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あとがきたちよみ
『実験哲学入門』

 
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鈴木貴之 編著
『実験哲学入門』

「はしがき」、「第1章 実験哲学とは何か」より「1.1節、1.2節」(pdfファイルへのリンク)〉
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はしがき
 
 実験哲学は、2000 年以降の分析哲学における最も重要な研究動向の1 つである。現在では、哲学のほぼすべての問題領域にわたって、毎年数十本、あるいはそれ以上の実験哲学の研究論文が出版されている。
 とはいえ、「実験哲学」という言葉を初めて目にする人は、それが語義矛盾であるように感じるかもしれない。哲学者は、椅子に座って(あるいは歩き回りながら)思索にふける人種であって、実験とは最も縁のない存在であるように思われるからである。
 典型的な実験哲学研究とは、ある哲学の問題に関する人々の考え方を、質問紙を用いて調査するものである。そうだと知ってもなお、そのような活動にいったい何の意味があるのか、疑問に思う人もいるだろう。アンケート調査で哲学の問題に答えが出せるならば、哲学者は何のために存在するのだろうか。
 しかし、哲学のアンケート調査など無意味だ、と結論づけるのはまだ早い。本書を読み進めればわかるように、実験哲学は、さまざまな哲学的な可能性を秘めた研究領域だからである。実験哲学研究は、ある哲学的な問題に関するどの立場が正しいかを明らかにするという、建設的な意義を持ちうるし、哲学的な問題を考える際の心のメカニズムを明らかにするという、認知科学的な意義も持ちうる。さらには、従来の哲学の方法論に疑問を投げかけるという、破壊的な意義も持ちうる。実験哲学は、哲学研究のあり方を大きく変える可能性を秘めた営みなのである。
 本書の目的は、代表的な研究の紹介を通じて、実験哲学とはどのような営みであり、どのような意義を持つのかを明らかにすることである。本書の構成は以下の通りである。第1 章では、実験哲学とは何かを簡単に紹介する。第1 章の末尾には、実験哲学に関する基本文献の簡単な紹介もある。第2 章から第7章では、哲学の各分野における代表的な実験哲学研究を詳しく紹介する。それぞれの章で取り上げる分野は以下の通りである。
 
第2 章 認識論
第3 章 言語哲学
第4 章 自由意志
第5 章 行為の哲学
第6 章 規範倫理学
第7 章 メタ倫理学
 
それぞれの章では、その分野における代表的な実験哲学研究を1 つまたは2 つ取り上げ、その内容を詳しく紹介する。その分野に関する予備知識なしに読めるよう、研究の背景にある論争なども簡単に説明している。さらに、代表的な研究が登場した後に生じた論争や、その中で登場した重要な研究も紹介する。章の最後では、それぞれの分野における哲学研究にとって実験哲学研究がどのような意義を持ちうるかについて、各章の著者なりの評価も試みている。第8章では、第7 章までの概観を踏まえて、従来の実験哲学研究の方法論的な問題点や、実験哲学研究の今後の課題などを、社会心理学の観点から考察する。最後の第9 章では、これまでの実験哲学研究の成果を確認するとともに、実験哲学研究に対する主な批判を検討し、実験哲学の今後の可能性を考察する。
 本書が扱わない内容についても、あらかじめ明らかにしておこう。理想的には、実験哲学の入門書は、実験哲学研究に興味を持った人が自ら実験哲学研究に取り組むことができるよう、実験哲学研究の手法についても解説すべきだろう。しかし、2 つの理由から、本書では研究手法に関する技術的な解説は行わないことにした。第一の理由は、そのような解説を書くことは大変な作業であり、主に哲学者からなる執筆者の力量を超えているということである。第二の理由は、現在行われている実験哲学研究は、社会心理学をはじめとする隣接分野における研究手法に則って行われており、それらの分野には、研究法や調査法に関する優れた教科書がすでに多数存在するということである。自ら実験哲学研究を行いたい人は、第1 章で紹介するものも含めて、そのような教科書で必要な知識を得ることができるはずである[1]。
 実験哲学とは何かを理解すれば、それが重要な営みであることがわかるだろう。実験哲学が重要な営みであることがわかれば、さまざまな研究論文に目を通したくなるだろう。さまざまな研究論文に目を通せば、自ら実験哲学研究を行ってみたくなるだろう。本書がその入り口となり、道案内となることが、著者一同の願いである。
 
著者を代表して 鈴木貴之 
 
[1]実験哲学の哲学的な概説と、質問紙調査や統計分析の技術的な概説を兼ねた入門書としては、第 1 章で紹介する Sytsma and Livengood( 2016)がある。
 
 
第1 章実験哲学とは何か
 
鈴木貴之
 
 実験哲学の具体的な研究を紹介する前に、この章では、実験哲学がどのような営みであり、何を目指しているのかを簡単に説明しよう。そのためにはまず、哲学とはどのような営みであるのかを考えてみる必要がある。
 
1. 1 哲学と事例の方法
 
哲学の問題とは何か
 哲学は多様な問題を扱う学問である。知識、言葉の意味、自由意志、物事の善悪、これらはすべて広い意味での哲学の問題である。では、これらの問題にはどのような共通点があるのだろうか。
 この問いに対する1 つの答えは、これらの問題はすべて、われわれの物の見方の中核をなすような事柄に関する問いであること、そして、いずれの問題においても、「ある人があることを知っているとは、その人が○○だということである」、「あることが道徳的に善いとは、それが○○だということである」というような答えを与えることが目指されている、ということである。言いかえれば、哲学的探究の目的とは、われわれの世界観の中核をなす事柄の本質を明らかにすることなのである。
 哲学の問題の中には、本質の解明が直接の課題ではないものもあるように思われるかもしれない。しかし、そのような場合でも、その問題を考える上で鍵となる事柄の本質を解明することは、哲学的な探究に不可欠な作業である。たとえば、自然科学的な世界観の下でわれわれが自由意志を持ちうるかどうかは、自由意志がどのようなものであるか次第である。また、安楽死が道徳的に許されるかどうかは、あることが道徳的に悪いということがどのようなことであるか次第である。
 では、どのようにすればある事柄の本質を明らかにすることができるのだろうか。ある事柄の本質を明らかにするとは、理想的には、その定義を与えること、言いかえれば、その必要十分条件を与えることだと考えられる。たとえば、知識の本質を明らかにするということは、ある人があることを知っているための必要十分条件を明らかにすることだとしよう。そうだとすれば、知識の本質を明らかにするためには、どのような事例が知識の具体例であり、どのような事例が知識の具体例でないかを明らかにすることが重要になる。知識の具体例を特定し、それらに(そしてそれらにのみ)共通の特徴とは何かを明らかにすることで、知識の必要十分条件が明らかになると考えられるからである。
 
事例の方法
 このような探究において用いられるのは、ある重要な哲学的問題に関連する現実または架空の個別事例を考え、その事例について何が言えるかを検討することを通じて、そこで問題となっている事柄の本質を明らかにするという手法である。このような手法は、しばしば「事例の方法(the method of cases)」と呼ばれる。
 事例の方法は、肯定的な目的にも否定的な目的にも用いることができる。たとえば、ある規範倫理学の理論によれば、ある条件を満たす安楽死は道徳的に許容されることになるとしよう。ここで、この条件を満たすある架空の事例を考え、その状況における安楽死はたしかに道徳的に許容されるとわれわれが考えるとすれば、その理論は一定の支持を得ることになる。他方で、その状況における安楽死は道徳的に許容されないとわれわれが考えるとすれば、その理論の説得力はある程度失われることになる[1]。
 事例の方法における哲学理論と個別事例の関係は、科学理論とデータの関係と類比的に考えることができる。自然科学においては、科学理論は、個別的なデータをできるだけ包括的、整合的に説明することを目標とする。同様に、哲学理論は、個別事例に関するわれわれの直観を、できるだけ包括的、整合的に説明することを目指すのである。
 ただし、自然科学と哲学の間には重要な違いが1 つある。自然科学理論を構築するためのデータは、観察や実験によって、経験的に獲得される必要がある。これに対して、哲学理論の構築のために必要なデータは、さまざまな個別事例に関してわれわれがどのように考えるかということであり、それを明らかにするために必要なことは、それらの事例について実際に考えてみることだけである。そうだとすれば、哲学者はデータ収集のための観察や実験に携わる必要はないことになる。自然科学と異なり、哲学は安楽椅子的な営みだと考えられてきたのはこのためである[2]。
 
直観に注目する
 事例の方法を用いて哲学的な問題を論じる際には、直観(intuition)という言葉がしばしば用いられる。たとえば、「われわれはある事例において安楽死が道徳的に容認されるという直観を持つ」、あるいは、「その事例においては安楽死が道徳的に容認されると直観的に思われる」、といった語り方が用いられるのである。
 では、直観とは何だろうか。実は、直観とは何かということに関してはさまざまな立場があり、事例の方法を用いる哲学者の間でも、共通了解が存在するわけではない。ある人々は、直観とは視覚や聴覚といった知覚能力と類比的だがそれらとは異なる、固有の知的能力だと考える。このような立場によれば、われわれは、ものの色や形を見て取るのと同様の仕方で、あることが道徳的に容認されないことを知るのだということになる。別の人々は、直観とは独特の主観的な感じを伴う心的状態だと考える。この立場によれば、たとえば、ある事例において安楽死が容認されると考えるときでも、それが明らかであるとか、正しいに違いないといった独特の感じを伴うときにのみ、それは直観と呼ぶにふさわしいのだ、ということになる。しかし、これらの定義には問題も多い。現在の心理学や神経科学の知見を踏まえれば、われわれが直観という固有の知的能力を持つという想定は疑わしい。また、直観を独特の感じによって定義する立場に関しても、そのような感じが本当に存在するのか、存在するとしてもわれわれはそれが生じていることを正しく判定できるのか、といった疑問が生じる。
 したがって、ここでは直観をより広い意味で理解しておくのがよいだろう。以下で採用するのは、ある事例についての直観とは、その事例について意識的な推論を経ることなく下された判断である、という理解である。ここで「意識的な推論を経ることなく下された」という限定が設けられているのは、事例の方法において個別事例に関する直観を用いる際には、その問題についての理論的なバイアスの影響を排除したいからである。たとえば、ある事例における安楽死の是非について(時間をかけて)考えれば、功利主義が正しいと考えている人は功利主義的な回答を、功利主義は間違っていると考えている人は反功利主義的な回答をするだろう。しかし、ここで事例の方法を用いて行いたいことは、事例に関する直観に基づいて功利主義の妥当性を評価することである。そのためには、回答は功利主義に関するバイアスを含まないものでなければならない。意識的な推論を経ることなく下された判断に着目するのは、このような事情からである[3]。
 ここで、個別事例に関する直観を調べるとき、より正確に言って哲学者は何をしているのだろうか、という疑問が生じるかもしれない。この疑問に対しては、3 通りの仕方で回答が可能である。第一に、たとえば、ある人がさまざまな個別事例の道徳的善悪に関してどのような直観を持つかを体系的に調べれば、その人が道徳的な善悪という語をどのように用いているか、あるいは、道徳的な善悪についてどのような考えを持っているかを明らかにすることができる。ここで明らかにされるのは、個人の心的状態としての概念である。
 ある特定の個人の概念を解明することは、哲学的にそれほど興味深い営みではないかもしれない。しかし、個別事例に関するわれわれの直観がおおむね一致するとすれば、事例の方法は、個人の心的状態としての概念というよりは、個人間で共有されるものとしての概念の内実を明らかにするのだと考えることができる。事例の方法がこのような意味での概念を明らかにするとすれば、それは、われわれが共有する道徳的な善悪についての考え方を解明していることになり、哲学的により興味深い営みだということになる。これが第二の回答である。哲学の中心的な仕事を概念分析(conceptual analysis)と特徴づける人々は、主にこのような解釈をとっているように思われる。たとえばフランク・ジャクソンは、1998 年に出版された著作『形而上学から倫理学へ』において、つぎのように述べている。「どのようにすればわれわれの日常的な概念を同定できるだろうか。私の考えでは、自由な行為、決定論、信念等々に関して最も自明で中心的であるように思われることを、可能な事例に関する直観によって明らかにし、それに訴えることによって同定する、というのが唯一可能な答えである」(Jackson 1998, p. 31)。
 第三に、個別事例に関する直観は、それ以上のものを明らかにしていると考えることも可能である。たとえば、ある事例における安楽死は道徳的に容認できないとわれわれが考えるときには、たんに道徳的な善悪についてわれわれはそのような考え方を持っているということが明らかになるだけでなく、そのような状況における安楽死は実際に道徳的に容認できないということが明らかになるのかもしれない。言いかえれば、個別事例に関する直観は、われわれの考えを明らかにするだけでなく、何らかの客観的事実を明らかにするのかもしれない。そうだとすれば、直観を基礎として得られる哲学理論は、われわれの考え方についての理論ではなく、世界そのものについての理論だということになる[4]。
 このように、直観については3 つの考え方がある。そして、直観についての理解に応じて、事例の方法を用いた哲学の営みがどのような営みであるかに関しても、3 通りの理解があるということになる[5]。もっとも、直観とは何か、直観を用いて哲学者は何をしているのかという問いは、哲学についての哲学的な問い、すなわちメタ哲学の問いであり、かつさまざまな立場や論争を持つ問いであるため、本書ではこれらの問いに関しては中立的な立場をとっておくことにしよう。
 
多様な思考実験
 事例の方法に話を戻そう。哲学、特に20 世紀後半以降の分析哲学の歴史を見れば、事例の方法はきわめて一般的な手法であることがわかる。以下に挙げるように、分析哲学の主要分野では、既存の理論を批判したり新たな理論を擁護したりするために、数多くの思考実験が用いられてきた。思考実験とは事例の方法を活用した分析にほかならず、事例の方法は、分析哲学の標準的な手法の1 つなのである[6]。
 
認識論:ゲティア事例(第2 章を参照)、人間温度計の思考実験(1. 3 を参照)、書割納屋の思考実験、銀行開業日の思考実験
言語哲学:ゲーデルとシュミットの思考実験(第3 章を参照)、根元的翻訳の思考実験
心の哲学:中国語の部屋、メアリーの思考実験、ゾンビの思考実験
自由意志:フランクファート事例(第4 章を参照)、独裁者の息子の思考実験
人格の同一性:瞬間移動装置の思考実験
倫 理学:トロリー問題(第6 章を参照)、生き残りを賭けたくじ引きの思考実験、バイオリニストの思考実験
 
1. 2 事例の方法から実験哲学へ
 
直観の一致をめぐる仮説
 哲学の問題を考察する上では事例の方法が有用だとして、具体的にはどのようにこの方法を用いればよいのだろうか。
 哲学者はこれまで、哲学者自らが問題の事例について考えれば十分である、という考えを暗黙の前提としてきた。個別事例に関するわれわれの直観はおおむね一致するはずだ、というのがその理由である。フランク・ジャクソンは、前掲書でこの点についても明示的に論じている。

しばしば、重大な反論という調子を込めて、つぎのような質問をされることがある。概念分析がわれわれの分類実践を支配するものの解明に関わるのだとすれば、あなたはなぜさまざまな事例に対する人々の反応についてきちんとした意見調査をしようとしないのか、という質問である。これに対する私の答えは、必要があればそうする、というものである。教室でゲティア事例を紹介する人はみな、ちょっとしたフィールドワークをしているのであり、ほとんどの場合にどのような答えが返ってくるかを、われわれは知っている。しかし、しばしばわれわれには自分自身の反応が典型的であることがわかり、それを他者に一般化できるということもまた事実である。多くの人がゲディア事例に関して一致したことは、ゲティアにとってはまったく驚くべきことではなかっただろう。(Jackson 1998, pp. 36-37)

 しかし、本当に人々の直観は一致しているのだろうか。これは経験的な仮説であり、実際に人々の直観を調査してみれば、それが正しいかどうかを検証できるはずである。さらに、この仮説を疑うべき具体的な理由もある(cf. Sytsma and Buckwalter 2016)。たとえば、リチャード・ニスベットらの文化心理学研究(cf. Nisbett 2003)によれば、文化の違いはわれわれの認知や知覚の様式など、さまざまな心的能力に影響を及ぼす。そうだとすれば、個別事例に関する直観が文化的に異なる可能性もあるかもしれない。また、ダニエル・カーネマンらの行動経済学研究(cf. Kahneman 2011)は、われわれの非熟慮的な認知過程がさまざまなバイアスの影響を受けることを明らかにしてきた。たとえば、同じ問題をどのような表現を用いて尋ねるかによって、その質問に対する回答は変化する。同じようなことが個別事例に関する直観にも生じるとすれば、人々の直観はそれほど一貫したものではないかもしれない。
 
実験哲学の始まり
 このような見立てのもと、2000 年頃から、ラトガーズ大学のスティーヴン・スティッチを中心とした哲学者のグループが、一般人の直観についての体系的な調査を開始した。これが実験哲学の始まりである。スティッチらの研究は、事例の方法で用いられる有名な思考実験について質問紙調査を行い、その結果を統計的に分析するというものである。最初に論文化された研究を例として、それがどのようなものであるかを簡単に紹介しよう。
 スティッチがジョナサン・ワインバーグ、ショーン・ニコルズと行った研究(Weinberg, Nichols, and Stich 2001)では、これまでの心理学や認知科学の知見を踏まえ、
 
①認識論的な直観は文化間で変化する。
②認識論的な直観は社会経済的集団間で変化する。
③認識論的な直観は哲学の授業をとった経験に応じて変化する。
④認識論的な直観は事例が提示される順番に応じて変化する。
 
という4 つの仮説を立て、質問紙調査によってこれらを検証した。ここでは①についての調査を紹介しよう。
 ワインバーグらは、ラトガーズ大学の西洋人学生と東アジア人学生に、認識論の文脈で有名な人間温度計の事例を提示し、両者の回答を比較した。実際に提示したのは、以下のようなシナリオと質問である。

ある日、チャールズの頭に岩が落下し、彼の脳の配線が変化した。その結果、彼は、いまいる場所の気温について考えるときには、常に正しい答えを得られるようになった。自分の脳がそのように変化したことについて、チャールズはまったく気づいていない。数週間後、この再配線の結果として、彼は部屋が21℃ だという考えを抱いた。それ以外には、部屋が21℃ だと考えるべき理由はない。部屋は実際に21℃ である。このとき、チャールズは部屋が21℃ だと実際に知っているのだろうか、それとも、たんにそう思っているだけだろうか。
実際に知っている   たんにそう思っている

彼らが得た結果によれば、東アジア人学生は、西洋人学生よりもチャールズが実際に知っていることを否定することが多かった[7]。このような結果から、彼らは、認識論的な直観は文化相対的であり、認識論の議論において、西洋の哲学者が自らの直観に基づいて知識に関する理論を構築するときには、普遍的な哲学理論を構築しているのではなく、西洋に固有な理論を構築しているにすぎないと考えるべきだと主張している[8]。
 この研究そのものに対しては、その後さまざまな批判も提出されている[9]。しかし、ここで重要なのは、哲学者の直観は典型的なものであり他の人々にも広く共有されているという前提に疑問の余地があることが、経験的に確かめられたということである。この前提は、経験的な検証が可能なだけでなく、経験的な検証が必要なものでもあることが明らかになったのである。スティッチを中心とするグループによる一連の研究が口火となり、これ以降、質問紙調査を用いた実験哲学研究は急速に活発になっていった[10]。
 
実験哲学の典型的な手順
 以上のような簡単な事例紹介からもわかるように、典型的な実験哲学研究は以下のような手順で進められる。まず、個別事例に関する直観が重要な役割を果たしている哲学的問題を、研究対象として特定する。つぎに、実験哲学者の関心に応じて、われわれがどのような直観を持っているのか、ある直観は広く共有されているのか、どのような条件の下で直観が変化するのかなどに関して、それを経験的に確かめるための実験(典型的には質問紙を用いた調査)が計画される。実験を計画する上では、調査に用いる質問によって本当に調べたいことを調べることができるか、想定外の要因によって回答が影響されることはないかといったことが、慎重に検討される。調査結果が得られたのちには、統計的検定を用いて、その結果は信頼できるものか、条件間に有意な差はあるかなどが分析される。ここでは、実験計画やデータの種類に応じて適切な種類の統計的検定を用いることも重要となる。このような作業を通じて、何らかの哲学理論を擁護したり、批判したりすることが、実験哲学研究の目的である。もちろんこれはきわめて一般的・抽象的な特徴づけであり、第2 章以降で具体的な研究事例を見ていくことで、より具体的なイメージをつかむことができるはずである。
(傍点は省略しました)
 
[1]ただし、1 つの個別事例に関する直観に基づいて理論がただちに否定されるわけではない。われわれは、その事例について誤解していたために不適切な直観を抱いたのかもしれないし、他の多くの事例に関する逆の直観に基づいて、この事例に関するわれわれの直観自体が捨て去られるべきであると論じることも可能だからである。実際に、たとえば功利主義者は、功利主義から導かれる結論を優先し、肉食や動物実験を容認する直観を退ける。
[2]哲学はア・プリオリな営みだと特徴づけられることもある。ア・プリオリとはア・ポステリオリの対義語として用いられる哲学用語で、ある事柄がア・プリオリであるとは、いかなる経験とも独立に(言いかえれば言葉の意味理解だけに基づいて)それが知られうるということであり、ある事柄がア・ポステリオリであるとは、何らかの経験を通じてのみそれが知られうるということである。
 ただし、哲学の営みがすべてア・プリオリで安楽椅子的であるとは限らない。たとえば、心の哲学において思考とは何かを考えるときには、思考は常に演繹的な推論であるのか、思考は常に言語的であるのか、といったことを明らかにする必要があるだろう。そしてそのためには、心理学や認知科学などの経験的な研究に目を向ける必要がある。そうだとすれば、以下で「哲学としての実験哲学」と呼ぶタイプの実験哲学研究は、こうしたア・プリオリでも安楽椅子的でもない哲学の下位領域においては、重要な意味を持たないかもしれない。この点については、第9 章で詳しく論じる。
[3]では、どのようにすればこのような判断を得ることができるだろうか。1 つの方法は、意識的な推論を行えないように素早く回答させることである。もう1 つの方法は、そもそも理論的なバイアスがないと考えられる人々(倫理学の授業を受講したことのない大学生など)に回答させることである。
[4]知覚と同様に、直観も誤りうるものだとすれば、直観は世界のあり方に関する一応の証拠、あるいは阻却可能な証拠だということになる。
[5]われわれの概念は個人間でほぼ同じであり、かつそれが世界のあり方を基本的に正しく捉えているのだとすれば、どの解釈をとるとしても、実質的な違いは生じないことになる。
[6]哲学における有名な思考実験のわかりやすい紹介としては、バジーニ(2012)を参照。
[7]「実際に知っている」と回答した人は、西洋人学生では189 人中61 人だったのに対して、東アジア人学生では25 人中3 人だった。
[8]ただし、脳の配線の変化は、岩が落下したことの結果ではなく、邪悪な科学者による手術の結果であるという内容にシナリオを変更すると、両者の違いはなくなった。また、第2 章で取り上げるゲティア事例では、東アジア人学生では登場人物が知識を有していると回答する割合が高いという、逆の結果が得られている。これらの結果を整合的に解釈できるかどうかはそれ自体興味深い問題だが、ここでのポイントは、回答傾向に文化差があることや、わずかなシナリオ設定の違いによって回答傾向が変化することである。
[9]第2 章では、同じ論文に収録されている別の研究と、それに対する批判が詳しく紹介されている。
[10]実験哲学が登場した背景には、もう1 つ要因がある。それは、分析哲学におけるメタ哲学的な問題関心の高まりである。20 世紀後半に、事例の方法が分析哲学のさまざまな場面で用いられるようになるにしたがって、その重要性や信頼性に関する関心も高まっていった。たとえば、意識の問題を論じる際には、クオリア逆転の思考可能性や哲学的ゾンビの思考可能性に基づいて、意識の自然化は不可能であるという強い主張がなされることがある。これに対して、これらの直観はどのような心的能力に基づくものなのか、何を明らかにしているのか、どの程度信頼できるのかといった疑問が提起され、理論的な理由から直観の信頼性を疑う人々も現れた。このような経緯で、1990 年代には、哲学における直観の役割やその本性に関する議論が盛んになっていった。(代表的な文献としては DePaul and Ramsey( 1998)や Pust( 2000)がある。)実験哲学研究、特に否定的プログラムに属する研究は、このような問題関心を受け継ぐものでもある。

 
 
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