あとがきたちよみ
『ナウシカ解読 増補版』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2019/12/27

 
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稲葉振一郎 著
『ナウシカ解読 増補版』

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はじめに
 
 本書は旧著二冊の再録を中心に、私のまんが・アニメ・ゲームその他サブカルチャーを扱った文章をまとめたものである。
 第一部は一九九六年に窓社から刊行された『ナウシカ解読 ユートピアの臨界』の本論を文献情報に若干の修正を加えた以外は原型のまま再録した。今となっては無用に衒学的で幼い文章であるし、ところどころ見解を修正した論点もあるが、それについては別稿を立てるべきであろう。部分的には「補論」で論じてある。宮崎駿氏へのインタビューについては、旧著を参照していただきたい。
 旧著『ナウシカ解読』は無名の若手に過ぎなかった私の実質的なデビュー作であり、窓社の西山俊一氏には深く感謝している。幸運にも読売新聞で中沢新一氏に取り上げていただき、この種の本としては存外の売れ行きとなった。永井均氏、笠井潔氏にも過分なお言葉を頂いた。記して感謝する。
 
 第二部は二〇〇五年に太田出版から刊行された『オタクの遺伝子 長谷川裕一SFまんがの世界』のうち、第二章「マルチバースのビメイダー 長谷川裕一試論」のみを再録した。第一章の長谷川裕一氏へのインタビューについては、旧著を参照していただきたい。太田出版の落合美砂氏には大変なご苦労をおかけしたが、『ナウシカ解読』とは異なり、マニアックに過ぎたか版を重ねることはかなわなかった。にもかかわらず本書への再録を許可していただき、感謝の言葉もない。
 
 第三部は本書のための書下ろしであり、『ナウシカ解読』『オタクの遺伝子』両著に対する「補論」を意図したもので、まんが『風の谷のナウシカ』以降の宮崎駿、『クロノアイズ・グランサー』以降の長谷川裕一についていくつかの論点をフォローすることを目的として書かれた。といってもそこにある通り、もとより宮崎駿の全体像を描くことは目的としていない。『ナウシカ』それ自体についてはあまり見るべきものはないが、総体としての宮崎駿の仕事を論じた評論、分析した研究には一定の蓄積が既にできている。長谷川裕一についても、新作『機動戦士クロスボーンガンダム・ゴースト』『クロスボーンガンダムDUST』連作については、進行中のこともあり無視せざるを得なかった。一言だけ付け加えるならば、この二作には第四部でとりあげた『マージナル・オペレーション』に似た「世界はおおむね合理的にできている」という感覚、「敵にこそ交渉の相手としての合理性を期待する」という感覚が提示されているところが面白い。
 むしろここで重点的に取り上げたのは、いまは亡き伊藤計劃である。伊藤計劃については山川賢一氏が本格的な論考を準備中であるが、この主題を追跡するに際してはどうしても取り上げないわけにはいかなかった。
 
 第四部に収録したのは、書籍、雑誌、メールマガジンに寄稿したいずれも短いエッセイである。うち二本は『新世紀エヴァンゲリオン』を扱っている。同世代のおたくやSF者の例にもれず、私も久々にテレビアニメを毎週欠かさず見て一喜一憂するという日々を送り、当時ちょうど大衆化しはじめたインターネット上の掲示板やファンフィクションを読み漁ったものである。テレビ放送の終了直後に、窓社にエヴァンゲリオン論の企画を持ち込み、すぐさまご内諾をいただいたが、思うにまかせず、ネット上で知り合った「やおいフェミニスト」を自称するソーシャルワーカーで当時大人気のファンライターの方と共著の相談もしたが、彼女はいつしかサイトをたたみ、連絡も取れなくなった。
 ずっと気にはかかっていたが、いまだに本作についてはこのような断片的なものを、しかも新劇場版の上梓以降にようやく、公にできたのみである。
 残り二つのエッセイは、ともにポストエヴァンゲリオン時代である二〇〇〇年〜二〇一〇年代にかけておたく界隈で注目を集め、メジャーシーンでも相応の成功をおさめた作品を主題としているが、書き手の頭の中では一貫した問題意識に導かれたものであり、またその問題意識は『ナウシカ解読』初版、そして『オタクの遺伝子』からも引き継がれているものである。
 『魔法少女まどか☆マギカ』で世界的な名声を得た虚淵玄の、しかもオリジナル作品ではなくタイアップ、トリビュートを扱った一文は、山川賢一氏の慫慂によって書かれた。ここで虚淵が「バッドエンド依存症」と呼んだ自らの煮詰まり、そしておそらくそれはトリビュートされた『ブラック・ラグーン』の広江礼威を行き詰らせているものでもあろうが、裏返しに言えば「ハッピーエンドの試練」と呼ぶこともできよう。かつてまんが『風の谷のナウシカ』の完結があれほど私たちに感銘を与えたのは、一にかかってこの「ハッピーエンドの試練」を宮崎がどうにかこうにか切り抜けたからであり、テレビ放映版の『新世紀エヴァンゲリオン』があれほど私たちをいらだたせたのも、それが「ハッピーエンドの試練」を潜り抜けられなかったからである。そして私が長谷川裕一に注目するのも、彼がひどく愚直に「ハッピーエンドの試練」を切り抜け続けているからだ。
 とはいっても、ここで見事に「ハッピーエンドの試練」を潜り抜けた宮崎や長谷川をただ称揚していればよい、というわけではない。「エヴァ」を扱った二篇でも触れたが、新劇場版『ヱヴァンゲリヲン』は『序』『破』までは順調にハッピーエンドへの道をたどっていたが、それはやや安易に過ぎるようにも見えた。東日本大震災のインパクトもあったとはいえ、そのハッピーエンドへの道行きを自ら壊した『Q』はむしろ私たちを安心させたとさえいえる。「バッドエンド依存症」には相応の根拠があるのであり、虚淵が言う通り、ハッピーエンドという大噓を確信をもってぶちかますためには、周到な作りこみと、それと裏腹の蛮勇とを必要とするのだ。
 この虚淵論と、もう一篇、『マージナル・オペレーション』論、ないし芝村裕吏論は、弱音を吐かずに「ハッピーエンドの試練」を潜り抜けた宮崎と長谷川だけを見ていてはわからないことを振り返ることを目的として書かれた。虚淵にせよ広江にせよ、生真面目に弱音を吐いていることはいかにも好ましい。それに比べると芝村の感覚はやや異色であるが、そのことの意味はややつかみがたい。
 この二篇で述べたように、ハッピーエンドが困難となっているのは、何も古典的な「勧善懲悪」がともすれば児童まんがにおいてさえやりにくくなっているから、だけではない。すでに『ガンダム』においてはこの図式から離れて「とりあえず子供たちが生き延びていくこと」をもって物語の主軸とし、「生き延びること」をハッピーエンドに位置付けることができた。しかしながらこの「生き延びること」と「成長」とをシンクロナイズさせる語りは、ほどなく失調していく。『エヴァンゲリヲン』とはその失調の証言とさえいえるだろう。『エヴァンゲリオン』における「成長」の物語は、デビルマン的、あるいは少女まんが的な「幼児的全能感の克服」路線と、より古典的な「力の獲得」との間を不安定に揺れ続けている。
 その中で芝村裕吏の『マージナル・オペレーション』が興味深いのは、かなり大仕掛けの立体的な架空世界の中で、意図せずにではあれ大状況を左右していく英雄的な主人公の物語を、一応のハッピーエンドで締めくくったことだ。そこに伏在している「世界はおおむね合理的にできている」という強烈な楽観主義の由来を、しかし私はつかみかねている。個人的な意見を言えば、続編『マージナル・オペレーション改』において芝村は、自分が作り上げた架空世界にやや耽溺し、自家中毒に陥りつつあるのではないか、と危惧する。
 
二〇一九年四月
 
 
おわりに
 
 「はじめに」でも述べたが『ナウシカ解読』初版は存外の売れ行きを上げたので、版元品切の現在でも古書市場で適価で流通しており、また公共図書館での所蔵も多い。反対に『オタクの遺伝子』の方は初版在庫がまだ払底せず、新刊市場で十分に入手可能である。それゆえに、この二著をまとめて新たに刊行することは、ひとえに私のわがままであると言える。あちこちの出版社を渡り歩いた難産の企画であったが、最終的にお引き受けいただいた勁草書房の渡邊光さんには感謝している。また、早い段階で企画をご了承いただいた旧二著の作り手、窓社の西山俊一氏と太田出版の落合美砂氏に、改めてお礼申し上げる。
 今回は、この版元では初の試みとなるが、電子書籍版も制作し、各プラットフォームで販売される。関係各位のご尽力に感謝する。装丁は『オタクの遺伝子』でお世話になったミルキィ・イソベさんにお願いした。
 
 『ナウシカ解読』初版の成り立ちを改めて説明すると、一九九四年に窓社が当時発行していた季刊誌『窓』22号の特集「世紀末のユートピア論」に掲載されたエッセイ「ナウシカあるいは旅するユートピア ロバート・ノージック、笠井潔、そして宮崎駿」が下敷となっている。当初の予定では、偶然にも現在の職場の同僚となった加藤秀一氏との共著で一冊の本を作り上げる予定だったが、結果的に私の単著となり、その後の私のキャリアにも大きな影響を及ぼすことになった。
 『オタクの遺伝子』の方は、太田出版の落合氏からの執筆のご依頼に対して、こちらから持ちかけた企画である。もう時効であろうから白状するが、もとはと言えば同人誌『長谷川裕一ひとりスーパーロボット大戦 大外伝』(二〇〇〇〜二〇〇二年)をコミケに行かずに手に入れてやろう、というよこしまな企みがその原動力であったと言えなくもない。
 
 本書の企画は難産だったので、追加原稿の過半もずいぶん前におおむね書き上げてしまっている。それゆえ、時間的には先に出ることとなった拙著『宇宙倫理学入門 人工知能はスペース・コロニーの夢を見るか?』(ナカニシヤ出版、二〇一六年)、『銀河帝国は必要か? ロボットと人類の未来』(ちくまプリマー新書、二〇一九年)で提示された論点のいくつかは、既にここにあることに読者の皆様は気づかれるかもしれない。とりわけ『銀河帝国は必要か?』の方は、アイザック・アシモフを主対象とする一種の文芸批評と言えなくもない。しかしそこにも書いたが、アシモフのSFが古典と言えるのは、それが文芸作品として今日も再読三読に耐えるから、ではない。彼自身こそが認めるように、小説家として、物語作者としてアシモフは決して一流ではなかった。しかし彼のアイディアは、後世の私たち自身の思考や欲望の枠組みを強く規定してしまっている。私たちにとっても意味のある、何か普遍的な問題群をアシモフは発見した、あるいは作り上げてしまったのだ。
 言うまでもなく宮崎や長谷川の中にも、そのような普遍的な問題群を発見することができる。しつこく論じたように、まんが『ナウシカ』は冷戦終焉の時代の証言者であるし、『鉄人28号 皇帝の紋章』は冷戦の悪夢を再想起する試みである。そして本書では触れることができなかったが、長谷川の最新作『機動戦士クロスボーンガンダムDUST』(『ガンダムエース』連載中)は、やや痛ましいまでにポスト冷戦、そしてポスト・トゥルースの今日に寄り添おうとしている。
 そして広江礼威の懊悩もまたポスト・トゥルースの現在、フィクションを紡ぐことの意味をめぐる苦闘に根差している。フィクション内のキャラクターたちに対しては、時に辱め、苛み、無残に殺戮することこそがもっとも正しい、誠実な向き合い方、愛し方でありうること、それは必ずしも対象を無意味にもてあそぶことではない、ということは歴然たる真実である。しかしながらもちろん、現実の人間に対しては、そんなことはありえない。しかしその違いは、いったい何を意味するのか? ――『BLACK LAGOON』巻末の他愛のないセルフパロディ、あるいは『Re:CREATORS』からは、そのような悲鳴が聞こえてくる。
 
 むろんいうまでもなく彼らの作品は肩肘張った芸術作品ではなく、まずはエンターテインメントだ。いやたとえ芸術作品であっても、その基本的な機能は社会批判や哲学的思索にはない。まずは論理的思考以前のところで、我々の感覚、感情を揺さぶるところにこそその本領はある。J・P・サルトルのかの有名な問いかけに対し、小泉義之は

「人間としての使命は、飢えた子供に水や物を与えるということであるが、文学者としての使命は、飢えた子供にも文学の喜びを分かち与えるということであろう。だから文学者としてのサルトルは、飢えた子供にとっても「嘔吐」は面白いのか問うべきであった。そして、異議申し立てという形式で文学を延命させようとするのではなく、いかに悲惨な状況においても文学は精神の力になると言い切るべきであったのだ。」(『デカルト哲学のすすめ』二六〜二七頁)

と言い切った。本書で取り上げた作り手たちはいずれも、そのようなことは先刻ご承知の方々である。
 むろん世の中には、芸術や娯楽作品を異議申し立てや思想の媒体として利用しようという作り手、つまり意図的なプロパガンダとして作品を作る人々もいることは私も承知している。そしてそのこと自体が悪いとも断じる気はない。たとえばハードボイルド・ミステリのバーク・シリーズ(邦訳は早川書房)をものしたアンドリュー・ヴァクスは児童虐待防止の前線で活躍する実務家でもあり、バーク・シリーズのもともとの執筆目的は社会啓発、つまりはプロパガンダのためと公言している。だがもとよりバーク・シリーズが広く読まれたのはその暗黒小説としてのリアリティ、エロスと暴力描写の官能性ゆえである。そこに魅力がなければ、込められたメッセージも届きはしない。
 だからまあ今回も申し上げる。本書を読まれて取り上げられた作品に興味を持たれた方がおられたら、ぜひ直接お読みになって、あるいはご覧になって、またあるいは実際にプレイしてみていただきたい。
 不遜なことを言えば、今日アシモフを直接読まれる必要はない。彼の作品に提示されたアイディアのありがたみは、直接原典に当たることなくして了解可能だ。バラードやディックと異なり、彼の作品には今日の我々にもリアルに訴えるような官能性は足りない。彼のアイディアの要点だけを知りたい、というのであれば、小飼弾氏がおっしゃってくださった(『週刊新潮』二〇一九年一〇月一〇日号)ように、『銀河帝国は必要か?』を読めば大体事足りる。しかしバラードやディックのアイディアについては、作品に直接あたって、そのぞっとするような肌触りとともに感得されたい。
 そして本書で取り上げた作品群もまた、いずれもまさに、この私たちの現在に属している。だからそのアイディアを本書から知ることで満足することなく、そこに込められた感情、気分をもぜひ直接味わっていただきたい。
 
二〇一九年一〇月 稲葉振一郎
 
 
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