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『〈現在〉という謎』

 
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森田邦久 編著
『〈現在〉という謎 時間の空間化批判』

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はじめに
 
 哲学と物理学はいくつのかの共通する主題をもっている。しかし、とくに国内においてはこれら二つの分野の交流はきわめて少ないのが現状である。だが、異なる方法論をもつ異なる分野の研究者たちが双方にとって重要な同じ主題について議論をすることは有益であるに違いない。このような動機から、編者は九州大学QR プログラム「現代物理学における時間論の哲学的解釈」(研究代表者:森田邦久)の支援のもと2016 年12 月17 日・18 日に立正大学にて「『現在』という謎~時間の空間化とその批判~」というシンポジウムを開催し、物理学と哲学双方の研究者たちに講演をしていただいた。このシンポジウムは幸いなことに好評を博したので、このシンポジウムおよび上記プログラムの支援のもとで開催されたほかの講演会を中心に論文集を編むことにしたのが、本書誕生の経緯である。
 本書では、まず、物理学・哲学両分野の研究者たちから時間を主題とした論文を寄稿していただき、さらに、それら寄稿された論文のうち、哲学者の論文には物理学者が、物理学者の論文には哲学者がコメントをつけあい(一部例外あり)、それにまた執筆者が回答して議論するという体裁にした。なお、哲学側の論文は計5 本だが、そのうち1 本はインド哲学の研究者によるものであり、これに対しては物理学ではなく西洋哲学の研究者からコメントをつけてもらった。
 ただたんに物理学者と哲学者から寄稿された論文を集めるのではなくこのように「議論」することで、なんらかの化学反応が起こることを期待した。もちろん、本書1 冊でそれほど明確な成果が達成できるとは、編者である私自身そこまでは期待していない。
 だが、たとえば、同じ「時間」という問題についても哲学者と物理学者では、問題意識、そして問題へのアプローチの仕方がかなり異なることが浮き彫りになったのではないか。それは、論文→コメント→回答というやりとりのなかで、ある意味で互いの議論がかみ合っていないように見えるような仕方で浮かび上がっているように思える。
 「かみ合っていない」ことはかならずしもなにも進展していないことではなく、その点を意識し、どこがかみ合ってないのかを明らかにしていくことは重要である。したがって、本書の試みは時間の本質へ迫るための物理学者と哲学者とのさらなる交流の第一歩であるといえよう。
 
 さて、本書の書名は『〈現在〉という謎:時間の空間化批判』である。しかし、本書に収められた論文、そしてコメントなどを実際に読み進めていただくとわかると思うが、(少なくとも今回本書に参加していただいた)物理学者たちは、そもそも「〈現在〉という謎」があるというその問題意識自体を哲学者たちと共有していないことが見えてくる。もちろん、哲学者も全員が「〈現在〉という謎」が存在すると思っているわけではないだろうが、一方で、そのような謎があるという問題意識について一応は理解しているだろう(つまり、そのような問題意識は理解できるが、その問題は擬似問題であると考えている哲学者もいる)。
 今回、哲学者たちとの議論を通して、物理学者たち(執筆者だけではなく読者も)にも少しでもこの問題意識を(それが真の問題だと考えるかどうかは別として)共有していただけたなら成功であるといえるだろう。もっとも、執筆を依頼する時点でその問題意識を共有する努力をしておけというのは、編者に対する正当な批判であり、その点に関して編者として怠惰であったことは反省点でありこの場を借りてお詫びしておきたい。だが、言い訳を許していただけるなら、むしろ、今回物理学者の方たちから寄せられた論文およびコメントによってどのように問題意識が共有されていなかったのが明らかになったのであり、その点において本書は一定の成果を得ることができたともいえるだろう。
 ここで、拙論(本書第5 章)および拙論に対する谷村氏のコメントへの回答とも少し重複してしまうのだが、「〈現在〉という謎」について簡単に述べておこう。哲学者たちは「現在」には2 種類あると考える。すなわち、「指標的現在」と「絶対的現在」である。指標的現在とは、発話者と同時の時点であり、それゆえ、発話者に相対的な時点である。つまり、現在というなんらかの意味で特別な時点が時空内にあるわけではない。これは「ここ」や「あそこ」が発話者のいる地点を指示しているにすぎないことと並行的である。ちなみに、『新明解国語辞典』(第7 版、三省堂)の「現在」の説明は「主体が何かをしている、その時」とあり、指標的現在の立場を取っていることがわかる。なお『広辞苑』(第7 版、岩波書店)では「時の流れを三区分した一つで、過去と未来との接点」とあり、『大辞林』(第3 版、三省堂)もほぼ同じ説明であり、とくにどの立場に立つというわけではない説明になっている。
 一方で、絶対的現在(以下では〈現在〉と表記――タイトルの〈現在〉もこれを意識している)は発話者と相対的ではない、特権的な時点を指す。このような意味での現在はたしかに理解がしにくいかもしれない。
 だがたとえば、〈現在〉はないとして、さらに、現在における存在者だけではなく過去や未来における存在者も存在するとしよう。ここで「存在する」と現在形で述べているが、働きとしては無時制である。たとえば「4 次元時空が存在する」というとき、その4 次元時空には(発話時から見て)過去や未来も含まれているが、なんらおかしな言明ではない。さて、そうだとすると(〈現在〉がなく、かつ、過去や未来における存在者も存在するとすると)、読者であるあなたは、あなたがこの世に存在している全期間にわたって4 次元的な存在者として存在しているだろう。すると、この文を読んでいるこの時点におけるあなたはそうした4 次元的存在者の時間的な部分ということになる。同様にして、本書を読む前のあなたの時間的部分も存在するだろう。そして、そのどちらもが「いまこの瞬間が現在である」と考えているだろう。この現在は指標的現在である。あなたの各時間的部分における指標的現在はどれも平等であり、どれが特別ということはない。
 ところが問題は、もしこのような指標的現在しか存在しないのだとすれば、「時間が経過する」とはどういう意味かが、少なくとも即座には理解できないということである。どういうことだろうか? たとえば、いまあなたがこの「はじめに」を読み始めてからここまで1 分経過したとしよう。しかし、指標的現在しか存在しないならば「1 分経過した」とはどういう意味だろうか。指標的現在しか存在しないならば、たんに、「読み始めのあなたの時間的部分」が存在する時点と「この文を読んでいるあなたの時間的部分」が存在する時点の時間軸上の距離が1 分であるというだけであり、なにも「経過 pass」していない。
 一方で、もし〈現在〉(絶対的現在)が存在するならば、「時間が経過する」とは、そのような〈現在〉が時間軸上を移動するという「動的」な描像が可能であろう(ただし、現在主義といわれる立場ではこのような描像を取らない)。それゆえ、もし「時間が経過する」という私たちの強い直観が正しいのならば〈現在〉も存在するはずである。そしてそうだとすると〈現在〉とはなんなのだろうか? もしくはそのような〈現在〉なるものは本当に存在するのだろうか? これが「〈現在〉という謎」という意味である。たとえば、〈現在〉は存在しない、それゆえ時間も経過していないというのも一つの立場であるが(私自身はこの立場である)、そうすると、私たちがもつ「時間が経過する」という強い直観をどう説明するべきだろうか?
 もちろん、これまでの科学史は、「太陽が地球の周りを回っている」のような私たちの直観がいかに頼りのないものであるかを示してきた歴史であるともいえる。それゆえ、「時間が経過する」という直観もまた誤りである可能性はある。しかし、ここで問題なのは、「太陽が地球の周りを回っている」という直観の否定ほど、現在の物理学は明確に「時間が経過する」という直観を否定できているのだろうかということである。この点についてくわしく論じ始めると明らかに「はじめに」の領分を越えてしまうのでほどほどにしておくが、バロンが指摘するように(Baron 2017)、現在の時間経過否定派の論拠は「現代の物理理論に『時間経過』の居場所がない」というものである。しかし、天動説の否定も、おそらくそのほかの科学による「直観」の否定も、たんに理論にその直観の居場所がないというだけの理由によるものではなかったはずだ。それゆえ、むしろ、私たちには「時間経過の感覚」というある種の「観察事実」があるのだから、現代の物理理論の方に不足があるのではないかという可能性が捨て切れるわけでは、少なくとも現時点ではないだろう。
 なお、〈現在〉が存在するという哲学的立場でも、対立する複数の理論がある。すなわち、動くスポットライト説、成長ブロック宇宙説、現在主義である。
 成長ブロック宇宙説は文字通り、時間次元も含めた4 次元ブロック宇宙が時間軸方向に成長していくというモデルである。このとき、すでに存在するブロック宇宙は過去にあり、存在しない領域が未来であり、そしてブロック宇宙の端が〈現在〉ということになる。存在する領域と存在しない領域の境界なのであるから、〈現在〉はたしかに、世界のあり方に関わる特別な意味をもつ時点である(時間が経過するとはブロック宇宙が成長していくことである)。
 また、現在主義は〈現在〉に存在するもののみが存在するというモデルであり、「なにが存在するか」は「〈現在〉にあるかどうか」で決まるのだからやはり〈現在〉は特別な時点である(時間が経過するとは現在における存在者の物理的性質が変化することであり、「変化」はそれ以上説明できない原始概念である)。
 動くスポットライト説は、過去・現在・未来のいずれに存在する存在者も存在するのだが、近年注目を浴びている新しいタイプの動くスポットライト説によると、〈現在〉に存在する存在者は過去や未来に存在する存在者とは存在の仕方が異なる(時間が経過するとは、〈現在〉が時間次元を過去から未来へ移動することである)。そういう意味でやはり〈現在〉は特別な時点である。このとき、時間が経過しないモデル(iii 頁で説明したモデル)とは異なり、過去や未来の個物と現在の個物は異なる時空点に存在する異なる時間的部分なのではなく、これらは同一であるとされる。
 以上を踏まえると本書の副題である「時間の空間化批判」もある程度意味はとれよう。すなわち、物理学は「現在」という概念を適切に記述できていないというような批判が哲学側からなされることがあるが、ここでの「現在」は〈現在〉のことである。そして、このような形而上学的に特別な時点を認めることは時間と空間が根源的に異なることも示すし、逆にいえば、そのような特別な時点の存在こそが時間の空間とは異なる特徴である。ところが、上述のように、現代物理学には〈現在〉の居場所がないのだから、それは時間を空間と同様に扱っている――時間を空間化しているということである。
 なお、だからといって物理学では時間と空間をまったく区別していないというわけではない。物理学においてどのように時間と空間が異なる扱いをされているかという点については筒井論文(第2 章)を参照されたい。また、物理学が時間を空間化しているという批判をしはじめたのは管見ではベルクソンだと思うが、ベルクソンについては平井論文(第6 章)を、そして、ベルクソンに加えて、彼の影響を受けてやはり物理学による時間の空間化に異を唱えている異端の物理学者プリゴジンの思想については三宅論文(第7 章)を読んでいただきたい。
 物理学者の標準的な時間観を知るには谷村論文(第1 章)が最適であろう。哲学的な視点も加えながら独特の物理学的時間観を提示しているのは細谷論文(第3 章)である。また、西洋哲学とは異なるインド仏教における時間観が佐々木論文(第8 章)では解説されている。青山論文(第4 章)は〈現在〉を認めることによる奇妙な哲学的帰結を論じ、森田論文(第5 章)では〈現在〉を認めるか否かで時間に始まりがあると認めるか否かが変わるという議論をしている。
 最後に、繰り返しになるが、本書の試みは物理学者と哲学者との交流の第一歩であるにすぎない。本書をきっかけにこれら二分野の交流が深まっていくことを期待したい。
 
2019 年5 月
森田邦久
 
参考文献 Baron, S.( 2017). Feel the Flow. Synthese 194: 609-630.
 
 
あとがき
 
 カズオ・イシグロの小説『日の名残り』[1]において、貴族の館の執事だったスティーヴンは、伝聞と記憶を含めて一人称で第二次大戦前後のイギリス社会を語る。そこには忘却からくる微妙な矛盾が含まれ、その重層性ゆえに全体としてリアルな世界が描き出されている。
 物理学は一人称で語りうるだろうか? 通常の論文においては、主語に一人称複数のwe が使われて、例外的にアインシュタインが一人称単数のIch を使った。しかし、このどうでもよい形式的なことを別として、内容的には三人称的記述のものがほとんどである。相対論における時空図、量子論におけるエンタングルメントの模式図など、誰が見た景色だと聞きたくなる。
 通常の物理学者は「一人称、三人称」という文学的な表現を嫌うかもしれない。この「あとがき」では、一人称的記述を操作的な記述、三人称的記述を(いい表現が見つからないが)数学的記述と同義とする。ここに操作的記述とはその推論の各ステップがすべて実験的に検証可能な記述の仕方をいう。数学的記述とは検証を脇において時空全体を俯瞰して記述する。哲学の専門家には操作的、数学的というとなじみがないかもしれないので、以下では一人称、三人称という表現を使う。そうすると、熱力学におけるカルノーの定理は操作的なので一人称的といえるだろう。同様に、ファラデーの電気力線、磁力線を描く電磁気学も一人称的であるが、電場と磁場の存在を仮定したマクスウェルの電磁気学はまさに数学的であるので三人称的である。その数学的理論の実験的検証でも、測定のプロトコルは必然的に操作的なので一人称的記述になり、思考実験においても同様であることは重要である。
 今回の、時間に関する「哲学」と「物理学」の対話において中心テーマは「現在」であると承知している。私は、物理において、「現在」は一人称的記述にだけ現れるもので、数学的記述に移行した段階では見えなくなるように思う。このような視点から、哲学の方たちが寄稿した論文を読ませていただいた。
 佐々木一憲(第8 章)さんは、インド仏教において認識できるものは実在の変化であるという。その変化が時間であり、認識したときが「いま」であるという。そうすると「過去・現在・未来」という順序は自明でない。私には、インド仏教の思考が禁欲的なまでに一人称的で、時空を三人称的に俯瞰することをしないように見えるが、私の思い違いだろうか? 青山拓央さん(第4 章)は認識する脳と認識される対象が「いま」を共有できるか、という問題を考える。そして、認識に要する物理的時間まで含めると、「いま」は時間軸上の1点ではなく一定の幅をもつと指摘する。どのくらいの幅かは、脳の機能と対象の時間スケールに依存することは平井靖史さん(第6 章)の指摘通りだろう。日常的な場合は10 ミリ秒程度で、ものによっては宇宙時間かかるかもしれない。しかし、一人称に埋没する限り時間スケールの多様性は自覚されないから、時間スケールの多様性の問題は三人称的である。平井さんが論文の末尾に付しているように、「自由意志」を他者との相互作用に要する時間スケールよりも長い時間の熟慮を経た上での決断とすると、自由意志は(意外にも)私的な概念ではなく、公共的なものといえそうである。「私が自由意志をもつ」かどうかは問題にしえないが、「彼は自由意志をもつらしい」は問題になりうる。時間スケールと意識の関係を考察すると、意識の持続性を取り上げれば、必然的に「記憶」の問題に立ち入らざるをえなだろう。平井さんの次の論文が楽しみである。
 現代物理学においては、時空を三人称的に俯瞰することが多い。その数学的理論を場の理論と呼んでもいいだろう。一人称的あるいは操作的な記述がはじめにあるとしても、ある段階で「忘れる」。しかし、その段階で得られた有効理論がじつはある時間スケールでだけで成り立つ場の理論にすぎないことには留意する必要がある。たとえば、原子の世界を記述する自然法則と、気候変動を論じる適切な時間スケールの法則は違う。素粒子物理学に例をとれば、強い相互作用はQCD が基本理論であるが、核子間の相互作用程度の時間スケールではカイラル理論が現象をよく説明する。
 その作業の中に三宅岳史さん(第7 章)が紹介するベルグソンとプリゴジンの「非可逆な時間の問題」が生じるのかもしれない。標準的な物理学では、熱力学第2 法則に現れる非可逆性は粗視化されたマクロ量を変数として確率論的に理解される。しかしながら、上記の二人は、よって立つところの違いにもかかわらず、確率以上の実体的な起源を主張している。ただし、プリゴジンの議論はカオス力学系に偏りすぎていて、非可逆性と情報量の関係というより普遍的な問題がかすんでしまう。
 一方、知覚と独立に時間が存在するという数理物理的(プラトン的?)信念の上に立つときにのみ「宇宙の始まりはあるか?」というような、釈迦が弟子たちに「時間の無駄(!)」として議論を禁じたという「大問題」が成立する(第5 章森田邦久論文)と思う。そこでは認識の問題もスケール依存性も捨象されるが、時間経過の実在性と宇宙に始まりがあるかどうかの問題が関係しているという主張は目新しい。私は、その見かけの純粋性とは裏腹に、「宇宙」「始まり」「ある」という問いの立て方自体に込み入った一人称複数的な文化バイアスが入ると疑う。
 筒井泉さん(第2 章)と谷村省吾さん(第1 章)がそれぞれの語り口で、物理学者が時間についてもっている理解を(おのおのの自説を含む最終節を除いて)公平にわかりやすく述べていて、哲学の方が物理学者の標準的見解を簡便に知るための優れた読み物になっている。しかし、いずれも時間空間を三人称的に記述している。だからこそ「実在」のありかがわからなくなり、「いま」がかすんでしまう。谷村さんが「いま」の問題自体が擬問題ではないか、と疑うゆえんと思う。
 現代物理学が「いま」の問題を扱うとしたら、その三人称的記述を一人称的記述とどこかで接続する必要があるように思う。情報科学の記述が一人称的(操作的)であることが気になる。冒頭に紹介したカズオ・イシグロの小説の記憶と忘却を交えた一人称の語り口が物語の歴史的背景とイギリスの田園風景を生き生きと描写していることが、物理学で「いま」を相手にするヒントになるかもしれない。これを非文学的な言い方に切り替えると、情報処理を取り込んだ物理学を実験可能な操作的な姿でいったん作ってから、それを数学的形式に投企する[2]という道があるといいと思う。物理学史をひもとくと、これはかつて熱力学(カルノーからボルツマン)や電磁気学(ファラデーからマクスウェル)で行ったことであることに気づく。いずれも(一人称)操作的な記述から、(三人称)場の理論的記述に飛躍している。細谷暁夫の寄稿(第3 章)において、熱力学第2 法則による「時間の矢」の本質は「忘却」であるとマクスウェルの悪魔の文脈で一人称的に述べた。一人称的「忘却」は三人称的な統計力学における粗視化と近い概念だと思う。
 アインシュタインは一人で1905 年の特殊相対論から1915 年の一般相対論へと飛躍を行った。そして、おそらく量子力学との関係で、晩年になって、「いま」について考え始めたのだろう[3]。
 ここまで一気に書いてから、一人称複数的記述と三人称的記述の違いについての議論が甘いことに気づいた。たとえば、情報科学全般と量子情報科学における操作的記述は、アリスとボブ、あるいはイブという二者以上の対話で進められていくのであり、「私」だけではない。哲学の人たちとの対話を続けて、考えを進めたいと思う。
 
2019 年4 月
細谷暁夫
 
参考文献
[1]Kazuo Ishiguro(1989), “The Remains of the Day”( =土屋政雄訳『日の名残り』中央公論社、1990 年)
[2]M. ハイデッガー(1990)、細谷貞雄訳『存在と時間(下)』p. 363、ちくま文芸文庫。
[3]R. Carnap(1963), “Intelectual Autobiography”, in The Philosophy of Rudolf Carnap, ed., Paul A. Schilpp. Open Court Publishing Co., p. 37.
 
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