「名もなき家事」の、その先へ――“気づき・思案し・調整する”労働のジェンダー不均衡 連載・読み物

「名もなき家事」の、その先へ――“気づき・思案し・調整する”労働のジェンダー不均衡
vol.8 Sentient activityは(どのように)分けられるのか――構造、自己、信頼の3題噺/平山亮

 
「名前のない家事」をめぐって始まった平山亮さんと山根純佳さんの往復書簡連載。前回からSAを社会的に分有する可能性をめぐり、議論が展開しています。今回は平山さんから山根さんへの応答です。[編集部]
 
 
山根純佳さま
 
 新年度が始まりお忙しくされているなか、お手紙をありがとうございます。山根さんとの対話をわたしが中断させてしまったことをお詫び申し上げるとともに、こうして再開のきっかけをつくってくださったことに心から感謝します。
 
 山根さんのお手紙を拝読しながら、わたしたちがsentient activity (SA) という概念になぜ心惹かれたのか、そして、ケア責任のジェンダー不均衡を「見える化」するためにこれをどのように再定式化してきたのかを振り返るとともに、その不均衡がなぜ生じている(と、わたしたちは考えている)のかについて、山根さんとわたしの合意点と相違点を改めて確認しました。また、山根さんはインフォーマルなケアの担い手(ケアラー)と、専門職としてケアを担うケアワーカーとのSAの分担に向け、議論を一歩先に進めてくださいましたが、今回はわたし自身のリハビリも兼ね、少し根本に立ち戻ったお話を交えてお返事をお送りしようと思っています。
 
 それは第一に、なぜわたしが山根さんとSAの責任分配についてお話ししたかったかということ、第二に、SAを複数の人で担うことを考えるのはなぜこんなに厄介なのかということ、そして第三に(これは第二点目とつながっているのですが)そもそもケアの社会化とは、わたしたちが何をどうすることなのかということです。
 
『介護する息子たち』でわたしが言いたかったこと
 
 前便で山根さんがご紹介してくださったように、わたしの『介護する息子たち――男性性の死角とケアのジェンダー分析』(勁草書房、2017年)は、「主たる介護者=息子」の増加の陰で残されるケア責任のジェンダー不均衡を指摘したものです。「介護」として名付けられた、いわば「名前のあるケア」が、高齢者の生活を支えるものとして機能するためには、種々の段取りが必要です。ケアとして機能するための段取りないし下支えの部分を「見える化」する上で、SAの概念は実に有用でした。男性が「名前のあるケア」を担っているときでも、下支えとしてのSAは、妻をはじめとする女性親族が一手に引き受けていることは少なくない。だとすればこの段取りは、男性が「名前のあるケア」を担えるようにするための段取りでもあり、こうした女性のお膳立ての上に成り立つのが「家庭における男性のケア参加」と呼ばれるものである、と言えます。 
 
 他方、SAはこれまで十分に言語化されておらず、ケアの負担といえば「名前のあるケア」についてだけ語られてきたために、男性のケア参加の陰で維持される(もしくは、増えている)女性の負担は、「ケアの負担」としてすら認識されていないことが多いこと。それが、わたしの一連の息子介護研究からの発見でした。つまり、「家庭における男性のケア参加」という、表面的にはケア責任のジェンダー不均衡の是正に“見える”現象は、女性による下支えに男性がフリーライドしつつ、下支えに係る負担を「なかったこと」にしてしまうという、女性の労働に対する二重の搾取によって進んでいるのではないか、というのがこの本の分析の一つでした。
 
『なぜ女性はケア労働をするのか』にSAの居場所はありますか?
 
 わたしが山根さんにお声がけした理由は、この分析をさらに進めるためでした。SAの負担がいつの間にか女性に「任されて」いることが多いとすれば、このようなジェンダー不均衡はどのような構造的条件によって成り立っているのか? それを考えたい、と思ったのがお声がけの理由です。というのもこの問いは、山根さんのご著書『なぜ女性はケア労働をするのか――性別分業の再生産を超えて』(勁草書房、2010年)と、わたしの『介護する息子たち』がちょうど交差する地点に置かれた問いだからです。
 
 山根さんはケア責任が女性に偏ってしまうメカニズムを、「資源配分構造と言説構造に条件づけられながら、人びとが行う能動的実践」に見出されました。例えば、職務・賃金に厳然たる格差が存在し、また「安心して子どもや高齢者を預けられる先」といったケア資源も不足しており(資源配分構造)、そのうえ女性への評価がまず何よりもケア能力の有無で決まってしまうような状況(言説構造)では、女性がケア責任を担うことが「合理的」な解として選ばれてしまう。それを理論的・実証的に示されたのが山根さんのご著書です。
 
 わたしが山根さんとともに考えたいと思ったのは、では『介護する息子たち』から発見されたようなケア責任の「わかりにくい」ジェンダー不均衡は、山根さんの枠組みではどのように説明できるのか(あるいはできないのか)ということでした。
 
 例えば、統計的な事実として、日本では「主たる介護者=息子」は確実に増加しています。「主たる介護者=娘」よりは少ないものの両者の差は既に僅差ですし、何より、かつては主たる介護者のなかで最多の続柄だった息子の妻は、今では息子よりも少ないのが実情です[1]。このような統計上の変化を見れば、親の介護の負担が息子の妻に丸投げされることは以前よりも減っており、少なくとも高齢者介護に関しては、性別分業的なケア責任の分配に変化が生じている、と言えるように思います。
 
 山根さんはご著書のなかで、こうした社会の変化は人びとの「変動実践」、つまり「家族の世話は女性がするもの」という「常識」を相対化するような実践の積み重ねによって生じる、と説明されていました。性別分業を揺るがす可能性のある「変動実践」は、構造的条件が変わることによって、あちこちで行われやすくなります。実際、息子の妻による介護が激減し、息子と娘の差が縮まった2000年以降は、資源配分構造にも言説構造にも変化が見られました。例えば資源配分については、就労する女性が増え、家計に占める女性の収入のインパクトが相対的に強まった(つまり、その稼ぎがなくなると困る家が増えた)ことももちろんありますが、介護を取り巻く状況に起きた最大の変化は、介護保険制度ができたことでしょう。山根さんは性別分業を変える条件の一つとして、ケアサービスの現物給付を挙げられていますが、介護保険制度のもとでさまざまな介護サービスを利用しやすくなったことは、まさにこの現物給付に当たります。
 
 他方、言説については、「自分の親は自分で看る」という考え方が、人口学的な変化によって正当化されやすくなりました。少子化・高齢化の進行で、高齢者が頼りにできる子どもの数は減っています。「結婚したら娘は夫の親の世話に専念せよ」というかつての慣行は、どの子どもにもきょうだいがある程度いたからこそ成り立っていたわけですが[2]、今やきょうだいがいても一人くらい、きょうだい無しの人も少なくはありません。そのうえ要介護の高齢者が増え、しかもその介護も長期化しやすい現在、姑舅という「他人の親」のことまで看る余裕はとてもない……というのが子ども世代のリアルでしょう。「自分の親は自分で看る」という言説が「ごもっとも」になったのは、こうした人口学的な変化のゆえです。
 
 いずれにしても、親の介護をめぐる家庭内の責任分配については、山根さんが理論化した通りに変化しているように見えます。つまり、統計上あらわれている「主たる介護者=息子」の増加は、人びとの実践を条件づける構造が変わってきたことに由来しているように思えます。
 
 問題はここからです。資源配分構造や言説構造はたしかに変化し、介護という「名前のあるケア」の責任は男性によっても一定程度は担われるようになった。にもかかわらず、介護の下支えとなるSAのような「名もなきケア責任」は、いまだに揺るぎなく女性に残されているのはなぜなのでしょう。
 
 可能性があるのは、「名前のあるケア」と「名もなきケア」の責任分配のされ方は、同じようには説明できないのでは、ということです。もっと挑戦的な言い方をすれば、資源配分や言説といった構造に着目した説明は、「名前のあるケア」の責任分配には当てはまっても、SAのような「名もなきケア」にはそれほど上手く当てはまらない、とも言えるのかもしれません。資源配分や言説が、主たる介護者の続柄割合の変化とあれほどきれいに連動していたのに比べ、SAの責任分配における変化は明らかに遅れています(というより、変化していないのかもしれません)。つまり、親の主たる介護者が男性(息子)になっても、SAは女性(の親族)に「任され」続けていることを指摘した『介護する息子たち』は、『なぜ女性はケア労働をするのか』では説明しえない(ように見える)ケア責任の分配の例を示しているように思うのですが、山根さんはこれをどうご覧になったのか。それを話し合ってみたいと思ったのが、わたしの当初のお声がけ理由でした。
 
インフォーマルとフォーマルの協働問題だけだと困る理由
 
 もちろん、わたしが山根さんの理論を的確に理解できていない可能性も十分あります。ただいずれにせよ、SA責任のジェンダー不均衡は、どのような構造的条件のもとで成り立っているのか、という問いへの明確な答えは、わたしにはまだ見つかっていない、というのが正直なところです。ケアの責任にSAの責任を含めて考えたとしても、そのジェンダー・バランスは「資源配分構造・言説構造に条件づけられた人びとの能動的実践」で説明できるのか。それともSAを視野に入れた場合、この説明には何らかの修正を加える必要があるのか。これらの問いを、山根さんとともに考えてみたい、と思ったのです。
 
 ちなみにこれらの問いは、山根さんがお手紙で新たに展開してくださった論点、すなわち、家族などのインフォーマルなケア提供者(ケアラー)と、専門職としてケアを担う人びと(ケアワーカー)の協働問題にも関わるものです。山根さんが、ケアラーとケアワーカーのより良い協働を模索されているのは、それによって家族の担うSAの負担を少しでも減らしたいからでしょう。しかしながら、家庭においてSAが女性にばかり、いつの間にか「任せられて」しまうのであれば、ケアワーカーとの協働は女性だけが考えなければいけない問題になるでしょう。女性がいることで、自動的にSAを「請け負って」もらえる男性にとって、ケアワーカーとの協働でSAの負担を軽くすることは、文字通りの他人事、「女たちで好きにやっといて」になるからです。ケアワーカーとの関係構築や維持は、山根さんが整理してくださったように、SAに含まれる「調整」の一つです。その「調整」を上手くこなすための方法や条件がいくら詳しくわかったところで、その「調整」自体は「女性のしごと」として固定化されたままなのであれば、「ケア=女性の責任」という性別分業は一向に揺らいでいないと言えるでしょう。
 
 したがって、SAの負担が女性にほぼ丸投げされてしまう構造的条件の探索と、ケアワーカーとのより良い協働のあり方の探索は、ケア責任のジェンダー不均衡を是正しつつSAを社会化するための道筋を考える上で、どちらも必要な作業です。前者の探索抜きに後者の探索だけを進めれば、男性を最初から免責したままSAの責任分配を考えるという意味で、男性のアドバンテージを保障したケアの社会化を進めることになるかもしれません。このことは、ケアの社会化は必ずしもジェンダー不平等を解消しない可能性を示唆しているともいえますが、いずれにせよ「構造に条件づけられた人びとの能動的実践」という枠組みでSA責任のジェンダー不平等を(どこまで)説明できるのか、という問いは、性別分業の再生産を超える――これはまさに山根さんのご著書のサブタイトルですが――ために必要な問いでありながら、いまだにきちんと取り組まれてはいないように思うのです。そして、その問いに取り組むために、その当の枠組みを提示した『なぜ女性はケア労働をするのか』の著者(=山根さん)と、SA責任の見えにくいジェンダー不均衡の「見える化」を試みた『介護する息子たち』の著者(=わたし)の協働以上にベストなコラボはないようにも思うのですが、いかがでしょうか。
 
厄介なSAを、みんなですることの厄介さ
 
 前述の通り、山根さんのお手紙は今回、ケアラーとケアワーカーによるSAの分担について多くを割かれていました。それまでのわたしたちの対話はケアラーどうし(例えば、妻と夫)の関係が主な話題でしたから、一見するとこれまでの内容はいったん完結して「新章突入」のようにも思えますが、複数のケア提供者が同一相手のSAにいかに関わるかという点では一貫していると理解しています。
 
 ところで、わたしはいただいたお手紙から、山根さんが「SAの負担、みんなでやれば軽くなる」という前提を置いているように思えたのですが、それは間違いないでしょうか。例えば山根さんは、家族がSAを行う上で、専門職のもつ知識がいかに有用かを説かれていました。専門職は、多くの利用者に当てはまる一般化された知識をもっている。それが適切に提供されれば、ケアの受け手のニーズやその応じ方について、家族が頭を悩ますことは減る(山根さんの言葉を使えば「不確実性が低減する」)のだ、と。
 
 もちろん、ここでのポイントは知識の適切な提供であって、場合によっては家族が余計頭を悩ます可能性があることも、山根さんは指摘されています。しかし、いずれにせよ、複数のケア提供者がSAにコミットし、それぞれによる知識や理解を然るべき方法で持ち寄れば、受け手のニーズは何か、どのように満たすのがよいかの見通しが立ちやすくなる、という前提が置かれているように思います。
 
 SAを複数名で担うことについて、山根さんとわたしの見解が異なるように思われるのはこの点です。悲観的かもしれませんが、わたしは、一緒にSAをしてくれる人がいれば、それだけで頭を悩ますことが減る(=相手のニーズについての不確実性が減る)とは必ずしも思えないのです。それは、わたしたちが以前お話ししたような、共同でケアを担うべき相手が足並みを揃えてSAを行おうとしない場合に限りません。それぞれが受け手の日々の様子と生活に注意を傾け、得た観察情報をもとに「相手に何が必要か」と真剣に考えたとしても(あるいは真剣に考えるがゆえに)生じてしまう理解の齟齬があると思うからです。
 
さまざまな「私」、さまざまなニーズの理解
 
 わたしがこのように思うのは、ニーズというものがケアの与え手と受け手の関係に埋め込まれている、と考えるからです。
 
 文化の心理学に「相互依存的自己(interdependent self)」という概念があります[3]。特定の誰かとの関係を想定しない限り、「私」がどんな人間かは定まらない。そんな自己のあり方のことです。例えばわたしたちは、パートナーとの関係、職場の同僚との関係、昔からの友人との関係などなど、それぞれの関係において少しずつ違った「私」として存在しています。相手がしてくれたことが嬉しかったとき、相手の対応が不満だったとき、何か悩みを抱えつつその相手に会ったとき……そのとき自分がどのように振る舞うか、気持ちをどのように表すかは、相手によって変わりうるでしょう。その意味で、「私」は相手(が誰か)無しには存在しえない、というのが「相互依存的自己」の考え方です。
 
 もしかしたら、ある関係における「私」こそが「真の『私』」であって、他の関係での「私」は多かれ少なかれ「偽りの『私』」だ、と思う人もいるかもしれません。例えば「自分はパートナーといる時が、いちばんのびのび振る舞えている」「何も気にせずいられるこの関係での『私』こそ“本当の”『私』だ」というように。でも、一緒にいることで感じる主観的な心地よさは自己の「真偽」とはまた別のものです。パートナーとの関係のなかでの自分を、職場の同僚にも見せられるかといったらそうでもないでしょうし、そもそも見せたいとさえ思わないかもしれません。同僚に対していま現在見せている自分こそが、同僚との関係において「そうでいられる自分」あるいは「そうでしかいられない自分」なのだとしたら、その自分もまた、同僚との関係においては「偽らざる『私』」だと言えるでしょう。要するに、「私」は関係ごとに異なるかもしれないけれど、そのどれも、その相手との関係においては「真」なのです。
 
 関係と切り離せない自分というのは、ケアの受け手と与え手の関係においても当然言えることです。自分をケアしてくれる人が複数いるとき、それぞれのケアの与え手に対して受け手は異なった「私」でいようとするかもしれません。与え手は、受け手が自分との関係のなかでつくり上げた「私」をもとに受け手を理解し、その理解をもとに「相手にとって何をどうするのがいちばんよいか」を考えるでしょう。このとき、それを考えるための「よすが」である受け手の「私」がそれぞれ違っているのだとしたら、「何をどうするのがいちばんよいか」の理解が与え手のあいだでズレてしまうことは無理ないことです。
 
 重要なことは、こうしたズレは、必ずしも相手をよく見ていなかったから起こるわけではない、ということです。目の前の受け手を注視し、理解しようとそれぞれの与え手が真剣に試みるからこそ、「受け手の『私』」がその理解により反映されやすくなる。そしてもし、与え手が知る「受け手の『私』」が与え手ごとに異なるのだとしたら、結果的に「何をどうするのがいちばんよいか」の理解の齟齬が際立ってしまう、ということも起こりうるからです。
 
「私たちは、どの母を選べばよかったのでしょう?」
 
 複数のケア提供者が同一相手のSAをともに行う際の困難は、このような齟齬がほぼ不可避的に生じてしまうことに由来していると思います。それぞれの与え手が異なったニーズの理解をしていたとしても、「では実際に何をするか」を決める際には、結論を一つに絞らなければいけない(「どの理解を優先させるか」を決めなければいけない)からです。
 
 わたしは、終末期高齢者の「これから」を決定しなければいけない子どもたちが、この困難に直面している姿を見てきました。
 
 例えば、ある娘さん(お姉さん)と息子さん(弟さん)は、認知機能が低下していて意思疎通がとりにくくなっているお母さん本人に代わり、お母さんが最期をどこでどう過ごすのがよいのかを考えていました。お姉さんも弟さんも、お母さんの最善について真剣に考えていたのですが、「母がどんな人で、こんなとき何を望むと思われるか」を話し合えば話し合うほど、結論に迷っていました。
 
 お姉さんにとってお母さんは、やってほしいことがあれば遠慮なくすぐ頼んでくる依存的な母親でした。だからお姉さんは、「この人は多少子どもに迷惑をかけてでも、最後までそばについていてほしいと思うのでは」と考えていました。他方、お母さんは弟さんに対しては「あなたの負担にはなりたくない」が口癖でした。娘の前で見せる姿とは対照的に、息子の前でお母さんは自立志向の母親として存在していたのです。「あなたの負担になりたくない」を繰り返し聞いていた弟さんは、「母は、子どもたちに迷惑をかけないことを最優先するだろう」と考えていました。
 
 お姉さんと弟さんは、話し合いの過程で、お母さんがきょうだいそれぞれに対していかに異なる母親でいたのか、そして、同じ親を見ていたにも関わらず「母はどのような人か」についていかに異なった理解をしているかを知りました。その意味では二人は、「母が自分たちに対してどんな自分でいようとしたか」を、その多面性も含めてよりよく理解できたのですが、他方、二人のもつ情報――それはほとんど正反対とも言える情報です――を突き合わせれば突き合わせるほど、「こんなとき母ならどうしたいと思うか」が絞れなくなってくるのでした。
 
 でも、お母さんに残された時間は限られているし、どこかで結論を出さなければいけません。結局二人は、どちらかといえば弟さんの情報をもとに(つまり、「子どもたちに手をかけさせたくないだろう」という推測をもとに)、お母さんを今までいた施設で最期まで過ごさせました。しかし、自分の知る母親像をもとに「本当は自分と一緒に家で過ごしたかったのでは」と思っていたお姉さんだけでなく、弟さんもまた、お姉さんの知っているお母さん(「子どもに頼りたがりの依存的な親」)こそが実は母の「真の姿」だったのでは、と思い、亡くなった後もすっきりしないものを抱えていたのでした。
 
構造的につくられる「声の大きさ」
 
 このように考えると、複数の人がともにSAを行う場合の何よりの課題は、ニーズの理解に齟齬が生じてしまった場合にそれをいかに収束させるか、すなわち、どうやって一つの解に落ち着かせるかという、与え手間の合意のとり方でしょう[4]。専門職の場合、定期的なカンファレンスなど、理解の収束を図るための制度的な仕組みが用意されていることが多いのですが、家族のようなインフォーマルなケアラーの場合、この収束は私的な解決に任されてしまうことがたびたびあります。
 
 終末期の親をもつ子どもたちへのインタビューでわたしがしばしば聞いたのは、病院や施設の職員から結論を一つにまとめるよう、ぽんと「任せ」られてしまったことへの戸惑いでした。例えば、意思疎通を図れない親を前にして「私たちそれぞれの意見をどうまとめればよいのか」ときょうだいで病室で考え込んでいたとき、「では、まずはご家族で結論を出したら教えてくださいね」とスタッフに去られてしまったときの経験を語ってくれた方もいました。
 
 収束が私的な解決に任されると、どんな結論を・どのように出すかは、家族のあいだに元々あったパワーの差に影響されます。親の介護に最も「手を出して」きた子どもが、最期に関わる代理意思決定の場面では最もつまはじきにされてしまう、という事態が起こるのはそのためです。
 
 家族のなかで介護の実質的な負担を最も「任され」やすいのは、最も立場の弱い人であることが少なくありません。親の介護で言えば、親と同居する非正規雇用の独身子は、そうした負担を最も「任され」やすいのですが、というのも、その子は親の介護をするのに最も都合がよさそうに「見える」からなのですが、実際にはそのような子どもは、社会経済的資源がいちばん乏しかったりします。親のすぐ近くにいる(=同居している)から介護にいちばん都合がよさそうに「見える」としても、そもそも親と同居しているのは、就労状況がなかなか安定せず、自活できるだけの経済資源が得られないから、という場合もあります。社会経済的地位について最も立場の弱い子どもが、こうして介護の実質的負担を担わされる一方で、立場が弱いがゆえにその子の声は、意思決定の場面では他の子どもの声にかき消される、といった事態も発生するのです(例えば、同居して親を看てきた娘さんが、最期が近くなったときの代理意思決定の場面で、「お前が金出せるわけじゃないんだから」と、それまでほとんど介護に関わってこなかった別居の兄に「黙らされた」というケースがありました)。
 
 SA責任の社会的分有が、同一相手へのSAを複数名で担うことによって図られるのであれば、ニーズの理解をいかに収束させるか、そのための仕組みを考えることは不可欠だと思います。その際、収束の過程にいかに構造的なパワーの不均衡が影響しないようにするかを考えることも必要です。ケアラー間の社会経済的地位の違いが「声の大きさ」の格差になるように、この過程には構造的につくられた不平等が影を落とします。この不平等にはもちろん、ジェンダーによる不平等も含まれるでしょう。ジェンダーを含めた不平等な社会関係がその過程に影響しないことに留意しつつ収束のための仕組みを考えることは、構造的な不均衡を是正しながらSAの社会化を進めるために、必要な取り組みであると考えます。
 
「社会化」とは、みんなで分けること?
 
 最後にもう一つだけ。これはまだ、必ずしも山根さんと意見の相違があるとは言えないのかもしれませんが、わたしはSAの社会化は、必ずしも「SAを複数名で担うこと」でしか達成できないとは考えていません。SAの社会化は、SAを担う人(あるいは担わざるをえない人)が、それを担うがゆえに被る不利益をカバーしてもらうこと――ただし、カバーされることによって、その人が更に弱く従属的な立場に置かれないようにすること[5]――によっても達成できるのではないかと思います。
 
 山根さんも以前のお手紙のなかで紹介されたフェミニスト哲学者のエヴァ・フェダー・キテイも、同様のことを言っています。キテイは、他者のニーズに対応しなければいけないケア提供者には、必然的に抱えてしまう「弱さ」があることを指摘しました。そして、その「弱さ」にきちんと対応してくれるよう、ケア提供者を取り巻く関係が組み直されることを「つながりにもとづく平等」と呼ぶとともに、そのような支援の関係ないしは協働のあり方を「ドゥーリア」と名づけました[6]。
 
 ここで大事だと思われるのは、キテイは「ドゥーリア」を、ケアそのものを肩代わりする人びとの集まりだとは、必ずしも考えていないことです。つまり、既にケア提供者となっている人(あるいはならざるをえなかった人)が主たるケアラーを務める状況自体はそのままになるかもしれないけれど、だからといってケアを担うこと・担わざるをえないことが、その人に社会的な不利益をもたらさないようにしなければいけない。そのための社会関係を「ドゥーリア」と言っているのです。
 
受け手目線で考える「社会化」
 
 ケア提供という役割自体を肩代わりしてくれる社会関係よりも、ケア提供にともなう不利益をもたらさないようにするための社会関係をキテイが求めたのは、ケアの受け手にとって、与え手は誰でもよいというわけではないからです。なぜなら、受け手と与え手のあいだには「信頼にもとづく強い情緒的関係」[7] が必要になり、受け手は周りにいる人誰とでもそのような関係を築けるとは限らないからです。
 
 これは、例えばこういうことではないでしょうか。
 
 わたしたちは、ニーズを抱えていても、それをどう満たしてほしいのか、自分でもわからない場合があります。困ったことや不快なことがあり、それを何とか取り除きたいと思っていたとしても、誰かに「じゃあ、具体的にどうしてほしいの?」と聞かれたところで明確に答えられない場合があるのです。
 
 ケア関係における信頼とは、「どうしてほしいか自分には必ずしもわからないし、どうしてほしいとも言えないけれど、でも、この人が考えてやってくれることなら安心」「この人に任せれば、きっと大丈夫」と思えることではないでしょうか。繰り返しになりますが、ニーズの満たし方というのは、ニーズを抱える本人にすらわからないことがあるのです。もし、ニーズをどのように満たしてほしいかが分かっていて、「どうしてほしいの?」と聞かれて明確に指示が出せるなら、それを遂行してくれさえすれば、与え手は誰になっても良いのかもしれません。でも、その満たし方がわからないなら――そしてそのような場合は決して少なくないと思いますが――満たし方ごと相手に委ねるしかありません。
 
 それを委ねることができることこそ、ケア関係における信頼ではないでしょうか。それは、誰に対しても同じように委ねられるとは限らず、だからこそケアの受け手にとって、与え手は誰でもよいわけではないのです。もちろん、キテイも言うように、この信頼が裏切られることもあります。それに、受け手がいかにそれを委ねてこようとも、与え手には「それに応えてあげない」という選択だって可能です。ただ、受け手がほかならぬ自分にそれを委ねようとしており、つまりその意味で、自分よりほかに与え手になれそうな人が見当たらない場合に、自分が与え手になることは避けてはいけないように感じてしまう……。そうしてできる関係――キテイの言葉を借りれば「強制されているわけではないが、自発的に選ばれているともいえないつながり」[8]――こそ、わたしたちがケアの受け手と築く関係だったりもするでしょう。
 
 信頼にもとづく、その意味で必ずしも代替可能ではない関係が、ケアの受け手と与え手の関係であるのだとしたら、キテイが提案する「ドゥーリア」という協働のあり方は、すこぶる現実的な「ケアの社会化」の方法だと思います。必ずしも「誰でもよい」わけでないのだとしたら、ケア自体を肩代わりすることはしたくてもできないかもしれない。ならばせめて、あなたが引き受けざるをえなかった役割が、あなたに不利益をもたらさない関係を、私たちがつくりたい。それが「ドゥーリア」の考え方ですから。
 
 もちろんケア提供というしごと自体を分担することは、ケア提供者(たち)の負担を軽くする上で大切ですし、「社会化」の選択肢の一つとして確保しておく必要があるでしょう。ただし、受け手からしたら「誰でもよい」わけではないという、そういう代替不可能性がケア関係のケア関係たるゆえんなのだとしたら、ケア提供というしごと自体を分ける方法一辺倒で「社会化」を目指すのは、ちょっと現実的でない気もするのです[9]。だからわたしは、SAの担い手を支える「ドゥーリア」をいかにしてつくれるか、という観点からも、SAの「社会化」の進め方を考えてみたいと思ったのでした。
 
 検討すべき「社会化」の方法や道筋は、必ずしも一つに限られないでしょうし、また、一つに絞る必要もないでしょう。このお手紙の後半でお伝えしたかったのは、SAというしごとは複数の人が関与したからといって楽になるとは限らないということ、そして、受け手の立場に立ってみれば、そもそも誰もかれも、みんなでやってくれて構わないというものでもないことなんじゃないか、ということでした。SAというしごとは思いのほか「みんなでする」のが容易ではない可能性を考慮しつつ、この「社会化」の進め方を検討するために引き続き山根さんとアイデアを出し合えたら嬉しいです。
 
2019年5月
平山 亮
 


 
次回は、山根純佳氏が2019年6月にご登場です。[編集部]
 
【プロフィール】平山 亮(ひらやま・りょう) 1979年生。2005年東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了、2011年オレゴン州立大学大学院博士課程修了、Ph.D.(Human Development and Family Studies)。現在、東京都健康長寿医療センター研究所 福祉と生活ケア研究チーム研究員。著書に『迫りくる「息子介護」の時代』(共著、光文社新書、2014年)『きょうだいリスク』(共著、朝日新書、2016年)。気鋭の「息子介護」研究者として、講演、メディア出演多数。『介護する息子たち 男性性の死角とケアのジェンダー分析』のたちよみはこちら→「序章」「あとがき」
 


[1]厚生労働省が2016年に行った『国民生活基礎調査』によれば、家族のなかで主に介護している人に占める各続柄の割合は、娘が19.9%、息子が17.3%、息子の妻が16.3%です(同居介護の場合)。
[2]家族社会学者の落合恵美子さんによれば、長男とその妻が親の面倒を看るという慣行が廃れていったのは、少子化(によるきょうだい数の減少)という人口学的変化がそれを難しくしたからだ、ということです(落合恵美子『21世紀家族へ:家族の戦後体制の見かた・超えかた(第3版)』有斐閣選書、2004年)。
[3]Markus, Hazel Rose and Shinobu Kitayama, 1991, Culture and the self: Implications for cognition, emotion, and motivation. Psychological Review, 98(2): 224-253. なお、この概念は東アジア文化圏における自己概念の特殊性を主張するために提案されたものですが、その是非についてはここでは論じません。
[4]本連載第5回で取り上げた「足並みを揃えるための負担」とは、複数名でSAを行った場合の収束のための負担と言ってもよいでしょう。
[5]性別分業は、ケア責任を担う/担わされる女性から稼得可能性を奪った上で、女性の生活基盤を男性に委ねるよう仕向ける点で、ケアの担い手を「更に弱く従属的な立場に置」くシステムそのものです。
[6]Kittay, Eva Feder, 1999, Love’s labor: Essays on women, equality, and dependency. Routledge. [E. F. キテイ、岡野八代・牟田和恵監訳、『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』白澤社、2010年、pp. 156-158.]
[7]前掲書、p. 92.
[8]前掲書、p. 147.
[9]もちろん、信頼の対象が一人きりになるとは限りませんし、そういうケアの与え手が複数いる場合もあるでしょう。ここでのポイントは、それぞれの受け手にとって、そういう相手は無限にいるわけではないかもしれないこと、また、そういう事態をまったく想定せずに「社会化」の道筋を考えることはできるのだろうか、という疑問です。

 
》》山根純佳&平山亮往復書簡【「名もなき家事」の、その先へ】バックナンバー《《
 
vol.01 見えないケア責任を語る言葉を紡ぐために from 平山 亮
vol.02 女性に求められてきたマネジメント責任 from 山根純佳
vol.03 SAには「先立つもの」が要る――「お気持ち」「お人柄」で語られるケアが覆い隠すこと from 平山 亮
vol.04 〈感知・思案〉の分有に向けて――「資源はどうして必要か」再考 from 山根純佳
vol.05 思案・調整の分有と、分有のための思案・調整――足並みを揃えるための負担をめぐって from 平山 亮
vol.06 なぜ男性はつながれないのか――「関係調整」のジェンダー非対称性を再考する from 山根純佳
vol.07 SAの分有に向けて――ケアの「協働」の可能性 from 山根純佳
vol.08 Sentient activityは(どのように)分けられるのか――構造、自己、信頼の3題噺 from 平山亮
vol.09 ジェンダー平等化の選択肢とケアにおける「信頼」 from 山根純佳
vol.10 SA概念で何が見えるか(前編)――「男は察知も思案も調整も下手」で「やろうと思ってもできない」のか from  平山亮
vol.11 SA概念で何が見えるか(後編)――“ゆるされざる”「信頼」の対象と“正しい”思案のしかたをめぐって from  平山亮
vol.12 [対談]社会はケアをどのように分有し、支えるべきなのか/山根純佳・平山亮
vol.13(最終回) [対談後記]連載の結びにかえて/平山亮・山根純佳

「名もなき家事」の、その先へ

About The Author

ジェンダー研究者・山根純佳×『介護する息子たち』著者・平山亮による、日常に織り込まれたジェンダー不均衡の実像を描き出し、新たなジェンダー理論の可能性をさぐる交互連載(月1回更新予定)。「ケアとジェンダー」の問題系に新たな地平を切り拓き、表層的な“平等”志向に陥らない「家族ケア」再編への道筋を示します。