「名もなきケア責任」をめぐる平山亮さんと山根純佳さんの往復書簡連載。ケア関係をめぐる〈信頼〉をどうとらえるか。SAの担い手はどのように拡げられるのか。そして、社会はケア関係をどのように支えるべきなのか。前回に続き今回も平山さんから山根さんへの応答です。[編集部]
山根純佳さま
慌ただしい年度末、いかがお過ごしですか。身を固くして過ごさなければいけない寒い季節は過ぎましたが、わたしたちがこれまで経験したことがないような世界の状況に、心身の緊張はますます強くなっているように思います。こんな状況で、今まで通りにお手紙のやりとりなどしていて良いのだろうかという気持ちもありましたが、一方でわたしたちは今、自分自身や周囲の人たちの健康と安全に今まで以上に気を配ることが求められ、その意味で、日常生活におけるケアしケアされる関係の重要さを、改めて考えざるをえない状況に置かれています。また、前触れなく学校という居場所を奪われた子どもたちのために、日々の生活の急な再調整を迫られたことで、わたしたちはケアに含まれるsentient activity(SA)、すなわち、依存的な他者のために行う「調整」という労働の負担を再認識するとともに、「社会の意思決定を行う者たちは、その負担の重さを十分に理解していないのではないか」という憤り込みの思いを強くしています。こんなときだからこそ、SAの何にわたしたちが頭を悩ませているのかをきちんと言語化しておかなければいけない、そして何より、これを「名前のないケア」としていつまでも不可視化させておくわけにはいかない、と思い直し、筆を執った次第です。
さて、わたしが立て続けに(しかもわたしにしては珍しく間を空けることもなく)お手紙をお送りしたのは、前便でわたしがお返事しそこねたことがあったからです。それは、「信頼」を前提としてSAの社会化(SAを行う責任の社会的分有)を考えることの是非をめぐる問題です。これは、山根さんからいただいたお手紙のなかの最後(3つめ)の論点にあたります。
わたしは前便の最後にこんなふうに書いて、この問題を、わたしがいま行っている性的マイノリティ高齢者への介護と看取りに関する調査にもとづいて考えたい、と予告しました。以下、自分の書いたものの引用で恐縮ですが、手紙そのものを引っ張り出して読み直すというお手間をかけていただかないよう済むように、そっくりそのまま写させていただくことをおゆるしください。
前便でわたしは、ケアの受け手にとって与え手は誰でもよいわけではないこと、その与え手とのあいだに、自分のニーズの満たし方ごと委ねられるような「信頼にもとづく情緒的関係」が必要になるのではないか、と述べました。それに対して山根さんは、ケア提供者としての適性を「代替不可能」な「情緒的関係」に求めることこそが、ケア責任を女性が私的に負うことを正当化するロジックとして使われてきたことや、「信頼」の対象を狭めることで、ケアの受け手がニーズの表明や実現を行いにくくなる可能性に触れながら、わたしの提案が性別分業の固定化やケア責任の「家族化」に重なるとともに、受け手の自由の選択を阻んでしまうリスクについて指摘されました。
なお、山根さんはこれを「代替不可能」な「情緒的関係」を「家族」にすることの問題に絞って言っている、と予めお断りされた上で、それについてはわたしも同意するだろうと予想されています。その予想については間違いないのですが、一方でわたしは、「信頼にもとづく情緒的関係」をケアワーカーなどの社会化されたケアの担い手に拡げさえすれば、その問題が解決できるとも思いません。ここでわたしが念頭に置いているのは、非異性愛の高齢者です。
「信頼」の対象からケアを受けることができない人々
ここから、前便には載せきれなかったお話に入るのですが、わたしが引用のように考えたわけ、つまり、「『信頼』の対象を私的な関係以外に拡げることを目指せば、それで良いのか?」と考えた理由は、要介護の性的マイノリティ高齢者をめぐる問題のなかで、調査の際、たびたび直面したある問題に由来しています。それは、ケアの代理決定に同性パートナーが関われるかどうか、という問題です。
これは高齢者に限ったことではないのですが、本人の機能が著しく低下し、医療や介護に関する本人の意思を確認することが難しい場合、「この人なら今、何を望みそうか」「何がこの人にとって望ましいか」ということを考えることにより、本人以外の人がケアの方針を代わりに決めざるをえない局面が生じます。この代理決定はまさに、相手のニーズを察知し、それを満たす方法を思案し、必要な調整を行うSAそのものでしょう。
日本では慣例的に、その人の家族が中心となってこの代理決定が行われてきました。その背景にある暗黙の前提は、次のようなものです。すなわち、家族はたいていその人と最も長い時間を過ごしており、それゆえ生活史や「人となり」について最もよく知っている、したがって、本人の生き方や嗜好・志向にあったケアのあり方を考える手掛かりとなる情報を最も持っているはずだから、という前提です[1]。
この代理決定から、同性パートナーがしばしば遠ざけられていることは、わたしの調査結果からも示唆されました。実はこれは、先ほどの前提に照らせば、矛盾した代理決定の進め方です。家族が代理決定の中心になる/されるのは、高齢者本人について家族が最もよく知っているという前提からだったはず。それなのに、その人が高齢になるまでずっと生活をともにし、その人を最もよく知っている人の一人に間違いないはずの同性パートナーが代理決定から外されてしまうとしたら、それは明らかな矛盾でしょう。
日本の状況について付け加えておけば、高齢者ケアに関連する政府のガイドラインは、同性パートナーがこうした決定に参加することを否定してはいません[2]。こうしたガイドラインでは、「家族等」が決定に携わることが望ましいとしており、いわゆる親族に限る必要がないことになっているからです。しかしながら、この「家族等」に同性パートナーが含まれることが明記されてはいないことや、ガイドラインが罰則を含むような強い拘束力を持っていないこともあり、同性パートナーが代理決定に関われるかどうかは、個々の現場に委ねられています。同性パートナーが決定から外されてしまうのは、そのためです。
「信頼」の対象を中心にSAすること=イデオロギーの強化?
山根さんはお手紙の最後で「『信頼にもとづく情緒的関係』を、『もっともよく思案できるのは母親だ、家族だ』というイデオロギーからいかに切り離していくのか」という問いに取り組む必要性を指摘されていましたが、わたしにはこの問いは、上のような非異性愛の高齢者を想定せずに立てられているように感じました。上の事例では、むしろ「信頼にもとづく情緒的関係」にある同性パートナーを中心にSAを行うことを阻むことによって、SAを行うに値するケア提供者は親族に限るべき、という規範が維持されています。逆にいえば、「信頼にもとづく情緒的関係」にあるパートナーにSAを任せたいという望みと、「信頼にもとづく情緒的関係」にあるからこそパートナーのSAを引き受けたいという望みをかなえることは、「もっともよく思案できるのは母親だ、家族だ」というイデオロギーを揺らがせる可能性もあると思います。なぜならそれは、異性の婚姻を基礎とし、性別分業の構造の維持に役立ってきた「家族」の枠の外に正当なSAの担い手を認めることでもあるからです。
わたしは望ましいケアのあり方を考える上で「信頼にもとづく情緒的関係」自体を危険視しなくてもよいと思っています。危険視すべきは「信頼」それ自体ではなくて、その「信頼」が性別分業を前提としたケア責任の「家族化」に「利用」されることのほうでしょう。それは例えば、山根さんがお手紙で挙げられていたように、「子どもは本当は母親にケアされたいはずだ」といって、受け手の「信頼」の対象を勝手に措定してしまうことや、あるいは逆に、上の同性パートナーの例のように、受け手がいくら「信頼」の対象を明示していても、その相手がSAというケアに携わることを阻むことで、結果的にケアの担い手が狭い「家族」に限定され続けることなどです。いずれにしても問題は、受け手の「信頼」の対象が予め措定されたり限定されたりすることであり、「信頼にもとづく情緒的関係」を考慮してケア提供のあり方を考えること自体ではありません。
「信頼」の対象が私的な関係に措定されることを恐れるあまり、その対象を私的な関係以外(例えば介護職など)に向ける方向でばかり思考を進めれば、非異性愛の高齢者のように、「信頼」の対象である私的な関係からSAを受ける権利を予め奪われている人々が、見えにくくなります。その意味では、「『信頼にもとづく情緒的関係』を、『もっともよく思案できるのは母親だ、家族だ』というイデオロギーからいかに切り離していくのか」という問い自体が、家族のような私的関係を「信頼」の対象とすることが最初から承認されている、いわゆる異性愛者の現実に根ざしている、ともいえるかもしれません。
ちなみに上の非異性愛の高齢者のケースのなかには、同性パートナーが代理決定の場から遠ざけられる一方で、医療や介護の専門職は、その高齢者の思案に当然のごとく関わっている、というものもありました。つまりこの場合は、同性パートナーという私的な関係よりも、社会化されたケアの担い手のほうが「信頼」の対象としてSAに携わることが承認されている、ともいえます。山根さんは、「信頼」の対象が家族以外のところに向けられる必要について述べられていますが、異性愛的な関係から「外れて」生きている人の現実からすれば、家族以外のケア提供者のほうが、よほど「信頼」の対象にしやすい、ともいえるでしょう。したがって非異性愛の高齢者にとっては、むしろ家族以外のケア提供者相手にですら認められている、その人たちからケアを受けられる権利を、私的な関係へといかに拡げられるかが問題になっているともいえるのです。
いずれにしても問題は、「信頼」を中心にケア提供のあり方を考えること自体ではなく、受け手にとっての「信頼」の対象を社会が勝手に決めてしまうことにあるはずです。そして、それを問題にする上で、「『信頼』の対象を私的なケア提供者以外にいかに拡げられるか」という方向でのみ考えれば、非異性愛の高齢者の場合のように、私的な「信頼」の対象からSAを受けられる権利が最初から認められていない人々がいる、という「ケアされる権利」の不平等を忘れてしまったり、強化してしまったりする可能性があることに、わたしたちは注意すべきでしょう。
「最善」の判断は、常に時間をとって皆で相談して行えるわけではない
「信頼」に関して、山根さんはもう一つ質問をされていました。それは、わたしの提案でケア提供者を支えるのだとしたら、それは具体的にはどのように支えることを指しているのか、というものです。ケアというしごと自体を分けるのではなく、特定のケア提供者にニーズの満たし方から委ねた上で、そのケア提供者を支える社会関係をわたしが提案したことに対し、山根さんはケア責任の社会的分有のためにこれまで考えられてきた時間保障や現物給付などとわたしの提案は(どのように)違うものなのか、と尋ねられました。
わたしがこれを提案したときに念頭にあったのは、そもそも時間が資源とならず、また、ケアの現物給付で考えられているような、さまざまなケア提供者がともに関与することが現実的ではない状況で、判断を行う例でした。というのもSAとは何かをめぐるわたしたちのやりとりのなかには、こうした切迫した状況での思案や調整がしばしば語られていたからです。それは例えば、子どもの放射能被曝の可能性を考慮した上での母親たちの避難の判断だったり、あるいはわたしが何度か例に出している高齢者の終末期についていえば、その人の機能に大きな変化が見られたときに病院へ搬送するのがよいかどうかの判断などです。
これらの判断は、皆で「最善」を持ち寄って、話し合ってから行うわけにはいかないものです。なぜなら、話し合っている間にも、受け手の生命や健康に関して取り返しのつかない事態を招いてしまう可能性があるからです。避難の例についていえば、被曝のリスクを少なくするために遠くへ避難した方がよいかどうかを迷い誰かに相談しているうちにも、子どもの被曝量が増えてしまう可能性があります。また終末期の例についていえば、病院への搬送というアレンジメント(調整)を決断すれば、何はともあれ、その人の生命の維持が図られることになりますが、そうすることが果たして終末期の人にとって望ましいことなのかどうかは判断が分かれるところです。かといって意見を集めて吟味していたら、その間に否応なく生命が停止する可能性も大でしょう。
意見を持ち寄って話し合って判断することが難しい状況では、山根さんがお手紙のなかで直観的に「こうするのがよいのでは」と書かれていたように、日常生活を最も近くで支えている誰か(それは必ずしも家族には限らないですが)の独断で進めざるをえないでしょう。そして、受け手のために今何をすればよいかを考えることをケアの一つとして数えるのであれば、こうした切迫した状況での思案と判断も視野に入れた上で、ケア責任をいかに分け持つかを議論しなければ、現実的ではないように思うのです。
独りで考え決めたのなら、その結果責任の一切はその人に?
ところで、そうした状況で、もし誰かの独断にもとづいて事が進めば、その結果の責任の一切は、独断したその人に帰属されるのでしょうか。切迫した状況だったとはいえ、その判断は、ケアの受け手に関するその人個人の理解にもとづき、その人ひとりで行ったもの。したがって、その判断にもとづく行動によって、その人や受け手に何らかの不利益が生じたとしたら、その不利益を招いた責任は、独断したその人自身が引き受けなければいけない。そういうことになるのでしょうか。
ドゥーリアの考え方は、これに対して少し違った見方を提供してくれるように思います。ドゥーリアはケアそのものをみんなで分け持つというよりも、ケアを行う誰かに不利益が集中しないよう支える社会関係のことです。この考え方にもとづけば、切迫した状況での独断による結果は、独断したその人が抱え込む必要はない、ということになるでしょう。その独断は、緊急で行われた思案の上での判断、SAという一つのケアです。だとすれば、その人が独断したからといって、というよりも、その人が独断してくれたからこそ、その人に不利益が降りかかることを私たちは阻止しなければいけない。その人は私たちにかわり、難しい状況での思案と判断という労苦を丸かぶりしてくれたことになるからです。その労苦自体を分散させる(=みんなで判断を行う)ことは物理的にできなかったかもしれないけれど、だからこそ、その労苦を負った人が不利な状況に陥らないように、独断後のその人とケアの受け手の生活と生存を支える義務が、私たちにはある。それがドゥーリアの考え方にもとづく発想でしょう。
実は、わたしがドゥーリアの考え方に惹かれたのは、山根さんのお手紙を通じて得た学びがあるからです。わたしのこの発想の念頭にあったのは、山根さんが第2回のお手紙で書いてくださった原発避難の当事者であるお母さんたちの事例なのです。そのお母さんたちに対する社会の仕打ちは、この発想の真逆であると、わたしには感じられました。避難後のお母さんたちが直面していた困難は、避難後の生活で彼女やその子どもたちが被る不利益を「自己責任」だと感じずにいられないような、孤立した状況に置かれていることに由来すると、山根さんはわたしに教えてくださいました。
「最善」の判断を行う立場を引き受けた/引き受けざるをえなかった人が、不利益も含め、判断を行ったことの責任の一切を帰属される理不尽に対し、判断の「その後」をその人ひとりに引き受けさせずに済むための論理はないものか。ドゥーリアの考え方は、そのための論理を導くための手がかりになるように思われました。独断したからといって、そしてその判断が「合理的」なものとはいえないからといって、その判断を下したケア提供者が相談先も含め、あらゆるサポートを受ける権利が損なわれるわけではないこと、そして「ひとりで勝手に決めたことだから」というだけで、その後の支えが得られにくくなってはいけないことを、ドゥーリアの考え方は保障してくれるように思います。
山根さんが指摘されていたように、ドゥーリアはたしかに直接的で具体的なケア行為、「名前のあるケア」を行うことで生じる不利益を何とかするために提案されたものです。でもわたしには、「最善」を思案し判断するという「名前のないケア」、SAにもこのドゥーリアの考え方は使えるように思います。ケア提供者は、ときに誰かに相談し、一緒に考えてもらう余裕のない状況で判断を迫られます。もちろんここには「余裕のない状況」とは何かというさらなる問題も含まれていますが、いずれにしても、判断のプロセス自体に複数名が関わる方向だけでなく、特定の誰かが判断を行った「その後」をその人が引き受けずに済むためにはどうすればよいか、という方向でも、ケア責任の分有を考える選択肢は残しておくのがよいのではないか、と思っています。
「合理的」でない思案を行ったのなら、社会はその人を支えなくてよい?
もう一つ、わたしがこのように考える背景にあるのは、次のような疑問があります。つまり、SAの行い方には、社会的に支えてもらうに値する行い方と、支えてもらえない(あるいは支えてもらえなくてもしかたのない)行い方があってよいのだろうか、という疑問です。そしてこの疑問もまた、放射能被曝を危惧して行われた避難の事例を、山根さんから教えていただいてから考えるようになったことです。
避難を行った親たちのなかには「自主避難」と呼ばれる判断を行った親たちがいます。国が定めた基準に則って避難指示区域とはされていない場所から、子どもへの健康被害を危惧して避難を決めた親たちのことです。
この判断は必ずしも即断ではありませんが、他方で「科学的」な見地にもとづく国の基準に照らせば、その場所からの避難は必要とは判定されていないがゆえに、この親たちの避難の判断は「不合理」で「過剰反応」にもとづく「感情的」な判断のように見なされ、支援どころか批難の対象にすらなることもありました。実際、避難先での「自主避難」者への支援は早々に打ち切られたケースも多々あります。ここには、思案や調整といったSAの行い方が「合理的」でないのなら、それは社会的に支えるべきではない、という、支えるに値するSAを選別する発想があるといえます。
これをおかしいとして異議申し立てをする仕方の一つには、この判断が必ずしも「不合理」とはいえないことを訴える、というものがありえます。例えば、仮に99%の確率で子どもに健康被害がないことが「科学的」に示されたからといって、それがケア提供者にとって避難をしなくてよい根拠になるとは限らない。なぜなら、子どもの生命と健康をあずかるケア提供者が懸念せざるをえないのは、残りの1%のなかにその子どもが入ってしまう可能性のほうだからです。極端なことをいえば、99%の子どもが大丈夫かどうかなど、特定の子どものケアに責任がある者にとってはそれほど重要な情報ではない。残りの1%のなかにその子どもが入ってしまった場合に起こりうる被害の大きさ、取り返しのつかなさのほうが、その子どもへのケア責任を負う者としては、よほど重要な問題なのだと考えることもできます。
一方、異議申し立ての仕方にはもう一つ、どのように思案し、その結果どのように判断したかの中身は問われるべきではない、という考え方もありえます。お上の指示にもとづく避難かどうか、そもそも避難したかどうかにかかわらず、ケア提供者はそれぞれ支えられるべきである、という考え方です。
ドゥーリアの考え方を援用(誤用?)したわたしの発想は、こちらのほうに近いと思います。わたしの発想は、親が行った思案や判断の中身がどうあれ、その親は思案の末に判断し、子どもの生活に関する調整を行うというSAの労苦を担ったことをもって、社会的に支えられるべき対象になるからです。言い換えれば、支えられるに値するかどうかは、その思案が「合理的かどうか」に左右されてはならない、ということです。
思案の「正しい」担い方・引き受け方はある(べきな)のか
思案の行い方しだいで、そのケア提供者が社会的に支えられるべき存在か否かを決めてよいのだろうか、という疑いは、わたしがドゥーリアの考え方を持ち出した理由、すなわち、SA責任の社会的分有の方法は一つでなくてもよいのではないか、という問いともつながっています。つまり、私的なケア提供者が、思案をそれ以外の人(例えば社会化されたケアの担い手)と分けようとした場合にのみ、「正当」な分有のしかたとして支えられるべき対象になってよいのかどうか、という問いです。
山根さんはこれまで、SAというしごと自体を分ける方向、特に、私的なケア提供者の行うSAを少なくする方向で、SA責任の社会的分有の方法を一貫して模索していらっしゃると思います。SAは、ケアワーカーのような社会化されたケアの提供者も含め、もっと多くの人で担ってよいはずであり、だからこそ「信頼」のような概念を持ちだすことで、特定のケア提供者(特に、私的なケア提供者)によって行われるSAを増やしかねないわたしの提案には、懸念を示されているのだと思います。
山根さんの懸念は、わたしも理解しているつもりです。上でも述べた通り、ケア責任を家族に委ねること、とりわけ女性に担わせることを正当化するために、ケアの受け手の「信頼」の対象は都合良く措定されてきたからです。だからこそわたしも、問題なのはそうした都合の良い措定のしかたのほうであり、「信頼」にもとづいてケアのあり方を考えること自体には必ずしも問題がないのではないか、ということを上で述べたのでした。
ところで、もし私的なケア提供者のなかに、とりわけ女性のケア提供者のなかに、「自分のSAが少なくならなくても構わない」「自分が思案をいちばん多く担ってもよい」という人たちが現れたら、どうでしょうか。この人たちの求める思案の行い方は、思案を分ける方向、特に、私的なケア提供者の担うSAを少なくする方向とは逆行しています。ジェンダーの専門家たちが性別分業を前提とした不平等なケアの「家族化」を否定し、女性が私的に担うケア責任を減らす方向でせっかく努力しているというのに、この人たちはなぜだか自分の責任の負担を増やそうとし、ケア責任の不平等分配を固定しうるような「不合理」な行動をとろうとする。
自分たちが「損」をしてしまう「不合理」な思案の行い方を求めるこの人々を、わたしたちがわざわざ支える必要はない。この人々が思案を「抱え込む」ことで結局どのような不利益を被ったとしても、それは「不合理」な行動をとった本人の自己責任であり、その不利益を社会的にカバーすべきではない。社会が真に支えるべきなのは、「正当」な分有の方向に適う人々、すなわち、自分の行う思案を少なくしようとする私的なケア提供者なのだと、そういうことになるでしょうか。
わたしは、思案責任の縮小と分散を求める私的なケア提供者のみを「正しい」とすることは、「自主避難」を行った親たちは社会的に支援を受けられなくても仕方がないと考えることと、結局は重なってしまうように思います。なぜならどちらも、思案のしかたには社会的に支えられるべきしかたと、支える必要のないしかたがある、と思案のしかたに序列をつけているからであり、また、そのどちらにおいても相対的に「支える必要のないしかた」とされてしまうのは、専門家の「合理的」な見解をもっと取り入れ、それに委ねようとはしない、「不合理」な思案のしかただからです。
わたしたちは、どのような思案のしかたを求めるケア提供者であっても、ケア責任の社会的分有の対象として、支えるべき存在として、扱わなければいけないのではないかと思います。どのようなかたちであれ、思案というケアを担う者はそれだけで支えされる対象になる、という前述の考え方に則れば、自分の思案責任を減らそうとする「合理的」なケア提供者も、自分の思案責任を減らそうとは思わない「不合理」な思案のしかたを求めるケア提供者も、等しく社会的に支えられるべきである。なぜならそのどちらも、それぞれのかたちで思案を担っているのだから、というように。
ただし、両者の求める思案のしかたは対照的なのだから、同じようには支えられないでしょう。だからこそ「正しい」「社会化」の方向を一つに定めるのは無理なのではないか、と思います。思案の「社会化」を「思案を分ける」方向でのみ構想し、そうしてできあがる「社会化」の方法によって、結果的に「分ける」ことをし(ようとし)なかったケア提供者が難しい立場に置かれるのであれば、特定のケア提供者に不利益が集中しないようにするというケアの「社会化」のそもそものねらいからも外れてしまうのではないか、と思います。
SA概念に何ができるか、SA概念で何をすべきか
前便とあわせ、わたしのこの長い長いお手紙は、自分でもどこで向かっているのかわからないまま筆を進め、結局のところ、ここには首尾一貫した論旨があるのか、自分でも判断がつかなくなっています。そういう意味ではこのお手紙は、わたしの五里霧中状態をそのまま描き出したものなのですが、一方でわたしは、これを書きながらずっと思っていたことがあります。それは、わたしたちがSAという概念に「飛びついた」理由を、もう一度考え直さないといけないのではないか、ということです。
概念の力は、それを用いることで見えなかったものが見えるようになることによって発揮されます。したがって、ケア責任の不均衡分配をめぐる議論にSAを持ち込むことの意義は、それを持ち込むことでしか見えなかったケア負担の所在や、その負担の集中を解消するための「新奇」な手立てを考えることができたときにこそ、認められるでしょう。逆に言えば、SA概念によってケアに新たな側面が見つかったとしても、その責任の分配の不平等が、これまで用いられてきた枠組みによって難なく説明できてしまうのであれば、SAを取り上げることの意味はそれほど大したものではなくなるようにも思います。
わたしが山根さんのお手紙を読んだ時に感じたのは、実はそういうことでした。つまり、SAを考えることには取り立てて目新しさがない、そういうことになってしまうのではないか、と。山根さんはSAの責任分配を、これまで通りの枠組みで説明しようとしているし、また、そうできると考えている。そのようにわたしには感じられました。実際、山根さんのお手紙によると、「名前のあるケア」とSAの責任の所在は一貫しているのだし、それゆえ前者の不均衡分配を説明する枠組み(資源配分と言説を構造とする枠組み)は、後者の責任分配の不均衡を説明するためにそのまま使える、ということでした。また、SA責任の分有の手立てについても、「名前のあるケア」の場合と同様、それ自体を皆で行うという方向で考えようとされていました。
もちろん、これまでの枠組みが通用するかしないかは、今までの枠組みにSAを当てはめてみることでしか確かめられないので、試しにSAを「名前のあるケア」と同じように考えてみることには意味があると思います。ただ、いかにこれまでの枠組みでSAについても説明できるかばかりを頑張って考えようとすれば、結局のところ、わたしたちはわたしたち自身の手で、SAの概念としての可能性を閉ざしてしまうのではないか、という危惧がわたしにはあります。
いろいろ試行錯誤してみた結果、「SAも『名前のあるケア』と同じように考えて差し支えないみたいだね」という結論に落ち着く可能性はありますが、SAはまだそこまで十分に使われ、鍛えられていない概念です。今までの枠組みに押し込もう、押し込もうとするのは、ちょっと勿体ないように思います。実のところ、わたしが「信頼」というちょっと危うげな概念を持ち込んでまで、SAについて半ば無理矢理に思考を展開させているのも、そうやってSAを使い、試し、そうすることで、これまでのケア論に何か新しいものを付け加えられるかもしれない可能性を、検討してみたいからでもあります。そしてもし山根さんがこういう試行錯誤にお付き合いしてくださるのであれば、今度は山根さんが、SAを使ってこれまでのケアの責任分配の枠組みを「疑う」ような議論を繰り広げてくれたらいいな、とひそかに期待している次第です。
2020年3月
平山 亮
次回は、山根・平山両氏による対談を2020年4月に公開予定です。[編集部]
【プロフィール】平山 亮(ひらやま・りょう) 1979年生。2005年東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了、2011年オレゴン州立大学大学院博士課程修了、Ph.D.(Human Development and Family Studies)。東京都健康長寿医療センター研究所 福祉と生活ケア研究チーム研究員を経て、現在、大阪市立大学准教授。著書に『迫りくる「息子介護」の時代』(共著、光文社新書、2014年)『きょうだいリスク』(共著、朝日新書、2016年)。気鋭の「息子介護」研究者として、講演、メディア出演多数。『介護する息子たち 男性性の死角とケアのジェンダー分析』のたちよみはこちら→「序章」「あとがき」
注
[1]平山亮・涌井智子・島田千穂・原沢優子「看取りにおける『家族』とは何か:介護職・看護職の語りから」(日本家族社会学会第25回大会、2015年)
[2]「認知症の人の日常生活・社会生活における意思決定支援ガイドライン」、および「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」(ともに厚生労働省)。
》》山根純佳&平山亮往復書簡【「名もなき家事」の、その先へ】バックナンバー《《
vol.01 見えないケア責任を語る言葉を紡ぐために from 平山 亮
vol.02 女性に求められてきたマネジメント責任 from 山根純佳
vol.03 SAには「先立つもの」が要る――「お気持ち」「お人柄」で語られるケアが覆い隠すこと from 平山 亮
vol.04 〈感知・思案〉の分有に向けて――「資源はどうして必要か」再考 from 山根純佳
vol.05 思案・調整の分有と、分有のための思案・調整――足並みを揃えるための負担をめぐって from 平山 亮
vol.06 なぜ男性はつながれないのか――「関係調整」のジェンダー非対称性を再考する from 山根純佳
vol.07 SAの分有に向けて――ケアの「協働」の可能性 from 山根純佳
vol.08 Sentient activityは(どのように)分けられるのか――構造、自己、信頼の3題噺 from 平山亮
vol.09 ジェンダー平等化の選択肢とケアにおける「信頼」 from 山根純佳
vol.10 SA概念で何が見えるか(前編)――「男は察知も思案も調整も下手」で「やろうと思ってもできない」のか from 平山亮
vol.11 SA概念で何が見えるか(後編)――“ゆるされざる”「信頼」の対象と“正しい”思案のしかたをめぐって from 平山亮
vol.12 [対談]社会はケアをどのように分有し、支えるべきなのか/山根純佳・平山亮
vol.13(最終回) [対談後記]連載の結びにかえて/平山亮・山根純佳