あとがきたちよみ 本たちの周辺

あとがきたちよみ
『メディア論の地層』

 
あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。
 
 
飯田 豊 著
『メディア論の地層 1970大阪万博から2020東京五輪まで』

「はじめに」「目次」「おわりに」(pdfファイルへのリンク)〉
〈目次・書誌情報はこちら〉


はじめに
 
 カナダ出身の英文学者で文芸批評家のマーシャル・マクルーハン(McLuhan, M.)は、何らかの技術的手段によって人間の身体能力を拡張するもの、そのすべてをメディアと捉えた(McLuhan1964=1987)。一九六〇年代に世界的な注目を集め、各国の放送業界や広告業界などを巻き込んで一世を風靡したが、そのブームはわずか数年で終息した。そして、「ニューメディア」や「マルチメディア」にもとづく高度情報化社会の到来が謳われた八〇年代なかば以降、マクルーハンのメディア理解は、もっぱらマスメディアを分析の対象としてきたマス・コミュニケーション研究の限界を克服するものとして、大いに歓迎された。日本語で「メディア論」といえば、マクルーハンが提示した視座を再発見した学問として了解されることが多い。
 より厳密にいえば、アメリカを中心とするマス・コミュニケーション研究の世界的隆盛に対して、ドイツのフランクフルト学派、カナダのトロント学派(マクルーハンのメディア論を含む)、イギリスのバーミンガム学派(=カルチュラル・スタディーズ)といった複数の知的水脈が互いに混ざり合い、日本では九〇年代になって初めて、「メディア論」の輪郭がはっきりと現れてくる。
 しかしながら、これらと通底するようなメディア論的思考は、戦後日本の知的伝統のなかにも見出すことができる。たとえば、日本では戦後、アメリカ型のマス・コミュニケーション研究が制度的に確立していくが、戦前から戦中にかけて独自に発展した「新聞学」、戦争の経験や戦後民主主義などを背景として、日本の土壌に適したやり方でこれを批判的に咀嚼しようとする試みもあった。たとえば南博は、一九四一年から四七年までアメリカで心理学を学び、社会心理学をいち早く日本に紹介した反面、その歴史的文脈の欠如を批判し、計量的分析と歴史的分析の両方が重要であることを指摘した。南はその後、鶴見和子や鶴見俊輔を中心とする「思想の科学研究会」などと関わりながら、大衆文化研究や日本人研究の旗手として活躍した。
 マクルーハンと同じ頃、新しいメディアとしてのテレビの可能性を日本でいち早く論じたのは、社会学者の加藤秀俊である(加藤1958a; 1965)。加藤はそれに先立って五〇年代、奈良県の村落で三世代家族に対する観察調査をおこない、家庭におけるマス・コミュニケーションの受容過程について民族誌的な分析を試みている(加藤1958b)。加藤の調査を先例のひとつとして、日本では一時期、テレビ受像機を受け入れる「茶の間」のあり方を分析した研究が少なくなかったが、これらは、カルチュラル・スタディーズにおけるオーディエンス研究のアプローチを先取りしていたともいえる。
 また、一九七〇年に大阪で日本万国博覧会が開催されることになり、小説家の小松左京、生態学者で民族学者の梅棹忠夫、加藤秀俊たちが一九六四年に立ち上げた「万国博を考える会」が契機となり、日本では「未来学」が大きなブームになった。梅棹はそれに先立って、「放送人の誕生と成長」(一九六一年)、「情報産業論」(一九六三年)といった論考を相次いで発表しており(梅棹1988→1999)、こうした動きが、日本独自の未来志向的な情報社会論の基層を成していった。
 そして大阪万博の準備期間は、マクルーハンが最も精力的に言論活動を展開していた時期とも一致している。これをビジネスに応用しようという啓発的な動きと、あくまで学術的な議論にとどまろうとする動きとの対立に加えて、万博に関わっていた建築家や美術家のあいだでは、「環境」や「触覚」といった概念に対する関心と相まって、マクルーハンの思想がいち早く受容されていた。
 建築家の磯崎新もそのひとりである。

企業が、あるいは都市を構成する要素がそれをとりまく外界へ送る信号が広告だとすれば、かぎりなく細分化し、あらゆる媒体が発明されていく。広告塔があり、看板ができ、ネオンサインとなり、出版物、テレビが動員される。発信の根拠地が都市内のある地点に存在したとしても、広告としての通信は無限にひろがって、都市空間に浸透する。それは「瞬間的に」(マクルーハン)全体をおおう。[…]都市空間はこのような電気的媒体の錯綜する網目で埋められている。(磯崎1971→2017: 411-412)

 磯崎は一九六七年に著した「見えない都市」のなかでこのように語っている。六〇年代の磯崎は、大阪万博の準備過程に関わるなかで、近代建築の底流にある技術信仰や予定調和とは異なるかたちで、新しいテクノロジーの可能性を徹底的に追究していくことに関心を向けていった。それゆえ磯崎の思想と実践はおのずと、都市論とメディア論が交叉する位相で展開していくことになる。
 たとえば磯崎は、みずから編集を手がけた『建築文化』(一九七二年八月号)の特集「情報空間」のなかで、「ピンホールカメラ」「幻灯機」「レコード」「テレビジョン」から、「中世の理想都市」「マンション」「投石機」「原子力ミサイル装置」「仮面ライダー」「人工衛星」まで、「空間を情報的に規定するメディアあるいはモデルのさまざまなタイプ」のテキスト、イラストレーション、写真などをランダムに配置した「カタログ・スタイル」の情報空間論を展開している。これはマクルーハンの「モザイク書法(mosaic writing)」を連想させるし、同誌で公開された磯崎新アトリエ《POST UNIVERSITY PACK》――後年、《COMPUTER AIDED CITY》に改称される――という都市計画案の説明は、『メディアの理解(Understanding Media)』(McLuhan 1964=1987)の引用から始まる。
 千葉県の幕張を想定した《COMPUTER AIDED CITY》は、長さ千五百メートル、幅百メートルの規模で都市部をつくり、それに屋根を架けるという壮大なプランだった。幕張埋め立てのマスタープランを作成する動きがあったさい、カウンター・プロポーザルとして提出されたものである。CATVのネットワークによる高度な情報システムが媒介することで、市役所、美術館、図書館、学校、病院といった公共施設がひとつながりの空間に再編成された都市を構想している。各戸にコンピュータ端末を行き渡らせ、有線のネットワークと無線の放送で覆い尽くすという都市計画は、当時としてはあまりにも現実離れしていたが、現在では決して不可能なことではない。
 この特集を手がけた意図について、「情報論に関わることは、私にとっては万博について語ることに通じている」という磯崎は、さらに「現代都市が情報化し、そのメディアをつうじた操作がより強化されているのだが、この状況は、六〇年代に考えられたように、バラ色ではない」と続けている(磯崎1997: 72-73)。不確定な事件が都市の街頭で連鎖していくなかで、磯崎は当時、予定調和的な都市計画に対する違和感を抱いていた。「未来への流れを初源に向かって遡行する」(磯崎2015: 197)という磯崎のまなざしは、「われわれは未来にむかって、後ろ向きに行進している」(McLuhan and Fiore 1967=2015: 77)というマクルーハンの物言いを彷彿とさせるし、テクノロジーの進歩主義を牽制するメディア考古学の視座とも幾分重なってみえるというのは、いささか乱暴な解釈だろうか。一世を風靡したマクルーハンが忘却されてからも、磯崎の思索は都市とメディアのあいだを精力的に横断し続け、日本独自のメディア論の展開と伴走してきたようにみえる。
 このように本書『メディア論の地層――1970大阪万博から2020東京五輪まで』では、とくに一九六〇年代以降の日本でメディア論的思考が覚醒する契機となった出来事、あるいは技術革新や文化現象などに焦点をあてることで、さまざまなメディア論の地層が堆積していく過程を辿る。そのほとんどは、主に大学で体系化されてきた人文知の伝統とは、いくぶん異なる土壌ではぐくまれてきた。少なくともその地質は、英語圏で“media studies”や“media and communication studies”といった言葉が指し示す学問領域とは必ずしも一致しない。そして既に述べたとおり、一九七〇年の大阪万博はきわめて重要な指標となる。本書では、情報環境のグローバルな変容に鋭敏な芸術家や建築家の創造知、CATVやミニFMなどに魅了された人びとの実践知とも結びついた、メディア論的思考の地脈を探る。デジタル・テクノロジーの発達にともない、「メディア」という言葉が指し示す対象が拡大し、その意味合いが大きく変容している現在だからこそ、歴史的かつ地域的な視座を踏まえたうえで、日本におけるメディア論の射程に光をあててみたい。
 本書は四部構成になっており、「メディア論」(=第Ⅰ部)とその類縁にある「メディア・リテラシー論」(=第Ⅱ部)、「メディア・イベント論」(=第Ⅲ部)、「パブリック・アクセス論」(=第Ⅳ部)の順に、その日本的展開に焦点をあてていく。これは便宜上の区分けに過ぎず、互いに深い関わりがある。とはいえ、全一二章はそれぞれ独立しており、どの章から読んでいただいても差し支えない。
 本書が刊行される二〇二〇年二月現在、東京オリンピック・パラリンピックの開催まで半年を切っており、五年後には大阪で再び万博が開催されることが決まっている。今後しばらくのあいだ、五輪や万博に関する歴史的な検証を含めた考察や実践が、ますます活性化していくに違いない。本書がその一助となれば幸いである。
(※注と参考文献は省略しました。PDFファイルをご覧ください)
 
 
おわりに
 
 筆者にとって本書は、『テレビが見世物だったころ――初期テレビジョンの考古学』(青弓社、二〇一六年)に続く二冊目の単著であり、初めての論文集である。本書に収録している文章のほとんどは、前著の刊行から四年のあいだに執筆したものである(第12章は東日本大震災が発災した二〇一一年に、第1章は二〇一三年に執筆している)。振り返ってみると、みずから企画・編集した書籍に掲載するために書いたもの、研究仲間が企画・編集した書籍に寄稿したもの、職場の同僚と一緒につくった書籍に書いたもの、商業誌からの依頼を受けて書いたものなど、執筆の動機や経緯はそれぞれ異なっている。それにもかかわらず、本書の冒頭で述べたとおり、日本におけるメディア論的思考の歴史的地層に関心を向けている点で、いずれの仕事にもつながりがあると考えている。二〇一八年から放送大学で、水越伸先生(東京大学)、劉雪雁先生(関西大学)と一緒に「メディア論」の講義を担当することになり、印刷教材と番組教材を制作する過程で、メディア論の系譜を自分なりに整理し直す作業に取り組んでいたことも、本書を制作する動機づけになった。
 各論文を本書に再録するにあたって、一冊の書籍としての読みやすさを重視し、いずれも若干の改稿をおこなっている。初出時に刊行されていなかった参考文献も、重要性が高いものを追加している。転載を快諾してくださった各出版社(青土社、河出書房新社、ミネルヴァ書房、講談社、東京大学出版会、青弓社、ナカニシヤ出版、インプレス)および研究機関(立命館大学産業社会学会、情報科学芸術大学院大学[IAMAS])、そして拙稿をご担当くださった編集者の皆さまに、まずは感謝を申し上げたい。
 そして本書の編集を担当してくださった勁草書房編集部の鈴木クニエさんには、当初の予定より大幅に改稿作業が遅れてしまい、多大なご迷惑をお掛けしてしまった。本書の完成まで辛抱強くお付き合いくださり、まことにありがとうございました。また、改稿の作業にあたっては、平石貴士さんにお手伝いいただいた。粘り強く付き合ってくれて、どうもありがとう。
 そして本書の刊行にあたっては、立命館大学産業社会学会の二〇一九年度学術図書出版助成を受けている。深く謝意を表したい。
 
二〇一九年一一月七日 京都にて
飯田豊
 
 
banner_atogakitachiyomi