「名もなき家事」の、その先へ――“気づき・思案し・調整する”労働のジェンダー不均衡
vol.09 ジェンダー平等化の選択肢とケアにおける「信頼」/山根純佳

ジェンダー研究者・山根純佳×『介護する息子たち』著者・平山亮による、日常に織り込まれたジェンダー不均衡の実像を描き出し、新たなジェンダー理論の可能性をさぐる交互連載(月1回更新予定)。「ケアとジェンダー」の問題系に新たな地平を切り拓き、表層的な“平等”志向に陥らない「家族ケア」再編への道筋を示します。

 
「名前のない家事」をめぐって始まった平山亮さんと山根純佳さんの往復書簡連載。前回からSAを社会的に分有する可能性をめぐり、議論が展開しています。今回は山根さんから平山さんへの応答です。[編集部]
 
 
平山 亮さま
 
 長かった夏も終わり、秋らしい日が増えてきましたが、お元気でお過ごしですか。
 
 ここまで「名前のないケア」について、直接自分がケアをする場合の「思案」(たとえば食事の用意なら、栄養や食べる量についての思案)と、自分以外の他者がサービスを利用する際のマネジメントという「思案」(たとえば保育サービスや介護サービスのアレンジやスタッフとのケアのやり方について調整する労働)、このどちらも女性に偏っている、これをいかに分有していくか、という方向で議論をしてきました。
 
 前回のお手紙で、平山さんは3つの論点を出してくださいました。ひとつに、「資源」や「言説」という概念で性別分業の再生産を説明する私の理論(『なぜ女性はケア労働をするのか』)は「思案」という「名前のないケア」のジェンダー不均衡を説明しうるのか、という問いです。ふたつめに、「思案」を複数名で分有したとしても、「思案」した中身が異なればそれを調整する必要がでてくるため、それもまた「厄介」なのではないか、3つめに「この人にSA(Sentient Activity)=思案を委ねたい」という信頼が置けるケアの担い手と与え手の関係を保護するドゥーリアの思想について考えてみてはどうかというご提案です。少し長くなりますが、今回は、この3つの論点についてそれぞれ、お返事を書かせていただきます。
 
「女性=ケアする存在」という「ジェンダー秩序」とその変更可能性
 
 ひとつめの論点、『なぜ女性はケア労働をするのか』における性別分業のメカニズムの説明には「名前のあるケア」しか含まれていないのではないか、という問いについて考えてみましょう。私は、女性がケア責任を担う性別分業が再生産されるのは、「ケア=女性の責任」とする「言説」と、男女賃金格差という「資源配分」という2つの構造があるからだ。いいかえれば、資源配分や言説構造が変化していくならば、性別分業は変動していく、と論じました。平山さんが整理してくださったように、近年、就労する女性が増え家計に占める女性の収入の重要性が相対的に強まったし、また「嫁介護」という言説がなくなり、「(男であれ女であれ)自分の親は自分で看る」という言説が広まった、という意味で資源配分にも言説にも変化がでてきている。前回の平山さんのご質問は、それにもかかわらず、「名もなきケア」が女性だけに偏るのはなぜなのか、という問題について私の理論は説明しきれていないのではないか、ということでした。
 

 さてまず言えることは、実際に子どもといる時間の長い「名前のあるケア」をしている人が、「思案」や「調整」という「名前のないケア」もすることになる、という単純な答えです。これまでもお話ししてきたように、自分に生存がかかっている他者の世話をすることに伴う自らの「脆弱性」に向き合う経験を十分にしていないからこそ、相手のニーズについて「思案」したり、その実現方法について「調整」する必要性を男性たちは感じていないということになります。子育ての文脈では「名前のあるケア」も、女性に集中しています。日本の男性の家事育児時間は、世界的にみても短いですし、育休取得率も低い。妊娠・出産による女性の離職は、近年変化の兆しがみえているとはいえ、妊娠前有業女性のうち約半数は、第1子出産後無職になっています。また就業継続が可能になっても、夫の長時間労働と妻の時短勤務という組み合わせによって、女性たちは「ワンオペ」しているわけです。
 ↓ ↓ ↓
 
つづきは、単行本『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』でごらんください。

 

ジェンダー研究者・山根純佳×『介護する息子たち』著者・平山亮による、日常に織り込まれたジェンダー不均衡の実像を描き出し、新たなジェンダー理論の可能性をさぐる交互連載(月1回更新予定)。「ケアとジェンダー」の問題系に新たな地平を切り拓き、表層的な“平等”志向に陥らない「家族ケア」再編への道筋を示します。
Go to Top