題を総体的に捉えようとするとき,科学的論点はその一部を構成するものに過ぎない.よって我々は微細な科学的論点を明らかにすること自体に満足してはならず,その科学的論点の微細な構造を社会問題の中に適切に位置づけて把握しなければならない.
 このように,事後的な論争の展開を踏まえてダイオキシン問題を振り返るとき,そこには環境社会学的および科学社会学的に小さくない課題が提示されていると考えることができる.そこで,環境問題の分析において,科学を分析の中心に組み込みつつ,かつその科学についての分析を社会問題としての分析のなかに適切に位置づける.それを通じて,「ダイオキシン問題」というかつての日本社会の体験についてより掘り下げた認識を得ること,そして科学と社会の関係についてより深められた認識を得ること.これが本書で試みられる分析である.
 

(1)「環境リスク論」とは,大雑把にいって環境問題についてもコスト(リスク)/ベネフィットを考えて対応すべきだとの立場だと考えられているようだが,実際のところその定義は社会的には曖昧である.松崎早苗は次のように批判している.「『リスク論』という分野は何なのか,それが明確ではない.リスク研究という分野があって,その中にさまざまな『論』を戦わせているというのなら分かるが,日本ではそれほど研究人口が多くない.だから,実際は海外のリスク研究者の特定の論を広めているか,それに若干の独自性を付与しているかのいずれかにすぎない.また,『現代はリスク社会だ.だから政府も国民もリスク管理をするべきだ』という世界的キャンペーンを『リスク論』と言っている場合もある」(松崎2002: 1036).また原子力発電に関わる領域では吉岡斉が次のような批判を行っている.「リスク学は,実際の原子力政策決定過程にはほとんど取り入れられておらず,むしろ広報活動においてのみ精力的に活用されている./したがって予防原則論者としては,原子力政策そのものに影響を及ぼそうとする限りにおいて,リスク論者の相手をするのはほどほどにして,『実験的技術』を細心の注意を払って取り入れるべきだという基本認識を,あらゆる重要な場面で争点としていくことが適切である」(吉岡2003: 53).なお,宇井純は「環境リスク論」について次のように述べている.「中西準子というのは古い友達ですから,彼女のリスク計算はどこまで信用できるんだという議論をよく他の人から聞かれるんですね.俺はちょっとそっちは自分でやったことがないから判断はしかねる.ベースとなってる数字が,PRTRかなんかですと基本は企業からの申告でしょ.企業からの申告となると,『俺はおっかなくて自分の判断には使えないよ』というのが私の返事ですね.でもリスク計算なんかやる人は他にないからそれを使ってでもやらなきゃなんないという議論になるかもしれない.そういうときに,あの分野については俺ちょっと手が付かないよ,というのは正直なところあります.藤原道長(ママ)〔藤原定家の誤り:引用者注〕の『紅旗征戎吾が事にあらず』というか,それ自体は慎重になることもありますね.まあリスクの議論についてはちょっとやりかねる,避けてるのが正直なところです」(高木仁三郎市民科学基金2004).
(2)また前出のダイオキシン研究者・宮田秀明を自身のウェブサイト上で繰り返し批判している(中西1998a,1998c,1999a)など).これらは主に,宮田秀明が行った,茨城県龍ヶ崎市・新利根村(当時)の清掃工場(一般廃棄物焼却施設)周辺でのダイオキシン測定結果について述べたものである.これに対して宮田秀明は,あるインタビューの「先生の測定値は一般に高いのではとの見方もありますが,いかがですか」との質問に対する答えの中で「私の測定値が高いということは何を根拠に言われているか分かりません」と答えている(さうすウェーブ2007).また②について中西は,「農村部の土壌汚染は,作物を通して人間のリスクにつながるから,気をつけなければならない.所沢のような都会での土壌汚染とは本質的に異なる」(中西1998b)と述べている.③については最初の批判である中西(1997)を見てみれば,彼女の批判の実質的な論点は,ダイオキシン対策の名のもとに一般廃棄物焼却施設が,他の公共事業同様肥大化してゆくことへの懸念であることがわかる.(そして少し時間をかければ,小型焼却炉の改善で問題解決が可能であるとの主張もなされていた.)この点については市民運動・住民運動側からも批判は少なく,例えば同一紙上で直後に掲載された反論でも,この点には同意がなされている(山本1997).
 
 
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