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『多機能化する農村のジレンマ』

 
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市川康夫 著
『多機能化する農村のジレンマ ポスト生産主義後にみるフランス山村変容の地理学』

「序章 「多機能化」する現代農村」(pdfファイルへのリンク)〉
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序章 「多機能化」する現代農村
 
一 問題の所在
 フランスでは国民の農業・農村への関心の高さをしばしば目にすることがある。それは、農村の生活やライフスタイル、農業者のデモや抗議行動、農業や食品の社会問題、農村でのバカンスや休暇、セカンドハウス等であり、農業・農村はフランス社会の様々な場面で目にする確立した一つのジャンルともいえる。
 農業研究者のクロード・セルヴォランは、フランス人が農業に抱くイメージについて、次の二つの固定観念の間で揺れ動くものと説明する(Servolin, 1989)。一つは、「伝統的で矛盾に満ちた農民(paysan)の世界」であり、「粗野で清潔とは言えず、自分の農場に閉じこもる古くさい人々」というイメージである。もう一つは、「国家の支柱としての家父であり、自然に調和した生活と自由を享受する最後の人間、そして書物に頼らない真の知識を有し、きらびやかな都市に抗う唯一の人々」、というイメージである。
 こうしたアンビバレントで固定観念的な農業・農村イメージは、一九九〇年代以降「環境」や「農村の公益性」の登場によって変わりつつある。とりわけ農業といえば「誰にも縛られず、大地に生きる自由な人々」であるという印象はもはや過去のものとなり、農村は中央政府のコントロールによって都市の消費対象の下に置かれ、農業は多額の補助金政策を繰り返した結果、国家や政策の存在無しには持続することが困難となってきた。増加する補助金に税金が使われる以上、その使途の透明性はますます重要とされ、フランスでは国内に住所を有する者はインターネットにて農家の補助金額の詳細を個人名とともに自由に閲覧することができるようになっている。いわば、農家は国民の監視下にも置かれたわけである。
 こうした農業・農村を取り巻く大きな環境変化の背景にあるのが、本書のテーマでもある「農村の多機能化」である。この「多機能化」と聞いて読者は何をイメージするだろうか。実はこの聞き慣れない言葉の概念は、フランスのみならず先進諸国の農業・農村政策において、国境を超えた議論の対象となっている。その背景にある最も大きな要因は、急速な貿易自由化とネオリベラリズムの台頭である。
 経済のグローバル化が加速した一九九〇年代以降、WTO(世界貿易機関)をはじめとする国際的な貿易交渉によって農業補助金の削減が義務化されてきた。しかし、高い生産コストを要する先進諸国の農業にとって、安価な輸入農産品に対抗するためには、政策による農家や農産物に対する補助金制度が必要不可欠である。そこで、自由貿易に基づく国際ルールに抵触することを回避するために登場したのが「農業の多面的機能(multifunctional agriculture)」を利用した「多機能レジーム(multifunctional agriculture regime)」である。これを簡潔に説明すると、先進諸国が自国農業の保護を目的に、「農業の多面的機能(観光、景観美、国土保全)」を盾に補助金を支払うための政治的な戦略体制が「多機能レジーム」ということである。この体制下において、ローカルな農村は社会が期待するその公益性を外部の権力によって強調され、多機能化へと誘導されているということになる。
 では、この多機能レジームの基礎にある「農業の多面的機能」とは一体何であろうか。日本の農林水産省による定義では、「農業の多面的機能」とは「国土の保全、水源の涵養、自然環境の保全、良好な景観の形成、文化の伝承等、農村で農業生産活動が行われることにより生ずる、食料その他の農産物の供給の機能以外の多面にわたる機能」とされる。
 近年の日本における農業・農村分野や政策においても、この「農業の多面的機能」は重要性を増しており、二〇一四年の「農業の有する多面的機能の発揮の促進に関する法律」に基づき、「多面的機能支払制度」(旧、農地・水保全管理支払交付金)「中山間地域直接支払制度」、「環境保全型農業直接支払制度」など、農業の多面的機能を取り入れた補助金政策がヨーロッパの政策設計を参考にし、日本型に改良したうえで導入されている。この背景には、特に一九九〇年代以降、いかに農業・農村の価値を再び見出すかという課題に向けて農村アメニティや農業の環境的側面に注目が集まったことがあるといえる。そして、この農業の多面的機能という用語は、その一見わかりやすい用語の性格から日本では広く一般に用いられるようになり、農業だけではなく漁業など他産業でも使われている。
 しかし、後述するように、農業の多面的機能をめぐっては、各国の政治的立場や貿易交渉でのスタンスによって解釈に差異が存在し、日本における一般的な理解も政治的な文脈と切り離された表現である。農業の多面的機能とは先進諸国によって政治的に生み出された概念であるが、日本では、欧米中心主義的なその政治性が看過され、理論的裏づけがないままに学術分野や一般社会に用いられている状況に大きな問題点がある。したがって、グローバル化以降大きく再編する先進国農村を研究するにあたり、まず政策・政治的背景を考慮した多機能レジーム下の「農業の多面的機能」に関わる概念の整理と理論的検討が必要である。これが本書における第一の論点である。
 そして第二の論点は、農業の多面的機能に関わる理論の学問潮流での位置付けと、その応用である。先進諸国では、第二次世界大戦後の食糧増産期から一貫して農業の近代化と生産性の向上、すなわち「農業の生産主義(agricultural productivism)」を貫いてきた。しかし、一九八〇年代頃から過剰農産物や貿易の自由化、安価な輸入産品の流入が問題化したことで、生産主義の矛盾が問われるようになり、農村が生産の場から消費の場へと転換しているという「ポスト生産主義(post-productivism)」論が登場し、政治経済学や構造主義的アプローチの影響を受けて、地理学や社会学を中心に議論が行われた。しかしポスト生産主義論には定義や概念の限界性があり、また「生産主義は依然として継続している」という点から批判的な論調が二〇〇〇年代以降高まっている。その論点は、今なお先進国の農業は、農産物を商品経済化し、利益を追求する資本主義のパラダイム内にあり、市場から支持が得られる場合は、大量生産のための工業化する農業を優先するということである(Woods, 2011)。
 よって、生産主義はむしろ「超生産主義」あるいは「ネオ生産主義」へと形を変えて強化されているのが現実であり、またこうした状況を包括して新しく農村を捉えなおすフレームワークが求められている。そのなかで登場したのが本書が取り組む「多機能論」であり、本書の副題を「ポスト生産主義後」としている理由がここにある。多機能論は、生産主義とポスト生産主義の両者が並存している状態を理解するためのフレームワークであり、また農村空間のあり方を再考し、さらに再定義を提唱するものである。
 具体的には第Ⅰ部で詳述するが、こうした多機能論における政策と農業・農村との関係の解明には、現地の実態調査を伴った具体的な研究が少ないことが既存の研究で指摘されてきた。これには、農業の問題と農村の問題がそれぞれ各論的かつ断片的に取り組まれてきたという経緯が背景にある。本書は、農業と農村の両者について、フィールド調査を基本としながら多機能論の視点から捉えることを目的とするものである。それは、政策という上からの営力によって変容をしている「農業」と、政策とは一定距離の場所にありながら変容を遂げている「農村」との二側面から捉える試みともいうことができる。
 多機能論の概念、その応用と方法については、まだ学術分野において共通した定義が共有されているとはいえない。第Ⅰ部で検討するように、本書では多機能論をフィールド調査へと応用するうえで必要な議論を抽出し、地理学者を中心とする多面的機能の役割と分析、概念を統合したものを本書で扱う多機能論の射程としたい。とりわけ、本書における狙いは、多機能論を通じて、多面的機能をめぐる農業や農家を取り巻く政治・政策的な状況を明確にし、多面的機能とローカルとの相互関係を、農業経営の通時的分析、農家の意思決定、農村の新たな価値創出を通じて解明していくことである。
 
二 フランス山村という研究対象
 副題にもあるように、本書の研究フィールドはいずれもフランス、しかも山村を調査地域にしている。農業の多面的機能を国際交渉の場で強く主張してきたのはヨーロッパである。伝統的な農業形態と小規模農家を多く抱えるヨーロッパにとって、補助金による農業保護は不可欠だからである。また、欧州経済共同体(EEC)の発足以降、農業はヨーロッパの政策における最重要課題とされてきた。ECC総予算に占める農業・農村予算は一九七〇年代で七五・五%、一九八〇年代初頭で六五%と非常に大きく、現在のEU予算においても約四〇%は農業・農村に充てられている(Carroué ほか、2009、EU共通農業政策二〇一五年データ)。
 このEUにおける農業・農村予算の最大の受益国は、農業大国で知られるフランスである。そして、このフランスのなかで、最も補助金が投入されている場所は、山間地域に位置する山村なのである。換言すれば、多機能レジームに基づく政策が最も強く影響している場所はフランス山村であり、さらにそこで農業を営む農家である。農業政策の最大の目的は、地域的な不均衡を是正することであり、農業補助金は生産性の高い場所に比して条件不利な場所、すなわち地形や気候、市場との遠隔性など様々な要素において条件不利下にある場所との格差是正のためにあるといえる。そのため、ヨーロッパの政策において山間地域は様々な政策革新とイノベーションのための「実験室」として長く位置付けられてきており、ことにフランス山村は、常にその最前線に置かれてきた。したがって、山村を中心とする条件不利地域は、多面的機能を発揮する場としての役割を与えられた政治的な場なのである。本書が取り上げるフランス中央高地(Massif Central:マッシフ・サントラル)は、フランス最大の条件不利地域と呼ばれ、まさに多機能レジームの核心地となる。
 フランス山村の再編は日本とも無関係ではない。日本の農業政策は、政策の先進地であり小規模農家の卓越という共通点を有するヨーロッパの制度設計を長らく参考にしてきた。多機能レジーム下のフランス山村の現在は、農業の多面的機能に関わる政策や直接支払い制度等でヨーロッパの政策を後追いする日本にとって、山村と農業・農村政策の今後の関係性を予見した姿であるともいえる。
 
三 本書の目的と構成
 本書の目的は、生産主義からポスト生産主義という既存のパラダイムを超え、世界的な貿易自由化を背景とする農業・農村政策の政治性に注目し、ローカルな農家がどのように大きな文脈に規定され変容しているのか、そして多機能レジーム下の新たな農村機能がいかにローカルで発現しているかを多機能論の視点から明らかにすることである。フランス山地農村をフィールドに、多様な角度から上記課題を扱うことで、農村問題の解明に資することが本書の関心事ともいえる。
 本書では、キーワードとなる次の用語について、以下のような定義のもと用いることとしたい。まず、農業が持つ公益性や農村アメニティなど、政治的な文脈と切り離されたいわゆる字義通りの農業の機能を「農業の多面的機能」と表現する。これは、上述した日本の農林水産省が定義するような、一般的に用いられる素朴な多面的機能イメージを表すものである。一方、学術分野において批判的視点や政治的な背景を含む農村の多機能性や多面的機能については「多面的機能」と表記し、多面的機能をベースにした理論的・批判的な学術的議論を「多機能論」と表現することとする。そして、政治的な背景を反映し、先進諸国による農業の公益性を盾に自国を保護しようとする政治的な体制を「多機能レジーム」と表現することとする。
 本書の内容は三部構成としている。それぞれ理論編の第Ⅰ部、農業編の第Ⅱ部、そして農村編の第Ⅲ部である。まず第Ⅰ部では、先進国の農業・農村変容をどう捉えるのか、という問題から出発し、現代農村を分析する新たな視点である多機能論の概念と方法、その登場の背景について論じる。また、それを踏まえた本書の視点を第2章で示す。
 続いて第Ⅱ部の「フランス農業の変容」では、フランス中央高地のオーベルニュ地域を対象とし、多機能レジームの影響を強く受けてきた地域の農業経営の戦略とその変容を扱う。まず第3章では、多機能論の発端ともなってきた農業政策についてフランスを中心に山村との関係から整理をし、フランス山村の特性と地域性を考察する。それを踏まえたうえで、第4章ではフランス山地農家が条件不利な環境下で農業所得を維持するためにいかなる経営戦略を採用し、それらを背景で規定する基盤がいかに存在しているのかを、農家経営の多角的な分析から明らかにする。そして、第5章では、第3~4章で検討した政策の展開と農家経営を、両者の関係つまり「政策と農業経営との関係」から農業の変容を明らかにする。
 第Ⅲ部の「フランス農村の変容」は、農村における新たな機能について、地域ブランド、ツーリズム、田園回帰の三点に注目して検討する。まず第6章で、農村におけるローカルな伝統性によっていかに地域ブランドが創出されたかを、フランス中央高地のブランド牛肉を事例に明らかにする。そして第7章では、フランスの農村ツーリズムにおいて最も代表的な「歩くツーリズム」、すなわち「ランドネ(Randonnée)」を事例に、農村のローカルな文化要素がいかにツーリズム資源化されるのかを、セヴェンヌ地域の文学作品を利用した観光化から考察する。そして、第8章では、西ヨーロッパで顕著となっている農村への人口逆流すなわち田園回帰について、フランスのジュラ農村の移住者を対象に、「なぜ人々は農村へと向かうのか」について、住まう場所としての農村の機能に着目していく。
 以上、農村変容を捉える理論と実証の分析を踏まえ、終章にて空間スケールや政策との関係から本書の知見を示し、今後の農村研究に向けた課題を提示していくこととする。
(注は省略しました。pdfファイルでご覧ください)
 
 
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