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『男たち/女たちの恋愛』

 
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田中亜以子 著
『男たち/女たちの恋愛 近代日本の「自己」とジェンダー』

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はしがき
 
 「恋愛」という言葉は、英語のlove の翻訳語として、明治期につくられた造語である(柳父 一九八二)。「恋愛」という新たな言葉とともに、それまでにない新しい人間関係のあり方が模索され、社会の中に位置づけられていったのである。では、恋愛という新たな観念の登場は、異なる歴史的・社会的文脈のもとにおかれていた男たち/女たちに、何をもたらしていったのだろうか。
 本書は、恋愛をめぐる社会的な共通認識がつくられていったプロセスを、ジェンダーの視点からたどりなおすことを通して、恋愛という観念の形成とともに、男女の間に新たな境界線が引かれていったこと、そしてそれゆえ、恋愛をめぐる男女の歴史的経験は、大きく異なっていたことを浮かび上がらせるものである。
 恋愛という言葉が定着する以前の時代において、男女の好意的な感情は、色や恋といった言葉で表現されていた。新しい言葉がつくられたからといって、その言葉によって指示される感情自体も新しいものであるといえるのか。その点については議論もあろう。言葉は変わろうとも、私たちが恋愛感情とよぶもの自体は、案外普遍的なものなのではないか、と思われる読者もいるかもしれない。
 しかし、少なくとも、誰かを思慕する感情をどのようなものとして理解し、どのような行動で表現し、あるいは、社会的にどのように位置づけるのかといったことは、恋愛という観念の形成とともに確実に変化していったことを、近年の恋愛史研究は示してきた(柳父 一九八二、二〇〇一、井上 一九九八、佐伯 一九九八、二〇〇八、菅野 二〇〇一、加藤 二〇〇四、ノッター 二〇〇七、山根 二〇〇八など)。
 論者によって幅はあるものの、おおよそ次のような特徴が、恋愛という観念特有の価値観やルールとして指摘されている。すなわち、結婚をゴールとすること、すべての人が情熱的な恋愛感情をもつものであると想定すること、多角的関係ではなく一対一の排他的関係をよしとすること、あるいは、肉体的な関係以前に精神的な関係を重視することなどである。
 逆にいうと、恋愛という価値観が支配的になる以前の明治初期には、たまたま色や恋が結婚につながることはあっても、必ずしもそれが理想とされていたわけではなかったし、誰もが恋をするのが「ふつう」だともされていなかった。物語において、色や恋の舞台が遊廓に設定されることも多く、そこでは多角的関係が否定されることもなく、むろん肉体と精神を二分し、後者に価値をおく思考も存在しなかった。
 このように、私たちが自明のものとする恋愛観念は、決して普遍的なものではないのである。そして、そのことを私たちに自覚させてくれたことが、これまでの恋愛史研究の最大の功績であった。
 ただ、私はこれまでの恋愛史研究には、圧倒的に不足している視点があると考えている。それが、ジェンダーの視点である。従来の恋愛史研究は、恋愛という窓を通して、近代と前近代の間に引かれた境界線を浮かび上がらせ、近代社会の特質を明らかにすることに貢献してきた。その反面、近代社会に成立した恋愛観念が、男女の間にいかなる境界線を引いていったのかということについては、小谷野(一九九七)などごく一部の研究を除いては、十分に検証されてこなかったのである。
 しかし、恋愛とジェンダーは、きわめて興味深い関係にある。
 明治から現在に至るまで、恋愛をめぐるファンタジーやハウツー言説は、愛されるために、あるいは、愛を表現するために、男はこうすべきで、女はああすべきである、というジェンダー化された恋愛モデルを大量に産出し続けてきた。その結果、多くの人々は互いに「男らしさ」「女らしさ」を演じあうことで、恋愛イメージを追体験することを望むようになるのだろう。山田昌弘の調査によれば、現代社会において、男性は恋愛対象として「女らしい女」を、女性は「男らしい男」を理想とする傾向がみられるという(山田 二〇一六、一〇一頁)。私たちの社会において、恋愛は「男らしさ」「女らしさ」を再生産し、男女の境界線を強化する、強力なイデオロギー装置としての顔をもっているのである。
 しかし、他方で、いくら恋愛が「男らしさ」「女らしさ」と密接に結びつけられている側面があろうとも、恋愛によって生み出されるのが、「男らしさ」「女らしさ」に合致したカップルだけではないことも、私たちは知っている。たとえ一般的な「男」「女」からはみ出していようとも、他の誰でもない「たったひとりのあなた」が好きなのだという気持ちを肯定してくれるのもまた、恋愛という観念である。恋愛は、個人の個別性と自己決定をこそ重視するものであるという意味で、既存のジェンダー秩序に加担するだけの観念であるともいえないのである。
 すなわち、恋愛観念は、明らかに「男らしさ」「女らしさ」といったジェンダー規範や男/女という性別枠組の再生産と密接に結びつくものでありながら、他方で既存のジェンダー秩序を強化するだけのものである、と簡単に言い切ってしまえない側面をも併せもっているのである。恋愛とジェンダーの関係には、曖昧で、もやもやとした部分が含まれている。であればこそ、歴史に分け入り、両者が取り結んでいった関係を正確に見極め、男女双方に何がもたらされていったのかを検証する必要がある。
 明治期に恋愛という観念が登場した当初、恋愛を論じていたのは、ほぼ男性であった。彼らは、男性としてのさまざまな葛藤を抱えるなか、むしろ従来の男性規範に反発する形で、恋愛という新しい理想を形づくっていったのである。しかし、その理想は、明治から大正、昭和にかけて変形され、恋愛はある種の「男らしさ」の肯定と密接に結びつけられていくことになった。一方、女性たちも沈黙していたわけではない。女性たちは男性たちのつくった恋愛観念に向き合い、男性以上に、恋愛の中にある男/女という性別枠組と格闘していったのである。
 これから記述される男たち/女たちの恋愛の歴史は、私の想像をはるかにこえて紆余曲折に富んだものであった。本書を手にした読者にとっても、その歴史が意外な発見に満ちたものとなれば幸いである。
 
*本書の刊行にあたっては、「平成三〇年度京都大学総長裁量経費人文・社会系若手研究者出版助成」を受けた。
 
 
あとがき
 
 私は長らく恋愛に憧れていた、その時々に恋愛対象だった相手に憧れているように錯覚しながら、その実、はるかに強く、恋愛そのものへの憧れを抱きつづけた。ではその憧れはどこからきたのか考えてみると、まず思いあたるのが、月刊少女漫画雑誌『りぼん』の存在である。
 私は小学校四年生から六年生くらいまで、毎月発売日での購入を欠かさない熱心さで、『りぼん』を愛読していた。大人になってからぱらぱらと『りぼん』をめくって見て、そこに描かれていたラブストーリーのありきたりな展開に驚愕したことがある。というのも、当時の私にとって『りぼん』は予想外の展開の連続だったからである。主人公たちのすれちがいにはらはらし、ライバルの登場にやきもきし、最後に二人が結ばれたときの幸福感といったらなかった。
 このようにして私が味わっていたのは、物語だけが生み出すことのできる種類の高揚感であり、もし『りぼん』に掲載されていたのがラブストーリーではなく、冒険ものばかりだったら、私は冒険家になることを決意していたにちがいない。そのような単純さで私は恋愛に憧れ、物語のような恋愛が自分に訪れる日がくることを固く信じていたのである。
 私にとって、恋愛は、どんなに平凡な人にも訪れるはずのものであった。というのも、物語の中の主人公たちは、みな容姿もふつうで、とりえといったら明るいことくらいというのが、お決まりの設定だったからである。とびぬけた才能もない。むしろ主人公の恋を邪魔するライバルの方が、美人であるという設定の方が多かった気がする。それでも、最後は主人公の女の子こそが選ばれる。なぜなら運命の恋愛とは、そういうものだからである。そして、「ふつう」の女の子は、愛する男の子に愛されることで、唯一無二の「特別」な女の子になるのである。
 このような恋愛を通した自己承認の物語が女の子に与えられ続けることは、問題だらけである。しかし、唯一無二の「私」として愛されるという物語は、私が知っていた他の物語と比べ、大分「まし」なものであった。私たちは本当に幼いころから、「女」とは「男」の性的対象であるということを、浴びるようにして学ぶ。そして、男性から性的対象とされることは、しばしば「単なる性的対象」として貶められることだった。私は私を「単なる性的対象」とする物語に抗するためにも、自分が読んできた恋愛物語に固執したのである。
 しかし、そのうち恋愛に自己承認を求めることに孕まれる根本的な問題に突き当たるようになった。恋愛とは男女のものであると刷り込まれていたため、自分が男性から「女」として評価されないことには、恋愛ははじまらない。「女」として最高に魅力的でなくても、少なくとも「ふつう」に「女」として評価されなければいけない。
 学校では男女分け隔てなく成績で評価され、女の子も男の子と同じように 「大きくなったら何になりたいの?」と夢を聞かれ、目標に向かってがんばることがよしとされた。反面、控えめで優しくて、男の子と競争しないような女の子の方が「女」としては優れているというメッセージも、私は誰からともなく受け取っていた。
 恋愛をしたいのであれば、愛される「女の子」でなければならない。しかし、愛される「女の子」を演じれば、それは「本当の私」であるとは思えない。「本当の私」が愛されなければ、それは「本当の恋愛」ではない。自分の思う「本当の私」と「女」であることが衝突することに気がついたときから、私にとって恋愛は「女」としての「自分」と「女」とは無関係の「自分」の両方を両立させようとし、うまくいかずに失敗するという主要な葛藤の場と化した。そして、ついに大学生も終わりに近づいたとき、いい加減、冷徹な目で自分のおかれた状況を分析しはじめた。それとともに浮かんできたのが、恋愛をめぐる数々の疑問である。
 なぜ「本当の私」が認められるはずの恋愛は、その実、ジェンダー規範にまみれているのか。逆になぜジェンダー規範にまみれた恋愛という関係において、「本当の私」が認められねばならないのか。なぜまるごとの「私」を実現する関係は、恋愛でなければならず、なぜ相手は異性でなければならないのか。そもそも「女」と「人間」の間で葛藤を抱え込まされている女性と、そうした葛藤と無縁(であるように見える)男性との間に、互いをまるごと理解しあう恋愛など可能なのか。
 こうした疑問を肌感覚としてもっていた私が、そもそも恋愛という観念がつくられていった過程をたどりなおしたのが、本書である。
 調査は、発見の連続であった。そこには想像した以上のドラマと歴史的紆余曲折が存在していた。自らの固定観念から、当初、男女間の恋愛にのみ焦点を絞ってはじめた調査は、男同士、女同士の親密な関係にまで広がっていった。そうして、輪郭をとりはじめた恋愛の形成史には、近代的な「自己」の確立と近代的性別役割分業の形成という近代社会の基礎をなすプロジェクトの間で生じた葛藤が刻み込まれていた。そこに面白さを感じていただければ、望外の喜びである。文学者や哲学者によるテクストから雑誌の投稿記事まで、硬軟織り交ぜ、領域横断的に史料を分析する本書の手法については、批判もあるだろう。しかし、広い範囲の言説に目を配ることで、はじめて見えてきた大きな枠組みもあると自負している。
 
 
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