「名前のない家事」をめぐって始まった平山亮さんと山根純佳さんの往復書簡連載。前回からSAを社会的に分有する可能性をめぐり、議論が展開しています。今回は山根さんから平山さんへの応答です。[編集部]
平山 亮さま
長かった夏も終わり、秋らしい日が増えてきましたが、お元気でお過ごしですか。
ここまで「名前のないケア」について、直接自分がケアをする場合の「思案」(たとえば食事の用意なら、栄養や食べる量についての思案)と、自分以外の他者がサービスを利用する際のマネジメントという「思案」(たとえば保育サービスや介護サービスのアレンジやスタッフとのケアのやり方について調整する労働)、このどちらも女性に偏っている、これをいかに分有していくか、という方向で議論をしてきました。
前回のお手紙で、平山さんは3つの論点を出してくださいました。ひとつに、「資源」や「言説」という概念で性別分業の再生産を説明する私の理論(『なぜ女性はケア労働をするのか』)は「思案」という「名前のないケア」のジェンダー不均衡を説明しうるのか、という問いです。ふたつめに、「思案」を複数名で分有したとしても、「思案」した中身が異なればそれを調整する必要がでてくるため、それもまた「厄介」なのではないか、3つめに「この人にSA(Sentient Activity)=思案を委ねたい」という信頼が置けるケアの担い手と与え手の関係を保護するドゥーリアの思想について考えてみてはどうかというご提案です。少し長くなりますが、今回は、この3つの論点についてそれぞれ、お返事を書かせていただきます。
「女性=ケアする存在」という「ジェンダー秩序」とその変更可能性
ひとつめの論点、『なぜ女性はケア労働をするのか』における性別分業のメカニズムの説明には「名前のあるケア」しか含まれていないのではないか、という問いについて考えてみましょう。私は、女性がケア責任を担う性別分業が再生産されるのは、「ケア=女性の責任」とする「言説」と、男女賃金格差という「資源配分」という2つの構造があるからだ。いいかえれば、資源配分や言説構造が変化していくならば、性別分業は変動していく、と論じました。平山さんが整理してくださったように、近年、就労する女性が増え家計に占める女性の収入の重要性が相対的に強まったし、また「嫁介護」という言説がなくなり、「(男であれ女であれ)自分の親は自分で看る」という言説が広まった、という意味で資源配分にも言説にも変化がでてきている。前回の平山さんのご質問は、それにもかかわらず、「名もなきケア」が女性だけに偏るのはなぜなのか、という問題について私の理論は説明しきれていないのではないか、ということでした。
さてまず言えることは、実際に子どもといる時間の長い「名前のあるケア」をしている人が、「思案」や「調整」という「名前のないケア」もすることになる、という単純な答えです。これまでもお話ししてきたように、自分に生存がかかっている他者の世話をすることに伴う自らの「脆弱性」に向き合う経験を十分にしていないからこそ、相手のニーズについて「思案」したり、その実現方法について「調整」する必要性を男性たちは感じていないということになります。子育ての文脈では「名前のあるケア」も、女性に集中しています。日本の男性の家事育児時間は、世界的にみても短いですし、育休取得率も低い。妊娠・出産による女性の離職は、近年変化の兆しがみえているとはいえ、妊娠前有業女性のうち約半数は、第1子出産後無職になっています。また就業継続が可能になっても、夫の長時間労働と妻の時短勤務という組み合わせによって、女性たちは「ワンオペ」しているわけです。
「言説」と「資源配分」というところからみると、以下のようにいえます。女性が就労継続するようになっても、男女賃金格差がつづいており、さらに男性が長時間労働していれば、女性の家計貢献率は低いままであり「男性稼ぎ手」という資源配分構造は変わってないわけです。結局「稼ぎ手ではない」女性が「ワンオペ」することが正当化されてしまう。もうひとつに、職場において「稼ぎ手=男性」「家族ケア=女性」という言説が変わらなければ、女性の育休取得や時短勤務は正当化されるけれども、男性側が希望していても、育休をとることができなかったり、パタハラにあう、ということも起きます。男性の側も「育休を取得したい」という交渉を成功させたり、「父親の休業も当然の権利だ」と主張する言説資源を十分に持ち得ていない状況にあるとも言えます。なぜ女性が「名のあるケア」も「名もなきケア」もしつづけるのかは、この「家族ケア=女性」という「言説」の根強さによってある程度説明できます。
江原由美子の「ジェンダー秩序」論は、「女性=家事・育児」という「性別分業」を「規則」「構造」として位置づけ、私たちの実践をとおしてさまざまな「ジェンダー体制」を産出していくとしています。
家族あるいは夫婦という「ジェンダー体制」があり、その社会組織の中で役割分担がなされているのではない。まず、「男」「女」というカテゴリーと、「家事・育児」「人の世話をすること」を「(「男」というカテゴリーはそれを「しない」ということと、「女」というカテゴリーはそれを「する」ということと)結びつけるパターン(「ジェンダー秩序」)があって、それが各行為主体の実践によって、家族という「ジェンダー体制」において特定の形に産出されていると考えたほうがより適切である(江原2001: 127)
つまり、〈家族〉においても〈職場〉においても、構造としての「性別分業」が、人々の行為の実現可能性(育休取得を正当化できる、できない)を規定している。この状況はまだ変わらないがゆえに、「名前のあるケア」も、また「名前のあるケア」のなかでおこなう「思案」という「名前のないケア」も女性が担いつづけている、ということになります。
ただし私は、江原のジェンダー秩序論を変動の可能性がない決定論になっているとした上で、女性の有する「資源」が変われば女性の「交渉力」も変わり、男性にケアを分有させることが可能だし、また「女性がケアに適している」とする所与の言説を私たちが「批判的」に解釈して現状を変えていこうとする実践をみるべきだ、と主張しました。たとえば「名もなき家事」への不満がSNSでつぶやかれるようになっていること自体、「批判的解釈実践」が広がっていることと理解できます。こうした交渉実践の先に、ケアの分有の実現があり得る、つまり「名もなきケア」を含む性別分業体制は変わり得ると考えます。
ジェンダーの社会化理論――男性は思案できないように育てられる
一方で平山さんが明らかにしてきた「息子介護」の特徴には、以上の「言説」と「資源」による説明はあてはまるでしょうか。介護の文脈では、少子化という人口変動=資源の変動によって、自分の親は自分でみる男性が増え、「ケア=女性の責任」言説に依拠しないケアのスタイル、単身の男性が主介護者であるケースなどがでてきます。平山さんの研究が明らかにしたのは、息子介護をめぐる「資源」や「言説」は変化し「名のあるケア」を男性が担っていたとしても、(第三者からみて)適切に「思案」できていない、もしくは姉妹に「思案」を委ねているといった「名もなきケア」のジェンダー不均衡問題です。この発見を子育ての文脈に置き換えるなら、父子家庭や育休を取得する男性が増え、父親が「主ケアラー」として「名もあるケア」を担っていても、男性であるがゆえに「思案」していないという衝撃的な発見だったわけです。
さて、この「名もなきケアのジェンダー不均衡」=男性が思案できない問題をきれいに説明してくれるのは、成長過程で男性は「思案」できないように育てられてきた、という「ジェンダーの社会化」論です。ではしかし、平山さんは「ジェンダーの社会化理論」を支持されるでしょうか。
私は『なぜ女性はケア労働をするのか』のなかで、「ジェンダーの発達過程」に焦点を当てたナンシー・チョドロウやキャロル・ギリガンの議論をとりあげ、その問題点を指摘してきました。これらは、生まれた時からの社会化過程を通して、女性は他者のニーズに共感し、考慮し、応える能力を身につけていくが、男性はそのような能力を持たずに成長していく、という説です。性別分業の原因を核家族のなかの母親の子育てに見出したチョドロウはこう言います。核家族における社会化過程において、娘は母親への「同一化」をつづけることで、「他者の欲求や感情を自分自身のもの」として経験するようになり、「無意識」のレベルで他者の欲求や感情を察知できるようになっている。それに対し、息子は、母との同一化をやめ「個体化」を達成するため、市場労働の世界へと参入していく、と。またギリガンは、社会化の過程における男女それぞれの役割期待や規範によって、男女は異なる道徳を発達させるといいます。少女は共感能力を発達させ、「他者への責任」を重視する道徳を内面化するのに対し、少年は、他者とは独立した人格を形成し、平等や権利という正義の道徳を内面化していくというのです。ここからギリガンは、男性の権利の道徳だけでなく、女性の「ケアの倫理」の重要性について、社会が気付くべきだと指摘します。
このようにジェンダーの社会化理論は、私たちが論じている「名もなきケア」における他者のニーズを察知し、思案する能力と、女性が社会化で身につける態度や道徳であり、男性はそのような能力をもたずに成長し、大人になっていくのだ、と主張します。
さて先ほどの問いに戻りましょう。「息子介護」がある程度一般的になり「介護=女性」という「言説」が変わっても、それでもなお息子が娘たちよりも「ケア」「思案」できないのはなぜか。ジェンダーの社会化理論は、もっともな回答を与えてくれます。それは、幼少期からの「社会化」をとおして、他者へのニーズを重視しないような人格を形成してきたから、ということになります。前便でもお伝えしたように、私が平山さんのご研究に関心をもったのも、この「他者のニーズ」へのかかわり方をめぐって、「男女間の差異」が強調されていたからです。
「思案できなさ」のどこまでが男性の自己責任?
息子介護者たちが、他者のニーズについて「思案」できず自己満足的なケアを行うのが「ジェンダーの社会化の結果」なのだとすれば、そのように「ジェンダー化された男」になったことについては本人たちの責任ではなく、ジェンダーの社会化をすすめてきた社会の側の責任だ、という言い逃れも可能になります。そして、他者のニーズについて思案しない男性に育ちあがった責任は、介護されている(母)親にもある、ということになります。おそらく、平山さんの著書を読んだ読者のなかにも、「このように息子を育ててはいけない」と心した人(母)もいたでしょう。さて、平山さんは、男性が「思案」できないのは、社会が男性をそのように育てたからだ、と考えるでしょうか。
もちろん社会化を「生涯にわたる」ものととらえれば、成人していわゆる「責任能力」をもってからも、「変わろうとしなかった」ことは、本人の責任といえます。私的領域における依存的地位、すなわち「稼ぎ手」だったり、「息子」であるというポジションを批判的に見直さなかったがゆえに、「依存」と直面してこなかったがために、いざ息子介護者としてケアすることになっても「思案」ができないのだ、と。つまり、周囲が(母が、父が、妻が)そのように育てあげたか、言っても変わらなかった、変わろうとしなかったのか、はたまた、言う気すら起きなかったのか。さて、ここまでで既に平山さんはお気づきかと思います。「ジェンダーの社会化理論を支持しますか」という私の質問には、男性の「思案できなさ」のどこまでを男性の自己責任と考えますか、という問いも含まれています。男子の社会化問題や、ジェンダー不均衡な社会の再生産における「男性の責任」問題は、男性学/男性性研究における重要な論点でもあります。ぜひ平山さんの率直な考えをお聞かせいただければ嬉しいです。
一人よりもみんなで思案するメリット
次に平山さんのお便りの第二の「自己」にかかわる部分、「厄介なSAをみんなですることの厄介さ」について考えてみたいと思います。ニーズの判断やそれを実現する具体的方法について思案について、複数の人がかかわり「引き出しが多いほうがいいに決まっている」とした私に対し、平山さんは「引き出しが多ければそれだけ対立や、意思決定における権力関係」が生じるという点について指摘してくださいました。「自己」とは関係を切り結ぶその相手によって変わりうる。その理解のもとに複数の行為者が「相手(A)にとって何をどうするのがいちばんよいか」を考えようとすれば、そこには必然的にAさんに対する「見方」と「とられるべき対処法」の理解に「ズレ」が生じてくる。それゆえ、複数の行為者が思案し、この「ズレ」を埋めていこうとすれば、それもそれで「厄介」な作業である、というのが平山さんの見立てです。
「私」とは取り結ぶ関係ごとに異なるものであり、相手によって見せている「私」が異なる。これはケア関係だけでなく、あらゆる自他関係で起きていることです。しかし「ケア」の場面以外では、それが特に問題になることはありません。では「ケア」、なかでも思案というSAを主題にしたときの特殊性とはどのようなものでしょうか。それは、周囲の行為者が、ケアされる側である「A」の人生に対する「私の解釈」にもとづいて、Aにとっての最善を判断しなければならない、いわば「代弁」しなければならない状況だからです。「ケアとは関係的なものである」という定義を採用するなら、ケアとは「何を相手にとって望ましいとするか」をめぐるケアする側の感情的なコミットメントから自由ではない、ということになります。
だとすれば、複数のアクターがSAにかかわれば、そこに意見の対立や相違がうまれ、それを解決するプロセスが必要となるのは、必然といえます。施設や保育園でも、ケアワーカーはそれぞれ異なる関係を受け手と取り結んでいますが、記録や引き継ぎ・会議をとおして、ズレを収束させていくということになります。もちろん、非正規の職員が自分が気付いたことや提案があっても、正規の職員に言いづらいといったことはよく聞かれますが、個々の職員が気付くこと、考えることに違いがあること自体は共有された前提といえます。
しかし、ここでいうケアワーカーのあいだの理解の「ズレ」と、平山さんが例にあげてくだった親族(きょうだい)のあいだの「ズレ」には質的な違いがありそうです。「家族」がいるケア関係において何が問題になるかというと、受け手との関係性が人生の一部、アイデンティティの一部になっているという点です。そのため、子どもなら「将来(未来)」、高齢者なら「過去」といった時間的スパンで、「何が望ましいか」を解釈しようとするという点にあります。すなわち「今、ここ」の相互行為からは必ずしも導き出されない、もしくは現時点の相互行為を解釈する資源としての、「望ましい未来像」や「過去の人生像」が、判断に用いられる点です。
ここで考えたいのは、はたしてケアする側は「相手にとって何がよいか」という判断や解釈を、ケアの受け手の視点だけにたって、考察しているといえるのかという問題です。「Aさんとはこのような人だ」「だからこうしてあげたい」という思いは、「家族とは(母親・父親・自分の子ども)こうであってほしい」という「ケアする側の願望」とを明確に切り分けることは可能でしょうか。平山さんは前便で、どのように終末期を過ごすべきかの決断の場面で、一方の娘からしてみれば「依存的な母親」、他方の息子からしてみれば「世話になりたくない自立した母親」という見え方のズレによって、最適な解決策が判断できなかった状況についてあげてくださいました。母に対する適切な対処法をめぐる判断が姉と弟で異なるのは、「母にはこのようであってほしい」という期待が娘と息子で異なったからであり、また母側の娘と息子に対する期待も異なったからでしょう。その意味で、「関係」の取り結び方は、ジェンダー化された社会規範の影響を多かれ少なかれ受けています。
何より、障害者の自立生活運動が訴えてきたように、母親が思案する「この子のため」が、社会の「障害者差別」を内包したものであるなら、ケアする側とされる側の関係の結び方は、社会的要因から切り離された「純粋な個人的な関係」とはいえません。つまり、ケアする側の「思案」が寄りどころとする、社会的な規範の反映でもある「望ましい・こうあるべき人生像」が、ケアの受け手にとって望ましいものとは限らないのです。
極端な言い方をすれば「Aにとって何が望ましいのか」という判断とは、ケアする側が投影する「Aにとっての人生」が「こうであってほしい」という「代弁」にすぎません。そしてこの「代弁」は、「Aのニーズ」の反映とは限らない、特に「受け手」が声をあげられない状況(終末期)もしくは段階(乳幼児)では、誰にとっても不可知です。このように考えるなら、複数のアクターが「個人A」に対する私にとっての「望ましさ」を提示しあい、交渉し、解釈していくプロセスをもつことは、「厄介」ではあれど、1人のケアラーの「代弁」「独断」を避けるというプラスの意味ももちえるのではないでしょうか。
またケアする側の生から考えるなら、「私とAとの関係」において最適にみえる「解」をそれぞれが出し合い、自らの解釈や見方を刷新していく柔軟性を養う契機でもあります。「協働」しようとする他者が、上述した「柔軟性」をもっている場合には、異なる「見方」を提示しあうことで、Aをとおした新たな対話の場がうまれることになります。
しかし問題は、協働の相手が、他者との対話を好まない相手だった場合です。他者と相談したり、自らの考えを相対化するトレーニングができていない相手との対話は、もはや対話とはいえません。これについては、冒頭にあげた男の子の社会化問題から解決すべきかもしれません。また、平山さんがご指摘していた「構造的につくられる声の大きさ」という問題が残ります。受け手をとりまく人々の交渉力に差がある場合には、「交渉」は「介入」に転化します。
交渉力の格差という点については、異性愛の夫婦間では男女の賃金格差の解消といった解決策があげられますが、同性のきょうだい間でも、正規か非正規かといった雇用形態によって交渉力に差がでてくるとすれば、それをどのように解決するべきなのでしょうか。少なくとも、今現在のケアへのコミットメントの程度が違う場合、すなわち受け手との相互行為を担っているのがAとBであった場合には、そうではないCの判断と同等の重みを与えることには問題があるように、直観的に感じます。つまり、日常生活を支えているケアラーの「思案」を尊重するというのが解決策にみえるかもしれません。これは平山さんが前便であげたキテイの「ドゥーリア」、すなわち代替不可能なケアの受け手と与え手のケア関係を保護する支援のあり方とも矛盾しないと思いますが、いかがお考えになるでしょうか。
「信頼」とドゥーリアをめぐって
最後に平山さんがあげた第三の論点、「信頼」の問題に移行してお手紙を終わりにしたいと思います。
前便で平山さんが提示してくださったのは「この人がやってくれることなら安心」「この人に任せれば大丈夫」と思える信頼している行為者に、ニーズの満たし方ごと委ねる、そうしたケア関係を保護するのも、社会化のひとつではないか、という提案です。そうした関係においては、ケアの担い手は他の誰かには代えられないという意味で「代替不可能」なのだと。ここで平山さんは「代替不可能」な「信頼にもとづく情緒的関係」のユニットとして、家族・親族を想定されているのでしょうか。それとも、血縁家族を超えた親密な他者を想定されているのでしょうか。今回は、おそらく平山さんも同意してくださるであろう点、――「代替不可能」な「情緒的関係」のユニットを「家族」とすることの問題点——のみあげておきたいと思います。
ひとつはケアをめぐるジェンダー平等化に絡む問題です。フェミニズムは、ケアの社会化をめぐって、第一に、家族であり代替不可能だというロジックを切り崩し、社会保障のプログラムとしてケアサービスの外部化(現物給付)をすすめるか、第二に「家族」をケアのユニットととらえ「名前のあるケア」を含めて現金給付をするかという議論をしてきました。介護保険制度の設計の際、家族介護者への現金給付の提案が女性を介護に縛りつける」との批判かを受け、現物給付に一本化されたことは有名な話です。家族介護者への現金給付は、ドイツ、オーストリア、韓国などで制度化されていますが、家族ケアラーの多くが女性になってしまっています。また、介護の現金給付は、生活保障という点でも十分なものとはいえません。もちろん、生活できるくらい十分な保障を与えるという選択肢はありますが、現在のケア関係を代替不可能なものとして保護する限り、性別分業は維持されてしまうという問題があります。
では第一の現物給付=外部化だけが、ジェンダー平等化のための選択肢かというと、第三の方法としてケアの時間保障という選択肢があります。EUでは「男性のケア時間」も含め、家族に対するケアの時間の保障がジェンダー平等戦略として支持されてきました (Knijn and Kremer 1997)。日本でも、ケアを必要とする期間のなかで一定の期間のみ「ドゥーリア」的な観点が前提とされている政策もあります。たとえば産前・産後休暇、育児休業、介護休業のほか、看護休暇が「時間給付」の例としてあげられます。しかし、残念ながら日本では、育児・介護休業にしろ、短時間勤務制度にしろ、女性だけが「ケアの時間」を確保することで、ケア時間のジェンダー不均衡が維持されたままになっています。
平山さんの「ドゥーリア」的支援の提案が、現金給付なのか、時間給付のかはわかりませんが、どちらにしてもジェンダー平等化に向けた解決策としては問題含みといえます。もちろん、平山さんは「SA=名前のないケア」だけに限定して「ドゥーリア」的協働を提案しているのかもしれません。だとしたらケアする人への支援は、時間給付でも現金給付でもない第三の支援になるのでしょうか。その具体的な中身もぜひお伺いしたいです[1]。
また家族を「信頼にもとづく情緒的関係」のユニットとしてしまうことは、ケアの受け手のニーズという点からも、課題があります[2]。以前、親が育児休業を取得した際、3歳児クラス以下の子どもが保育園を退園しなければならないという問題をとりあげましたが、保育園が大好きな子どもにとって「やっぱりお母さんと家にいるのが一番」というロジックで、保育園生活から切り離されることはパターナリズムに他なりません。乳幼児の場合には、本人の意思が確認されることはなく、「本当は母親にケアされたい」は社会的に正当なニーズとみなされており、そのことがケアのジェンダー不均衡な配分を強化することにもなります。
また障害者運動が主張してきたように、親によるケアも、子どものニーズの実現や自立を阻む抑圧的な関係に転化しうるという問題があります。子どもを愛する親によるケアが自分たちの「ニーズ」の表明や実現を困難にするとして、家族とは別の「信頼できる」「介助者」との関係の構築を目指してきたという流れもあります[3]。少なくとも、親への愛情や友情といった情緒的結びつきと、この人ならケアをお願いできるという「信頼」とは別ものと言えます。高齢者介護の関係でも、「信頼」の対象は、家族以外のところに向けられる可能性があります。
ここについても平山さんは「いえいえ、SAの担い手として家族を前提にはしていない」「受け手側の意思や選択」を前提にしている、というお返事をくださるのではと予想はしています。少なくとも、SAにおける「信頼にもとづく情緒的関係」を、「もっともよく思案できるのは母親だ、家族だ」というイデオロギーからいかに切り離していくのか、今後もいっしょに考えていければ幸いです。
2019年9月
山根純佳
次回は、平山亮氏がご登場です。[編集部]
【プロフィール】山根純佳(やまね・すみか) 1976年生。東京大学院人文社会系研究科修士課程・博士課程修了し、博士(社会学)取得。2010年山形大学人文学部講師、同准教授を経て、2015年より実践女子大学人間社会学部准教授。著書に、『なぜ女性はケア労働をするのか 性別分業の再生産を超えて』(勁草書房、2010年)、『産む産まないは女の権利か フェミニズムとリベラリズム』(勁草書房、2004年)、『現代の経済思想』(共著、勁草書房、2014年)、『正義・ジェンダー・家族』(共訳、岩波書店、2013年)など多数。
参考文献
江原由美子(2001)『ジェンダー秩序』勁草書房
深田耕一郎(2013)『福祉と贈与:全身性障害者・新田勲と介護者たち』生活書院
Knijn T. and M. Kremer (1997) Gender and the Caring Dimension of Welfare States: Toward Inclusive Citizenship, Social Politics, 4(3), Fall 1997, 328–361.
注
[1]ただし、キテイのドゥーリアの根本的な発想は、自己のニーズによりも他者のニーズを優先してしまうケアラーやケアワーカーの脆弱性を保護しようというものであり、SAというより「名前のあるケア」にかかる「時間」やそれによる「逸失利益」を補塡しようというニュアンスがあります。
[2]子育ての基礎単位はいまだ「家族」でありつづけていますが、おひとりさまが増加している現代社会で、「ケア」のユニットとして「家族」を前提してよいのか、という問題もありますが、これについてまた他のところで議論したいと思います。
[3]深田(2013)では、家族との私的生活を維持しつつも、その同じ私的領域に他人介護者を入れることでつくりあげられる全身性障害者の「自立生活」のあり方が考察されています。
》》山根純佳&平山亮往復書簡【「名もなき家事」の、その先へ】バックナンバー《《
vol.01 見えないケア責任を語る言葉を紡ぐために from 平山 亮
vol.02 女性に求められてきたマネジメント責任 from 山根純佳
vol.03 SAには「先立つもの」が要る――「お気持ち」「お人柄」で語られるケアが覆い隠すこと from 平山 亮
vol.04 〈感知・思案〉の分有に向けて――「資源はどうして必要か」再考 from 山根純佳
vol.05 思案・調整の分有と、分有のための思案・調整――足並みを揃えるための負担をめぐって from 平山 亮
vol.06 なぜ男性はつながれないのか――「関係調整」のジェンダー非対称性を再考する from 山根純佳
vol.07 SAの分有に向けて――ケアの「協働」の可能性 from 山根純佳
vol.08 Sentient activityは(どのように)分けられるのか――構造、自己、信頼の3題噺 from 平山 亮
vol.09 ジェンダー平等化の選択肢とケアにおける「信頼」 from 山根純佳
vol.10 SA概念で何が見えるか(前編)――「男は察知も思案も調整も下手」で「やろうと思ってもできない」のか from 平山亮
vol.11 SA概念で何が見えるか(後編)――“ゆるされざる”「信頼」の対象と“正しい”思案のしかたをめぐって from 平山亮
vol.12 [対談]社会はケアをどのように分有し、支えるべきなのか/山根純佳・平山亮
vol.13(最終回) [対談後記]連載の結びにかえて/平山亮・山根純佳