あとがきたちよみ
『アメリカ・センサスと「人種」をめぐる境界』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2020/2/5

 
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菅(七戸)美弥 著
『アメリカ・センサスと「人種」をめぐる境界 個票にみるマイノリティへの調査実態の歴史』

「終章 センサス「人種」分類をめぐるポリティクス」(pdfファイルへのリンク)〉
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終章 センサス「人種」分類をめぐるポリティクス
 
 これまで本書では建国後まもなく一七九〇年から始まった第一回センサス以降、一八九〇年第一一回センサスまでを対象として、公式な分類名がない状況下でのマイノリティへのセンサス調査実態の歴史を、膨大な調査票の解読作業を通じて検証してきた。また、奴隷制度や移民政策と如何なる関連性をもってセンサスの「肌の色」そして後には「人種」分類へと変容していったのかを明らかにしてきた。そこでの焦点は、センサスにおける「肌の色」や「人種」分類の変遷のなかで、どこにも入らない人々、「その他」としてひとくくりにされる人々への調査と、公式な分類名がない状況下での調査の実態である。一七九〇年、為政者にとっての「逸脱者」とは「その他の全ての自由人」であったが、現地の調査員にとって誰を指し示すのかが異なる曖昧なカテゴリーであった。「自由黒人」や「インディアン」のマイノリティとしての位置づけは「その他の全ての自由人」に対する名前の省略等の杜撰な調査になって現われた。深南部においては、杜撰とは真逆の「数年間の奉公」等の細かな追記が「自由黒人」への監視として示唆される記録がみられた。一七九〇年の「ニグロ」や「インディアン」等の名前の省略や集団名による記入は、一八五〇年に始めて中国人の記録がまとまってあった時にも現われた。それは、「ムラトー」「カナカ」「メキシカン」等としてもみられたが、決して「ホワイト」にはみられない慣行であった。一貫して「ホワイト」とは個人の名前が記載される人々でもあったのである。ただし、名前の後に、一七九〇年にはロードアイランドにおける「未亡人」の追記のように、「ホワイト」のとりわけ女性に対して、貧困や保護の対象となることを示唆する追記──社会的なマイノリティへの監視──がみられることもあった。
 また、本書が検証してきたテーマは、「肌の色」や「人種」分類の恣意性とローカルな調査員の眼差しについてである。「街角の官吏」と位置づけられる各州のセンサス調査員の記録を見るときに興味深いのは、調査員自身の第一印象や直感が記録に反映されることである。分類名に対してワシントンDCのセンサス局からの定義が示されない場合にはとりわけ、「公式」な定義と各州調査員のまなざしとの間の齟齬が露呈される。一七九〇年、ワシントン近郊で「肌の色」は「ブラック」だけでなく「インディアン」を指す「イエロー」との言葉になって現れた。まさに建国当初からアメリカが「カラー・コンシャス」であったことの一端を、センサスの現場の調査員は記録に残していたのだった。さらに、現場における「肌の色」と「人種」についての調査実態から、一八七〇年に公式な分類となる前の中国人が当初「ホワイト」と見なされていたことが明らかになった。
 このように本書はマイノリティへの調査の実態と「人種」分類をめぐるセンサスのポリティクスを通史的かつ包括的にとらえてきたが、一七九〇年からの初期センサスにおける「その他の全ての自由人」と一九一〇年の「その他」をつなぐ存在として、一八五〇年以降の中国人、日本人がいた。中国人や日本人は次第にマイノリティとして位置づけられセンサス上でも人種化されていくものの、移民初期には、中国人は明らかにホワイトネスの境界内に位置づけられていた。地域によって、またローカルの調査員個々人によって人種観──ホワイトネスの境界──は多様であり続けたのである。また、日本人は極小の集団であったにもかかわらず中国人や「カナカ」との差異化(人種・エスニックな三角形)が見られ、細かな調査がなされた。そうした日本人に対する眼差しは、幕末以降、新見一行の遣米使節団や「ワカマツ・コロニー」という訪米、移住を契機として、外交・貿易に始まり、宣教・教育等の文化活動の相手としての注目を背景にしていた。
 本書は加えて、日本人に関して一八六〇年や一八七〇年のセンサス調査票のみならず、日本側の旅券・査証、新聞等の諸史料とリンケージすることで、ナショナル・ヒストリーに分断されず太平洋に開くセンサス史の地平線を描こうとしてきた。日本や中国との外交関係を背景としつつも、微々たる数でしかない日本人に対する正確で具体的な調査が行われたのは、一八六〇年の咸臨丸の水夫が外交使節団として、そして一八七〇年の「ワカマツ・コロニー」を初めとする日本人の多くが日本側からみた「外国人」に伴って渡航した人々であったことによる。日本への関心や注目を背景としつつも、その多くが「不自由な」移動をしていた人々であったため、当人ではなく世帯主が回答することによってセンサスに日本人の記録が残ったのである。こうして中国人に続き、日本という国との対応関係にある日本人がセンサスにおいて「ジャパニーズ」として差異化され、ネイティヴィティを意味する「人種」分類となっていく。中国人や日本人が従来の「肌の色」に包摂されるのではなく新たな意味を付与される「人種」が追加されていったのである。と同時に、一八七〇年には「カナカ」と記載されていた人々は、「ブラック」や「インディアン」のなかに包摂され不可視化されていった。このように太平洋を渡る移民には、国家間関係の変容を背景に、センサスと移民政策の「包括的人種政策」の中で、人種化による認知と排斥だけではなく、包摂と不可視化という異なるプロセスもみられたのだった。ただし、彼らは国内での位置づけは共に「カラード」であり、それは一八九〇年のセンサスにおいて固定されることとなった。
 「その他」に関しては、一八二〇年には「自由カラード」とはすなわち自由黒人を指すようになり、この年をもって「課税されないインディアンを除くその他の全ての人」という「その他」にまつわる項目が一旦消滅する。公式な「ジャパニーズ」の登場後の二〇世紀に入ってからでさえも、ニューヨークにおいて、「ホワイト」と分類される事例が散見されたのだが、同時に二〇世紀初頭には、中国人、日本人以外の「アジア系」と「ヒスパニック」が「その他」とされていった。こうした歴史は太平洋や米墨の新しい国境を越えて往来する人々の多様性にセンサスの分類が追い付かなかったことを反映している。それ故に一九一〇年に復活した「その他」には下位分類としての「ヒンドゥ」や「コリアン」が記入されていく。本書を締めくくるに当たり、以下歴史を振り返りながら「その他の人種」の今日的意味を考えてみたい。その上で、二〇二〇年センサスをめぐる動向と争点についてまとめることとしたい。
 
一 「その他の人種」──過去と現在
 序章の冒頭で触れたように現在の「ヒスパニック」は「エスニック集団」との位置づけであるが、一九三〇年には「メキシカン」が一度だけ「人種」項目として登場した。これは一九二四年移民法の制定によって急増したとされる「メキシカン」の実態把握が背景にあった。しかしそれまで「白人」と分類され、また「スパニアード」としての認識を強く持つ「メキシカン」やメキシコ政府からの抗議があり、一九四〇年には「メキシカン」は消え、再び「白人」に含まれるようになる。加えて、一九三〇年、一九四〇年には現在の「アジア系」集団のうち、「チャイニーズ」「ジャパニーズ」「フィリピノ」「ヒンドゥ」「コリアン」に対して独自の「人種」集団としての記録が求められるようになった。しかし一九三〇年に、全米人口を三つの集団に大別する際には、「白人」「ニグロ」以外の「その他」に「インディアン」や「メキシカン」と同様「チャイニーズ」や「ジャパニーズ」等がひとまとめにされていた。
 このように二〇世紀に入り「その他」には二つの位相があったことが分かる。一つは「白人」「ニグロ」以外の全てを示す「その他」、もう一つは、「チャイニーズ」「ジャパニーズ」を初めとする現在の「アジア系」「太平洋諸島人」の中で「人種」が独自に提示されない集団を指す「その他」である。一九五〇年には調査票上の「人種」の選択肢に「チャイニーズ」「ジャパニーズ」「フィリピノ」が残った一方で、「ヒンドゥ」「コリアン」「インドネシアン」「ポリネシアン」が「その他」として扱われた。加えて一九五〇年には東部における「アメリカ・インディアン」「黒人」「白人」の「混血」の人々に対して特別の調査が行われ「その他」に含まれた。一九六〇年には「メキシカン」「プエルトリカン」等は彼らが「明らかにニグロ、インディアンその他の人種でない限り」「白人」として分類された。ここでいう「明らかに」とは、訪問する調査員の目にとって「明らか」であるという意味で、一七九〇年以降連綿と続いてきた「肌の色」に依拠する名づけ行為への最後の指示であった。
 一九六〇年、「その他の人種」としてセンサス局の念頭にあったのは、「ヒンドゥ」「コリアン」に加えて、「ハワイアン」「マレー」等であったが、その数は少なく全米で〇・三%を占めるに過ぎなかった。このように「ヒンドウ」「コリアン」は、一九二〇年から四〇年まで独立した「人種」分類として登場したが、一九五〇年、六〇年には「その他」として分類されるなど、「その他」が主に現在の「アジア系」を指しつつも、人口数の大小、外交関係、移民政策の諸要因によって「その他」と括られることもあれば、独立した分類で数えられることもあったということが分かる。つまり、二〇世紀に入ってから一九六〇年までは「アジア系」が主たる「その他」でありつつも、東部の「インディアン」の「混血」等、その時々のセンサス局側の特定の目的に応じた、キャッチオールな「残余」分類として変遷していったのである。
 センサスは一九六〇年の移行期を経て一九七〇年以降には全世帯を対象として、調査票が郵送され自己記入方式で行われるようになった。自己記入方式に移行した一九七〇年は「ポスト公民権運動」のセンサスとして位置づけられる。公民権運動による時代の精神が、人々の「人種」を厳密に規定する「血の一滴主義」に基づく名づけの論理への決別につながったのである。またアンダーソンとフィンバーグによると、同時期に起きていた自己アイデンティティを優先させる調査方法上の変化も背景にあった。ただし、以下のように調査員が再訪問等を通じて観察によって空欄を埋める作業も継続された。
 全ての回答は回答者側の自己申告用として作られているが、可能な場合には観察によって空欄を埋めることも許可される。四番目の(肌の色ないし人種)の項目については、センサス調査員がそうではないと知った時以外は、回答者と同じ場所に居住する血縁者は、回答者と同じ人種だと想定される。
 こうしたフォローアップの調査員による記入は残存したものの、調査員訪問方式から自己記入方式への変化が、名乗りによる分類項目成立への流れを決定的なものとした。また、「ポスト公民権運動」のセンサスにおいては、公民権法、選挙権法の実施が十全に行われているのか、そこに受益者として連なることが出来るのかをめぐり、人種・エスニック団体や議員からの名乗りを受けた働きかけも顕著になった。目立った動きとしては、一九六〇年のデータ発表後、スペイン系の姓からヒスパニック人口を割り出す一九五〇年の方法では実態よりも人口が少なくしか出ていない、とのヒスパニック団体からの抗議が挙げられる。一九六八年になって省庁間委員会(US Interagency Committee on Mexican Affairs)は調査が不十分という結論を出し、ホワイトハウスは商務省に「ヒスパニック」に関する自己申告の調査を命じた。
 しかしその時既に、調査票の印刷が終了していたため、一九七〇年には五%のサンプル調査票の対象のうち一万枚のみ、追加のうえで印刷が再度行われるという、異例の事態となった。そこでは、「あなたの出自(origin)ないし系統(descent)は……」との質問に対し、「メキシカン」「キューバン」「プエルトリカン」「中央アメリカン」「その他のスパニッシュ」「どれにも該当しない」の選択肢が提示されたのであった。しかし同時に一九七〇年に重要なことは、記入された回答を、OMBによる公式の「人種」定義に基づいてセンサスが再分配する作業が始まった点である。一九七〇年、「人種」が「ブラウン」の場合には、黒人にセンサス側が変更(再分配)していた。一九七〇年の人種別の表をみると、「ホワイト」「ニグロ」が軸になっており、表のパターンとしては、「ホワイト」「ニグロ」、「ホワイト」「ニグロ」「それ以外」、「ニグロ」「ニグロ以外の人種」の三つで構成されていた。ここから分かるように、一九七〇年時点において「ニグロ」は他の「人種」と混ざることのない分類であった。一八五〇年の移住当初の「チャイニーズ」、そして二〇世紀に入ってからも州によっては「ジャパニーズ」が、「ホワイト」として記録されたことからも明らかなように、「混血」によるパッシングの実態はあっても、ホワイトネスとは対照的にブラックネスは、明瞭な「人種」の境界線として残っていたことが分かる。本書が描いてきたように、「その他全ての人々」は建国当初は自由黒人が想定されていたが、一九七〇年の「その他」は、アジア系が念頭にあったと思われる。一九七〇年センサスの調査票上では「その他──人種を記入すること」と書かれていたものの、何が「その他」であるのか、何が「その他」に分類されるべきか、提示されてはいなかった。「その他」とは一七九〇年以来誰なのかが提示されない存在であり続けたのである。
 「その他の人種」の大多数が「ヒスパニック」によって占められ、またその規模が第三の「人種」集団に匹敵するまでになっていくのは、一九八〇年以降の新しい現象である。一九八〇年以降、「その他の人種」は「ヒスパニック」が圧倒的多数を占めるようになり、今日まで「白人」、「黒人」等公式のいずれの「人種」にも当てはまらないと考える、「ヒスパニック」の主体的な名乗りが「その他の人種」に反映されるようになった。
 一九七〇年には「その他」は全米人口約二億三二一万人の約七二万人で全米人口の〇・四%を占めるのみであった。ところが一九八〇年に全米人口約二億二千六五四万人のうち約六五八万人と割合が二・九%にまで急増した。それは、この年以降「その他」欄に記入される「ヒスパニック」の回答が一九七〇年のよに「白人」に再分配されず、そのまま計上されたことによる。一九八〇年センサスの調査票上では人種欄の最後に、「その他──特定すること」と掲載された。加えて、重要なのはわずかの世帯にのみ駆け込み的に調査が行われた一九七〇年とは決定的に異なり、全世帯に対して「ヒスパニック」であるかどうかの質問が行われたことである。質問票では七番目の項目として、「あなたはスパニッシュ/ヒスパニックの出自または系統ですか」に対して「はい」か「いいえ」で答え、「はい」の場合には、選択肢(メキシカン、メキシカン・アメリカン、チカノ、プエルトリカン、キューバン、その他のスパニッシュ/ヒスパニック)が示された。この一九八〇年こそ、「ヒスパニック」をひとつのエスニック集団としつつも、いずれの「人種」にも入りうる人々という両義的な存在を見据え始めた瞬間であった。しかし、この集団が全人口の二・七%を占め、増加を見せていることはセンサス局にとって悩ましい現実であった。そこで「ヒスパニック」の調査については、なるべく多くの回答が既存の五つの「人種」分類に寄せられるように調査票上の工夫がなされるようになった。二〇一〇年には「ヒスパニックは人種ではない」という一文を盛り込み、調査票の質問の配置や言葉による影響を様々な角度から検討し調査票を再構成した。その成果もあって「その他の人種」を選ぶ「ヒスパニック」は二〇〇〇年センサスよりも減少した。しかし二〇一〇年においても、四〇%近くがあえて(工夫された指示を無視する形で)「その他の人種」としてのアイデンティティを「メキシカン」や「ラティーノ」との回答の中に表出している。むしろ様々な工夫があるが故に、そこに提示される「人種」に回収されない「メキシカン」や「ラティーノ」としての強固なアイデンティティとしてみるのが自然であろう。
 そもそも「その他の人種」は、一九七七年のOMB指針一五にも一九九七年に修正された指針にも含まれていなかった。ヒュームズらによれば、公民権法を実行するための連邦プログラムの運営上「その他の人種」は使用されておらず、長い間センサス局は特別な「その他の人種」についての製表を余儀なくされてきた。よって、「その他」の人種をOMBの定義する公式の五つの人種集団に再分配する作業を経てから、そのデータを多くの連邦官庁が利用している。センサス側としては二重三重の手間がかかる分類であった。とりわけ二〇〇〇年の複数人種回答が可能になってからは、「その他の人種」を維持する理由が明白ではなくなったと思われた。そこで、「その他の人種」をなくした形式でのテストが行われた。
 センサス局は二〇〇〇年から使用された「その他の人種」とは五つの「人種」分類にアイデンティティをもてない人のためのものであり、回答例としてはモロッカン、南アフリカン、ベリージアン、メキシカン、プエルトリカン、キューバン等のヒスパニックの出自がここに含まれる、としていた。二〇一〇年の定義においては、アイデンティティについての言及はなくなり、「マルチレイシャル、ミックス、インターレイシャル」が回答例として示されるほか、二〇〇〇年同様に、「ヒスパニック」の回答が「その他」に分類されるとしている。いずれにせよ、「黒人」、「白人」、「アジア系」等の公式の「人種」からは外れるため「その他の人種」と分類される人々は、二〇〇〇年には全人口の中で五・五%から、二〇一〇年には六・二%を占めるまでになった。実数としては二〇一〇年の「その他の人種」は一九〇〇万人を超えた。これは人口規模からいえば二〇一〇年に「アジア系」を超え、「白人」、「黒人」に次ぐ「人種」集団ともいえる。二〇一〇年では、「その他の人種」の回答の九七%という圧倒的多数は、「メキシカン」や「ラティーノ」に代表される「ヒスパニック」集団で占められることが何よりも注目される。センサス局の責任者も、「その他の人種」が二〇一〇年で三番目に大きな「人種」集団となり、このまま何かしなければ、二番目に大きな規模の集団になってしまうとの危惧を強調していた。「人種」分類が「きれい」に分かれることが前提で作られてきたセンサスにとって、「その他の人種」はセンサス局にとって「汚い」集団とみなされており、質問項目上の最大の課題であり続けているのは間違いがない。
 ところで二〇一〇年センサスでは、「非ヒスパニック・ホワイト」以外の集団が「マイノリティ」と言及されており、黒人や先住民等にヒスパニックを加えた「マイノリティ」は、全米の三分の一以上を占めるようになった。オバマが勝利した二〇〇八年、二〇一二年の大統領選で注目されたのがこの「マイノリティ」票であったが、二〇一六年の選挙では「マイノリティ」は二〇〇八年ほどには投票所に足を運ばなかったと言われる。「非ヒスパニック・ホワイト」が、二人の「史上最も不人気な大統領候補」のうちトランプを熱狂的に支持したというのが大方の説明であるが、トランプ支持の背景のひとつとして健康への不安が挙げられる。一九九八年以降他の先進国の人々は年間二%死亡率を下げているのに対して、アメリカ合衆国の中年(四五歳から五四歳)の「非ヒスパニック・ホワイト」だけは、年間〇・五%死亡率を上げていることが発表され、大きな反響を呼んだ。アルコール中毒やドラッグ中毒が拡大し、健康状態が悪い、と報告した人々も増加していた。健康状態の悪さとは「約四〇〇メートル歩き、一〇階段以上歩き、二時間立ったり座ったりし、買い物をし、人と交流することに対して」苦痛を感じることである。こうした身体的・心理的健康状態によって、上記の活動が妨げられていると回答した人が、三・二%増加し、働けなくなった人々が約二倍となった。このように、センサスで「マジョリティ」とされる白人が、「マイノリティ」よりも集団全体として健康状態が低下している、という実態はトランプ支持の背景として看過出来ない。
 「その他の人種」をなくす可能性に対して、議会ではニューヨーク州選出のホセ・セラーノ(Jose Serrano)下院議員が強硬に維持を訴えた。セラーノ議員は民主党員で、ニューヨークの一五区(ブロンクス)選出(ヒスパニックコーカス)、一九九二年から議員となった。愛国者法に反対したほか、包括的移民法案の推進して来た民主党のヒスパニック系の重鎮議員と言える。カレン・ヒュームズの論考の中にもセラーノ議員が勝ち取った「その他の人種」の選択肢継続に対して、ヒスパニック団体は喝采を送ったというニュース・リリースが掲載されていた。「その他の人種」がOMBの人種分類でないために、かえって議員や背景にある人種・エスニック団体の特定の主張が反映される結果となったと言えよう。しかしセンサス局としては「その他の人種」という項目をなくしたいのである。
 ここで再度強調したいのは、一七九〇年以来、既存の人種に入らないとされる人々に対して「その他」の受け皿を、センサス側が用意し続けてきたことである。その理由は関心のなさを表すものであったり、逆に特定の政策目的に応じるものであったりと多様であったが、時代を経て変容する「その他」の存在自体が、明瞭な──センサス局の言葉に従えば「きれい」な──「人種」分類が恣意的で幻想であることを裏書してきたと言える。そして一九七〇年以降の自己申告制の下では、誰が「その他」となるのかは、調査員の名指しではなく回答者の名乗りに依拠するようになった。そこには無数の「その他」に分類される回答が寄せられる。むろん、個々の回答全てが「その他」に入ることを意図したものであるとはいえず、結果として「その他」にセンサス局によって再 分配されるのである。そこでの問題の現代性は、「その他の人種」の規模と増加率にある。一九八〇年以降の、既存の人種ではなく「ヒスパニック」であり「その他の人種」という自己申告者の重みを取り外す解決方法は、「人種」から「人種とエスニック」へと質問項目を変更することか、「人種」ないし「エスニック」という言葉を使わない以外にはなかった。しかし、同時にOMBの「人種」分類はそのままであるため、今後どのような調査形式となるのかが注目される。
 
 
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