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あとがきたちよみ
『メタ倫理学の最前線』

 
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蝶名林 亮 編著
『メタ倫理学の最前線』

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はじめに
 
 英語圏の分析哲学において、「メタ倫理学(meta-ethics)」という分野は哲学における主要な一分野と見なされており、研究者も多く、現在進行形で様々な研究が遂行されている。
 その名前に「倫理学」という言葉が入っていることもあり、メタ倫理学はしばしば規範倫理学(normative ethics)、応用・実践倫理学(applied / practical ethics)と並ぶ、実践的な学である倫理学の一部門として紹介されることが多い。ただ、他の倫理学諸分野が「道徳的に許容できない行為とは何か」などの実践的な問いに積極的に答えようとする一方で、メタ倫理学は必ずしもこのような問いに直接的には答えない。むしろメタ倫理学では、「ここで問題となっている道徳的許容性とはどのような形而上学的存在者か」「われわれはある行為の道徳的許容性をどのように知ることができるのか」「それを知り、それに基づいて行為する際の心の仕組みはどのようなものか」「『a は道徳的に許容されない』という形式の文はどのような意味を持つか」などといった理論的な事柄が問題になる。つまりメタ倫理学とは、そもそも倫理・道徳に関することであるから実践的なことに関わる学問ではあるが、理論的・抽象的な問いにも関わる学問でもある。
 わが国においてもメタ倫理学への興味は高く、刊行論文・単著や学会発表で同分野に関わるトピックが多く見受けられるようになってきている。メタ倫理学という分野を広く一般にも紹介しようとする教科書的な著作も、日本語のものが既にいくつか出版された[1]。
 ただ、現在の英語圏で行われているメタ倫理学の最新の議論展開は、20 世紀から今世紀にかけて積み重ねられてきた研究動向を十分に把握していなければ明確な理解を得ることが難しいものとなっている。そのため、この分野を専門とする哲学研究者以外には、メタ倫理学の最新の研究成果へのアクセスは、必ずしも容易ではない。
 これは改善すべき事態であろう。多くの人は人生の中で「いかに生きるべきか」という規範倫理的な問いを考えることがあるだろう。その中には「そもそもこのような問いに答えがあるのか」と言ったメタ倫理的な問いを考える人もいるだろう。多くの人が関心を持つメタ倫理学の研究が盛んに行われているにもかかわらず、その最新の研究動向がわが国では一部の研究者の間でしか共有されていないという現状は、やはり改善されるべきだろう。
 このような現状を受けて、既にメタ倫理学について多少興味を持っておられる読者のために、錯綜する研究状況を整理し、現在の研究動向の一つの見取り図を提示し、さらなる学習・研究への跳躍台となるものを提供することが、本書のねらいである。
 本書の最終部に収録した補論でも説明している通り、メタ倫理学が扱う問題は多く、一冊の本で全ての問題を検討することは難しい。そこで、まず前半の第Ⅰ部「哲学史におけるメタ倫理学説」において、わが国でもその哲学的主張が広く知られており、多くの研究者もいるアリストテレス、ヒューム、カントの三人のメタ倫理学説を取り上げる。この三者のメタ倫理学説を冒頭に配することで、メタ倫理学という学問分野がどのような問題に取り組もうとしているのか、多くの読者にある程度のイメージを持ってもらいたいと編者は考えている。そして、第Ⅱ部以下では現代のメタ倫理学において盛んに論じられている話題をいくつか取り上げ、それらの論争状況に関して概観した諸論文を収録し、メタ倫理学の現状を紹介していく。現代メタ倫理学に関する「批判的論評(critical review)」であるこれらの諸論文が、読者にとって有益な知識を提供し、さらなる研究のための何らかの助力となることを願っている。
 以下、各章の内容について、簡単な解説を行う。
 
第Ⅰ部 哲学史におけるメタ倫理学説
 
 メタ倫理学とは、道徳的判断の性質や客観性などが問われる、倫理学の基礎研究という側面を持つ。倫理・道徳に関する基本的な事柄を問う分野であるが故に、当然、自らの哲学的体系を提示した過去の哲学者たちの言説の中にも、様々なメタ倫理学的な考察や主張を見て取ることができる。実際に、現代のメタ倫理学の論争は、西洋哲学史上の主要な哲学者たちが示した考えや議論に様々な形で影響を受けている場合がある。このような背景を考慮すると、歴史上の哲学者たちが示したメタ倫理学説を検討することは、現代の論争を考える上でも有益だろう。反対に、現代のメタ倫理学という「レンズ」で過去の哲学者たちの主張を見てみることで、彼ら・彼女らが構想した哲学的体系の新たな側面を発見できるということもあるかもしれない。
 このような哲学史上の過去と現在の有機的な関係を意識しつつ、本書では特に現代のメタ倫理学との関連が深い三人の哲学者、アリストテレス、ヒューム、カントを取り上げ、この三者が構想していたメタ倫理学説について、考察を試みる。
 本書の冒頭を飾るのは立花幸司による「アリストテレスともう一つのメタ倫理学」である。立花は倫理学という学問そのものを成立させたアリストテレス本人が、この学問領域においてどのような方法が用いられるべきだと考えていたのか検討する。アリストテレスの倫理学説を概説した後、立花はアリストテレス本人がどのような人生を生きた人物だったのか、現代の文脈にも置き換えつつ、生き生きと描き出して見せる。その中で、アリストテレスが提示した人間の生物学的な側面を重視する倫理学説や、その影響を受け継ぐ現代の徳倫理学が、「経験的知見による批判を等閑視することなく誠実に向き合うような理論のつくりになっている」ことを指摘する。立花が指摘するように、人間が持ち得る性格特性に関する研究は、倫理学だけでなく、心理学、精神医学、遺伝学、神経科学等の経験科学諸分野においても広く探究されている。立花が描き出すアリストテレスのこのような態度は、倫理学という学問分野に対する一つのスタンスであり、現代風に言うならば、メタ倫理学上の自然主義的な態度であると理解することができるだろう。このようなアリストテレスの考えは、思弁的な考察を通して善のイデアを把握することができるとする師・プラトンとの学問的な対決を発生させる。立花が提示するプラトンとアリストテレスの論争は現代における非自然主義と自然主義の論争を思い起こさせるが(現代の論争については第5 章を参照)、アリストテレスが構想していた倫理学の方法に関する考察は、現代の倫理学においても重要な部分を占めるべきとの主張が提示され、本章は閉じられる。
 一方で、現代の分析哲学においてデイヴィッド・ヒュームは最も影響力のある哲学者と言っても決して誇張にはならない。英語圏のトップジャーナルを見てみると、それを擁護するにしろ反論するにしろ、多くの論文や著作はヒューム的(Humean)な何かに関するものである。メタ倫理学においても、道徳的判断に関する説や、動機づけに関する説など、それは顕著である。萬屋博喜による「ヒューム道徳哲学の二つの顔」は、道徳的判断に関するヒューム的な考えに的を絞り、詳細な検討を試みている。萬屋は道徳的判断に関するヒュームの受容について、非認知主義的な受容と主観主義的な受容の二つに整理する(非認知主義に関する現代の論争については第8 章を参照、主観主義に関する現代の論争については第9 章を参照)。それぞれの解釈の経緯を説明した後、まずは非認知主義的な受容について、ヒュームの非認知主義的な解釈を否定する錯誤説的な解釈、そして、単純な情動主義を乗り越える複雑な、しかし、それでも非認知主義的な理論的枠組みを維持する、投影説的な解釈が紹介される。一方で、主観主義的な解釈については、アダム・スミス的な公平な観察者にも通じる理想的観察者理論としての解釈や、単純な主観主義や反実在論とは一線を画すウィギンズ流の賢明な主観主義的な解釈が紹介される。ベイアーの指摘にも言及しつつ、ヒュームの歴史学上の成果である『イングランド史』も視野にいれたヒューム解釈は、ウィギンズ流の解釈を積極的に支持する可能性が指摘され、さらなるヒューム的なメタ倫理学説の洗練化の可能性が示される。
 ヒュームが現在のメタ倫理学上で最も言及される哲学者であるとすれば、ヒューム的なメタ倫理学説への反論を試みる際にしばしば引き合いにだされるのはイマヌエル・カントである。それは、カントがヒュームと比してより理性の重要性を強調した哲学者であったと多くの論者が見なしているからであろう。永守伸年の「カントの倫理学とカント主義のメタ倫理学」はこのようなヒューム的なメタ倫理説とカント的なメタ倫理説の対決について解説しつつ、カントから読み取れる新たなメタ倫理学説の可能性について、検討している。永守は啓蒙思想という観点から理解される法学や政治学なども含むカントが構想した実践的諸学の構想である広義のカントの倫理学と、道徳的規範に関する狭義のカントの倫理学を区別する。その上で、カントから読みとり得る道徳心理学に関するメタ倫理学説として近年のメタ倫理学において様々に論じられてきた実践理性に関するメタ倫理学説、即ち、実践理性が道具的・道徳的行為の動機づけを欲求の助けなしに行う場合があるとする説を、特にこの考えを否定する動機づけのヒューム主義という考えとの比較を通して説明する(動機づけに関する現代の論争については第4 章を参照)。現代のヒューム主義とカント主義の間の論争の重要な論点が丁寧に解説された上で、永守は従来の論争においては見過ごされがちだった、道具的でも道徳的でもない、カント自身が強調していたもう一つの実践理性のレベル、即ち、実践理性の賢慮の働きについて、検討する。社会的な側面も持ち得るこのレベルの実践理性に注目したクリスティン・コースガード(Christine Korsgaard)やデイビッド・ヴェルマン(David Velleman)らの近年の仕事にも着目しつつ、新たなカント的なメタ倫理説の可能性が提示されている。
 
第Ⅱ部  現代メタ倫理学における一つのトレンド─「理由」の概念への注目
 
 現代につながるメタ倫理学の潮流の祖と考えられているG. E. ムーアの『倫理学原理』(Principia Ethica)が中心的に論じていたのは「善(Good、善さ、善い)」の概念であった。倫理学上重要な概念として他に「正(Right、正しさ、正しい)」の概念があり、どちらの概念がより基礎的なものであるかという伝統的な問いがある。一方で、近年のメタ倫理学の研究動向を見てみると、「善」や「正」にとって代わって「理由」という概念が中心的に論じられていることがわかる。それは、多くの論者が、多少の留保も保ちつつ、「善」や「正」の概念よりも、「理由」という概念の方がより基礎的なものであると考えているからである。たしかに、「何かが善いとは、結局、どういうことなのか?」と聞かれた場合、「何かが善いとは、つまり、われわれはそれを大事にしたり好んだりする理由があるということなんだ」と説明することは、それほど不適切には見えない。この説明において行われているのは、「善」という概念をより基礎的な「理由」という概念によって説明しようとする試みである。 倫理学において問われることは、通常、どのような行為が善い行為か、正しい行為か、という行為に関する問題である。この問いを理由という観点から考えると、「われわれにはどのような行為をする理由があるのか」という問いに置き換えられる。どのような行為をする理由があるのか答えるのは規範倫理学であるが、「(倫理学が問題にしている)行為の理由とは一体何か」「『ある人がφする理由を持つ』とはどのような事態か」という行為の理由の本性そのものに関する問いに答えようとするのが現在のメタ倫理学である。このような研究状況を踏まえて、本書では杉本俊介による「行為の理由についての論争」を収録し、この分野に関する近年のメタ倫理学上の研究動向を検討・紹介する。
 杉本はマイケル・スミス(Michael Smith)によるメタ倫理学上のトリレンマを紹介することから出発し、このトリレンマから引き出される問題の解決のためにスミスが導入した規範理由と動機づけ理由の区別を紹介する。スミスの区別を踏襲しつつ、杉本は行為の理由に関する探究を、これら二種の理由に関する探究として整理する。その上で、規範理由とは何かという問いについて、杉本は二つの論争を紹介する。一つ目は、この種の理由は「行為を支持する考慮(a consideration that counts in favour of the action)」であるとの説明以上のものを与えることができるか否かという問題を巡る論争であり、さらなる説明の可能性を支持する立場は還元主義として、そのような説明の可能性を否定する立場は非還元主義(あるいは「理由基礎づけ主義」)として説明される。還元主義的な試みとして、自律的な行為者の思考過程によって説明しようとするカント的な還元主義、「べし(ought)」による説明、欲求によって説明しようとする説が紹介され、それらに対する反論も検討される。他方、規範理由を巡るもう一つの論争として理由に関する内在主義と外在主義に関する説明が紹介され、この論争は規範理由の成立のための必要条件を巡る論争であると杉本は説明する。ウィリアムズ流の内在主義の紹介とそれへの反論を紹介しつつ、この論争については内在主義側に分があるとの杉本自身の見解も提示される。もう一つの種類の理由である動機づけ理由に関する論争については、スミスが支持した動機づけのヒューム主義、即ち、動機づけ理由は行為者が持つ一組の適切な欲求とその欲求を満たす手段に関する信念から構成されており、これらの欲求と信念とは別個の存在である、との考えに関する論争が中心的に検討されている(この立場を否定するカント的な見解とされる立場については第3 章を参照)。この検討の中で、スミスが前提にしていた「動機づけ理由は心理的状態である」との行為の理由の存在論的な想定を巡り、この想定を支持する心理主義とそれを否定する反心理主義的な諸説が紹介されている。
 杉本も言及しているように、理由に関する問いは倫理学だけでなく現在哲学諸分野で様々に論じられている問題である。そのため、それら哲学諸分野で行われている理由に関する探究とメタ倫理学における行為の理由に関する探究がさらに有機的に機能し、さらなる研究が進むことが期待されている。
 
第Ⅲ部 道徳的実在論に関する論争
 
 目の前の幼児が誤ってガラスの破片が入ったコップの中に手をいれようとしている。このまま手を入れてしまったら幼児の手は確実に傷つく。それを見ているタロウはコップを遠ざけて幼児を守ることが容易にできる状況にある。さて、この状況に関する素直な反応は「タロウは幼児を守るべきだ」との道徳的判断だが、では、この判断は「このコップは割れやすい」や「タロウは幼児よりも年齢が上だ」と同様に、真偽が問えるものだろうか。それとも、「おはよう」「結婚しよう!」のように、真偽ではその適切さを問うことができないものか(「おはよう」は「本当に今、朝が早いのだろうか」と考えて真偽を問うような表現ではなく、「結婚しよう!」も「本当にこの話者は結婚したいと思っているのか」と考えて真偽を問うような表現ではない。前者は朝に交わされる挨拶であり、後者はある種の共同行為への提案を表す表現である)。また、真偽が問えたとして、道徳的判断の真偽はどのように決まるのか。たとえば、それはわれわれが類似的な状況において同様の判断を下すという、われわれの主観的な判断に依存した事実によって決まるのか。それとも、われわれがどのような判断を下そうとも道徳的判断の真偽に影響はなく、その真偽はわれわれの判断の有無とは別のところで決まるのか。
 道徳的実在論(moral realism)と呼ばれる立場の支持者たちは上記の問いについて、「道徳的判断は真偽が問えるものであり、その真偽はわれわれの判断に依存するものではなく、さらに、われわれが下す道徳的判断の多くは真である」と答える。近年のメタ倫理学は道徳に関する事柄だけでなく、道徳以外の場面でも立ち現れる様々な規範的なもの一般を考察の対象とするメタ・規範学的(meta-normative)な傾向性を有しているが、それでも、道徳的実在論に関する論争は未だに中心的な地位を確保し続けている。このような問題意識に基づいて、本書では道徳的実在論に関する三本の論文を収録する。
 道徳的実在論に関する最初の論文として、蝶名林亮による「自然主義と非自然主義の論争について─自然主義と道徳の規範性からの反論を中心に」を収録する。道徳的実在論によれば上述したように道徳的判断の真偽はわれわれの判断に依存しない形で決定するが、道徳的判断を真にするものとして候補に挙がるのは、われわれの道徳的判断とは独立して様々な対象によって例化される道徳的性質である。では、この道徳的性質の存在にコミットする実在論者は道徳的性質についてどのように説明することができるか。蝶名林はこの問いについて大きく二つの答えが現在のメタ倫理学において提示されていると言う。一つ目は、道徳的性質は他の自然科学で探究されるような性質と同種の自然的性質であるとする自然主義と呼ばれる考えである。二つ目は、自然主義を否定する非自然主義である。自然主義と非自然主義は近年の研究動向においてさらなる細分化が行われており、その概要が蝶名林によって説明される。続いて、蝶名林は自然主義的なメタ倫理説に対してしばしば向けられる「規範性からの反論」と呼ばれる考えを紹介する。道徳的性質はわれわれの判断や行為を支持・奨励するような規範性を持つように思われるが、自然的性質はそのような規範性を持つとは思えない。そうであるならば、道徳的性質が自然的性質であると考えることは無理筋ではないか。ここで問題となっている道徳の規範性の特徴づけに関する問題を解説しつつ、規範性からの反論に対する自然主義側からの応答として、マーク・シュローダー(Mark Schroeder)による自然主義的に理解された規範理由の多重決定性に訴えた戦略が紹介される。蝶名林によると、シュローダーの説はまだ不十分な点もあるが、それでも、単純な個人の欲求充足を超えた道徳の規範性が持つ利他性を自然主義の枠組みの中で説明しようとする試みであることに変わりはなく、今後の精査・発展が期待できるとされる。
 第5 章では「道徳的性質なるものの本性とは何か」との道徳的実在論の内実に関する検討が行われたが、秋葉剛史による「道徳的説明についての論争」では道徳的実在論が真であることを示す積極的な論証とは何かという問題に焦点が絞られている。秋葉が言うように、あるものが存在するかどうか考察する上で、問われているものがどれほどの説明的役割を果たすのか、見てみることは重要であろう。メタ倫理学においても20 世紀後半から道徳的性質(もしくは道徳的事実)の説明的役割に着目して道徳的実在論の擁護を目指す研究動向が見られ、これまで様々な論争が繰り広げられてきた。秋葉は複雑化した論争状況を丁寧に解説し、重要な論争点を二点に整理する。一つ目の論争点は、道徳的事実が説明的役割を果たすか否かという問いである。二つ目の論争点は、道徳的事実の説明的役割の有無からどのようなメタ倫理学上の帰結が導けるかという問いである。秋葉によると、メタ倫理学の歴史においてまず大きな注目を浴びたのは一つ目の論争点である。この問題の発火点ともなったギルバート・ハーマン(Gilbert Harman)とニコラス・スタージョン(Nicholas Sturgeon)による論争からスタートし、道徳的事実の説明的役割を肯定する説と否定する説の両者の紹介が丁寧になされる。二つ目の論争点はこれまで見過ごされてきた点であったが、秋葉は近年の数学の哲学の議論展開を援用した議論や、因果的説明役割とは別の説明的役割を道徳的事実(もしくは規範的事実一般)に附与しようとする近年の非自然主義的な試みを紹介し、この論点の重要性と今後の研究動向への見込みを示す。
 第6 章では道徳的実在論を積極的に肯定する論証を検討しているが、では、道徳的実在論を積極的に否定する論証にはどのようなものがあるだろうか。笠木雅史の「進化論的暴露論証とはどのような論証なのか」では、その代表格とされる暴露論証と呼ばれる一連の論証群が検討される。しかしながら、笠木も述べている通り、今世紀に入ってから暴露論証に関する様々な主張や議論が提出されており、そもそも、それが道徳的実在論の否定を直接的に支持するものかということも含めて、論争状況は錯綜している。このような論争状況を受けて、「客観的な道徳的事実は存在しない」などの直接的な道徳的実在論の否定を結論とする存在論的な道徳的懐疑論と、「道徳的信念は知識ではない、もしくは、正当化されない」などの認識論的な道徳的懐疑論を区別し、後者のための論証として暴露論証を理解した上で、笠木はその詳細な解説を試みる(前者のための論証も後者のための論証を一旦経由しなければならないため、依存関係にある)。認識論的な道徳的懐疑論のための暴露論証は、われわれの道徳的信念が進化論的に説明されるという前提(進化論的前提、説明的前提)と、われわれの道徳的信念が知識や正当化のために必要な条件を満たさないという「認識論的前提」から構成される。笠木はこの「認識論的前提」と組み合わせることができる知識や正当化のための必要条件には大別して四つの異なる条件があると指摘し、四つの異なる暴露論証の形態を区別する。即ち、道徳的信念が形成される方法の信頼度の低さに訴えるもの、道徳的信念が真理と一致することが単なる幸運の一致にすぎないという考えに訴えるもの、道徳的信念が知識の敏感性条件を満たさないとするもの、そして、道徳的信念が知識の安全性条件を満たさないとするものの四形態である。それぞれの形態とそれらに対する反論が丁寧に説明され、今後の論争に関して笠木自身の考察も示される。
 
第Ⅳ部 メタ倫理学上の反実在論・非実在論について
 
 再び、タロウと幼児の事例について考えてみよう。幼児がガラスの破片が入ったコップに手を入れようとしている。このまま手を入れたら幼児は確実に傷つく。タロウは簡単にこのコップを幼児から遠ざけることができる。このような状況について、私が「タロウは幼児からコップを遠ざけるべきだ」と考えたとする。道徳的実在論者は私のこのような判断について、(1)この判断は真偽が問えるものであり、(2)このような判断の真偽の基準となる道徳的性質がこの世界には存在しており、それはわれわれの判断とは独立して存在している、と考える。
 さて、道徳的実在論を否定したい場合、道徳的実在論者が持つ(1)の想定と(2)の想定のいずれかを否定する戦略が考えられる。このような道徳的実在論を否定する立場は、反実在論(anti-realism)、もしくは(道徳的実在論が想定する道徳的性質が存在しないという主張を積極的に行うという意味で)非実在論(irrealism)と呼ばれる。どちらの戦略もこれまでメタ倫理学において様々に論じられてきた。本書ではそれぞれの前提を否定する二つの戦略についての論文を収録し、この分野の近年の研究動向を紹介する。
 佐藤岳詩による「非認知主義についての論争」では、上述の(1)の想定、即ち、道徳的判断は真偽が問えるものであるとする認知主義と呼ばれる立場を否定する非認知主義について、検討されている。認知主義と非認知主義との論争について、佐藤はこの論争が道徳的判断を含めた規範的判断一般が持つとされる実践的特徴と論理的特徴の説明に関する論争であると解説する。これによると、良く知られている「フレーゲ・ギーチ問題」は、規範的判断が持つ論理的特徴に関する問題という理解になる。佐藤は認知主義と非認知主義の論争をさらに検討し、それが意味論的なレベルの論争、心理的・思考的なレベルの論争、言語行為論的なレベルの論争の三つの異なるレベルを持つとする。これらの説明を下敷きにしつつ、近年のメタ倫理学者が提示する認知主義的な諸説(純粋な認知主義、折衷的認知主義)と非認知主義的な諸説(純粋な非認知主義、折衷的非認知主義)を紹介し、それらが示す規範的判断の二つの特徴の説明と三つのレベルの論争上でそれぞれが提示する考えについて、網羅的な解説がなされる。佐藤は最終部においてそれぞれの説がもともとの課題であった規範的判断の二つの特徴をどの程度成功裡に説明しているか、考察している。佐藤は、たとえ発展的な形態をとったとしても、認知主義的な説であれば規範的判断の実践的特徴の説明に難があり、非認知主義的な説であれば論理的特徴の説明がまだ道半ばであるとの見通しを示し、章を閉じている。
 一方で、安藤馨の「道徳的非実在論」では、上述の道徳的実在論が前提としていた(2)という考えの否定、即ち、われわれの判断とは独立して存在するとされる道徳的性質なるものは、実はその実在性が疑われるものである、との非実在論的な考えを持つ諸説について、詳細な検討が与えられている。はじめに、道徳的判断及び道徳的事実に関するテトラレンマの解説を通して、非実在論を支持する二種の論証(動機づけの判断内在主義+動機づけのヒューム主義に訴える論法、及び、道徳的合理主義+理由のヒューム主義に訴える論法)が確認される。非実在論への動機が示されたところで、安藤は非実在論的な説として、錯誤説、虚構主義、相対主義的な主観主義を挙げ、それぞれの立場に関する詳細な検討を行う。安藤はこれら諸説について以下のような評価を下している。錯誤説については共犯論法による反論がしばしば指摘されるが、この問題に対する一応の回避策が提出されており、決定的に拒絶されるような状況ではない。道徳的判断について非認知主義を採用する解釈学的虚構主義は、結局のところフレーゲ・ギーチ問題の回避に関して表出主義との間の理論的優位性を保てないとの懸念があるが、この懸念は回避できるものであり、やはり表出主義に対する理論的優位性は確保できる。相対主義的な主観主義は道徳に関する不同意を説明できないという決定的な問題を抱えていると思われていたが、発話内容に依存しない形で不同意を説明できるとする考えがいくつか提示されており、不同意の説明に関する問題は解消される可能性がある。そうなると、もともとフレーゲ・ギーチ問題は回避できるそれら主観主義的な諸説は非認知主義に対して優位性を持つことになる(相対主義的な主観主義については第11 章でも検討されている)。これらを総合すると、非実在論的な諸説は伝統的な非認知主義的な理論に対して「かなりの優位性」を持つことになりそうだとの見通しが示され、安藤は本章を終えている。
 
第Ⅴ部  哲学諸分野からのアプローチ─言語哲学・実験哲学とメタ倫理学
 
 メタ倫理学には倫理や道徳に関する言語哲学、形而上学、認識論、心の哲学であるという応用哲学的な側面がある。本書において第Ⅲ部では道徳的性質の本性やそれと自然的性質の関係、及び、道徳的信念の正当化についての議論が紹介されていたが、これらは倫理・道徳に関する形而上学的・認識論的考察ということになる。また、第Ⅳ部では道徳的判断やそれが表現される時に使用される道徳語彙の本性を巡って伝統的に認知主義と非認知主義が論争の俎上に上がってきたことが確認されたが、これらは倫理・道徳に関する言語哲学的、心の哲学的な考察であると理解することができるだろう。
 このような側面を持つが故に、その内部から発生する議論展開だけではなく、メタ倫理学外部の哲学諸分野及び関係する諸学問を発生源として起こる研究も、メタ倫理学上の諸問題と大きく関係してくる場合がある。その例として、本書では言語哲学と実験哲学の分野におけるメタ倫理学とも関係が深い研究動向を紹介する。
 和泉悠による「義務様相表現の意味論」では、メタ倫理学において中心的な関心事である「~すべきだ」、ought to, must, should などの義務様相表現(deontic modal)について、言語哲学や言語学においてはどのような研究動向があるか、紹介されている。言うまでもなく、倫理学や規範一般の性質を問うメタ倫理学において、これら義務様相表現の検討は研究の中核をなすものである。本書の第Ⅳ部でも見た認知主義と非認知主義の論争は、道徳の場面で使用される「~すべきだ」、ought to などの意味論的な論争の側面を持つ。メタ倫理学上の論争はこれら道徳語彙が何を指すのかという言語現象以上の哲学的諸問題に関わることが主であったが、和泉はまず義務様相表現の言語現象にその考察の範囲を限定する。その上で、和泉は言語学分野において標準的な義務様相表現の理論だと考えられているアンゲリカ・クラツァー(Angelika Kratzer)の理論を紹介する。和泉はクラッツァー理論の骨子となる考えとして、義務様相表現の意味は文脈によって与えられる(1)関連する可能性、及び、(2)関連する基準によって決まる、というアイデアを紹介する。和泉はクラッツァー理論がなぜ単純な可能世界意味論よりも優れていると見なされるのか、前者がチゾムのパラドックスを回避できることなどを指摘し、説明する。クラッツァーの理論は近年メタ倫理学においても盛んに論じられており、今後、言語哲学方面からメタ倫理学的考察を進める上では避けて通ることができないものであり、その意味においても、和泉によるクラッツァー理論の日本語での紹介は意義の大きなものであろう。和泉はクラッツァー理論の問題点とそれを克服することを目指した近年の研究を紹介し、さらに、日本語の義務様相表現に関する若干の考察も提示し、今後の研究への見通しを示している。
 太田紘史による「我々は客観主義者なのか?─メタ倫理学への実験哲学的アプローチ」では、近年、大きな注目を集めている経験的な知見に訴えて哲学的諸問題を考察する実験哲学というアプローチが紹介されている。メタ倫理学上の論争においては、しばしば、われわれが日常的に抱いている道徳に関する考えが引き合いにだされることがある。このような道徳に関する一種の常識はわれわれが抱く「素朴メタ倫理学」と呼ぶことができるものだが、メタ倫理学ではこの素朴メタ倫理学が客観主義的なものだと想定され、理論構築において重要な役割が与えられてきた。太田はこのようなメタ倫理学における背景を丁寧に説明した上で、素朴メタ倫理学を客観主義であると見なす想定に対して、経験的知見から様々な仕方で疑義が投げかけられている現状を解説する。ニコルズ(Shaun Nichols)による先駆的な仕事によって道徳的不一致への反応を実験的に調査するという方法が確立されていったことを解説しつつ、太田は実験哲学から示される三つの重要な論点について説明していく。一点目は、これまでメタ倫理学において素朴メタ倫理学が客観主義であると主張するために持ち出されてきた道徳上の発話や行為などが証拠としては「ほとんど無力である」という点である。二点目は、経験的知見に照らして考えると、素朴メタ倫理学は客観主義とは異なる相対主義的な考えである可能性が浮上してくる点である。三点目は、近年の研究動向では、われわれが抱く素朴メタ倫理学が一貫性を持つものか、それとも不整合を来しているか、もしくは、ある規則性に基づいて変動するものであるのか、これらの問いを巡って研究が進められているという点である。最後にメタ倫理学と実験哲学の関係について若干の考察が試みられ、太田は後者によって前者が取って代わられるというよりも、後者の研究成果・手法が活用される形で、前者の研究の幅がより良い形で幅広いものになる可能性を示唆する。
 本書の末尾を飾る二つの論文が示していることは、メタ倫理学という学問が、哲学諸分野はもとより、関連する諸学問における知見をも取り入れながら進展する学際的(interdisciplinary)な営みであるということである。そのような側面を持つメタ倫理学研究の進展のためには、今以上に、関連する諸学問に従事する研究者たちが活発に意見を交換し、新たな研究への道筋を探っていく必要があるのかもしれない。
[1] 本書補論「その他の研究動向」注7 を参照。
(傍点省略)
 
 
おわりに
 
 私は2016 年に勁草書房より単著を刊行する機会に恵まれたが、その本の編集者を担当してくださったのが渡邊光さんであった。渡邊さんとは単著の出版にあたって何度かお目にかかってご相談をした。その中で、日本のメタ倫理学研究の現状が話題に上がったことがあったが、そこで渡邊さんから次のような趣旨のお話を頂いた。
 ある分野が日本の学問の世界で市民権を得るには、大学の学部生が卒業論文を書くために必要な資料が日本語で揃っていることが必要ではないか。メタ倫理学の場合、古典と言われるいくつかの重要な本は日本語訳が既にある。教科書的な出版物も表れつつある。そうなると次に必要なものはさらに立ち入った内容を扱う専門的な論文集であろう。古典と教科書だけではなく、専門的な内容も扱った論文集があれば、学部生も卒業論文を書くにあたってより専門的な研究動向に言及できるのではないか。
 私は渡邊さんにこのお話を伺い「なるほど」と思い、日本語でメタ倫理学の研究動向を紹介する本を出版することは意義のある仕事になるかもしれないと感じ、単著の次に何か本を作るとしたらメタ倫理学の論文集が良いかもしれないと考え始めた。
 このような考えを哲学の研究会や学会等でお世話になっていた比較的年も近い研究者仲間の何人かに話したところ、なかなか面白そうだということで協力してくれることになり、そこからまたさらに人の輪が広がっていき、今回の執筆陣が揃った。
 執筆者の方々は皆それぞれの分野で意欲的に研究を進めておられる方々であり、既に多くの業績もお持ちの方々である。編集作業の中で拝した草稿は、どれも大変に勉強になるものであり、研究者としてこの上のない僥倖に恵まれた。
 執筆者の方々は大変に多忙な中、論文の執筆に当たってくださった。この場を借りて改めて編者として御礼を申し上げる。また、編者としては至らない点が多々あり、編集上様々なご迷惑をおかけすることにもなってしまった。本の出版の時期も、もう少し早くを想定していたが、大きく遅れることになってしまった。これらの点については心よりお詫び申し上げる。
 私に本書構想のきっかけを与えて下さった渡邊さんは、本書でも再び編集者としての労をとってくださった。この本の打ち合わせの際に、本の出版であるわけだからなるべく「売れる」ようなものにした方がよいかといった趣旨のことをご質問したところ、とにかく執筆者には学問的に優れた本を作ることに注力して欲しい、との非常にありがたいお言葉も頂いたように記憶している。そのお言葉に(素晴らしい執筆陣に揃って頂きながら)編者としてどれだけお答えすることができたか全く定かではない。いずれにしても、このような時代状況において本書のアイデアを下さりそれを出版まで導いて下さったこと、その道程において至らない点も多くある編者に辛抱強くお付き合いを頂いたこと、この場を借りて心より感謝申し上げる。
 
2019 年6 月30 日 八王子にて
蝶名林 亮
 
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