「名前のない家事」をめぐって始まった平山亮さんと山根純佳さんの往復書簡連載。前回からSAを社会的に分有する可能性をめぐり、議論が展開しています。今回は山根さんから平山さんへの応答です。[編集部]
平山 亮さま
長かった夏も終わり、秋らしい日が増えてきましたが、お元気でお過ごしですか。
ここまで「名前のないケア」について、直接自分がケアをする場合の「思案」(たとえば食事の用意なら、栄養や食べる量についての思案)と、自分以外の他者がサービスを利用する際のマネジメントという「思案」(たとえば保育サービスや介護サービスのアレンジやスタッフとのケアのやり方について調整する労働)、このどちらも女性に偏っている、これをいかに分有していくか、という方向で議論をしてきました。
前回のお手紙で、平山さんは3つの論点を出してくださいました。ひとつに、「資源」や「言説」という概念で性別分業の再生産を説明する私の理論(『なぜ女性はケア労働をするのか』)は「思案」という「名前のないケア」のジェンダー不均衡を説明しうるのか、という問いです。ふたつめに、「思案」を複数名で分有したとしても、「思案」した中身が異なればそれを調整する必要がでてくるため、それもまた「厄介」なのではないか、3つめに「この人にSA(Sentient Activity)=思案を委ねたい」という信頼が置けるケアの担い手と与え手の関係を保護するドゥーリアの思想について考えてみてはどうかというご提案です。少し長くなりますが、今回は、この3つの論点についてそれぞれ、お返事を書かせていただきます。
「女性=ケアする存在」という「ジェンダー秩序」とその変更可能性
ひとつめの論点、『なぜ女性はケア労働をするのか』における性別分業のメカニズムの説明には「名前のあるケア」しか含まれていないのではないか、という問いについて考えてみましょう。私は、女性がケア責任を担う性別分業が再生産されるのは、「ケア=女性の責任」とする「言説」と、男女賃金格差という「資源配分」という2つの構造があるからだ。いいかえれば、資源配分や言説構造が変化していくならば、性別分業は変動していく、と論じました。平山さんが整理してくださったように、近年、就労する女性が増え家計に占める女性の収入の重要性が相対的に強まったし、また「嫁介護」という言説がなくなり、「(男であれ女であれ)自分の親は自分で看る」という言説が広まった、という意味で資源配分にも言説にも変化がでてきている。前回の平山さんのご質問は、それにもかかわらず、「名もなきケア」が女性だけに偏るのはなぜなのか、という問題について私の理論は説明しきれていないのではないか、ということでした。
つづきは、単行本『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』でごらんください。