「名もなきケア責任」をめぐる平山亮さんと山根純佳さんの往復書簡連載。ケア関係をめぐる〈信頼〉をどうとらえるか。SAの担い手はどのように拡げられるのか。そして、社会はケア関係をどのように支えるべきなのか。前回に続き今回も平山さんから山根さんへの応答です。[編集部]
山根純佳さま
慌ただしい年度末、いかがお過ごしですか。身を固くして過ごさなければいけない寒い季節は過ぎましたが、わたしたちがこれまで経験したことがないような世界の状況に、心身の緊張はますます強くなっているように思います。こんな状況で、今まで通りにお手紙のやりとりなどしていて良いのだろうかという気持ちもありましたが、一方でわたしたちは今、自分自身や周囲の人たちの健康と安全に今まで以上に気を配ることが求められ、その意味で、日常生活におけるケアしケアされる関係の重要さを、改めて考えざるをえない状況に置かれています。また、前触れなく学校という居場所を奪われた子どもたちのために、日々の生活の急な再調整を迫られたことで、わたしたちはケアに含まれるsentient activity(SA)、すなわち、依存的な他者のために行う「調整」という労働の負担を再認識するとともに、「社会の意思決定を行う者たちは、その負担の重さを十分に理解していないのではないか」という憤り込みの思いを強くしています。こんなときだからこそ、SAの何にわたしたちが頭を悩ませているのかをきちんと言語化しておかなければいけない、そして何より、これを「名前のないケア」としていつまでも不可視化させておくわけにはいかない、と思い直し、筆を執った次第です。
さて、わたしが立て続けに(しかもわたしにしては珍しく間を空けることもなく)お手紙をお送りしたのは、前便でわたしがお返事しそこねたことがあったからです。それは、「信頼」を前提としてSAの社会化(SAを行う責任の社会的分有)を考えることの是非をめぐる問題です。これは、山根さんからいただいたお手紙のなかの最後(3つめ)の論点にあたります。
つづきは、単行本『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』でごらんください。