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工藤庸子 著
『政治に口出しする女はお嫌いですか? スタール夫人の言論vs.ナポレオンの独裁』[けいそうブックス]
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はじめに─政治と女性とヨーロッパをめぐるいくつかの問題提起
ヨーロッパは「民主主義」のモデルだろうか?
女性の社会進出と政治参加をともなわぬ民主主義はありえないという大前提に立つことにしよう。国家元首の選出、国政選挙、国会での討論、社会・経済的格差を是正する努力、公共放送の報道の質……。日々、海外のニュースを見ながら考える。やはりヨーロッパ・モデルにはそれなりの説得力がある。とりわけ女性たちの活動のめざましさはどうだろう。この文章を書き始めた二〇一七年夏の時点で見るなら、メイ首相とメルケル首相の英独はもとよりとして、IMF専務理事ラガルド、EUの外務安全保障政策上級代表モッゲリーニ、ドイツ国防相フォン・デア・ライエン、スペイン副首相サエンス・デ・サンタマリア、スコットランド自治政府首相ニコラ・スタージョンなどが圧倒的な存在感を示している。メディアの露出度は少ないけれどノルウェーの首相もリトアニアの大統領も女性だし、フランスのマクロン新政権は内閣の女性比率がちょうど半数で、いわゆる「男女同数(パリテ)」が達成されている。
かりに世界各国の国会における女性議員比率を「解放」の目安とするなら、トップはアフリカ内陸ルワンダの五七・五〇パーセントで、五位までは昔風にいえば「第三世界」の諸国、六位以下にスウェーデンなど北欧の国々が四〇パーセント台で並ぶ(日本は一一・六パーセント)。十九世紀から二十世紀にかけて、ヨーロッパが植民地化した地球上の広大な地域の人びとが、第二次世界大戦後に独立を求め、国民国家としての基盤が整わぬまま、熾烈な民族紛争に突入した。ルワンダでは男たちが殺しあいで死んでしまったから、遺された女たちが政治も経済も担うようになったというだけのこと。女性の潜在的能力が証明されたのは結構だとしても、数字だけを根拠に民主的モデルにふさわしいケースと称えるわけにはゆくまい。アフリカ大陸を帝国主義の支配下においたヨーロッパの歴史的な役割は、ひと言でいえばきわめて不名誉なものであり、隣接する地中海やイスラーム圏についても、遠く離れたカリブ海やアジア太平洋地域についても、同じことがいえる。ほかならぬわが国が、そのアジア太平洋地域においてヨーロッパの植民地主義を臆面もなく模倣したことも、ここで想起しておかねばならない。
おびただしい数の難民が死の危険を冒して地中海をわたる劇的な現象ひとつとっても、ヨーロッパはヨーロッパの外部に対し長く蓄積した負い目があることを思わずにはいられない。一方で、かりに世界史における近代の起点のひとつがフランス革命にあるとして、その後二世紀を越える時の流れが民主主義を確立するための模範的な道程を示しているのかと問えば、そうとも断定できないという事情がある。国民が主権者である国民国家の建設をめざしたヨーロッパの国々が、それぞれの国民的アイデンティティに包摂されぬ永遠の他者として少数民族を排除してしまったこと、ついには生存権さえ保障されぬ集団を強制収容所に隔離して、着々と大量に抹殺してしまったことは、ハンナ・アレントが力強く描きだしている。じつのところ「反ユダヤ主義」も「帝国主義」も、そして「全体主義」も、ヨーロッパの国民国家の内部において、必然的な諸要素の遭遇によって懐胎され成長した不可分の原理なのだという主張に、わたしは説得されている(『全体主義の起源』一九五一年)。当然のことながら、わたしのヨーロッパへの共感は、曖昧な陰影をはらんだものであるとお断りしておこう。
スタール夫人とアレント
スタール夫人のことを語るといいながらアレントを召喚するとは、浅学ゆえの暴挙ではないかといわれるかもしれないが、二十世紀が産んだ偉大な政治理論を手掛かりにスタール夫人の体験を読み説くことに、わたしは確かな手応えを感じているのである。ギリシャ・ローマの古典の素養を身につけたうえで、同時代のヨーロッパとアメリカを視野に入れ、至近距離から堂々と政治や革命や戦争を論じた女性は、ハンナ・アレント以前には人類の歴史に一人としていない─そう考えておられる方は多いのではないか。この書物は、そうした歴史的展望へのささやかな反証となることもめざしている。
アンシャン・レジーム、革命、ナポレオン帝政、そして王政復古までを生きぬいたスタール夫人は一七六六年の生まれ。フランスが代議制による統治を模索した時期の第一世代に当たる。対する一九〇六年生まれのアレントは、代議制民主主義の模範とみなされたヴァイマル共和国でナチズムが誕生するのを目の当たりにした世代。第二次世界大戦のさなか、一九四一年にアメリカに亡命し、英語を習得して『全体主義の起源』を書いた。スタール夫人が国民国家の生成に立ち会ったとすれば、アレントは国民国家の破綻に遭遇したといえる。
スタール夫人は父ネッケルに対し恋人のような愛情をいだいていたといわれるが、イギリスの立憲王制を理想としたその父は、細やかな配慮によって幼い娘の知性を育んだ。ルイ十六世の大臣としての経験とその後の思索のすべてが父から娘に相続された。ネッケル夫妻の名高いサロンで長じた娘は、フランス革命が勃発する前後には、アメリカ独立革命に二十歳の若さで参戦した経験をもつラ・ファイエットなど自由主義的な青年貴族たちと政治の昂揚を分かちあい、国民公会の恐怖政治が終結したときに、バンジャマン・コンスタンという知的パートナーを得てパリに帰還した。ハンナ・アレントは学生時代に師でもあり恋人でもあったハイデガーに才能を見込まれて、ヤスパースと篤い信頼関係をきずき、夫ブリュッヒャーとは日々の対話を欠かさなかった。「共に考える伴侶」thinking partner との口語的なやりとりのなかで育まれた普遍的な視野と柔軟な知性という特質は二人に共通するものであり、奇蹟的な例外として無縁なままに放置するのはいかにも惜しい。
二〇一七年はスタール夫人の歿後二〇〇年。文学の殿堂と称される革表紙のプレイアード叢書に文学史的な意味での代表作がおさめられ、初めての学問的な校訂版全集では、政治論の既刊二冊とならぶ歴史の巻『フランス革命の主要な出来事についての考察』(以下『フランス革命についての考察』と表記)が上梓され、一九五〇年代から編纂が始まった書簡集が半世紀以上の紆余曲折を経て一応の完結を見た。つまり、初めてその人の全貌を目にすることができるようになったのである。
一九八〇年代から隆盛を見たフランス自由主義研究のなかで、ネッケルやコンスタンの政治思想が注目を浴びるようになり、これに付随して、古色蒼然たる恋愛小説の作家というスタール夫人の相貌も一変した。アカデミックな成果にひと言ふれるなら、政治学の領域ではマルセル・ゴーシェ、ピエール・ロザンヴァロン、リュシアン・ジョーム、歴史学ではジャック・ゴデショ、ブロニスラフ・バチコ、わが国では社会思想史の安藤隆穂氏などが、ネッケル、スタール夫人、コンスタンの存在感を同等とみなし、自由主義的潮流の淵源という特権的な場に位置づけている。
「民主主義」という語彙
スタール夫人は女だてらに天下国家を論じ、ナポレオンを脅かしたほどの人物なのである。一筆書きのようにわかりやすい肖像を描けるはずもないのだが、それにしても一般読者向きの叢書なのだから一工夫ほしい。ということで、今回は回想録としても読める『フランス革命についての考察』を基本文献として、サロンとは何か、そこでの男女の交流はいかなるものであったのかを素描することにした。その構想について述べる前にひと言─文学研究の道をあゆんできた者として、語彙の問題はおろそかにできない。スタール夫人が今日的な意味で「女性解放のロール・モデル」であることに疑問の余地はないのだが、「民主主義」という語彙については、歴史の文脈を考慮に入れる必要がある。国民公会の時代に「民主主義」を旗印にした陣営が所有権を否定して、もたざる者の権利こそが神聖なのだという原理を掲げ、恐怖政治を行ったことがあり、その後「デモクラシー」というフランス語には長きにわたり負のイメージがつきまとうことになる。当時パリを脱出してロンドンに滞在していたスタール夫人は、保守的な社交界で平然と一七八九年の革命を賛美して「この上なく過激で隠謀好きの民主主義者でテームズ河に火をつけかねない女」という評判をとったといわれるが、ここでも「民主主義者」という語彙からはきな臭い匂いが漂ってくる。
そうした同時代的な用法にスタール夫人が囚われていたといいたいわけではないし、同じ語彙の肯定的な用例がないわけではない。スタール夫人は哲学者というよりは思想家であり、それ以上に政治家の娘だった。古代ギリシャの直接民主政をモデルに今日の大国が民主的な統治の制度を構築できるのか、コンスタンと共に真剣に考え抜いた。その一方で、政治思想としての首尾一貫性よりは、今生きる世界で相対的な自由と平和を実現するための具体的な方策を提案することにこだわった。スタール夫人とコンスタンはそれぞれに思想的な変節を問われることが少なくないのだが、わたしはむしろ、状況の劇的な変化に応えようとする柔軟な知性の誠実さをそこに認めたい。書斎の静寂につつまれて思索と瞑想に一生を捧げる者たちとは異なって、彼らは怒涛のような革命と独裁に翻弄されながら共に考えたのである。
スタール夫人の遺著となった『フランス革命についての考察』は、四半世紀にわたり国の内外で敵対してきた諸勢力の宥和を図り、かろうじて成立したブルボン家の復古王政をイギリス型の立憲君主制によって安定させることこそが、喫緊の課題だという確信にみちている。著者の主張するところによれば、統治の制度のなかに政治権力としての「君主政」と「貴族政」と「民主政」は共存しうる。それというのも「執行権」を担うのが君主であるとすれば、貴族は実現された価値を「保守」する者であり、民主勢力は「革新」をもたらすからである。ただし、第四の勢力として宗教が制度に導入されることは避けなければならない。さもないと、理性が公共の利益のみを配慮すべき場に、神秘的な権威が介入することになるであろうから(CR 154)。貴族院と庶民院からなる英国議会の二院制を念頭に置き、政教分離を主張する晩年のスタール夫人の見解が、凝縮された断章といえるだろう。ダイナミックな展望と語彙の繊細な運用という意味でも範としたい。
ともあれ「民主主義」は、当面どこか胡乱な言葉だった。そこで関連する用語をさがすなら、ネッケルとスタール夫人が共有したキーワードは「公開性」publicité と「世論」opinion publique─前者は「公共性」とも訳せるが、後者は形容詞抜きの「オピニオン」でも同じ含意でつかわれる。さらにスタール夫人とコンスタンが共有したキーワードは「自由」と「個人」。一対の語彙はそれぞれに不可分の政治的理念を構成し、いまだそうとは名指されぬ「民主主義」の要諦をなす─本書では論じきれぬ課題ではあるけれど、とりあえず、そう要約しておこう。
サロンは「公共圏」か?
さて「目次」にも示唆されているように、描きだすべきは「サロンの会話」である。十八世紀の「サロンやカフェ」は創造されつつある「公共圏」の典型であり、参集した人びとが自由に政治を語り「世論=公論」が形成されることにより、アンシャン・レジームの崩壊が準備された、と説明されることは少なくない。しばしば典拠とされるハーバーマスの議論は、さほど単純なものではなさそうだけれど、それは脇へ措くとして、自分でもしばしば依拠する概念でありながら、「公共圏」と「親密圏」という二項対立的な概念操作に微妙な齟齬の感覚を覚えることは少なくない。「公」と「私」の分割自体が問題なのではない。そうではなく「公共圏=政治=男性」vs.「親密圏=家庭=女性」という隠然たる分類が透けて見え、その論理構造に取りこまれてしまうことが危惧されるからである。
サロンを主宰する女性を職業人とみなして「サロニエール」と呼ぶようになったのは、ごく最近のことだが、そのサロニエールになったつもりで、日々の生活を想像してみよう。場所は私邸の豪華な客間。家具の配置や接待のマナーはもとより、お茶にするかディナーにするか、招待する客の人数や、常連以外の客を含むその日の顔ぶれも、わたしが決める。ときおり思いがけぬ大物の作家や政治家を招いて話題をつくることも大切であり、とりわけ全員が快く会話に参加するよう、それとなく気配りすることは、洗練されたサロンの条件のひとつ─なのに、わたしのサロンが、開かれて中立的な「公共空間」なのですか? パレ・ロワイヤルの中庭に面したカフェのテラスが、不特定多数の男性の交流の場であって、革命的世論の温床となったという話はわかる。でも、あの怪しげな界隈で気儘にぶらぶらしているのは、シロウトの女性ではありませんよ。外出するときには男性同伴か馬車というのが、革命後も第二帝政末期までは、まっとうな未婚・既婚の女性に課された社会の掟だった。これが「親密圏=家庭=女性」という標語の意味するところです─と思わず切口上になってしまったが、要するに「サロンとカフェ」を無造作に括り「公共圏」の範疇に入れるという雑駁な発想は、男性の体験、男性の世界観にもとづいている。この批判的な違和感を大切にしたいとわたしは考えている。
「サロン」salon という言葉は、もともと広壮な邸宅の応接用の一角を指す日常的な語彙であり、人間的な交流という意味で、つまり十八世紀の新しい「ソシアビリテ」sociabilité の様式を暗示する語彙としてつかわれたのは、世紀末の一七九四年が初出であるという。それゆえ「啓蒙のサロン」という表現は誤解を招くと杓子定規に批判することもできるけれど、現象が先立ち、事後的に語彙が定着するのは、じつはよくある話ともいえる。場所なのか、それとも人間関係なのか。肝心なところで混乱が起きるのは、誰でもタイトルだけは知っているハーバーマス『公共圏』の仏訳espace public が、広場や公会堂のような人待ち顔の公共空間を想起させるからかもしれない。付言するならハンナ・アレント『人間の条件』(一八五八年)における「公的領域」public realm と「私的領域」private realm という対立も、特定の空間が備える本質を定義するための概念ではないと思われる。
「ソシエテ」とは何か?
人間的な交流という意味での「サロン」の用法が徐々に定着してゆくにあたっては、スタール夫人の貢献が大きかったといわれるが、それ以前、そもそも「サロン」と呼ばれなかった時代の用語は何であったのか? スタール夫人が好んでつかうのは「ソシエテ」société という言葉。意味がやせ細るのを承知で訳すなら「社会」である。ここでアレント『人間の条件』を参照することになるのだが、当面は考察の道具立てを借りようというだけのことだから、なるべく簡潔に。よく知られているように、アレントは人間の「活動的生活」vita activa を三つの基本的な枠組みに分類する(一九~二〇、7-8)。すなわち「労働」labor と「仕事」work と「活動」action というわけだが、まず「労働」は人間の生命を維持するために不可欠な事柄を指し、対する「仕事」は人為的に世界に付加されるものを指す。志水速雄訳・ちくま学芸文庫の「訳者解説」にも紹介されているエピソードだからご存じの方も多いだろうが、インタビューで訳者に二つの概念を分かつ根拠は? と問われたアレントは「労働」は台所でオムレツをつくること、「仕事」はタイプライター、と答えたという。なんて洒落たメタファーだろう! と感心するのは一瞬にとどめ、三つの枠組みのなかで、とりわけ積極的な意味を与えられているらしい「活動」とは何かを考えよう。それは事物とかかわることなく直接に人と人のあいだで実践されるものであり、「言論(スピーチ)」なき「活動」はありえない。人間は複数で生きる社会的な存在であり、「活動」によって初めて自分が唯一無二の存在であると示すことができる。そのような「活動」は「自分自身を人間世界の中に挿入する」ことにほかならず、「第二の誕生」に似ているという(二八七~二八八、176)。
お察しのように、わたしはパリの「ソシエテ」の全盛期を生きぬいたスタール夫人の体験を「言論(スピーチ)」と「活動(アクシヨン)」という側面から捉えてみたいと思っているのである。アレントの用語によるなら、スタール夫人は肉体的な「労働」からは解放されており、原稿を書いて作品(物としての work)を産むことは「仕事」の範疇とみなされる(二六五~二六六)。一方で、個人的な執着、投入したエネルギー、体験の豊かさという意味で、おそらく「活動」こそが、スタール夫人の人生における特権的な枠組みであり、その事実が膨大な量の「仕事」を活気づけてもいたのだろうと思われる。ナポレオンによってパリから追放されたとき、スタール夫人はこれを「ソシエテ」に参入する基本的な権利の剥奪と捉え、よくある叙情的な郷愁とは異質な実存的不安、本人にいわせれば死に匹敵する苦痛を覚えていた。アレントの「第二の誕生」という表現に呼応する、とてつもなく重い何かがここにある。
「精神」としてのヨーロッパ
ジェルメーヌ・ネッケルはパリで生まれ育ったが、両親はスイス人。代々プロテスタントの家系だったから、信仰が同じという条件が決め手となってスウェーデンの外交官スタール男爵と結婚した。レマン湖の畔にある名高いコペの城館は、ネッケルが家族の保養のために購入したものであり、先祖ゆかりの地ではない。父の死後、スタール夫人がここで亡命生活を送り、やがて反ナポレオンと自由主義の思想的拠点とみなされるようになる。じじつ英仏の協調を基盤とするネッケルとスタール夫人の宥和的ヨーロッパ構想は、ナポレオンの覇権的ヨーロッパ構想と正面から対立した。これが本書の考察すべき主題のひとつだが、ヨーロッパ的な価値とは何か、いかなる政治的・文化的紐帯が国家と地域の安寧と繁栄ともたらすかという議論は、EUの危機がささやかれる今日、たとえばリュシアン・ジョームなどが歴史的な考察をとおして提起するアクチュアルな問題ともなっている。
言い換えれば「ヨーロッパ」は地理的な対象というより、むしろ「ヨーロッパの精神」のようなものとして想定されている。ここでいう「精神」とは、これもスタール夫人的なキーワード「エスプリ」esprit であって、シャトーブリアンやポール・ヴァレリーの用語である「ジェニー」génieとは一線を画す。「精髄」あるいは「天才」と訳されることもある「ジェニー」が、カトリックやヨーロッパ諸国が特段にすぐれた本質をもつことを前提としているかのようであるのに対し、スタール夫人の称える「エスプリ」は、たとえばサロンの会話など、実践的な活動のなかにふと顕現する精神のありようのようなものではないか。これも本書で追い追い考えることにしたい。
女性の姓と名
前置きが長くなったが、さらにもう一点。「スタール夫人」と「ハンナ・アレント」という呼び名の並列に違和感を覚える繊細な読者が、現代の日本にどれくらいいるだろう。これはわたしが執拗に蒸し返す問題なのだけれど、既婚婦人の呼び方は、親密圏ではファースト・ネーム、公共圏では○○夫人という方式がごく最近まで鉄則だった(未婚の女性の場合、父の姓とファースト・ネームとのあいだに葛藤はない。またハンナ・アレントのように結婚しても公共の場では旧姓で通すという選択は、欧米では自然なものとなっている)。要するに本書の主役である女性は、実生活において、ジェルメーヌ・ド・スタールと名指されることはなかったはずであり、手紙や著作にも洗礼名と夫の姓を直接につなげたフルネームの署名は存在しない。さらに、今日「アレント」がハンナ本人を同定するような具合に「スタール」がジェルメーヌを指すことは、絶対にあり得なかった。奇妙に思われるだろうか?
その背景には、既婚女性は公共圏において夫に従う妻(=○○夫人)として認知されるだけであり、そもそも女性と子供は法的にも独立した人格とはみなされなかったという歴史の事実がある。今日もつづく女性の姓名をめぐる法制度や慣習の不均衡には、こうした性差別の力学がからんでいる。そのことへの反省から、昨今は政治学の論文などでは、「コンスタンとスタール」という具合に性差のマークを消して表記することが多い。著作権者の記号としては、混同さえなければ「スタール」で充分だろうとわたしも思う。しかし性差のマークを消せば、歴史的な差別の構造が解消されるというほど画期的な決断ではないことも明らかだろう。姓と名をめぐる性差の歪みは、男性の体験、男性の世界観が見落としてきた重大な問題のひとつなのである。
わたしとしては本人の体験した呼称を尊重し、これまで同様「スタール夫人」と呼ぶことにしたい。本書のアプローチは大枠として文化史的なものではあるけれど、当事者がいかなる言語的環境に生きたかという問題は、ほかならぬ文学の考察すべき事柄なのである。わたしは文学的な想像力によって、スタール夫人の人生に寄り添ってみたいと考える。女性の体験、女性の世界観にもとづいて、存分に政治を語った例外的な女性が二世紀前のフランスにいた─その事実だけでも感動的ではないか。