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あとがきたちよみ
『日本金融の誤解と誤算』

 
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伊藤修・植林茂・鵜飼博史・長田健 編著
『日本金融の誤解と誤算 通説を疑い検証する』

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はじめに
 
 本書『日本金融の誤解と誤算─通説を疑い検証する』は,日本の金融に関して過去に議論された論点の中のいくつかを選び,これまで「通説」として受け止められてきた学会,金融関係者,マスコミ報道等に浸透している理解にとらわれることなく,入手可能なデータや事実関係を虚心坦懐にフォローすることでその再考を試みた,「誤解と誤算」を解き明かすことを狙った論文集である。
 本書の編集・校正作業が進む中,新型コロナウィルス(COVID-19)の感染拡大が大きな社会的問題となっている。本論では取り上げていないが,金融の視点からみてもエポックメーキングな出来事なので,ここで簡単に触れておきたい。
 感染者数をみると,2020 年5 月末現在で,国内では,感染者数16,000 人強,死者約900 人(厚生労働省発表),全世界での感染者は600 万人強,死者は36 万人(米ジョンズ・ホプキンス大まとめ)を超える厳しい状況である。経済的なダメージも大きく,観光,外食,運輸業を皮切りに消費に深刻な影響を与えているほか,瞬間蒸発ともいえる世界的な需要の急減が輸出入のチャネルを通じて生産,設備投資へも打撃を与えており,雇用面や信用市場への影響も懸念されている。2020 年上期の世界のGDP 成長率については,第二次世界大戦以降最大のマイナス幅になるというのが大方の予測機関の見方である。倒産の多発や大型倒産も懸念されている。
 本書のフィールドである金融面への影響をみると,米国金融市場では3 ~ 4月にかけてCP,社債の金利が急騰し,企業の資金調達における不安定感が増した。機関投資家のリパトリエーション(本国への資金回帰)を背景に新興国経済の通貨安につながるなどの状況もみられている。欧州では,財政基盤の脆弱な南欧を中心に長期金利は上昇気味であり,一部金融機関の信用問題を懸念する向きもある。各国中央銀行の対応等により小康を得ているが,先行き金融機関の与信圧縮が広がり,実体経済に悪影響を与える可能性が指摘されてほか,ファンドやシャドーバンキング・システムへの影響拡大も懸念されている。
 加えて,石油価格も大きく下落している。ちなみに,原油先物価格WTI の5 月物は,需要減少と貯蔵スペース不足を背景に4 月20 日に史上初のマイナスを記録した。
 こうした中で,多くの中央銀行が流動性供給や資産購入,金利の引き下げを行う一方,各国政府は,大規模な財政出動を展開しつつある。
 列挙すると,さながら2008 年の世界金融危機(リーマンショック)の再来のようにみえ,デジャブ(既視)感を持つ向きも多いであろう。さらに,今後の展開によっては1929 年の世界大恐慌以来の甚大な経済的影響が出かねないといった見方も現れている。
 このように世界金融危機との類似点も多いものの,日本を中心にみれば,以下のようないくつかのかなり重要な違いもうかがわれ,思い込みによる同一視は「誤解と誤算」を生む原因となる可能性もあろう。
 第1 は,為替レート(ドル円)がこれまでのところ,円高にはなっていないことである。世界金融危機の際は,2008 年9 月に1 ドル107 円台だった為替レートは,円高傾向で推移し,2011 年7 月には70 円台を記録したが,今回は,5 月末時点で,107 円台と比較的落ち着いて推移しているなど,世界金融危機時の状況は異なっているようにみえる。
 第2 は,現在までのところ長期金利は,経済対策の実施で国債の増発が見込まれる中にあっても,概ねゼロ近傍に抑制されており,世界金融危機の発生時に1%を上回っていたことと比べれば,金融環境はその分だけ景気刺激的に働いていることである。
 第3 は,これまでのところ金融システムが毀損しておらず,内外の金融市場で大きな混乱が生じていないことである。米国の金融市場をみても,世界金融危機のときのような市場の疑心暗鬼が伝播する中で流動性不足が深刻化するといった事態も発生していない。
 第4 は,GDP の落ち込みが戦後最大になるという見方が大勢となっているにもかかわらず,4 月以降日本も含めて世界的に株価が上昇するなど,株価と実体経済との間に大きな乖離がみられることである(この点に関しては,世界金融危機時のような大きな政策的混乱や金融市場の機能不全がこれまで生じていないことに加え,市場が現時点で二番底の可能性をあまり織り込んでいないことが背景にあるようだが,将来的に株価が大きく下落する可能性を払拭することができないと指摘する市場関係者は多い)。
 もっとも,以上のファクトファインディングは,5 月末時点のもので,今後,状況が非常に大きく変わりうる可能性がある性格のものであることを付け加えておく。
 本書の主題の1 つは,データに依拠した虚心坦懐な分析作業に基づいて,金融におけるいわゆる「通説」を見直すということである。われわれは,時々刻々と状況が変わっているにもかかわらず,過去の見方や分析に引き摺られたり,先入観でものをみることがしばしばある。それは,2019 年にベストセラーとなったハンス・ロスリングほかの『ファクトフルネス』でも指摘されているが,金融でも例外ではない。近年,さまざまな面で大きく変貌を遂げつつあるだけに,われわれの頭に刷り込まれた「通説」は,より丹念に,データや事実関係に基づいて絶えず再考しないと本書で取り上げるような「誤解や誤算」につながりかねないと思う。
 もう1 つ指摘しなければならないことは,われわれが有するものの見方におけるバイアスの存在である。過去の危機的状況においては,市場関係者が疑心暗鬼となり,これが,説明のつかない極端な金利上昇を招いたり,全く関連のない金融商品の市場に影響が出たり,究極的にはインターバンク市場の機能がストップするといったことを経験した。一方で,危機が収束し,人々の記憶や感情が薄れるとともに,正常性バイアスやパターン化本能(思考)を背景に都合よく事象が再構成され,重要な事実が置き去りにされる事例もしばしば存在するようにうかがわれる(こうした事例は第3 章で指摘している)。
 繰り返しとなるが,われわれが「通説」と認識している見方は,過去にその問題がプレイアップされた当時に議論されたり報道された際のバイアスを含んでいるため,最新データを使って客観的に検証すると,必ずしも正鵠を得ていないことが多い。さらに,それが新たな「誤解と誤算」につながる可能性もあると考えられる。これらを踏まえれば,金融におけるいわゆる「通説」は,データを使って科学的な分析することで定期的に見直すべきであろう。
 本書では,平成以降の金融に纏わるいくつかのホットイシューのほか,最近の金融システム・金融機関の状況,わが国の資産選択行動,東アジアにおける金融システムの形成,終戦期の株式市場についての理解など,直接には歴史や国際比較などの周辺部を対象にしつつも,間接的に現在の重要問題を考えるのに資する論考も含めて,広く「通説」について再考することを試みている。
 掲載されている論文の内容は,大きく3 つの部分に分けられる。第1 は,経済政策関連の部分で,第1 章「非伝統的金融政策のイノベーションと誤算」,第2 章「財政赤字の拡大と金融緩和は日本経済の停滞感を払拭できたか」,第3 章「バブルと金融危機の防止に必要なことは何か」がこれにあたる。ここでは,日本銀行の非伝統的金融政策,日本経済の停滞感の背景・理由,バブル崩壊後の金融行政等についての通説の再考を試みている。
 第2 は,金融システム・金融機関経営関連の部分で,第4 章「銀行の自己資本比率は規制によって決まるのか」,第5 章「店舗数の減少により銀行業の競争度は低下したのか」,第6 章「経済発展を支えたのは資本市場か銀行か」がこの部分である。自己資本比率・銀行店舗といった金融機関経営にかかわる部分にとどまらず,第6 章では発展途上期の東アジアにおける金融システムの類型について再検証している。
 第3 は,広い意味でのファイナンス関連やその他の分野を纏めた部分で,第7 章「富裕層の資産は不動産かリスク性金融資産か」,第8 章「日本銀行によるETF 購入政策は成功したと言えるのか」,第9 章「終戦前後に市場の断絶はあったのか」の3 論文である。これらは,データ分析を中心に行い,金融機関経営と深く関係する富裕層の資産選択行動についての分析,日銀によるETF 購入の影響についてのインパルス応答関数を使っての分析や,終戦期における株式市場の詳細なデータ分析を行うことで,再評価を試みている。
 本書の原稿は,基本的に2019 年秋の時点までに書かれた,書き下しの論文である。すでに申し上げたとおり,金融の分野における変化は著しく,ごく最近の動きを完全にフォローできていない部分もあることをご容赦いただきたい。
 執筆者グループは,埼玉大学人文社会科学研究科・経済経営系大学院(博士後期課程)の伊藤修研究室とその後継である長田健研究室に籍を置き博士の学位を取得した者および担当教員から成っている。この大学院は,伝統的な学者養成機関でもビジネススクールでもなく,ビジネスマンがアカデミックな研究を行う社会人向け大学院である。当グループは,埼玉大学金融研究所,通称「サイキン研」と自称し,金融の研究に取り組んできた。2010 年には『バブルと金融危機の論点』(日本経済評論社)として研究成果を上梓しており,今回は第二弾に当たる。今回の執筆陣の他にも多くのメンバー(OB・OG)がおり,ともに研究を重ねてきたので,間接的には共同の成果だといってもよい。
 本書の執筆者において生粋の学者はごく僅かで,多くは,中央銀行・民間金融機関や企業等での長い実務経験を有した者である。その大半が,これまでの実務経験や大学院でのアカデミックなトレーニングの成果を活かして,大学で教壇に立っている。読者の方々が,実務経験に裏打ちされた地に足の着いた記述や説得力を感じていただけるのであれば望外の喜びである。本書に収録された論文は,必ずしも「通説」を否定するものばかりではない。しかし,令和に入ったこの時期に平成期を振り返り,学術と実務の両面を踏まえて金融の通説を見直すことは大きな意義があると考えている。また,こうした取り組みが金融におけるアカデミズムと実務界のより強い融合につながっていくことを切に願っている。なお,本書での意見は個人のものであり,属した組織とは一切関係がないことをここで申し述べておく。
 最後になるが,厳しい出版不況の中で,こうした学術書の発行を英断し,丁寧な編集作業を行っていただいた勁草書房および同社取締役宮本詳三氏に心から感謝申し上げる。
 
2020 年5 月末日 編者の一人として
植林 茂
 
 
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