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クレア・ブラウン 著
村瀬哲司 訳
『仏教経済学 暗い学問―経済学―に光明をあてる』
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日本語版によせて
私の日本での経験が、仏教と経済学について考えるにあたり、おおいに役立った。日本の読者の皆様には、この本は、日本とその文化を深く敬愛する、しかし歴史には理解が浅い米国人が書いたことについて、まず我慢とご理解をお願いしたい。私は、日本経済について1970年代から、日本の主要産業と労働市場に焦点を絞って研究してきた。1990年代には、毎年京都に数週間滞在し、同志社大学で研究のかたわら英語でビジネス研究科の大学院生を教えた。自動車と電機産業の研究のため、日本の同僚と多くの場所を訪れたが、なかでもグーグルの理系社員として働いていた息子のジェーソンに会いに、上京するのは楽しみだった。
研究者、教員そしてチベット仏教の信者として、京都の夜明けとともに自転車でいくつも寺院を訪ねて回った。浄土宗、禅宗であろうが真言仏教であろうと、宗派に関係なく読経に加わった。言葉ではなくて精神的エネルギーが大切だった。
学生を教え、日本の管理職や現場の人たちと面談し、日本の友人たちと過ごすうちに、彼らが育ち経験した世界を反映する、世代間のギャップを理解するようになった─戦後の窮乏と政治的変化に特徴づけられる占領期の日本、その後世界経済と次第に一体化する日本、さらに自動車、電気通信といった世界先端産業を有し、ナンバーワンといわれた日本、そして若者から多くの機会を奪った低迷する日本である。
この世代間のギャップは、個人それぞれの経験と人生への期待感をもとに、経済と仏教がどのように受けとめられるか、私に深く考えるきっかけを与えてくれた。年配の日本人は、文字通りの苦しみとその後の劇的な生活向上を経験したことで、無常観、そして人と人、自然との相互依存を本能的に理解している─ただし彼らも、消費生活の高度化によって資源を浪費し、自然との相互依存を忘れてしまっているが。教育を受けた日本の中年層は、日本を世界第二の経済国に押し上げ、高い生活水準を実現したグローバル経済システムを信奉している。特にそれは、終身雇用の大企業に勤める男性に著しい。しかし、1990年代以降の失われた10年、20 年において、経済成長は低迷し、日本の多国籍企業はグローバルな厳しい競争に巻き込まれた。終身雇用の慣行が弱まり、日本の若者の労働環境が流動化するにつれ、若者の世界観はよりグローバルになり、消費がどのように生活の質に影響するかを自覚するようになった。
我慢強く、他人を気遣い、自然を楽しむ年配の日本人と一緒に過ごし、敬意と節度を忘れない若い世代とも交流を持った。日本に滞在した後、私は間違いなく礼儀正しくなった。環境劣化とともに公衆道徳と寛容さが低下しつつある─米国に戻ってからも、他人に対し共感を持って、親切に接するようになった。
日本に関する私の印象は、バークレー校の同僚で政治学のスティーブ・ボーゲル教授と話すうちに、一層深まった。ボーゲル教授は、長年にわたる日本の専門家であり、日本に関する多彩な見方を紹介してくれた。彼の著書『日本経済のマーケットデザイン』(日本経済新聞社、2018年、原著:Marketcraft : How Governments Make Markets Work, Oxford University Press, 2018)は、所得格差の縮小や炭素排出の削減など特定の社会的目標を実現すべく、公共の利益のために、政府がどのように市場(マーケット)を構築することができるかを主題としている。その意味で、彼の著書は、仏教経済学を補完するといえる。
「自由市場」モデル─固定化された階層世界の中で自分の立場を極大化しようとするモデル─に慣れた西洋社会が、相互依存と無常観が自由市場に与える影響を理解するのは容易ではないことを、日本の読者は実感できないかもしれない。しかし、気候変動によって生態学的世界観が東西を問わず各国で議論され、広まるにつれ、相互依存と無常観を想定する経済モデルの有用性が示され、受け入れざるをえなくなりつつある。
仏教経済学の三番目の前提─他人を思いやり苦しみを軽減する─は、すべての仏教徒が実践している。日本やアジアの文化は、利己的あるいは自己中心的な行動に走るのではなく、一般的に他人への配慮に理解を示す。神経科学者や心理学者は、人々は利己的であると同時に利他的であり、他人を助けることで快感が増すことを証明した。
おそらく日本の多くの読者は、地球を気遣い、繁栄を分かち合い、苦しみを減らすことを目指す、仏教経済学モデルの世界観に共感していただけるだろう。文化的伝統を背景に、もし日本が、所得だけでなく国民生活の質で経済実績を測るようになれば、どのように一国の価値観を反映する指標が、政府の施策とビジネス慣行を導くかについて、一つの代表事例を示すにちがいない。
残念ながら、私の本が英語で出版されてからの3年間、気候変動は、科学者が当初予測したよりも急速に進み、日本にも新たな試練を突き付けている。国連IPCC(気候変動に関する政府間パネル)報告は、氷河が溶け、世界中の温度が上昇し、大気中のCO2レベルが増加するテンポが速まっていると警告を強めている。2050年までに炭素の増加を停止するには、各国は、化石燃料を生産も消費もしない、最新のクリーンエネルギー経済を創らねばならない。
良い知らせといえば、100パーセントのクリーンエネルギーを創り、繁栄を共有し、世界の苦しみを軽減する方策がわかっていることである。気候学者は、各国が2050年までにどのように100パーセントのクリーンエネルギーに移行できるか、工程表を用意している。政治経済学は、共通善をめざし、各国が市場(マーケット)をどのように構築すべきかを教えている。国連は、いかに各国は世界の貧困を減らし、生活水準を向上させられるかを実例で示した。
日本の読者のために、温室効果ガス排出を軽減し、気候変動による苦しみを減らす道筋における、日本の立ち位置を簡単に見てみたい。個人レベルで人々は、飛行機に乗らず、野菜中心の食事にし、車を運転せず、子供を少なくすることで炭素排出を減らすことができる。日本人は、肉の消費は多くなく、子供は一人か二人だが、多くの家族がガソリン車を運転し、旅行には飛行機を使う。どのような簡素な生活をしても、私たちの経済と社会が日常生活に必要とするレベル以下に、炭素排出量を減らすことはできないし、再生エネルギーが行き渡るまで、化石燃料を使い続けることになる。
2011年の福島原発事故まで日本は、2030年までに石炭火力発電所を閉鎖し、原子力発電の比率を50パーセントに引き上げる方針のもとで、石炭火力から低炭素発電へ移行するリーダー格であった。しかし、2011年と12年の大規模な原発反対運動に直面し、石炭火力発電所ではなく原子力発電所が閉鎖される結果となった。2018年日本の電力に占める石炭火力の比率は、2011年の事故以前よりも高い。
日本人は、陸と海の放射能汚染に侵され、放射性廃棄物の処理問題にいまも取り組んでいる。日本は、沿岸地域では高潮、内陸では台風による水害に悩む。日本の平均気温は、世界平均よりも速く上昇していると報告され、人々は災害級の炎暑を経験している。このままでは高温により、収穫米の品質にも影響することが懸念される。
石炭火力を利用し続けることで、日本の一人当たりCO2排出量は相対的に多くなっている。一人当たりCO2排出量は世界7番目(2016年)で、ドイツとほぼ同じである。ちなみにドイツは、2011年福島の事故の後、脱原発路線を打ち出し、石炭依存度を高めている。ただし、米国に比較すれば日本の一人当たり排出量は大幅に少なく、韓国よりも低い。日本は、エネルギーの使用と大気汚染を減らすために他の政策もとっている。例えば2017年には住宅・建物の省エネ対策強化が、「省エネ法」(通称)に盛り込まれた。日本の自動車メーカーは、国内と海外市場でEV(電気自動車)とハイブリッド車の生産を強化している。2019年5月東京都の小池知事は、2050年までに都の温室効果ガス排出をゼロにする目標を発表した。
日本の文化と最近の経験は、市民に困難と苦しみをもたらす災害に対処しつつ、パリ協定の目標を目指すことが、問題意識が高い国においても容易ではないことを物語っている。すべての人々の充実した生活を支える、最新のクリーンエネルギー経済に各国が移行するにあたり、仏教経済学が、私たちの価値観を反映し、望ましい経済へ導く経済的道標を創るうえでヒントになれば幸いである。この気候危機と経済的変革の時代にあって、私たちは、災害に直接見舞われた人々、希望をもって生きようとする人たち、そしてあらゆる人への思いやりを忘れることはない。
どのように生き甲斐のある人生を送るのか、どのように日本経済を望ましい姿にもっていけるのか─読者が考える際にこの本を役立ててほしい。この本が、他の人たちと一緒に行動をおこし、持続可能で人間的な経済を実現するための契機となれば、これほど嬉しいことはない。仏教経済学の目標は、人と人、地球がお互いいたわり合い、ともに歩むことである。
この本を邦訳してくれた村瀨哲司先生に心から感謝申し上げる。彼の経済と仏教に対する造詣、そして重要な概念を翻訳するにあたっての細心の注意と知識のお蔭で、仏教経済学を日本の読者に提供するという、私の夢がかなえられた。
万物のために、私たちが癒されるがごとく、母なる大地が癒されんことを祈ります。
2019年11月 カリフォルニア州バークレーにて
クレア・ブラウン
※注は省略しました。pdfをご覧ください。
序
経済学は、私たちがどのように生き、どれくらい幸せであるかに影響する。しかし、経済学が私たちの生活と将来に強い影響力を持つにもかかわらず、ほとんどの人はそれを考えない。
地球温暖化と所得の不平等という、世界で最も大きな2つの課題を取り上げてみよう。地球と私たちの生活を破滅から救うには、もう時間が足りないと、国連の気候科学者は警告する。所得の不平等は、「金ピカ時代」(訳注:アメリカ南北戦争後の拝金主義の時代)に匹敵し、格差とともに政治的混乱がさらに広がるだろうと、経済学者は予測する。
これらの課題は、経済学に深く関わりを持つ。解決するには、私たちの経済システム、生活、私たちにとって何が重要かを根底から考え直す必要がある。大自然と、そしてお互いが共存することを学ばなければならない。
私は、これまで経済学者としてカリフォルニア大学バークレー校で過ごし、仏教徒となって10年である。経済学教授そして仏教の学徒として最近は、自由市場経済学と現実世界の諸問題の─嘆かわしい─断絶に取り組んできた。巨大な経済的不均衡と環境破壊に瀕する時代にあって、一方で一握りの富裕層と、恵まれた比較的多くの人がいる。他方、大部分の人たちは貧困に苦しむ─これは明らかに何か間違っている。
自由市場経済学は、市場は最適な結果をもたらし、人々は満足な生活を作り出す資質を持つとの前提に立つ。国民の厚生を測るとき、経済学は所得と消費にだけ焦点を合わせ、今日の生活を形づくる多くの重要な要因を除外している。
モノの生産より人が重要と考え、贅沢よりも生き甲斐のある暮らしを尊ぶ仏教は、経済学にどのようなアプローチをするだろうか。私は思案し始めた。
仏教の観点から経済学をどのように見直すかについて、バークレーのチベット仏教ニンマ派学院で、優しく知識豊かな先生方から仏教を学ぶことを通じ、私は当初の着想を得た。その後、家の近くに瞑想堂が開設されたのをきっかけに、夫と一緒に訪れ、アナム・ツプテン・リンポチェ師の講話を聞き、実践するようになった。仏教の中心概念─相互依存、慈悲、正しい生き方(正命)─に接するにしたがい、「仏陀なら経済学入門をどう教えるだろうか」と思いをめぐらした。
4年前、私の思いを実行に移すことにし、自分の考えを発展させる意味もあって、バークレー校の2学年のゼミで仏教経済学を教え始める。学生たちは、不平等、幸福、持続可能性といった疑問に熱心に向き合い、私が漠然と感じていたことが明らかになってきた。すなわち、すべての人の厚生と幸福のために、仏教が人間の精神と経済をどのように結びつけるか、この理解には経済学の専攻も、仏教を実践する必要もないということである。
欲望に支配された経済学は、環境の悪化、格差と人の苦しみという課題に十分な答えをだせない。仏教徒そして経済学の教授として、その代替を探る経済学者の仲間に、私も加わることにしよう。
幸せになること
何が人々を幸せにするか。この疑問は、自由市場経済学と仏教経済学の違いの核心に触れる。それは人間の本質をどう見るかである。仏教経済学において人間の本質は、たとえ自分自身も大切とはいえ、寛大で利他的である。すべての人は、限りない欲望と満たされない感覚、そういう自己の精神状態に苦しむと仏陀は説いた。ダライ・ラマ14世は、まだ足りない、もっと欲しいという感覚は、対象物が本当に手に入れる価値があるからではなく、自身の心の妄想から生じると語っている。
仏陀は、私たちの心の状態を変えることにより、苦しみをいかに断つかを説いた。すなわち、意味ある生活を通じて幸福を見つけることができると。自由市場経済学は、人の本質は自己中心的で、収入と豪華な生活スタイルをひたすら目指し、自分のことだけを考えるとの前提に立つ。このアプローチによると、買い物と消費─新しい靴や新作のビデオゲーム─は、あなたを幸せにする。買ったばかりの靴に飽き、ゲームに退屈するかもしれないが、それはそれで、また買い物に出かければよい。この欲望の無限の循環の中で、私たちは持続的な満足感を得ないまま、ひたすら欲し続ける。自由市場経済学は、自然豊かな世界で充実した人生を生きるための指標にならないし、世界各地の戦争、所得格差や環境の脅威に対する懸念に対し、解決策を提示することもない。
対照的に仏教経済学は、より良い世界を作り出すために、個人の生活と経済を作り変える道標を提供する。「幸せのために慈悲を施す」が「もっと欲しい」に代わり、「皆の幸福は結びついている」が、「がむしゃらに上を目指せ」にとって代わる。「人類の厚生と大自然は相互に依存する」が、「公害は皆が無視できる社会コスト」にとって代わる。
一刻の猶予もない
環境被害に無関心で所得一辺倒の世界から、二酸化炭素排出量を劇的に減らす経済への切り替えに、残された時間はわずかしかない─そう気象学者は警告する。人間活動がもたらす地球温暖化について、それが現在そして未来の生活をいかに損なうかにつき、世界中の科学者が常時警告している。しかし、ほとんどの人は、忙しさに紛れて耳を貸そうとも行動しようともしない。
2015年1月のある週末、内容が大きく異なる2つの記事が掲載された。一つは有名な科学雑誌『サイエンス』で、環境の脅威によって私たちの生活が危機に瀕していると報じた。一方、『ニューヨーク・タイムズ』紙は、私有の超豪華ヨットの整備には専門の乗組員と数百万ドルのコストが必要と書いた。『サイエンス』の記事は、科学者18人の国際チームが、地球の安定維持に不可欠な9つの地球生物物理学的プロセスのうち、4つのプロセスが人間活動によって危機的に悪化していることを見出したという内容である。すなわち、生物多様性システム(絶滅率)、生物地球科学的循環(リン窒素循環)、土地利用の変更(農業と都市化による森林伐採)および気候変動(大気中の二酸化炭素濃度)である。『ニューヨーク・タイムズ』は、世界中の超豪華ヨット推計5千隻のうち1千隻が、最近5年間の世界金融不況の時期に購入されたと報じた。人々は、『サイエンス』誌よりも『ニューヨーク・タイムズ』の記事に注目したのではないかと思う。地球に与える破滅的な悪影響を知りつつも、消費は人々を魅了し増え続けている。物質主義的な衝動が、「第六の絶滅」と呼ばれる容赦ない種の絶滅に、私たちを追い立て続ける。
不平等もまた激しくなっている。1970年代半ば以降、所得と富の増加分は上位1%の階層に流れ、大多数の家庭はほとんど恩恵を受けなかった。多くの経済地域で格差が劇的に拡大した。経済学者は、不平等は経済成長を遅らせ、人々の幸福感を減退させると警告した。しかし、2008年の世界金融危機に続く大不況の数年間、金融業界が引き起こした危機の代償を一般国民が支払い、政府の救済によって巨大金融機関は立ち直った。米国では、納税者は救済資金210億ドルを払う一方、数十億ドルの賃金を失った。
所得格差は、どの国も同じというわけではない。米国、英国、インド、中国で不平等は、欧州諸国の多くと日本に比べて大きく拡大した。格差拡大は避けられないわけではなく、それは政策の結果であり、国の選択である。たとえばデンマークとスウェーデンは累進税制を採用し、国民すべてに保健医療、子育て支援、教育、ならびに困窮時の安全網を提供する体制を備えている。対照的に米国では、税制の累進度は低く、安全網は不十分で、民間企業が保健医療と子育て支援を担っている。
同様に気候科学者は、化石燃料の使用─地球を温暖化する二酸化炭素排出の原因─は、政府がとりうるさまざまな選択の結果であることを示している。米国は、特に化石燃料業界と金融業界が強い政治力を行使し、地球温暖化と不平等を悪化させてきた。各国は、温暖化と不平等をもたらす政策を選択することも、そして、もし望めば逆転させることもできる。
「仏教経済学」の用語は、E・F・ シューマッハーが、1973年出版の『スモール イズ ビューティフル:人間中心の経済学』で初めて使用した。シューマッハーは、長時間労働と資源の枯渇など、所得増大に過度に依存することに伴う問題を予測した。彼は、物質的財貨への執着よりも、個人の資質の開発と人間解放を重んじるシステムの必要性を説いた。シューマッハーの見解に従えば、仏教経済学が目指すところは「最小の消費で最大の幸福を得ること」である。
私の議論は、1973年当時予想しえなかった世界の現状に適合するように、シューマッハーの仏教経済学の思想を拡げるとともに、充実した生活が、お互いの思いやりを反映し、世界の資源を持続的に分かち合えるような、経済の仕組みづくりを提唱することである。仏陀は、真の幸せは外の世界、名声や消費、友人や権力から得られるものではないと説いた。私たちが見えない大きなものに身を委ね、すべての人に慈悲の気持ちを持ち、人生のかえ難い瞬間を自覚することにより、真の幸せは自己の内面から来る。
私たちは、個人と国家両方のレベルで誤りを犯しつつあり、目覚め行動しなくてはならない。そのために袈裟をまとうことも、快適で楽しく充実した生活を放棄する必要もない。経済システムを組み替えることにより、私たちが価値あると考えるものを創造し、計測し、評価する。そして地球を守りつつ、すべての人が意義ある人生を送ることができる、効率的な経済を開発することができる。仏教経済学が私たちを導いてくれる。
仏教経済学は仏教徒(あるいは経済学者)だけのものではない
バークレー校の2学年ゼミを教えて学んだとおり、経済学に仏教的アプローチを応用するにあたって、必ずしも仏教徒である必要はない。ただ、人間の本質は優しく慈悲があるとのダライ・ラマの信念に共鳴し、経済学は善のための力となり、自己中心の物質主義を超えるものでありうる、という考えを受け入れる必要がある。
慈悲を強調するのは仏教だけではない。キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、ユダヤ教もそれぞれ、黄金律「己の欲するところを他人に施せ」と同義の教えを有している。ダライ・ラマが言うように、「すべての宗教は、人間性の向上、愛、他者への尊敬と苦しみの共有を強調する」とともに、主な宗教は、人々の永続的な幸福を目指している。仏教と他の宗教の大きな相違点は、外的な神を想定しないことだ。その代わり、一人ひとりが尊い存在であり、各人が内なる仏─完全な真の自己、そして愛、慈悲と知恵の限りない源である─仏性を持っている。
世界の多くの人が仏教を知ろう、触れようとしてきた。そして実践は無理と思った人でも、その基本原理には賛同するだろう。たとえば、人気作家グレッチェン・ルービンは『ハッピネス・プロジェクト(幸せ計画)』で次のように言う。「この瞬間の輝きを楽しみ……自分よりも他人の幸せを優先するため……自らの心を、直接的で浅薄なものから遠ざけ、超越的で永遠のものに近づけたかった。そのような方法を見つけたかった。この永遠の価値は、日常の喧騒と自分勝手な関心事に紛れて、しばしば見失われてしまった。」この種の教えを信じ、好奇心と素直な心で人生に接しようとする人なら誰でも、仏教経済学から得るものがあるはずだ。
お互いと大自然との相互依存は、同じ行動をとるとか追従とかを意味しない。現世を生きるために欠かせない、それぞれの個性を捨てるには及ばない。そうではなく結びつきとは、人生の貴重な一瞬一瞬を意識し、自分自身の感覚と他人への影響を自覚することである。仏教では、恐れ、罪悪感、恥、貪欲、嫉妬、憎しみ等など、日頃の習慣を繰り返す自分のエゴに振り回されないよう、真の自己に触れようとする。絶え間ない自分と他人の比較判断、より多くを求める物と人間関係への執着、私たちの生き様が他者と大自然に与える苦しみへの無知─すべてが痛みのもとであり私たちを不幸にする。しかし、もし一日のあらゆる瞬間に、自分自身を知り、周りの世界と人々を意識できれば、過去の悔いと未来の不安は解消する。私たちは、いまその瞬間の魔法に目覚め、苦しみが終わるとともに幸せが見つかる。
自己中心的で物質主義の世界の中で、満たされない気持ちになると、私たちは、一時的な気分晴らしに、あるいはつかの間の幸せを求めて行動する。新しい服を買い求める、スマホで新作のゲームをする、あるいは気に入ったテレビ番組にチャンネルを回す。これに対して仏教の世界では、痛みを感じる人は、痛みの源となる妄想と感覚を追い払うため、静かに膝を組む、あるいは痛みを理解する友人と語る、また家族と食事を楽しむかもしれない。不幸や不満の感覚から逃れる代わりに、何が生じているかを意識し、有意義な生活を楽しむ方法を見つける。自分自身が引き金である痛みに、一瞬たりとも浪費するのはもったいない。消費主義に頼ることなく、生活を最大限充実させるために、自身の知覚を使うことができる。
マインドフルネス瞑想の実践
個人のレベルで、多くの人がマインドフルネス瞑想の実践から有益なものを得ている。身体を楽にして、精神を静め、心を開くことにより、判断を交えずその瞬間を意識する。通常、椅子またはソファに座って瞑想するが、ゆっくり歩きながら、あるいはヨガや弓道をやりながら、現在の瞬間を最大限生きる人たちもいる。
今世紀に入り、マインドフルネス瞑想は全米で旋風を巻き起こした。特集を組んだ主な雑誌には、『パレード』(2015年)、『タイム』(2014年)から『ナショナル・ジオグラフィック』(2005年)、『サイエンティフィック・アメリカン』(2014年)までがある。この瞑想法は、ハーバード大学医学校の学内報で、脳の活動の活性化など健康上の利点があると称賛された。カリフォルニア大学バークレー校のGGSセンター(訳注:幸福や意義ある人生とは何かを研究対象とする研究所)は、瞑想がどのように脳に幸福感をもたらすかを、2つの短編ビデオで要領よく紹介している。ご覧になれば、閃くものがあるだろう。瞑想で幸福感が増すことは、多くの人が体験をしている。「私が私たち」に変わり、自分の信じるものが真の現実ではないことを理解するにつれ、自身が孤独ではなく、世界と結ばれていると感じるようになる。
僧侶が瞑想を実践すると、脳の右島皮質と前帯状皮質両側の活動が増すことで、脳の機能方法が変化するという研究成果がある。また神経可塑性が生じる─長年瞑想を実践した仏教徒の脳は、機能も構成も変化した─との報告もある。
マインドフルネス瞑想については、さまざまな流儀と各種の料金で教室が開かれている。しかし、別に出かけなくても、家に居ながら瞑想法を試すことはできる。快適な椅子かソファを見つけて、背筋を伸ばし、両手を膝にそろえて、静かに座りなさい。鼻腔を流れる息に、意識を集中する。呼吸に集中しつつ、肩の力を抜き全身を楽に保つ。考えを捨てなさい、考えが湧いてきたら、追わず、判断せずに流し去りなさい。静かに座って、生活に関する妄想を消しなさい。過去の悔いは捨てなさい、昨日は終わったのだから。やるべきことを書いた予定表も忘れなさい、未来はまだ来ていないのだから。貴重な今の瞬間を楽しみなさい。深く安らぎに身を沈めなさい。
私の仏教経済学のゼミでは、1回5〜10分間瞑想する。学生たちは、マインドフルネス瞑想が最もためになると言ってくれる。学生がストレスに直面したとき、痛みを和らげ、明晰に思考できるよう、静かに瞑想して心を鎮めることを勧めている。
レポート提出期限が近づいたとき、ジョーンという名の学生が、彼女のパソコン・トラブルについて長いメールを送ってきた。「頭が変になりそう。レポート提出が少し遅れそうだけど、認めてもらえますか。できあがっているのですが、新しい充電器がないと送れないの!」と。
返信に次のように書いた。
楽にして、息をしなさい。
大丈夫ですよ、レポートはパソコンが治ってからで結構です。
ジョーンは、「先生にメールした直後、ストレスのときは座って5分間、瞑想しなさいとの言葉を思い出しました。やってみたら、本当に気分が楽になりました」と書いてきた。
私自身は、毎日20分から30分間瞑想する15 。瞑想することで、私自身に触れあい、容赦のないエゴと批判がましい考え、それに伴う痛みを振り払うことができる。端坐する間に、私の精神は休息しバランスを取り戻す。あなたも試すことをお勧めする。毎日5分から10分間瞑想することから始め、どんな感触かをまず見てみる。身体を楽にして精神を静める方法を体得すれば、地下鉄でも、浜辺でも、公園の散歩道あるいは自宅でも─どこででも実践できる。
変化を起こすために手を携える
多くの人たちが、もっと意義ある人生を過ごし、地球を救うために行動したいと思っている。しかしなぜ踏み切れないのだろうか。
私は、3つの力が邪魔をすると思っている。
第1は、「多忙」である。やりたいことのリストを全部こなせる時間を持っている人は誰もいない。仕事、家族、友人、自治会などどれも重要で、時間と体を使い、エネルギーを消耗する。日常の繰り返しから離れ、あなたにとって本当に大切な事柄に、有意義な形で集中できるよう、この本が一助になればと望む。
第2は、拒絶反応である。自由市場経済学から仏教経済学へ移るには、勇気と決意が必要だ。意味ある生き方を学ぶことは、多くの人にとってこれまでの人生の成功体験を傷つけることになる。気候変動に向き合うことは、一般に当たり前とされる2つの概念─自由市場と無限の進歩─を疑問視することになろう。問題点に目をつぶるのは生き方の一つではあるが、長続きはしない。
第3は、私たちの無知である。日頃の繰り返しの代償に目覚め、いかに私たちの生活スタイルが他人を害し、地球を滅ぼそうとしているかに気づくこと─これには私たち自身を教育し、生き方を変える必要がある。これは大きな決断であるが、自分自身と他者双方に対する道義的責任である。仏教経済学は、そう決断することで私たちはより幸せになる、と教える。
この3つの力は、この本を読むうえでも妨げになる恐れがある。あなたは忙しくて読む時間がない、いわんやあなたにとって何が重要かを考え、生き方を変える準備の時間はないかもしれない。自由市場経済学は正しいと考え、この本を壁にほうり投げるかもしれない。地球の救済は他人に任せ、あなたは家財に埋もれ、社会的地位を優先する生活、無知の中で生きることを好むかもしれない。
他方、あなたは何かそれ以上のものを探し求めているかもしれない。私は、大自然と調和した意味ある人生を渇望する多くの人たちに出会った。この本は、そうした人たちのため、そのような生活をもっと知りたい人たちのために書いた。消費を乗り越え、慈悲で他者と結びつき、大自然と調和して生きる─それは私たちの力でできる。さあ、始めようではないか。
※注は省略しました。pdfをご覧ください。
訳者あとがき
かつて宇沢弘文先生は、「経済学は人びとを幸福にできるか」と世に問うたことがある(東洋経済新報社、2013年)。本書の答えは、「できるし、できなければ人類も地球も破滅するだろう」というものだ。人びとはお互いに、また大自然と相互に依存しており、万物はインドラの宝網のように一つである。この思想を経済学の中心に据えれば、経済学は人びとを幸福にできる。
ブラウン教授は、「経済実績の測り方は、私たちの価値観を反映しており、私たちがどのように生きるかを決定づける」と看破した。主要国の経済政策は、国内総生産(GDP)を物指しとして、自由市場経済学の枠組みのもとで経済が持続的に成長することを目的としている。経済成長は、所得(賃金と利潤)を限りなく伸ばそう、モノとサービスをより多く消費しようする政策である。GDPはそのような価値観を反映しており、物欲の追求が現代人の生き方を決定している。
いまから半世紀以上も前1966年、E・F・シューマッハーは、エッセイ「仏教経済学」のなかで、人間よりモノを尊び、創造的活動より消費を重視する現代の経済学者の考え方(例えばガルブレイスの「豊かな社会」)は、真理をさかさまにしたものと痛烈に批判している。
1973年に出版された彼の著書『スモール イズ ビューティフル:人間中心の経済学』は世界的なベストセラーになった(エッセイ「仏教経済学」も収録されている)。彼は、わずか5年前には耳にしなかった「公害とか環境問題とかエコロジーなどという言葉が、なぜこんなに突然強調されるようになったのか」と問う。それは工業生産が大成功し、「恵み深い自然がつねに与えてくれる『許容限度』というかけがえのない資本を、人間がどんどん食いつぶしている」ことに気づかないためだという。なお、1972年にローマクラブの報告書「成長の限界」が発表されている。
ブラウン教授の議論は、1970年代には予想しえなかった21世紀の世界の現状に適合するように、シューマッハーの思想を拡げるとともに、お互いの思いやりを反映し、世界の資源を持続的に分かち合えるような、経済の仕組みづくりを提唱する。仏教経済学のもとで、価値観をモノ重視から人間中心に切り替え、経済システムを組み替えることで、価値あるものを創造し、計測し、評価する。地球を守りつつ、すべての人に生き甲斐を提供できる経済を実現するために、国、企業、個人がとるべき具体的な手順を提唱する。
世界の2つの大きな課題といえば、地球温暖化(環境問題)と所得の不平等(格差問題)だろう。著者の住む米国では、2つの問題が特に深刻に受け止められている。温室効果ガス排出に起因する温暖化は、気候変動により巨大ハリケーンの発生、大規模山火事の頻発など自然災害をもたらす。だが、2019年11月4日トランプ大統領は、温暖化防止の国際的枠組み「パリ協定」からの離脱を、国連に通告した。これにより、1年後2020年11月4日に米国は正式に離脱することとなる。
米国における富の格差は、1980年代レーガン政権以降大きく広がり、2014年には人口上位0・1%(1の10分の1)が国富の22 %と、下位90%と同じ比率の富を所有している。これは米国社会分断の主因となっており、社会的緊張を生む。また国際非政府組織オックスファムの報告では、世界で最も豊かな富豪26人が貧困層38億人分と同等の資産を保有するという。
日本でも2つの問題が切実になりつつある。2018年夏の記録的猛暑は災害級といわれたが、これが当たり前となり、毎年のように超大型台風が列島を襲う。2017年7月の九州北部豪雨は24時間に1000ミリの雨を降らせ、2019年の台風19号は千曲川流域をはじめ71の河川で堤防決壊をひき起こした。温暖化対策は、2011年の原発事故をきっかけに後退し、石炭火力への依存度が高まっていることから、国際的な批判を浴びている。
所得格差について著者は、「米国、英国、インド、中国で不平等は、欧州諸国の多くと日本に比べて大きく拡大した」と指摘する。事実、所得格差を示すOECDのジニ係数は、4ヵ国は0・4ないしそれ以上(悪い)に対し、欧州大陸は概ね0・3ないしそれ以下(良い)、日本は豪州と同じ0・33と中間にある。今後日本で深刻化する格差問題は、現在世代と将来世代の負担の不公平で、国と地方の公的債務1100兆円、加えて年金純債務が1100兆円と試算される。これは、将来世代の負担のもとで現役世代が、身の丈以上の分不相応な生活を送っていることを物語る。
国連機関が公表する世界幸福度ランキング2019年版によると、日本は156ヵ国のうち58 位(OECD36ヵ国のうち32位、米国は19位)だった。幸福度の測り方には議論があるだろうが、公表開始の2012年、日本は44位から始まり50位台で推移している。また内閣府による2013年188の意識調査「今を生きる若者の意識~国際比較からみえてくるもの~」によると、米英独仏など7ヵ国のうち日本の若者は、「将来への希望」と「40歳になったときのイメージ(幸せになっている)」の項目で、他の6ヵ国と比べ20ポイント以上の差で最低の結果である。前述の世代間格差を漠然と感じているのだろうか。
現在、米国など主要国は、GDPを指標に経済政策の目標として成長を最重視している。ドル・円表示の所得の持続的増加を目指し、政府が基本的に介入しない自由な市場活動がそれを実現するとの自由市場経済学の考え方に立脚する。しかし皮肉なことに、モノの消費極大化で人の幸せ(厚生)を測ろうとする限り、すなわちモノに執着する限り、現行の経済政策は持続可能ではない。
所得(利益)を生む財・サービスの生産活動において自然(空気、水、環境)はタダで無限であるとの前提に立つが、この「自由財」の基本前提が環境問題で事実上崩れた。経済格差については、自由競争の結果であり自己責任との認識で、勝者総取り(一人勝ち)社会とグローバル競争のもとで、自由市場経済学から解決策となる分配論は出てこず、社会の持続性は危険にさらされる。
仏教の観点からは、「消費は人間が幸福を得る一手段にすぎず、理想は最小限の消費で最大限の幸福を得ることにある(シューマッハー)」。仏教も物質的豊かさは認めており、ただモノへの執着は否定する。ここで中核となる仏教の教えは相互依存(諸法無我)であり、それは人間だけでなく、大自然とすべての存在に及ぶ。幸せは、物質的欲望の満足(外なる富)から得られず、他者と自然との共存のもと、心満たされた生活をおくる精神的満足(内なる富)にある。
経済政策の目標としてGDPは重大な欠陥(仏教が重視する3つの要素─生活の質(幸せ)、環境(自然)、分かち合い(分配)─の軽視ないし無視)を抱えていることから、仏教経済学ではGDPに代えて、この3要素を織り込んだ新たな経済指標(著者はUN︲GPI(国連版「真の進歩指数」を提唱。概要は第7章参照)が必要と教える。まず政産官学が、所得のみならず国民の真の幸せに結びつく経済指標に合意する。政府がその持続的改善・成長を政策目標にし、メディアが報道することで、企業や個々人の行動も変化するだろう。
再生不能な化石燃料(石炭、石油、天然ガス)など自然資源の乱用は減り、循環型経済に移行することで地球温暖化は緩和される。生活の質(ワーク・ライフ・バランス)が重視されれば、長時間労働の削減につながる。経済(所得と富)格差が小さくなれば、新たな経済指標は好転することから、累進課税の強化、最低所得保証などの分配政策が採用されやすくなり、極端な貧富の差は縮小するだろう。
私は、人生の大部分を銀行員、大学教員として、なんらかの形で経済に接しながら過ごしてきた。現役最後の7年間は龍谷大学に奉職した。龍谷大学は、寛永16年(1639年)西本願寺に設けられた学寮(僧侶養成学校)が始まりで、380年の歴史を有する。私は経済学部所属だったので、仏教と直接関わりはない。それでも入学式、卒業式は数珠持参の仏式で行われるなど、浄土真宗の雰囲気が学内に感じられた。
ある時、研究室でコーヒーを啜りつつ、「仏教の視点で経済学を考えられないか」と思いをめぐ190らした。仏教は精神的・倫理的領域の思想である一方、経済学は知的・論理的な概念の体系である。換言すれば、仏教と経済学は(一見)お互い相性が悪く、そこで足踏みを余儀なくされた。仏教と経済学ともに生かじりの我が身の悲しさ、特に手がかりを掴めないまま、放り出してしまった。龍大を退職して5年、いまでは社会への恩返しの気持ちも込めて、夏と冬に社会人講座を担当している。そういう時にブラウン教授の『ブッディスト エコノミックス』に出会った。教授は、私が答えられなかった謎にどのように向き合ったか、第2章で語っている。
本書は、「自分たちを、意のままに略奪する権利を持つ、大自然の主であり支配者であると考えてきた」(教皇フランシスコ)欧米人には、理解するまで抵抗感があるかもしれない。しかし、神道と仏教の文化、伝統、風土に育ってきた私たちにとって、違和感はあまりないと思う。一読して想ったのは、渋沢栄一の『論語と算盤』である。渋沢は、「論語と算盤は甚だ遠くして甚だ近い」ものと考えた。「仁義道徳、正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」と述べる。ブラウン教授と明治の大実業家の考えがなんと共鳴することか、驚きを禁じえない。
本書の存在を知ったのは、2018年春サンフランシスコに在住する畏友中邑徹君を通してである。彼は、カリフォルニア大学バークレー校のブラウン教授と旧知であり、私に紹介の労をとってくれた。中邑君に心から感謝したい。翻訳作業の過程でブラウン教授は、私の疑問点に対し丁寧に答えてくれた。人名の発音がわからない時には、夫君リチャード・カッツ氏まで巻き込んで、一つ一つ日本語で表記出るよう工夫説明してくれた。ブラウン教授ご夫妻に厚く御礼申し上げる。
なお、読者の便宜のために著者は、情報の出典や環境配慮型経営に関するウェブページなど、原注でURLを詳細に記載しているが、なかには現在アクセス不能や削除済みのものもある。翻訳にあたっては、原文を尊重してそのまま掲載したことをご了承いただきたい。
昨今の厳しい出版業界にあって、勁草書房の取締役編集長の宮本詳三氏には、本件出版の意義をご理解いただいたのみならず、翻訳が粗くならないよう時間をかけて構わないとの助言も頂戴した。これまでも宮本氏にはお世話になったが、今回もそのご決断なくして本書を日本の読者に提供することはできなかった。衷心より感謝申し上げる。
妻庸子は、日本語草稿を先入観のない目を通して、理解しにくい文脈、難しい表現など貴重なコメントを寄せてくれた。おかげで独りよがりになりがちな翻訳文が、格段にましになったように思う。ありがとさん。なお、翻訳にあたっては著者の意向をくみつつ、正確を心がけたが、誤訳があるかもしれない。それは訳者の全責任であること申し上げるまでもない。
2019年初冬 伊豆赤沢にて
村瀨哲司