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あとがきたちよみ
『法の支配と遵法責務』

 
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那須耕介 著
『法の支配と遵法責務』

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はしがき
 
 L・ウィトゲンシュタインの『反哲学的断章』は彼の日記、覚え書きから集められた警句集のような本だが、彼のいわゆる哲学的業績の背景にある肉声が近いところから響いてくるように思えて、昔から折にふれぼんやり頁をくることが多かった。
 その中にはたとえば、「まちがった思想でも、大胆にそして明晰に表現されているのなら、それだけでじゅうぶんな収穫といえる」「きみは新しいことを言っているはずだ。だがそれはまったく古いことでしかない。/たしかにきみは、古いことしか言っていないにちがいない。――だがそれにもかかわらず、それはどこか新しいのだ」などという言葉があり、彼のような人でも(だからこそ?)、そんな風に自分を鼓舞しながら仕事に向かわざるをえなかったことがうかがわれる。
 この種の考え方に静かに励まされることがなければ、自分もまた、自分の考えを言葉にして人目に触れるところにおくなどということをしてこなかっただろう。自分はとんでもない勘違いをしているのではないか、すでに語り尽くされたことをなぞっているにすぎないのではないか、と思うたびに凍りつきそうになる手をほぐしてくれたのは、古びてしまったこと、間違ったことも、ある徹底性をもって――それ自体が筋の通った遺漏のない仕方で、あるいは腹蔵のない誠実さをもって――語られるならば、どこかで「じゅうぶんな収穫」をもたらしてくれるかもしれない、という希望だった。
 今回、自分の過去の業績を一冊にまとめてはどうか、という提案をいただいたとき、かろうじて背中を押してくれたのもこの種の考えにほかならない。「法の支配」にせよ「遵法責務」にせよ、何千年もの文明史を背負った課題であり、もはやこれに関するめぼしい問いは問い尽くされているはずだ。また自分ほどの者がこれについて目新しいことを述べようとすれば、稚拙な誤謬を避けられないだろう。したがっていま気がかりなのは、ここに書かれていることの正しさでもなければ新規さでもなく、むしろその盲点、いびつさがごまかされることなく、「大胆にそして明晰に表現されている」か、ということだけだ。ただ、そのことの十分な検証は自分一人の手には余る。ここに読者諸賢のきびしい批判を仰ぐ次第である。
 今回昔の原稿に目を通して最初に感じたのは、どうやら自分は相当無理のある問題の立て方をしていたのではないか、ということである。法の支配論にせよ遵法責務論にせよ、その関心の核には「法とは何か」という問いが控えていることは疑えない。ただ私の場合、その問いがつねに「(どんな)人にとって法とは何か」という変数の二つある問いのかたちをとっていたらしいのである。
 法体系の正統性要件の一つとしての法の支配原理がそれに服する側のどんな願望、希求に根ざしているのかを見極めようとした「法の支配を支えるもの」、「権威の非対称性」概念を手がかりに法の正統性と権威性との間の裂け目をとらえようとした「制度のなかで生きるとはどのような経験か」、そして法遵守、法尊重の条件が、法の満たすべき諸々の条件だけでなく、それに服する側の個人や社会が抱えている事情、おかれている条件にも依存しているのではないか、という見通しから模索を始めたいくつかの遵法責務論は、すべてこの「XにとってYとは何か」というひと息には答えようのない問いにとらわれているようにみえる。法というものの存在が「人間性という歪んだ材木」を写しとるようにして形成されてきたことは疑いがないが、その歪みの内実を個別性と普遍性の両面にわたって繰り込みながら法理学的な問いに向かってみたい、というのはいまから思うといささか無茶な企てだったといわざるをえない。
 自分が取り組んでいる問題がそのようなかたちをしているのだという自覚が当時にあれば、課題を小さく切り分けてこれにのぞむなり、別の手立てがあったかもしれない。が、いまとなっては後の祭りである。破綻をきたしたもの、未完のまま頓挫したものを、いまはそのままに世に問い、そこからあらためて自分の問いを立て直していくほかないだろう。現在の私の能力その他の事情もあるが、すべての文章につきほぼ初出のまま掲載したのは、そうした次第からである。
 その後の新たな研究の成果を繰り込めなかったのも、同様の事情からである。
 本書に収められた文章が公表されたのちに、法の支配論、遵法責務論のいずれについても多くの重要な研究が公刊された。そのすべてをここに挙げることはしないが、田中成明先生の『法の支配と実践理性の制度化』(有斐閣、二〇一八年)、井上達夫先生の『法という企て』(東京大学出版会、二〇〇三年)と『立憲主義という企て』(東京大学出版会、二〇一九年)、瀧川裕英先生の『国家の哲学 政治的責務から地球共和国へ』(東京大学出版会、二〇一七年)、横濱竜也先生の『遵法責務論』(弘文堂、二〇一六年)だけは、ここにその名を記して感謝を伝えないわけにはいかない。私にとってはいずれも、自分の怠惰と無能、視野の偏りと歪みをきびしく思い知らせてくれた著作である。ここから学んだことが、この先、本書に収められた自分の模索の過程を全面的に見直すよううながしてくれていることは真っ先に認めたいと思う。
 本来であれば、この後に私を教え導いてくださった方々の名を挙げて謝辞を述べるべきところだが、第一にその数があまりに多数にわたること、第二にたまたま失念してしまっていた方の名を書き漏らす可能性があること、第三にそもそもお名前を存じ上げないままに多くを教えられてきた方が多数おられることに鑑み、個人の名前を挙げることは控えさせていただく。私にとっては、いずれも即座に名を挙げることのできる方々と同様、負うところの大きかった方々である。ただ、いくつかの場の名前を記すことでそれに代えさせていただきたい。
 何よりもまず、日本法哲学会、法理学研究会、東京法哲学研究会、そして国際高等研究所で関わらせていただいた方々には、ややともすれば今日の学術の世界からふらふら遠ざかってしまいそうになる自分をつなぎとめてくださったことに、深く、深く感謝申し上げたい。ここで与えられた叱咤や励まし、共感と反発がなければ、これらの文章は書かれることもなければ、こうして公表されることもなかったはずである。
 そしてそれ以上に、前任校の摂南大学、現在籍をおく京都大学、そしていくつかの非常勤先で私のつたない講義につきあってくださったすべての方々に、感謝を伝えたい。とりわけ三十代、四十代の大半を過ごした摂南大学での経験は、自分の学問に対する考え方と姿勢を丸ごと裏返してしまうものだった。いま何をどう伝える必要があるのか、というところからさかのぼって、いま何をどんなふうに書き、考えるべきなのかを模索する。その過程で自分に与えられた「大胆」と「明晰」の基準に照らせば、自分はまだ一度もそれを満たすだけの文章を書くことができていない。その意味では、大学で教えるという経験こそが、自分の学問が満たすべき最もきびしい基準を与えてくれた。幸せなことだったというべきだろう。
 そして最後に、大学の内外で私の教育・研究活動の環境を整えてくださった方々にも、最大限の謝辞を送りたい。同僚、友人、家族、どの一人の顔を思い浮かべても、自分ほど人に恵まれた者はいないのではないか、という思いを禁じえない。自分は、ほんとうはこの人たちのために書くべきだったのではないか。少なくともこの人たちの問いかけと求めに応じるかたちで課題と方法を練る必要があったのではないか。これもまた、これからの自分の仕事の方向を探るにあたっての、反省である。
 本書の企画編集、出版にあたっては、北海道大学の橋本努先生の強い後押しと、勁草書房の鈴木クニエ氏の粘り強い支援と督励があった。このお二人については、謝してその名を記させていただきます。
 
二〇二〇年五月
那須耕介
 
 
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