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あとがきたちよみ
『アジアはいかに発展したか』

 
あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。
 
 
ピーター・マッコーリー 著
浅沼信爾・小浜裕久 監訳、アジア開発銀行 訳
『アジアはいかに発展したか アジア開発銀行がともに歩んだ50年』

「日本語版への序文」「監訳者まえがき」「序文」「本書の成り立ち」(pdfファイルへのリンク)〉
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日本語版への序文
 
 アジア開発銀行(ADB)は,アジア各国の強い思い,日本のリーダーシップ,米国の支持など,多くの政府,人々の協力があって,1966年にマニラに創設されました.世界の中でも最も貧しい地域であったアジア太平洋諸国の,その後の発展には目覚ましいものがあります.
 ADB は,貸し付けや無償資金,技術協力の提供に加え,各国での業務で獲得した経験やナレッジを共有し,また,適切なマクロ政策や構造改革,地域協力を促進するという役割を通じて,そうしたアジア太平洋地域の発展を助けてきました.
 創設50年の節目に,ADB が果たしてきた役割やその背景になっているアジアの歴史について記録を残したいと考えました.本書のもとになっている英語版は,2017年5 月に横浜で開催された第50回ADB 年次総会において出版されました(英語版の全文はADB のウェブサイトからも閲覧できます).このたび,日本語版を出版する運びとなったことは大きな喜びです.
 著者はオーストラリア出身でADB の理事やADB 研究所(東京)の所長を務めたピーター・マッコーリー氏ですが,2014年に始まったプロジェクトは3年がかりとなり,局長クラスの幹部も含めて各国出身の多くのADB 職員が調査や執筆に協力しました.
 私自身が構想段階からこだわったのは,⑴ ADB の歴史だけではなく,アジアの経済発展の歴史を,各国の状況,世界の動き,開発理論の変遷の中で位置づける,⑵アジアの各国がさまざまな問題をいかに克服して,開放的な貿易投資体制とマクロの安定などの基盤のうえに力強い成長を手に入れるようになったのかを描写する,⑶ ADB の創設の苦労,石油危機,アジア通貨危機,中国の加盟(1986年)などのイベントを客観的にかつ具体的に記録する,という点です.
 日本のアジアの発展への貢献も,バランスよくきちんと記述したいと思いました.明治の近代化や戦後の高度成長による発展モデルの提供,1950年代から始まった東南アジアや南アジアへの技術や資金の援助,1965年の日韓基本条約,1978年の日中平和友好条約の後の両国への支援,アジア諸国にとっての主たる輸出市場としての役割,プラザ合意以降の旺盛な直接投資などは,非常に重要な役割を果たしたと考えています.
 結果的に,前史と創設後の10年ごとに,アジアの経済動向に関する章とADB 自体の役割,業務,組織などに関する章からなる構成となっています.技術的で,専門的な内容を含みますが,興味深いエピソードも入れて,できるだけ読みやすいものとなることを心がけました.図表などの資料の充実を図ったのも本書の特徴です.
 日本語版の出版に当たっては,翻訳を株式会社コングレ・グローバルコミュニケーションズに依頼し,そのうえで,以前からよく途上国の開発問題などを議論してきた浅沼信爾・一橋大学国際・公共政策大学院客員教授,小浜裕久・静岡県立大学名誉教授に監訳をしていただきました.坂井和・ADB 元戦略局長にも最終稿のチェックをお願いしました.勁草書房の宮本詳三氏の粘り強い支援がなければ本書の出版はかないませんでした.お世話になった皆様に心よりお礼を申し上げます.ADB 駐日代表事務所の松尾隆駐日代表,田染潮次長,ADB 広報局(マニラ)の児玉治美主席広報官,ロバート・ヒュー・デービス主席広報官ほかのADB 職員も専門用語のチェックや関係者の調整に尽力しました.
 本書が,日本語版読者の皆さんにとって,ADB の役割やアジアの経済発展への理解を深めるうえで,少しでもお役に立つことを願ってやみません.
 
2018年8月
アジア開発銀行総裁 中尾 武彦
 
 
監訳者まえがき
 
 本書は,Peter McCawley, Banking on the Future of Asia and the Pacific:50 Years of the Asian Development Bank, Second edition, 2017, Manila: Asian Development Bank の全訳である.
 アジア開発銀行(ADB)や世界銀行等の国際開発機関も他の国際機関や政府機関や企業と同様に機関の歴史を作っている.しかし,機関が自己の組織について書いた歴史は,それが組織内部の手によろうとあるいは外部の著作家の手になろうと大抵はその組織の記録としては資料的な価値があっても内容的には退屈なものになる場合が多い.しかし,本書は例外だ.
 本書,アジア開発銀行(ADB)の半世紀の歴史はピーター・マッコーリーの手になるが,ADB のような巨大で複雑な機関の半世紀にもわたる歴史を一人の人間が書くことは難しい.ピーター・マッコーリーは,オーストラリア国立大学のアーント・コーデン経済学部に属するインドネシア・プログラムのエコノミストで,インドネシア経済の研究者として国際的に知られているばかりでなく,オーストラリア政府代表のADB 理事やアジア開発銀行研究所の所長を務めたことのあるADBのインサイダーだ(1).そのインサイダーをもってしてもこのような仕事は一人では無理だ.「本書の成り立ち」に詳しく書かれているように,いく人かのADB 幹部・職員がチームを組んで本書の執筆に貢献した.
 さらに本書を例外にしたのは,ADB の中尾武彦現総裁だ.これもまたピーター・マッコーリーの「本書の成り立ち」に紹介されているように,総裁自身が本書の執筆に大きく関わっている.それだけ彼の本書に懸ける思いが強かったのだろう.執筆チームとの頻繁な会合や原稿へのコメントだけでなく,もともとの本書の性格も彼が形作ったといっても過言ではない.当初からADB の50年史は豊かな情報に満ちた,歴史的な資料として長く有益なだけでなく,ADB の発展と進化の物語(ナラティブ)を分析的に展開するものでなければならないという考えを執筆チームに強く推していた.その結果,2017年5 月に横浜で開催されたADB 第50回年次総会を機に完成・出版された本書にはこのような意見が強く反映されている.それがADB の50年史を例外的に面白くしているのだ.
 ADB は,アジアのほとんどの国の政府と域外の先進国の政府が一緒になって作った協同組合のような国際機関で,そのミッションはアジアの諸国の経済発展を推進することだ.しかし,推進といっても,一つの国際機関がアジアの経済の発展を主導することなど不可能だ.できることは,アジア経済という主演俳優が舞台上で十分に演技力を発揮できるように傍らで彼女を支える助演俳優の役割を果たすことだ.したがって,ADB の発展と進化の原動力はアジア経済の発展と進化で,そのプロセスからADB の役割が生じてくる.また,アジア経済の発展自体が,世界経済の展開に大きく影響される.特に,ADB が発足して間もないころの世界経済に占めるアジア経済の比重は小さく,アジア経済の発展は常に世界経済に起こる変化に大きく左右された.今日ではアジア経済の世界経済に占める比重はGDP(市場レート)で3 分の1 程度,成長への貢献で半分程度にまで上がり,アジア地域発の変化がいわば自律的にアジア経済の変化を促すようになっているが,それでも世界経済全体の影響は無視できない.
 とすると,ADB の発展・進化のダイナミズムはこうなる.まず世界経済の変貌があり,それがアジア経済の変化を促し,それらの変化から国際開発に関する国際的な思潮が生まれたり変貌を遂げたりする.簡略化して言うと,アジア経済の発展と国際的な開発思潮の変化が,ADB の発展と進化を動かす原動力となる.本書で扱われている半世紀の世界経済の変化の最もたるものはグローバリゼーションの展開だ.そのグローバリゼーションも,最初は財から始まって技術を含むサービスに,それから金融分野に進み,今ヒトの局面まで来ている.アジアの経済発展は,まず米国起源の「緑の革命」と称される農業生産性の飛躍的な増大から始まった.そして第二次世界大戦後に米国の主導で構築された開放的な国際経済体制の下で巨大化する米国の消費財市場からの輸入需要を梃に,日本をはじめ,続いて台湾(Taipei,China),韓国,香港(HongKong, China),シンガポールなどのいわゆるNIEs(新興工業経済地域)の工業化に成功した.そしてそれに続いて周辺のタイ,マレーシア,中国,ベトナム等々に産業拠点が創り上げられることによって,東アジアに巨大な生産ネットワークが生まれ,こうして成長のモメンタムはアジアに広がっていった.アジア諸国は,世界経済のグローバリゼーションという風に乗って,「雁行形態」をとって次々とめざましい経済成長を遂げてきた.そして,21世紀の最初の10年が終わるころには,アジアの貧困人口は東アジアと太平洋諸国で5 %以下に,遅れている南アジアでも15%程度にまで低下した.半世紀にわたる経済成長が成し遂げた成果がいかに大きかったか.
 しかし,アジア地域の経済成長は,地域を通じて均一であったわけではなく,また直線的に進んできたわけでもない.高度成長を成し遂げた国々がある一方,他方には政治・経済・社会の停滞に甘んじる国々があった.また,アジアの成長の軌跡はしばしば危機によって大きく揺れざるをえなかった.1970年代には国際通貨制度を揺り動かしたニクソン・ショックやオイル・ショックがあった.1980年代には,アジアへの影響は軽微だったとはいえ,世界中に途上国の対外債務破綻が広がった.1990年代に入ると社会主義圏の崩壊と旧社会主義国の市場経済への移行があった.さらに,アジア通貨危機が起こったのも1990年代だ.新しい世紀になってからのリーマン・ショックに端を発する世界大不況も記憶に新しい.これらの危機はすべて程度の差はあるにしてもアジア経済の成長モメンタムに影響を与えた.
 ADB は,域内の開発途上国が推し進めるインフラ・プロジェクトに低利・長期の資金融資をするプロジェクト・ファイナンスの銀行として発足したが,時代を経るにしたがって,融資制度も多様化し,資金提供をする国際金融機関から知識や技術,そして政策技法の移転をも推進する多面的・多機能的な国際開発機関に発展してきた.その発展・展開・進化はすべてアジア経済の発展と進化そして危機に対する対応のプロセスから生まれた.本書では,ADB の50年を10年単位の5 期に分けて跡付けているが,それぞれにまずアジア経済の変化・変貌・発展を記録・分析し,その後の章でADB の発展と進化を叙述するという構成をとっている.まさに,ADB 変化のダイナミックなプロセスをよく捉えている.また,このような構成のおかげで,本書はまた簡単なアジア経済発展の半世紀の通史としても読めるようになっている.
 世の中にいわゆる国際機関は数多くあるが,その一つ一つはそれぞれ違った「人格」を備えているようだ.そのような人格がどのようにして形成されるかは明らかではないが,その国際機関を創った創始者たちのビジョンやその後の機関の指導者たちの思想や行動様式や経営理念が影響を及ぼしているのは確かだ.ADB の創始者たちは,当初からこの国際機関に「アジア的性格」を付与しようと考えていたようだ.また,その後のADB の発展・進化を見ると,その原動力となったアジア経済の発展や危機に対するADB の対応は,アジア的なものだったと言える.もちろん,それは何がアジア的かという判断次第だが,それについて本書に書かれている引用は示唆的だ.初代渡辺武総裁への送別の会で,当時ベトナム代表のブー・ホアン理事代理は渡辺が(世界銀行が途上国にとって専門医を揃えた総合病院であるとすれば)「ADB は東洋医学のファミリー・ドクターのようでなければならない」と言っていたのに対して,「ADBは“eclectic, non-intellectualized and deeply pragmatic” な銀行だ」と言った(第5 章ボックス5.1, p.72).これはまさに至言だが,これではたぶん日本の読者に充分理解されないだろう.そこで,われわれは監訳者としてのポエティック・ライセンスを行使して(多少解釈を加えて)「主義や学派を超えて広く知識や知見を集め,理論構造や論理体系はひとまず脇に置いておいて,あくまで経験にもとづいて実践的な価値を求める」と訳した.市場主義や開放体制にしろ,あるいはまた政府の役割や構造改革の必要性や人道主義的な政策目標にしろ,政策の原理主義的追求は往々にして弊害を伴う.「大人の」現実主義的政策態度の方が成果を挙げる場合が多い.そのかわり,原理主義的な態度や行動に距離を置く「アジア的な志向」から出てくる態度や行動は,現在に至る歴史と現実のコンテキスト(文脈)に対する深い洞察に裏付けられなければならない.現実への過度の妥協を避けるためだ.その洞察も演繹的というよりは多分に帰納的にならざるをえない.過去半世紀にわたってのADB のアジア経済の展開に対する対応は,まさにそのような性格のものだったというのがわれわれの印象だ.
 アジア経済が発展と進化を続ける限り,ADB もまた発展と進化を辿っていくだろう.21世紀がアジアの世紀になるとしても,アジア諸国の経済発展に問題がなくなったわけではない.南アジアなど成長が強くなりつつもあるが,高度成長の時代が過去のものになりつつある国もあり,成長のパターンも変わらざるをえない.急速な工業化と都市化現象は地球環境その他の問題を生じている.一方で貧困層が全く姿を消したわけではないし,社会の階層格差が新たな問題として現れてきた.このような問題を扱うためには全国民の福祉を考えた新しい国家制度や機構が必要になる場合もある.高度成長時代の制度・政策が硬直化すると,経済自体が「中進国の罠」に嵌ることも考えられる.これまでの半世紀にわたるADB の進化の足跡をたどると,今後もADB は発展・進化を続け,アジア諸国がこうした問題を解決するための支援を提供していくだろう.
 本書に記録されたADB の過去半世紀の記録と物語は,アジア経済の発展と進化とそれを脇で支えるADB の発展と進化の明るい将来を示唆していように思える.ADB の時代に適応して進化する能力はこの半世紀に大きく育まれ,その成長は今後も継続すると期待できるからだ.
 本書の訳出にあたっては,ADB 駐日代表事務所が訳出し,それをベースに浅沼・小浜が監訳作業をした.出版企画から編集そして出版までの全プロセスを,いつものように手際よく仕切ってくれたのは勁草書房の宮本詳三氏である.また宮本氏は,一章,一章の監訳作業に参加してくれて,実質的な監訳チームの一員としての役割を担ってくれた.監訳者としてチームの全員に感謝の意を表したい.
 訳出にあたっては,できる限り国際開発コミュニティや開発経済学で慣用されている訳語を使用するよう努めた.監訳者の判断で,若干情報をアップデイトした(例えば,表A2.6に今年のADB 年次総会を追加).本書には,原著者ピーター・マッコーリーの意図から外れた拡大解釈があるかもしれないが,すべて監訳者の責任である.
 
2018年9 月
(1)オーストラリア国立大学のインドネシア・プロジェクトについては,本書p.xxの訳者注を参照されたい.
 
 
序文
 
 1966年にアジア開発銀行(ADB)が創設された当時,アジア太平洋地域は,貧困が際立つ地域でした. 1 人当たりの年間所得が100ドルほど(ラテンアメリカの4 分の1 以下,サハラ以南のアフリカを下回る水準)の,世界で最も貧しい地域だったのです.この地域における最も重要な課題の一つが,農業の生産性向上によって,膨張を続ける巨大な人口をいかに賄えるかということであり,ADB は設立当初,この課題の解決に取り組みました.
 それから半世紀後,アジアは世界の躍動の中心として台頭することになりました.現在,アジアは世界全体のGDP の3 分の1 を占め,世界の経済成長の半分以上を担っています.過去数十年にわたる驚異的な発展により,生活水準は向上し,1990年以降,10億人を超える人々が極度の貧困状態から脱することができました.
 アジアのこうした変革に,ADB は重要な役割を果たしてきました.50年前,アジア地域内外の国々の願いと協力を結集して,ADB は創設されました.50年にわたるADB の歴史を記した本書を通じて,私たちは,ADB がアジア太平洋地域全体の人々の心からの願いによって生まれたこと,そしてADB の創設が地域協力の精神の象徴であることを知ることができます.
 ここで,ピーター・マッコーリー(Peter McCawley)氏の執筆による本書に取り上げられている,ADB 草創期の興味深いエピソードをいくつかご紹介したいと思います.
 1963年3 月から,バンコク,マニラ,ウェリントンなどアジアの各都市で,ADB 創設に向けた準備会合が数多く開かれ,多くの人々が,ADB の創設に多大な貢献を果たしました.初期の協議を主導したのは,ミャンマー出身でECAFE(国際連合アジア極東経済委員会,国際連合アジア太平洋経済社会委員会,ESCAP の前身)事務局長のウ・ニュン(U Nyun)氏でした.ADB の設立協定の起草には,フィリピン出身の弁護士フロレンティーノ・P・フェリシアーノ(Florentino P. Feliciano)氏が貢献しました.同氏は各国の多様な意見を取り入れるとともに,他の国際開発金融機関の事例を参考にして,設立協定の条文案の推敲を重ねました.元世界銀行総裁で投資銀行家であったユージン・ブラック(Eugene Black)氏は,資本市場からの資金調達をADB に勧めました.このような協力者の中には,日本の若き官僚であり,後にそれぞれADB の第4代と第7 代総裁を務めることになる藤岡眞佐夫,千野忠男両氏の姿もありました.
 そして,日本の大蔵省の元財務官であり,豊富な国際経験を持つ渡辺武氏は,ADB 創設準備に中心的な役割を果たし,その後初代ADB 総裁に就任しました.同氏を側近として支えたのが,後にそれぞれ初代副総裁と官房長を務めたインド出身のC・S・クリシュナ・ムルティ(C. S. Krishna Moorthi)氏とセイロン出身のダグラス・グネセカラ(Douglas Gunesekera)氏でした.ADB はアジア諸国の「ファミリー・ドクター」であり,「教える前にまず学ぶ」組織であれ,という渡辺総裁のモットーは,ADB の伝統の根幹として現在まで受け継がれています.
 ADB 本部の誘致にあたっては,マニラ,テヘラン,東京をはじめとするいくつかの都市が競争を繰り広げました.そして本部を置く都市を決定するため,1965年末にマニラで開かれた会合で,アジアの加盟予定国18カ国による投票が行われました.第1 回目の投票では,東京が8 票,テヘランが4 票,マニラが3 票をそれぞれ獲得しましたが,第3 回目の決戦投票では,マニラが9 票を獲得し, 8 票の東京をわずかに上回りました(棄権1 ).テヘランが候補地として名乗りを上げたにもかかわらず,後にイランはADB に加盟申請をしませんでした.マニラに本部を置いたことは結果的に賢明な選択で,ADB が開発途上加盟国(*)にとってより身近な存在となっただけでなく,ADB はフィリピンの人々の温かい歓迎を受け,英語に堪能な人材にも恵まれました.
 1966年12月19日に,マニラで開業式が行われ,ADB は小さな規模でスタートしました.現在は67の国・地域(域内48,域外19)を数えるADB 加盟国ですが,創設当初の加盟国は31カ国(域内19,域外12)でした.また,当時の理事会のメンバーは20名(理事10名,理事代理10名)でしたが,職員はわずか40名でした.マニラ首都圏に属するマカティ市内のいくつかのビルに散らばった小さな事務所から始まったADB ですが,今ではマニラを含め,31の国に事務所を構えています.
 本書では,ADB 独自の地域的な視座から,過去50年間にわたって,アジアが抱える課題に対し,どのように取り組んできたか振り返っており,アジアの経済的発展,国際開発アジェンダの進展,そしてADB の沿革という3 つの歴史的観点から構成されています.加盟国,業務,知的貢献活動,資金調達,組織,職員,戦略,そして歴代のリーダーに関して,ADB がどのような変遷を経てきたのかを知ることはきわめて有益です.同時に,本書のユニークな点は,ADB と各国との間の豊富な交流の経験に基づいて,アジアの経済史を開発という観点から,公平かつバランスのとれた形で振り返っているところです.
 最近,私は英『エコノミスト』誌の取材で,ADB がこの50年間で成し遂げた功績は何かと聞かれました.ADB の功績は概ね3 つの機能に集約されると思います.まず,ADB の有する資金と専門的知識を組み合わせて,インフラ・社会両セクターにおけるソブリン(政府向け政府保証付き貸付)およびノンソブリン(民間向け貸付)・プロジェクトを通じ,開発途上加盟国を支援すること.次に,ハイレベルでの対話,技術協力,能力構築,そして政策支援融資(各種改革のための財政支援)を通じた,良い政策の促進です.加盟国が危機に見舞われた際には緊急の財政支援も提供してきました.そして3 番目が,地域レベルでの協力と友好関係を築く触媒の役割を果たしてきたことです.
 ADB は,中央アジア,南アジア,東南アジア,太平洋,メコン河流域圏におけるこうした取り組みを支援しています.
 現在,アジアの膨大な開発ニーズに資金を供給するため,民間資金の活用が広く議論されています.ここで注目すべきなのは,ADB は,加盟国政府から出資された公的資金にレバレッジをかけて(出資された資金より大きな金額の)債券を発行し,世界の資本市場から民間資金を集める金融仲介機関として創設されたという点です.ADB は,開発機関であると同時に銀行でもあるのです.
 ADB 創設当時,アジアでは資本が極端に不足していました.日本は1964年にOECD(経済協力開発機構)に加盟しますが,1960年代半ばまでは依然として経常収支の赤字が続いていました.債券発行体としてのADB の信用度を高めるためには,域外の先進国がADB に加盟することが不可欠でした.渡辺総裁は健全な銀行運営という業務方針を徹底して貫き,最初の融資の承認までに1 年以上を費やしました.ADB の設立協定においては,「経済的考慮(economic considerations)」の重要性が明記されており,個々のプロジェクトの経済的価値の分析は,設立当初からADB の業務の不可欠な要素の一つでした.
 ADB はその財務的健全性によって,1969年にドイツにおいて,1970年にはオーストリアと日本において,そして米国では1971年に(AAA の格付けで),債券を発行することができました.
 ADB は,1986年に創立20周年を迎えた際に,その沿革をまとめたA Bank for Half the World(『世界の半分のための銀行』)と題する社史を編纂しましたが(1987年発刊),私は,創立50周年を記念して新たな書籍を刊行すべきだと考えました.1986年以来,アジアは大きな変貌を遂げてきました.ADB もまた然りです.この地域は,より市場志向を強めたアプローチ,開放的な貿易・投資体制,インフラと人的資本への投資,そしてとりわけ1997-1998年のアジア通貨危機後にとられた,より堅実なマクロ経済政策によって,成長の勢いを増し,貧困をさらに削減することに成功しました.また,過去には域内の多くの場所で紛争が起きましたが,全体としてアジアはより安定してきたといえます.
 しかし,私たちはこれで満足することはできません.アジアには今なお多くの課題が残り,また新たな課題も生まれています.未だに3 億3,000万もの人々が, 1 日1.90ドル未満という絶対的貧困状態の中で暮らしています.貧しい国のインフラ不足が,経済発展と人々の福祉の改善を阻んでいます.2015年9 月に世界各国のリーダーが国連で採択した「持続可能な開発目標(SDGs)」,そしてパリの同年11月COP 21で合意された気候変動行動計画の実施は,アジア諸国全体にとって優先的な課題です.民間セクターの活動をさらに促進し,ジェンダーの平等もさらに推し進めなければなりません.アジアはまた,都市化,高齢化,格差の拡大といった課題にも直面しています.
 これらの課題に対処するうえで,ADB は引き続き重要な役割を果たしていく必要があります.ADB は,こうした取り組みにおいて,ADB 加盟国,二国間および国際開発援助機関,市民社会組織,民間セクター,ならびに学術関係者との間で過去50年にわたり培ってきた域内外のパートナーシップを活用していきます.
 私たちが本書の執筆を依頼したピーター・マッコーリー氏は,キャンベラにあるオーストラリア国立大学に所属する研究者であり,元ADB 理事,そしてアジア開発銀行研究所の元所長としてADB を内側からもよくご存じです.同氏の揺るぎない熱意がなければ,本書の発刊は実現しなかったでしょう.本書の執筆にあたっては,ADB 内の各部署から集められた事務局職員が同氏を支援しました.さらに本書には,ADB の元職員をはじめ,多くの方々から提供されたコメントや情報が反映されています.ピーター・マッコーリー氏,事務局,そして協力してくださったすべての方々に感謝申し上げます.
 私は,あらゆる機関,特に公的機関にとって,自らの歴史について,良質で,客観的かつ包括的な記録を,望むらくは読みやすい書物として残していくことが,義務であると強く信じています.本書がそうした目的にかない,ADB の重要な特質と文化についての理解を促すとともに,ADB が今後地域に貢献する最良の方法を考えるうえでの洞察をもたらしてくれることを願っています.
 
アジア開発銀行総裁・理事会議長
中尾武彦
(*)開発途上国に分類される域内加盟国.2018年8 月現在45か国・地域が該当する.
 
 
本書の成り立ち
 
 本書は,アジア開発銀行(ADB)創立50周年を記念して刊行された.ADBの創立総会は1966年11月24日に東京で開催されたため,2016年11月24日をもって創立50周年の記念日を迎えたことになる.そして,第50回目の年次総会が2017年5 月に横浜市で開催された.創立から20年間の歩みは,以前に刊行された書籍A Bank for Half the World(『世界の半分のための銀行』)にまとめられている(Wilson 1987).ADB が創立50周年を迎えるにあたり,これまでの軌跡をたどり,ADB がどのような変遷を遂げたのか,そして過去50年間におけるアジアのめざましい変化にどのように関わってきたのかを振り返る時が訪れた.
 ADB のような国際機関の歴史を記述するには,さまざまな方法が考えられる.そして,選択された方法によって,記述が変わってくる.例えば機関そのものに関する論述は最低限にとどめ,主としてADB の業績に焦点を当てるという方法,特に功績を残した個人の話を基に,ADB 職員の活動に焦点を当てるという方法もある.本書作成にあたっては,これらの方法をはじめ複数の可能性を注意深く検討した.中尾武彦ADB 総裁は,豊かな情報を含んでいること,物語性を持たすこと,後々のための記録を残すことを目標として挙げた.
 それらの目標をすべて満たすことは簡単ではなかった.本書ではまず,ADB が時代とともにどのような変遷をたどってきたのかに焦点を当てつつ,機関そのものの歴史を記述することにした.ADB は,新設されたばかりの金融機関から成熟した国際開発金融機関へと大きく成長した.本書は,アジアの国際機関の変容と進化の物語である.また,同地域における経済外交の物語でもある.というのもADB の加盟国はすべて,この組織の業務に関心を寄せていたからである.しかし本書の作成が進むにつれ,ADB の成長を左右した主な要因が銀行におけるリーダーシップであることがわかった.
 ADB の歴史を辿ることは, 9 人の総裁が果たした役割を論ずることでもある.また並行して,域内の経済的・社会的変化,開発に対する考え方の国際的な動向も述べることにした.その狙いは,ADB の成長と変遷が,組織内的,アジア地域的,そして国際的な出来事など多くの要因の影響を受けてきたことを示すことである.
 本書における物語の展開と話の方向性を定めるうえで柱となるのが,ADBの国際開発金融機関としての性質,すなわち金融,開発活動,そして地域主義の支援の3 つである.ADB はその名のとおり「銀行」であるため,融資が機関の業務の中心にある.しかし,借り入れ国に対して知識と情報を提供することに重きを置きながら,開発活動の幅を着々と広げてきたため,単なる一般的な銀行ではない.さらに,ADB は地域主義を提唱し,国際機関としての強みを生かしてアジア太平洋における地域協力を促進してきた.
 中尾武彦総裁は,ADB の歴史に強い関心があり,ADB の活動が歴史の教訓を活かすことを重視している.2014年から17年にかけて,本書の制作チームは総裁と数多くの打ち合わせを行い,多岐にわたり詳細に協議を行った.中尾総裁からは,過去50年間にわたるADB ならびにアジアの発展の歴史について,価値ある意見をいただいた.また,週末を利用して草稿全体に細かく目を通し,具体的なコメントをたくさん寄せてもらった.総裁の意向は,本書を単にADB の歴史の本にするのではなく,アジア諸国がさまざまな困難に直面しつつも,いかにして成長と発展を遂げてきたのか,そして国際情勢がアジアにどのような影響を与えてきたのかについても記された書籍とすることであった.
 本書の制作には少数だが熱心なスタッフのチームがあたった.戦略政策局(SPD)の計画・政策専門官であるイディーナ・パイク(Edeena Pike)は,2014年に初めてチームに参加し,本書に関する最初の調査を行った.彼女は,草稿の作成,レビューや編集の全工程を通し,制作にかかる調整と,多数の原稿の査読(ピア・レビュー)において重要な役割を果たした.ジェイド・トレンチーノ(Jade Tolentino)は,きわめて有能で常に陽気なリサーチャーで,すばらしい調査研究ペーパーを執筆し,本書の各所にある表やグラフ,参考資料を作成した.さらに,第2 章から4 章までの修正にも貢献した.太平洋局の主席エコノミストであるアナニヤ・バス(Ananya Basu)は,草稿の作成が大詰めとなった頃にチームに加わった.彼女は有能な熟練スタッフであり,第11章から14章に必要となる資料の作成にあたった.そして4 人目のメンバーSPD戦略・政策・事業プロセス課長のヴァレリー・ヒル(Valerie Hill)は,このプロジェクト着手の年に欠かせない存在であった.彼女は,本書制作の初期段階において事務局を主導するとともに,注釈付き概要の作成と初期の草稿の見直しにおいて多大な貢献をした.
 これら同僚たちを団結させているのは,アジアとADB の歴史への思いと強い関心である.本書制作のための資料の準備や調査の過程において,制作チームは,本書と並行する形で,ADB の50年の歴史を5 巻の編年史にまとめた.
 この編年史には,組織的変化,業務,財務に関する詳細な情報が収められており,ADB through the Decades として刊行された(ADB 2016b).また,財務局主導で行われた組織内での財務管理についての包括的調査の内容は,A History of Financial Management at the Asian Development Bank として入手可能である(Erquiaga 2016).これらの刊行物はいずれもADB の豊かな歴史を伝えるもので,本書にとっても価値のある資料となっている.
 今回の作業の指揮は太平洋局のシャンビン・ヤオ(Xianbin Yao)局長がとった.2014年以降,彼は週末を含む膨大な時間を費やし,各章の草稿に目を通した.国際開発全般に関する文献と,アジアにおけるADB の業務に関する彼の知識は特筆に値する.本書には,50年間にわたるアジアの発展に関する彼の深い知識が色濃く反映されている.
 本書の制作に直接携わった中核となるチームの他にも,ADB の現在およびかつての職員,経営陣,理事会メンバーの多くから受けた惜しみない支えなしには,本書を完成せることはできなかったであろう.非常に多くの方から力添えをいただいたため,全員の名前を挙げることはできないが,特に力を注いでくれた人々を紹介したい.
 坂井和は2015年にSPD 局長を退任するまで,本書の制作に大変力を尽くしてくれた.彼は思慮深い多くのコメントをくれ,草稿の最終とりまとめの段階で,制作チームと数回にわたって協議してくれた.
 東京とマニラに加え, 2 度のADB 総会(2015年のバクーと2016年のフランクフルト)の開催期間中,合計で50回近くのも聞き取りが行われ,藤岡眞佐夫(第4 代総裁,1981 〜1989年)元総裁や黒田東彦(第8 代総裁,2005 〜2013年)元総裁にもご協力いただいた.さらに,ADB の歴代総裁の全員が,自身のADB でのさまざまな職務について記録を残しており,本書の制作にあたってはそれらを参考にした.渡辺武初代総裁は,自身の回顧録としてTowards aNew Asia を出版している(Watanabe 1977).他の総裁も数多くのスピーチを残しており,それらは日々のさまざまな出来事に対する当時の彼らの見方を示す記録となっている.藤岡眞佐夫第4 代総裁は『アジア開銀総裁日記─マニラへの里帰り』を残しており,この著書から1980年代のアジア太平洋地域におけるADB の役割をうかがい知ることができる(藤岡1986).
 正式な聞き取りの他にも,ADB の現職員,退職した職員が,意見を寄せてくれ,時には貴重な記録を提供してくれた.ラジャット・M・ナグ(Rajat M.Nag)元事務総長は制作チームと会って,初期段階の草稿について彼の見解を共有してくれた.元インフラ・エネルギー・金融セクター局長であるポール・ディッキー(Paul Dickie),元東南アジア局顧問(金融・ガバナンス)であるロバート・ボーンフリー(Robert Boumphrey),そして元東南アジア局長のカジャ・モイヌディン(Khaja Moinuddin)には,第10章に対する細かい意見を寄せてもらい,たいへん助かった.SPD 元副局長クリストファー・マコーマック(Christophpher MacCourmac)には,初期草稿を読んでもらい,元東アジア局長であるロバート・ウィートル(Robert Wihtol)とともに,アジアにおけるADB の役割についての多くの議論に参加してもらった.
 広報局サティンダー・ビンドラ(Satinder Bindra)主任ディレクター,戦略政策局のインドゥ・ブシャン(Indu Bhushan)局長,官房長のウーチョン・ウム(Woochong Um),副チーフエコノミスト兼経済調査・地域協力局副局長のズジョン・チュアン(Juzhong Zhuang)ら上級職員からなる作業グループは数度の草稿レビューを行った.さらに,いくたびにもわたって部門間でレビューを行った際には,ADB のさまざまな部局,セクター別,テーマ別グループからもコメントをもらった.さらに,草稿作成過程において,総裁室のレイ・レイ・ソン(Lei Lei Song)からは多大な協力を受けた.本書内のデータの確認にあたり,SPD,財務局,会計局,予算・人事・経営システム局,経済調査・地域協力局,協調融資業務部のスタッフから詳細な情報が提供された.歴史的文書の入手に関しては,記録・資料部,図書館サービス,官房の各部局のスタッフたちがいつも迅速に対応してくれた.
 また,ロウィーナ・アグリパ(Rowena Agripa)とロレーナ・カタップ(Lorena Catap)からは多大な事務的な協力を得た.ピーター・ストーカー(Peter Stalker)は2 度にわたって編集を手伝ってくれ,体裁を整え,内容をより簡潔なものにしてくれた.広報局は,中でもロバート・デイビス(RobertDavis),エイプリル・ギャレガ(April Gallega),ロメル・マリラ(Rommel Marilla)の協力により,本書の制作全般を統括した.
 本書のような記述を行う際には,厳密な正確性か読みやすさか,どちらかを選択しなければならない時がある.大半の読者は,「アジア太平洋」という言葉を繰り返し目にすることを好まないだろう.より読みやすい文章にするために,主に「アジア」という言葉を使ったが,それがアジア太平洋地域全体のことを指しているとわかってもらえると願っている.同様に,ADB の通常資本財源(OCR),アジア開発基金(ADF),プログラム貸付,債務保証の取り決めといったさまざまな業務上の専門用語については,表現を簡素化するよう努めた.必要と思われる場合は,文章内に簡潔な説明を加えるよう心がけたが,詳細な情報が必要な場合には,ADB のウェブサイト(www.adb.org)にある非常に充実した資料を参照していただきたい.
 本書に書かれた見解は著者自身のものであり,ADB の公的見解ではないことを最後に明記しておきたい.本書の制作チームは,献身的に作業にあたってくれたし,他のADB 職員も,いろいろな形で制作を助けてくれた.しかし,もし記述や見解に誤りがあるとすれば,その責任は著者にある.
 
ピーター・マッコーリー
 
 
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