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『政策はなぜ検証できないのか』

 
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西出順郎 著
『政策はなぜ検証できないのか 政策評価制度の研究』

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はじめに
 
 近年,政治・行政の話題になると,隠蔽・忖度・偽装・不正等々,猜疑心を湧出させる言葉が頻繁に飛び交うようになった。政治家の立ち振る舞いもさることながら,これらは,最も効率的な政策案を立て,策定された政策を着実に遂行する立場にある,また,その職業的地位が法的に保証されているわが国の行政職員もしくはその集団(以下,「行政職員集団」という)に対する,国民の怒りや失望の表れともいえる。
 そもそも政策過程の中で行政職員集団が(われわれ国民にとっては)非効率な行動を選択したとしても,当該事実はわれわれ自身の手でそう簡単に特定できるものではない。政策効果が思わしくなく,かつその原因が忖度やお手盛り等にあると因果的に説明できない限り,それらの立証は難しい。政策効果が曖昧なままなら,政策それ自体が問題視される機会すら少なくなってゆく。仮に行政職員集団の襟を正すもしくは集団自らがそれを正そうとするにしても,まずは政策効果がしっかりと検証されているという基本前提が必要となるであろう。
 政策効果の良し悪しを検証する,いわゆる政策検証は,主権者からの信頼回復の第一歩としてさらには政策改善の原動力として組織管理上,必要な取組である。わが国政府においては複数の政策検証の取組が存在するが,なかでも代表的なものが「行政機関が行う政策の評価に関する法律」,いわゆる政策評価法である。政策評価法は全政府的かつ継続的に主要政策の効果を評価するものであり,2002 年に施行されて以来,今日に至っている。
 しかしながらしばしば言われるように,政策効果の議論は検証する取組のルーティン化とともに矮小化され,行政不信は払拭されるどころか増長しているのが実態である。とくに政策評価に対する批判は導入当初から根強く,いまだ国民から信頼を得た制度とはいいがたい。「ミイラ取り」が「ミイラ」になった,すなわち検証のための取組が検証されなければならない,皮肉な状態が続いている。
 政策を牽引する行政職員自らが政策を省みるという,現在の政策検証の基本的な構図は,政策を評価する側がミイラになった原因を行政職員の「何か」にあることを容易に教えてくれる。唯一法令で制度設計が守られていてもその実効性が怪しいとなると,同じような他の取組も時間の経過とともにルーティン化してしまう,もしくはすでにそうなっているかのような感覚を抱くのは,筆者だけではなかろう。
 少なくとも国民が納得できる政策検証の取組はいまだ存在していない。たしかに,この多様化,複雑化,そして高度化した社会に十分に対応できる政策を作ること,さらにはそれを着実に検証できるシステムを作ることはきわめて困難ではある。しかし,その高みを目指すことを行政職員が諦めてしまえば,行政不信の状態は悪化の一途を辿るであろう。
 政策はなぜ検証できないのか。本書は,その答えに近づくため,本来「ミイラ取り」であるべき政策評価という制度がどのように「ミイラ化」していったのかを解明し,政策検証に立ちはだかる根本的な原因を炙り出そうとするものである。
 
評価制度の導入
 世の中すべての情報を瞬時かつ完全に収集・分析する力を持っていれば,誰もが政策決定時に何ら逡巡しないであろう。決定の根拠には確たる論理が内在し,万人がそれを理解できているからである。しかしそのような並外れた認識能力を備えている者などこの世には存在しない。限られた能力を駆使し,不完全ながらも満足できる決定を模索する。ゆえに不完全な意思決定に基づく政策は,自らが省みることを暗黙的な前提として実施されることになる。
 しかし民間企業と異なり,行政機関の存亡は市場の競争メカニズムで決まるわけではないため,自らの政策効果を省みようという条件反射的営為は,行政機関の中ではどうしても錆びついてくる。ゆえに政策検証という営為を組織の中に人工的に実装しなければならない。
 国・地方を問わず,わが国において政策検証が本格化したのは1990 年代後半である。当時は官官接待やカラ出張といった行政機関の不祥事,多額の公共事業投資,深刻な財政赤字等々がクローズアップされていた。税金の無駄遣いや政策の非効率が批判されると同時に,行政や政策の抜本的な見直しが喫緊の課題とされた時代であった。
 このようななか,政策効果を検証し,効率的な行政運営を推進するシステムとして構築されたのが政策評価の取組である。1996 年に三重県がわが国で初めて全組織的な評価の仕組みである「事務事業評価システム」を導入した。また,それに呼応するかのように全国の地方公共団体(以下,「自治体」という)が政策検証の仕組みの導入を競い合った。
 政府の政策評価は中央省庁等の再編とともに行政改革の目玉として法制化されたものである。2001 年の「内閣府設置法」(平成11(1999)年法律第89 号)及び改正「国家行政組織法」(昭和23(1958)年法律第120 号)の施行によって,行政機関には自らおこなう内部評価の実施が義務付けられた。さらには2002 年施行の「行政機関が行う政策の評価に関する法律」(平成13(2001)年法律第86 号,以下,「評価法」という)によって,評価実施のための基本システムが確立された。行政機関の内部評価を軸とする政府の政策評価は,これら三つの法律によって制度化されるに至ったのである(以下,「評価制度」という)。
 
機能しない評価制度
 導入直後の評価制度は行政改革の伝家の宝刀としてマスコミからも多くの注目を浴びた。行政の仕事とは「何を「したのか」ではなく,何を「達成したのか」」である。当時はNPM(New Public Management)という新たな行動規範が席巻した時代であった。評価制度は「政策効果など測定できるわけがない」という,行政職員間の固定観念を覆し,「アウトカム(成果)」という聞き慣れない言葉を駆使し,政策の検証を推し進めた。
 しかし瞬く間に伝家の宝刀に対する期待は疑念へと変化し,研究者のみならず実務家からも評価制度への批判は湧出しはじめた。批判を克服できない状態が続くと,政府内では新たな政策検証の手段が実装されていった。行政事業レビューである。行政事業レビューとは約5000 に及ぶすべての事業を各行政機関自らが点検する取組である。事業の効果的かつ効率的な実施のみならず,行政に関する国民への説明責任及び透明性の確保,ひいては国民に信頼される質の高い行政の実現を目指し,同レビューの導入は始まった。毎年一部の対象事業については,学識経験者とともに事業を点検する現場がインターネットで公開され,点検の結果は概算要求に反映されることになっている。さらに近年は,実際の効果の検証ではなく効果の有無をあらかじめ想定し,政策手段の採否に役立てようとするEBPM(Evidence-based Policy Making)という取組が各行政機関内で試行されることとなった。
 
屋上屋を架す政策検証
 近年の行政機関は,少なくとも評価制度,行政事業レビュー,さらにはEBPM といった三つの政策検証を毎年こなさなければならない。いずれも実施目的や実施根拠はいささか異なるものの,根底には政策の良し悪しを客観的もしくは科学的に見極め,効果の高い政策を推進しようという目的がある。とはいえ,これらの作業に従事するのは行政機関の政策を所掌する職員であり,当該職員が場合によっては三つの検証作業をすべてこなし,概算及び定員要求へ反映させる作業を担うことになる。通常の政策実施作業をこなしながらである。このような状態は行政職員に政策検証の屋上屋を架すものであり,通常の政策実施作業へのしわ寄せはどうしても避けられない。つねに既視感を覚えながら類似作業を繰り返せば,政策検証に対するモチベーションはますます減退してゆくことになる。それによって屋上屋を架した状態が放置され急場しのぎの作業が続いてしまうのなら,さらなる政策検証の取組が覆いかぶさってくるやもしれない。
 出自が違っても類似の取組を幾度もさせるくらいなら,一つの取組のみに集中したほうが質の高い結果は生まれやすいはずである。であるなら,この屋上屋を架した政策検証の取組から目を逸らさず,その解消に向けた行動に移るべきである。その行動の鍵を握る取組こそが唯一法令によって担保された評価制度であり,同制度を改革・改善する行動こそが屋上屋を解消する近道ではないであろうか。
 もちろん,屋上屋の状態を作り出した原因は評価制度の脆弱な実効性にあるといってもいい過ぎではない。最初の政策検証の取組であった同制度が着実に機能していればこんなことはなかったであろう。しかし脆弱とはいえ実績があるがゆえに,他の二つに比べれば評価制度ほど科学的及び実践的な知見が蓄積された取組はない。また,行政事業レビューは事業予算の流れに対する関心が高く,EBPM の着眼点はあくまで政策形成(policy making)であり,政策改善に役立つ事後的な検証とはいいがたい。政策の実態を検証し改善に貢献するには,評価制度の実効性を確保することが最も効果的かつ効率的なのである。
 
評価制度と「お手盛り」批判
 評価制度の目的は二つある。一つめは行政機関自らが政策管理のマネジメント・サイクルを回し,政策の質を継続的に向上させることである。二つめは評価結果を公表し,国民への説明責任を徹底することである。しかし同制度は成立から長い月日が流れているにもかかわらず,その実効性はいまだ疑問視されている。その諸問題は決して解決できておらず,逆に,組織の惰性に抗うべき評価という機能がその惰性に取り込まれているかのようである。そもそも「政策評価は評価が政策に反映されてこそ意味がある」(行政改革会議「最終報告」(平成9(1999)年12 月3 日)。また「政策評価の本質は評価結果の政策への反映にある」(山田2013: 23)。今日まで評価制度は自らの理想と現実との乖離について厳しく問われ続けている。
 評価制度において最も批判されているのが「お手盛り」と揶揄される行政職員集団による内部評価の仕組みである。各行政機関が自らの政策を評価する以上,「甘くなるのは当たり前」という理屈を引き合いに評価結果のいい加減さが批判される。近年のいわゆる森友・加計問題,厚生労働省の統計不正や障碍者の水増し雇用などに鑑みても,自らの評価結果が「お手盛り」と切り捨てられてしまうのも腹には落ちる。
 となると高い情報処理能力を持つ外部の専門職による評価の仕組みを作れば,評価のお手盛りは容易に排除できるだろう。しかし,このような仕組みははたして実現できるのだろうか。全政府的に質の高い外部評価を実施するにはそれ相当の財源を確保しなければならない。また,いわゆる「海苔弁」のごときスミだらけの公文書が公開される昨今,外部の人間にとって政策情報へのアクセスはなかなか難しくなっている。専門性を担保するには,作業にかかる時間も相当覚悟する必要があるであろう。仮に強い権限を持つ独立した政策検証機関の新設ともなると,気の遠くなるような話となる。本格的な外部評価の導入を否定するつもりは毛頭ないが,筆者ができること,またやりたいことは,実施できそうな改革・改善の後押しに貢献することである。そのためには,少なくとも「お手盛り」を理由に思考を停止させず,なぜそうなるのかを「つまびらか」にしなければならない。
 内部評価には外部評価と対をなす短所がある。しかし同様に長所もある。まずは実現が難しい質の高い外部評価に希望を見出すよりも,今一度既存の内部評価に立ち戻り,そのありかたを考え抜くことが改革・改善へのいちばんの近道かもしれないのである。
 
本書の狙い
 このような姿勢で評価制度の改革・改善を考えるなら,これまでの政策評価に関する学術的知見を振り返り,そのうえで新たな知見を発見しなければならない。それによって改革・改善の礎に貢献することは決して絵空事ではないであろう。
 政策制度の先行研究,その多くは制度の理想と現実の乖離を取り上げる。評価制度や評価書の一部を俯瞰的に考察し,制度の趣旨や技術的な未熟さから規範的に批判する。その帰結が行政職員による「お手盛り」である。もちろん,それらの研究成果は制度上の諸問題を具体的に提示してくれている。他方,こうした諸問題がなぜ発生するのか,その原因追及を徹底的におこなっているわけではない。実際にどのように「お手盛り」が生まれるのか,その因果的なつながりは不明瞭である。管見の限りでは,「内部評価はお手盛り」という一般常識で片づけるのではなく,評価制度内の因果メカニズムの一般化を目論むような本格的な研究は見当たらない。「お手盛り」の学問的な説明はまだまだ十分とはいえないのである。
 そもそも評価結果の良し悪しはその活用者の主観的な価値判断に委ねられている。仮に数多くの研究者がある政策の評価結果をお手盛りだと批判したとしよう。しかし評価結果の第一活用者ともいえる行政職員が「評価結果には価値がある」と主張すれば評価制度の実効性は否定しにくいし,改革・改善が課題にあがることもないであろう。ましてや評価制度の評価結果の活用者は,政策の企画立案者かつ実施者であり,さらには評価結果の作成者でもある。自らの評価結果に意味がないと積極的に公言する評価結果の活用者は皆無であろう。また行政機関の内部と外部には情報の非対称性において歴然たる開きがある。研究者は,評価結果が歪んでいる可能性とつねに向き合っていかなければならない。評価結果の質は行政職員の取組次第なのである。ただし,ここでは道徳的な正義感というよりも行政職員集団としての行動規範や様式に着目すべきだろう。評価制度を批判する研究者であっても,仮に行政空間の場に身を転じてしまったなら,そのとたんにミイラになる理屈である。
 となると,筆者が改革・改善への後押しに汗をかくとすれば,それは,なぜ評価制度が政策を検証できないのか,行政職員の評価作業のありようからその答えを実証的に見出すことであろう。総じて高い事務的処理力を持つ行政職員が,なぜ評価制度をミイラ化するのか,この答えが具体的に導き出せれば,政策検証の根本的な原因を特定できるし,評価技術の未熟さなどが本質的な問題ではないことも明らかになろう。制度開始当初からの見直し作業にも終止符を打つことができるかもしれない。
 そこで本書では,評価制度の実効性に関する研究として,内部評価が評価結果を「お手盛り」にしてゆく,すなわち行政職員の評価作業が評価結果を歪めてゆくありさまの「可視化」を試みる。そして,この研究結果をもとに政策検証がうまくできない理由について検討し,そのいくつかをつまびらかにしてゆく。本書で得られた知見が,評価制度の改革・改善にひいては実効ある政策検証の実現に少しでも寄与できたら,幸甚の至りである。
 
本書の内容
 本書では,上記のような評価制度の研究を中心に話を進めてゆく。まずは本研究の具体的な枠組を説明しながら,本書のあらましを述べる(第1 章)。次に政策評価に関する先行研究をレビューし(第2 章・第3 章),評価制度の先行研究を批判的に検討する。これに基づき評価制度における評価作業のありさまを本研究の仮説として設定する(第4 章)。続いては当該仮説に対する検討である。検討は二つの観点からおこなわれる。一つめは仮説が提示した「ありさま」を実証的に考察し,その実態を可視化する(第5 章~第7 章)。二つめは,この可視化された「ありさま」がなぜ許容されるのか,評価制度の枠組や沿革を探索的に考察し,その理由を明らかにする(第8 章~第10 章)。最後に本研究の結論を述べ(第11 章),そのうえで政策がうまく検証できない理由について検討を加える(第12 章)。
(注は省略しました。pdfファイルでご覧ください)
 
 
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