「名もなき家事」の、その先へ――“気づき・思案し・調整する”労働のジェンダー不均衡
vol.10 SA概念で何が見えるか(前編)――「男は察知も思案も調整も下手」で「やろうと思ってもできない」のか/平山亮

ジェンダー研究者・山根純佳×『介護する息子たち』著者・平山亮による、日常に織り込まれたジェンダー不均衡の実像を描き出し、新たなジェンダー理論の可能性をさぐる交互連載(月1回更新予定)。「ケアとジェンダー」の問題系に新たな地平を切り拓き、表層的な“平等”志向に陥らない「家族ケア」再編への道筋を示します。

 
「名前のない家事」をめぐって始まった平山亮さんと山根純佳さんの往復書簡連載。男性がSAをしないのは個人の責任か、社会の責任か。SAを複数で担うことはなぜ難しいのか。今回は平山さんから山根さんへの応答です。[編集部]
 
 
山根純佳さま
 
 お手紙をいただいてから、ずいぶん時間が経ってしまいました。わたしの手紙に、丁寧な返信をくださったのが秋の初め。それから冬になり、もうすぐ春が顔を出しそうな今の今までお返事をお待たせしてしまい、いつものことながら申し訳なく思っています。ごめんなさい。わたしの身の上に起こったあれやこれやなど、お伝えしたいことはいろいろあるのですが、ただでさえお返事をお送りするまで時間がかかっているのですから、さっそく本題に入りましょう。
 
 わたしは前便で、3つの論点をお出ししました。1つは、山根さんのご著書『なぜ女性はケア労働をするのか』の枠組みが、わたしたちがこれまでに語ってきた察知し思案し調整するケア労働、sentient activity(SA) 、とりわけその責任のジェンダー不均衡を説明する上でもそのまま使えるのか、というもの。2つめは、ケアの受け手にとっての「最善」の思案を、複数名で行うことの原理的な難しさについて。そして3つめは、SAの社会化(SAを行う責任の社会的分有)の方法をめぐる問題です。すなわち、SAというしごとを複数名で分けるだけでなく、受け手が「この人になら」と思うような「信頼」の対象となる人がSAを中心的に担い、それを社会的に支える、という方向でも責任の分有の方法を模索するべきではないか、という提案でした。山根さんはこの3つのそれぞれについてご意見をくださったので、わたしからの返信も、山根さんのご意見1つ1つへのご返答というかたちでまとめてみたいと思います。
 
問題は「いつ・どのような場合に男はSAをしなくなるのか」
 
 わたしが前便で最初にお尋ねしたのは、資源配分と言説という2つの構造から考える山根さんの枠組みは、SA責任のジェンダー不均衡を説明できるのか、ということでした。わたしのこの問いに対し、山根さんは直接的で具体的なケアを担う者がSAの責任も多く担うことになること、そして、前者のケアの担い手は大抵女性であるのだから、その不均衡分配を説明する山根さんのモデルはSA責任のジェンダー不均衡も説明できるはず、と明快なお答えをくださいました。また、直接的で具体的なケアのみならず、男性はSAもしない(あるいはできない)ことに触れ、男性がSAをしないことの責任は本人にあるのか、それとも男性をそのように社会化した社会にあるのか、という問いをわたしに返してくださいました。
 
 この問いにお答えするにあたってのわたしの前提は、「男性がSAをしていないとも、できないとも考えていない」というものです。というよりも、わたしは「女性=SAをする/できる」「男性=SAをしない/できない」のように、二分法的に考えていないのです。
 
 わたしの著書『介護する息子たち』は、男性がSAをしない、あるいはできないと主張するものではありません。『介護する息子たち』でも、それから第5回のお手紙でも、わたしが一貫して問うているのは、「男性は女性とケアを行う場合に、特に、家庭のような私的な場でそうする場合に、なぜ女性にSAの負担を丸投げしてしまうのか」ということでした。実際、『介護する息子たち』のキーワードは「私的領域における女性への依存」でしたし、第5回のお手紙でわたしが指摘したのは、協働して家庭でのケアにあたるための「足並みを揃える負担」を女性ばかりが担わされている、という不平等でした。→「vol.05 思案・調整の分有と、分有のための思案・調整――足並みを揃えるための負担をめぐって from 平山 亮」
 
 逆に言えば、男性は別の場面では、調整する労働としてのSAをいくらでもやるし、できている可能性がある、ということです(それについては、第5回のお手紙でも触れたつもりです)。つまり、ともにケアを行う相手しだいで、同じ人でもSAを(どれだけ)するかは変わりうる、ということです。そして、このことは調査研究からも示唆されています。
 
専門職相手の調整なら、男だってする
 
 第4回でわたしは、きょうだいで親のケアにあたる場合に、調整の負担を姉妹に丸投げする息子/男性たちを、サラ・マシューズの研究知見を引きながら示しました。マシューズの研究は北米の、いわゆる白人中産階級の家族を対象にしていますが、調査対象を同じくする別の研究論文によると、相手がケア専門職であれば、息子/男性たちがせっせと調整する労働=SAを行う可能性が示唆されているのです。
 
 タイトルはそのものずばり、the nature of men’s filial care という調査研究にもとづく論文で、もちろん調査の結果自体もおもしろいのですが、興味深いのは、著者であるロリ・キャンベルたちによる先行研究のレビューのところです[1]。彼女たちは、北米における親へのケアについての研究をおさらいした上で、ケア専門職との調整を「ジェンダー・ニュートラルなケア」に含めています。つまり、ケア専門職に連絡をとり、相談をし、協働のためのアレンジメントをするしごとは、女性か男性、どちらかが多くやるようなしごとではない、という意味です。
 
 この論文は老年学の分野では有力なジャーナル(Journal of Gerontology)に掲載されており、当然、専門分野の研究者による査読を受けています。もし彼女たちのまとめが過去の研究知見に照らしておかしなものであれば、このまとめには異論が唱えられたはずでしょう。しかし、ケア専門職との調整を「ジェンダー・ニュートラルなケア」とするまとめは特に「お咎めなし」だったようで、彼女たちはそのまとめを前提に分析へと進んでいます。
 
 キャンベルたちの研究とマシューズの研究は、対象者がまったく同じ人ではありませんから、前者の調査対象者たちが、親のケアを行う上で女きょうだいにどのように関わっているかは、直接的にはわかりません。また、これらの結果を日本の文脈にそのまま持ち込めるかどうかもわかりません。しかしながら、息子/男性がいついかなる場合でも調整労働をしない/できないと考えるのは、どうも事実にそぐわないように思うのです。実際、マシューズが主張していたのも、男性が調整をしない/できないということではなく、一緒にケアを行う女きょうだいがいると、息子/男性がいかに(姉妹に比べて)調整をしようとしないかという、異性のきょうだい関係のもとでの男性のケアのしかたでした。
 
 このように考えると、山根さんが第6回のお手紙で展開されていた脆弱性にもとづく説明も、再考の余地があるように思います。山根さんは、女性たちがケアラーとしての自身の脆弱性に向き合っているからこそ、誰かと密に連携し、協働しようとするのだと書かれていました。逆にいえば、男性は脆弱性に向き合っていないからこそ、そうした調整にコミットしようとしないのだと。しかし、北米の老年学の研究から示唆されているように、女性親族が相手となると調整労働を行わない男性たちが、専門職相手となるとせっせと連絡をとり、相談しながらケアにあたっているのだとしたら、このとき彼らは脆弱性に向き合っているのでしょうか、いないのでしょうか。→「vol.06 なぜ男性はつながれないのか――「関係調整」のジェンダー非対称性を再考する from 山根純佳」
 
「名前のあるケア」とSAは本当に連動しているのか
 
 わたしは、ある人がSAをするか/しないか(またはできるか/できないか)を、その人の属性――その1つが「男か、女か」という二分法的に割り当てられた性別ですが――に還元して考えるのは難しいと思っています。ある人が、ある条件のもとではSAを一切しない/できない人である(かのように見えた)としても、関わる相手や場面を変えればSAを熱心に行うかもしれない。そうした非一貫性と文脈依存性は、男性もそうだし、きっと女性にも当てはまるでしょう。男性も含め、ある人が一貫してSAをしない/できないと想定あるいは前提してしまうことは、ケア責任が人々のあいだでどのように(不均衡に)分配されているかを分析する上で、マイナスになるとわたしは考えます。
 
 同様にわたしは、直接的・具体的なケアの担い手がSAも多く担うことになる、という一貫性を想定してはいません。そもそもわたしが『介護する息子たち』にSAの概念を導入したのは、前者の負担の配分と後者の配分がいかに一貫していないかを示すためでした。マシューズの研究でも、わたしの『介護する息子たち』でも、「主役」の息子/男性たちは、少なくとも直接的・具体的なケアについては、家族のなかの誰よりも行っている息子/男性たち――それゆえ「親の主たるケア提供者」として見なされている息子/男性たち――でした。逆に、彼らがケアにいそしむために必要なSAを丸抱えしている女性の家族たちは、少なくとも直接的・具体的なケアに関しては、彼らほどはしていないか、あるいはまったくしていません。
 
 いや、そもそもわたしたちがお手紙のやりとりを始めたきっかけ自体、「なぜ直接的・具体的なケアの負担が男性に分けもたれたとしても、SAの負担は女性にばかり残ってしまうのか」を考えるためではなかったでしょうか。山根さんがおっしゃるように「前者の負担を担う者が、後者も多く担うようになる」ケースもきっと無数にありえますが、わたしたちがここまでお手紙を交わしてきたのは、むしろ「なぜ必ずしもそうはならないのか」のほうを探るためだったはずです。
 
男性性は男の行動をどのように「つくる」のか
 
 そのようなわけで、わたしは山根さんからの質問、「ジェンダーの社会化の理論を支持しますか」に対してはNOとお答えしたいと思います。社会化の理論によれば、男性は生育過程において、ケアするための能力を身につけてこなかった、とされています。しかし、上でも述べた通り、男性がSAにコミットするか/できるかどうかは協働相手が誰かなどに左右されており、一概には言えません。少なくとも、「男性はふつうこういうもの」という内面化された規範に「動かされている」といえるほどには、男たちの行動は一貫して「男らしく」あるわけではありません。
 
 ただし、山根さんが投げかけたもう1つの問い、「男性がSAをしないのは、男性個人に責任があるのか、社会にあるのか」という問いは、それとは別にお答えしないといけないと思います。というのは、これも上で述べた通り、男性は少なくともプライベートで関わる女性に対してはSAの負担を丸投げし(ようとし)ているふしがあるからです。そして、男性がそうするとき、その男性自身に責任がないとはわたしは思いません。なぜなら、そういう男性たちは、相手を選んでそうしているからです。ほかの相手との関係においてはできること、少なくとも「自分もそれをやらなくては」と努めることを、特定の相手との関係でやることを「やめた」のは、その男性自身です。
 
 他方でわたしは、社会がそれに責任がないとも思いません。なぜなら、男性が女性相手の場合にSAをし(ようとし)ないことを選択しているのを、「しようと思ってもできない」という能力の問題であるかのように「見せる」ための解釈枠組みを用意しているのは、社会だからです。「自分は男性に生まれ、男性として育ったから、SAするための能力が(女性よりも)乏しいんだ」という主張が「通る」ためには、「男性はケア能力に乏しいものである」という言説が「そうそう、たしかにそうなんだよね」と幅広く共有され、多くの人に納得されていなければいけません。逆に言えば、そうした言説が共有もされておらず、誰にも納得されていないのであれば、男性がSAをしないことについて「だって男性は女性ほどケア能力を持っていないから」と訴えたところで通用しませんし、「そうか、なるほど、彼らはそもそも『できない』からしないんだ」と解釈される/してもらえることは少ないでしょう。
 
 その意味で、というより、そのような意味でこそ、「男とはふつう○○である」という男性についての理解(男性性)は、男性の行動を「つくって」います。男性性が、男性を実際にどこまでそのように行動させているかはともかく、少なくともそのような男性性が社会に共有され参照されている限りにおいては、男性の行動はそのように「見える」(そのように見ることがゆるされる)ようになる。その意味で、社会が用意し維持している「男とはふつう○○である」という言説は、男性の行動(の見え方)を「つくって」いるといえるでしょう。

社会化の理論が正しいように思えるのはなぜか
 
 でも、こんなふうに言うと、直ちにこんな反論が返って来そうです。男性がSAをできない(ように見える)のは、言説に惑わされた思い込みのせいなんかじゃない。実際にそういう例はあっちでもこっちでも見かける、と。他人がしてほしいことに気づき、何をしてあげたらいいかと思案し、それを実行に移すための種々の段取りを行う、こうした相手のニーズへの敏感さや配慮は女性のほうがやっぱりよくできていて、男性は鈍感で気が利かない人のほうがずっと多い。そんなふうに感じている人、「周りの男女を見ていてもそう思う」という人は少なくないでしょう。そして、ふたたび社会化の理論は正しいように思えてくるのです。つまり、「女性のほうが他人の気持ちに敏感であるものだし、それに配慮できるものである」という男女についての「ふつう」を学び身につけているからこそ、こういう男女差が現れているのではないか、と。
 
 ところで唐突ですが、忖度という言葉をご存じですよね? 言われなくても相手のしてほしいことを察し、それに応えるために率先して知恵を絞り、便宜を図るためにあれこれの社会資源を調整する、例のあれです。これ、言葉にしてみるとよくわかるのですが、SAとしてわたしたちが定義したものに重なる行動だとは思いませんか? また、もしそうだとすると、忖度は「敏感さや配慮に長けている」女たちの得意分野なのでしょうか。忖度が横行しているのは女性たちのコミュニティばかり。気が利かない男たちの社会では忖度なんて行われない。そもそも男たちはそんなこと、したくても能力的にできない……のでしたっけ?
 
 私たちの知っている忖度は、そうではないはずです。何しろ忖度は、ザ・男社会とも言うべき政治の世界で行われている行動を指すための言葉として、一躍有名になったのですから。ジェンダー・ギャップ指数で121位(2019年)の日本、その大きな理由の1つが、世界でもワースト10に入ってしまった政治分野における女性の少なさです。そういう「男たちの牙城」で、男たちが、男たちのために察知と思案を重ね、相手のために調整をせっせと行っている。それを、私たちはたしかに知っているのです。私たちは察知し思案し調整することに精を出す・そうすることができる男たちの姿を認識しながらも、一方で「敏感さや配慮に長けているのは女たち」「やっぱり男は気が利かないよね」という性差を疑いもしなかったりするのです。
 
 社会化の理論がリアルに感じられるのは、矛盾した事例が私たちの目の前で起こっていたとしても、私たち自身がそれを矛盾として受け取らないからでしょう。私たちは、私たちが「男とは・女とはふつう○○である」という言説にそぐわない行動や、それとは真逆の行動をあっちでもこっちでもとっていたとしても、それを性別と関連付けずに受け取るか、もしくは「例外的な男たち・女たち」による周縁的な行動として過小評価する。そして、人びとがその言説に合致する行動をとった(ように見えた)ときばかり、やたらとそれに反応するのです。「あー、やっぱり男って・女って、こうだよね」と。「敏感さや配慮に長けているのは女たち」「やっぱり男は気が利かないよね」という性差のリアリティは、「男とは・女とは」という規範的な言説を参照しつつ、私たちがそれに沿って現実を組み立てることによって、できています。
 
不平等を正当化する構造
 
 「男性はケア能力に乏しいものである」という共有された「知識」は、男性がケアにコミットしないのは「(したくても)できないからだ」という説明を社会的に可能にし、ケア責任のジェンダー不均衡を「正当化」するために役立つ資源となります。ましてやそれが「できなくなったのは周囲の人々のせいだ」「社会が男性にケアをできなくさせてしまったのだ」と理解されれば、要するに社会化の理論が「正当」な説明としての地歩を占めてしまえば、ケア責任のジェンダー不均衡から男性本人はますます免責されることになります。そして、男性はSAを「(したくても)できない」のではなく、特定の相手(女性)とともにする場合にのみ、しようとすることを「やめている」という事実は、いっそう覆い隠されることになるのです。
 
 先ほどわたしは、「男性はケア能力に乏しいものである」という共有された「知識」が資源である、と書きましたが、その資源を利用するかどうかは個人の選択に委ねられています。前述の通り、「男性はケア能力に乏しいものである」という「知識」は男性個人が用意したものではなく、それは社会が用意したものです。したがって、その「知識」が流通していること自体には男性は責任はないかもしれません。しかしながら、その「知識」をいかに使うか(あるいは使わないか)は本人しだいです。
 
 例えば、そうした「知識」が「真実」であるかのように扱われている状況に対し、先ほどの「忖度する男たち」の例のような、私たちの目の前にある事実を反証として持ち出すことで、その「知識」の正当性を剥ぎ取るということは男性にもできます。逆に、幅広く信じられている「知識」、「男性はSAのようなことはしようにもできないのだ」という言説を利用して、自分がSAにコミットしないこと(その実、コミットしないことを選んでいること)を、意思とは関係のない「致し方のないこと」のように説明することもできるでしょう。
 
 「男性とは○○である」という「男らしさ」は、たしかに社会によって規定されていますが、それをどのように用いて現実を、実践を組み立てるかには選択の幅がありえます。これこそ、山根さんがご著書『女性はなぜケア労働をするのか』のなかで定式化されたエージェンシーでしょう。山根さんによるエージェンシーの定義は、構造を参照して行われる解釈実践であり、この構造には「男性とは○○である」のような言説も含まれていました。そして何より、この解釈実践は現状を容認するためのものにも、逆に批判するためのものにもなりうる、というのが山根さんによるエージェンシーの定式化でした。
 
 SAの責任が女性に偏る現状に対し、男性が言説という構造を用いてどのような解釈実践(エージェンシー)を行うかには選択の幅があります。個人としての男性が責任を問われるのは、自身がSAを行わないことを正当化する方向で言説を用いた場合でしょう。なぜなら男性はそのとき、必ずしも選べないわけではなかったはずの別の選択肢、すなわち、SA責任の不均衡を変える方向での解釈実践を行わなかったからです。要するに、「男性はケア能力に乏しいものである」とする構造(言説)が存在するからといって、男性個人の責任が問われずにすむわけではまったくない。山根さんの定式化したエージェンシーにもとづけば、このように結論することができるでしょう。
 
「SAをともにすることは、そもそも難しいものなのだ」と、なぜ言っておく必要があるのか
 
 2つめの論点、「誰かとともにSAをすること」については、山根さんは特定のケア提供者による独断を避けるためにも「ともにすること」には意義がある、とのお答えでした。ケアする側の「最善」の判断は、必ずしもケアの受け手の視点だけに立って行われているわけではない。そこには、ケアする側の「相手(ケアの受け手)は、あるいは相手の人生はこうあってほしい」という願望が投影されているし、また、その願望は規範化された社会的望ましさの影響下にある。そして、その「こうあってほしい」は、ケアの受け手にとっての望ましさとは相容れない場合もある。そのように考えてみると、特定のケア提供者による「最善」の判断のみに依拠してケアが行われるのは危ういことであり、複数のケア提供者がそれぞれの思案を突き合わせながら「それでは一体何が良い(と考えられる)のか」を検討することは、さまざまな「最善」の可能性を考えることができるという点で必要なのではないか、というのが山根さんのご意見でした。
 
 わたしは、このご意見には100%賛成です。というより、わたしはSAを誰かとともにするのは難しいのだからやめたほうがよい、とは思っていません(し、書いてもいません)。わたしの立場は、「ともにすること」は必要だが、実際にそうしようとしても必ずしも「三人寄れば文殊の知恵」というわけにはいかない。それなら、その「上手くいかなさ」が何に由来するのかをきちんと考えよう、というのがわたしの立場です。
 
 とりわけ、わたしが強調したかったのは「最善」の判断をめぐって対立するのは、SAをともにする誰かがケアの受け手のことをきちんと見ていないから、とは限らないこと、受け手に関する自分の知識を総動員して真摯に取り組んだとしても、「最善」の判断は収束しない場合がままあること、そしてそれは、私たちは周囲の人それぞれと、まったく違う私として関係を築いていることがある、という人間関係の当たり前に由来していること。それを確認しておきたかったからです。
 
 それを確認したからといって、SAをともにすることが楽になるわけではありません。ただ、「最善」の判断をめぐる対立が、稀に起こる異常事態でも何でもないことを知っておけば、対立が起きたときに「自分たちの話し合い方が特別にまずいのでは」と思って悩むことは減るかもしれません。また、「最善」の判断が収束しないのは、ともにSAをしている誰かの思案の「至らなさ」のせいではない、と知れば、自分や他の誰かをむやみに責めることも減るかもしれません。SAをともにすることが大事だとすれば、それをしようとしている人たち・今まさにしている人たちに向けて、判断が収束しないことで思い悩むことを少しでも減らせる見方を提供し、ともにすることのハードルを低くすることは大切です。
 
不確実性を低減できなければ、ともにSAをすることには意味がないのか
 
 わたしが、ともに「最善」を考えることで逆に「最善」がわからなくなる例を挙げたのは、山根さんが、ともにSAをすることの意義を「不確実性の低減」に求めていたからです。山根さんは前便で、それぞれ思案を行う複数のケア提供者が協働することがなぜ望ましいのかを、ニーズの判別やその対処法における迷いや悩みを減らすことができる、という点から説明されていました。
 
 ただ、わたしが挙げた姉と弟の例(それぞれが認識する「母とはどのような人か」が異なっていたからこそ「最善」の判断に迷いが生じた例)のように、ケアの受け手に関する各自の知識にもとづいて皆が思案を持ち寄れば、むしろ迷いや悩みは増える方向へと可能性が開かれるのでは、と思います。そもそも山根さんが書かれていたように、それぞれの判断を持ち寄ることで多角的に「最善」を検討できるのは、皆の考える「最善」が必ずしも同じにはならず、一概に「これ」とは言い切れないからこそ(なかなか「満場一致」にならないからこそ)でしょう。だとすれば、不確実性が低減することでSAをともにする意義を主張しすぎると、逆にそのことによってSAをともにすることの動機づけを損ねてしまう可能性があると思います。「何がよいのかわからなくなるなら、みんなでしないほうがよいのでは」というように。
 
 SAをともにすることに意義があるとすれば、今回の山根さんのお手紙にあるように「最善」に関する独断に待ったをかけられる可能性があるからのように思えますし、その点において山根さんとわたしの意見は一致するように思います。
 
「信頼」の対象にな(れ)るのは誰か:次回につづく論点として
 
 3つめの論点は、ケアにおける「信頼」をめぐる問題でした。前便でわたしは、ケアの受け手にとって与え手は誰でもよいわけではないこと、その与え手とのあいだに、自分のニーズの満たし方ごと委ねられるような「信頼にもとづく情緒的関係」が必要になるのではないか、と述べました。それに対して山根さんは、ケア提供者としての適性を「代替不可能」な「情緒的関係」に求めることこそが、ケア責任を女性が私的に負うことを正当化するロジックとして使われてきたことや、「信頼」の対象を狭めることで、ケアの受け手がニーズの表明や実現を行いにくくなる可能性に触れながら、わたしの提案が性別分業の固定化やケア責任の「家族化」に重なるとともに、受け手の自由の選択を阻んでしまうリスクについて指摘されました。
 
 なお、山根さんはこれを「代替不可能」な「情緒的関係」を「家族」にすることの問題に絞って言っている、と予めお断りされた上で、それについてはわたしも同意するだろうと予想されています。その予想については間違いないのですが、一方でわたしは、「信頼にもとづく情緒的関係」をケアワーカーなどの社会化されたケアの担い手に拡げさえすれば、その問題が解決できるとも思いません。ここでわたしが念頭に置いているのは、非異性愛の高齢者です。
 
 わたしの現在の研究テーマの1つは、性的マイノリティ高齢者の高齢期です。高齢者といえば、老年学の研究者でさえもシスジェンダーで異性愛の高齢者を無自覚に想定して語ることが多いことに反発し、性のあり方にかかわらず安心して老い衰えることのできる制度を考えたくて、現在の高齢者ケアのあり方を性自認や性的指向の観点から批判的に検討してみよう、というのが、わたしがいま行っている調査のねらいです。
 
 ここからはわたしの調査をもとに、「『信頼』の対象を私的な関係以外に拡げよう」という議論が異性愛的な家族を前提にしている可能性について考えてみたいのですが、いつものごとく、このお手紙も既にずいぶん長くなっています。このあとのお話は、お手紙を改めて書かせていただこうと思います。(次のお手紙は、お待たせしないことをお約束します!)
 
 
2020年2月
平山 亮
 


 
次回も、平山亮氏がご登場です。[編集部]
 
【プロフィール】平山 亮(ひらやま・りょう) 1979年生。2005年東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了、2011年オレゴン州立大学大学院博士課程修了、Ph.D.(Human Development and Family Studies)。現在、東京都健康長寿医療センター研究所 福祉と生活ケア研究チーム研究員。著書に『迫りくる「息子介護」の時代』(共著、光文社新書、2014年)『きょうだいリスク』(共著、朝日新書、2016年)。気鋭の「息子介護」研究者として、講演、メディア出演多数。『介護する息子たち 男性性の死角とケアのジェンダー分析』のたちよみはこちら→「序章」「あとがき」  
 

[1]Campbell, L. D., & Martin-Matthews, A. (2003). The gendered nature of men’s filial care. Journal of Gerontology: Social Sciences, 58B(6), S350 – S358.
 
 
》》山根純佳&平山亮往復書簡【「名もなき家事」の、その先へ】バックナンバー《《
 
vol.01 見えないケア責任を語る言葉を紡ぐために from 平山 亮
vol.02 女性に求められてきたマネジメント責任 from 山根純佳
vol.03 SAには「先立つもの」が要る――「お気持ち」「お人柄」で語られるケアが覆い隠すこと from 平山 亮
vol.04 〈感知・思案〉の分有に向けて――「資源はどうして必要か」再考 from 山根純佳
vol.05 思案・調整の分有と、分有のための思案・調整――足並みを揃えるための負担をめぐって from 平山 亮
vol.06 なぜ男性はつながれないのか――「関係調整」のジェンダー非対称性を再考する from 山根純佳
vol.07 SAの分有に向けて――ケアの「協働」の可能性 from 山根純佳
vol.08 Sentient activityは(どのように)分けられるのか――構造、自己、信頼の3題噺 from 平山亮
vol.09  ジェンダー平等化の選択肢とケアにおける「信頼」 from 山根純佳
vol.10 SA概念で何が見えるか(前編)――「男は察知も思案も調整も下手」で「やろうと思ってもできない」のか from  平山亮
vol.11 SA概念で何が見えるか(後編)――“ゆるされざる”「信頼」の対象と“正しい”思案のしかたをめぐって from  平山亮
vol.12 [対談]社会はケアをどのように分有し、支えるべきなのか/山根純佳・平山亮
vol.13(最終回) [対談後記]連載の結びにかえて/平山亮・山根純佳

ジェンダー研究者・山根純佳×『介護する息子たち』著者・平山亮による、日常に織り込まれたジェンダー不均衡の実像を描き出し、新たなジェンダー理論の可能性をさぐる交互連載(月1回更新予定)。「ケアとジェンダー」の問題系に新たな地平を切り拓き、表層的な“平等”志向に陥らない「家族ケア」再編への道筋を示します。
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