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あとがきたちよみ
『現代認識論入門』

 
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上枝美典 著
『現代認識論入門 ゲティア問題から徳認識論まで』

「まえがき」と「第1章」1節~4節(pdfファイルへのリンク)〉
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まえがき
 
 本書は現代の英語圏で活発に論じられている現代認識論の入門書である。認識論とはかたい言葉だが、簡単に言えば「知識」や「知ること」を対象とする学問、つまり「知ること」について知ることを目指す学問である。第一印象として学問にとって自己反省的な最も重要な領域であるようにも見えるし、初めから循環している見込みのないプロジェクトのようにも見える。
 「知る」ということについて問うべきことはたくさんあるように思える。私は何を知りうるか。私たちは何を知りうるか。そもそも「知る」とはどういうことなのか。「知る」「思う」「考える」「理解する」などはそれぞれどのように異なりどのように関係するのか。
 「知識」という言葉を使えばさらに問いは広がっていく。私たちはどのようにして知識を獲得するか。どの範囲の知識を獲得できるか。知識にはどのような種類があるか。最低限の知識であるための条件は何か。知識を獲得するにはどのようにするのがよいか。知識を維持するには何が必要か。私たちはどのようなかたちで知識を伝達し共有すればよいか。私たちは共有した知識の品質をどのように保ちまた高めていくべきか。知識と知識でないものをどのように判定できるのか。
 これらの問いは見たところ重要だが、次の二つの理由によって十分に注意して扱う必要がある。一方で人々は知識をあまりにも性急に欲するので、知識それ自体についての反省をおろそかにする傾向がある。私たちは、知識とは何かを問う前に知識を求め、何を知りうるかを問う前に知識を増やそうとする。
 他方でいったん知識とは何か、知るとはどういうことかを問い始めると、後で見る比較的簡単な推論によって、私たちは何も知ることができないという否定的な結論に行き当たる。哲学的懐疑論と呼ばれるこの罠は強力で取り扱いが難しい。私はいったい何を知りうるだろうかという問いに対して、何も知ることができないと答えることは驚くほど容易であり、いったんそのように答えてしまうと、そこから逃れることは意外なほどに難しい。そこで格闘するうち人々は疲れ、腹が減り、生活が苦しくなり、問うことをやめてしまう。外界が存在すること、自分が存在すること、意識が存在することを疑う人ですら、生活のために知識を必要とする。
 ものすごくそれを必要としているのに正面からそれについて考えることを拒むもの、それが「知識」である。そういえば、哲学とは知への愛であった。
 
 本書の構造は簡単である。まず現代認識論のスタート地点と言える標準分析を学ぶ(第1 章)。次に、標準分析の重要な問題点を指摘することでその後の認識論に大きな影響力をもったゲティア問題と、それに対する初期の反応を見る(第2 章)。ゲティア問題への重要な対応として因果説(第3 章)から信頼性主義(第4 章)へ進む外在主義の流れを確認したあとで、外在主義に対する一種の反動としての証拠主義(第5 章)を見る。そして、有名な基礎づけ主義と整合主義をめぐる論争に、新たに加わった無限主義や基礎付け整合主義を交えて証拠の構造について考えたあと(第6 章)、現代認識論の新展開の一つである文脈主義を取り上げる(第7 章)。そして次はいよいよ徳認識論である(第8 章)。読者はここで、これらさまざまな議論がどのように徳認識論に流れ込み統合されそして新たに旅立とうとしているか、そのダイナミックな展開を見ることになる。そして最後に結びに代えて知識第一主義についての小さな章を付け加えた(終章)。この(今は)小さなモンスターが今後成長して本書を前時代の遺物とするのだろうか。最後まで気が抜けない現代認識論の波瀾万丈の物語をどうぞ楽しんでいただきたい。
 
 
第1 章 知識の標準分析
 
1. 1 知識とは正当化された真なる信念である
 
 では勇気をもって一歩踏み出そう。「知っている」とはどういうことだろうか。誤解がないように言っておくと、これは「私は何を知っているだろうか」とか「私たちは何を知ることができるだろうか」という問いとは異なる。そうではなく「知っている」とはどういうことか、もっとはっきりと、そして誤解される危険を覚悟して言えば「知っている」という言葉はどういう意味かという問いである。
 そもそも「知っている」という言葉の意味がわかっていなければ、「私は何を知っているか」という問いを考えることすらできない。「知っている」とはどういうことかがわかっていないのに、知識の可能性や限界を考えることもできない。
 たとえ懐疑論が正しいとしても、そのときの「私は何も知ることができない」という主張には、「知る」という言葉が含まれる。そこで何らかの意味が了解されているはずである。ちょうど「神はいない」と主張する無神論の主張に「神」についての了解が含まれるように、懐疑論者の主張には「知識」についての了解が含まれる。これから行う探究は、懐疑論者とも共有できるような探究である。
 「知っている」とはどういうことか。このつかみ所のない問いの手がかりとして、現代認識論が使うのは「知っているとは、正しく、本当のことを、思っていることだ」という分析である。
 
 つまり「知っている」とはこの3 つの要素をひっくるめて短縮した言い方なのではないか、と考えてみるのである。この「正しく、本当のことを、思うこと」という分析は知識の標準分析と呼ばれ、やや堅い専門用語で「正当化された、真なる、信念」と言う。K=JTB と覚えよう(図1. 1)。
 この分析は出発点であり結論ではない。しかし比較的よくできた出発点であり、これを手がかかりにして多くの興味深い問題を考えることができる。
 
1. 2 真という要素
 
 まず「P を知っている」という文はP が真であることを含んでいる。

「私がリストラされるって知ってますか」
「ああ、知っているよ」
「ええっ。本当ですか」
「何驚いてんだよ。自分で言ったじゃないか」
「いや、ほんの冗談のつもりだったんですが」

 「私がリストラされることを知っている」という発言は「私がリストラされる」ことが事実であることを意味する。だからこの人は「知っているよ」と言われて驚いたのである。一般に「P を知っている」と言うからには、そこには「P が真である」ということが何らかのかたちで含まれているようだ。逆に言うと、
P ではない。しかし、彼はP であることを知っている」
という発言は明らかにおかしい。こう考えると知識(K)は真(T)という要素を含むように思われる。このことを専門用語で「知識」は「叙実的」(factive)だと言う。「見る」「覚えている」「知覚する」などもこの意味で叙実的な言葉である。
 知識が真という要素を含むと言うとき、その「真」はこの事実性だけを述べている。たとえば「真」と近い言葉に「真理」があるが、標準分析が言うのは、知識は真理についての知識でありそれ以外ではない、ということではない。もちろん真理を知ることもあるだろうが、真理とは言えないような何らかの偶然的な事柄についても私たちは「知っている」という言葉を使う。「知ってる?さっき近所のスーパーに俳優のG がいたよ」と言うとき、それは真理を知っているという意味とは違うであろう。
 ところでテツガク的に「真」の意味を考え始めるとたちまち問題が複雑化する。現代認識論ではあとで見る「正当さ」が注目を集めるので「真」の要素についての立ち入った検討は認識論の外で行われ、認識論はそこでの対立理論に対して中立だという了解が一般的である。どうしても気になる場合には、とりあえず標準分析で通常想定される真理概念は、いわゆる「対応説」と呼ばれる理論に基づくものと理解しておいてほしい。つまり「P」という命題が真であるのは、P という事態が成立しているときであり、かつそのときに限る、というような理解をとりあえずは想定して読み進めていただきたい。
 
1. 3 信念について

「寒いねえ」
「寒いですねえ。なんでこんなに寒いんでしょう」
「寒気団が来てるんだよ」
「ああ、そうでしたね」
「ところで寒気団ってなんだい」
「は?」

 この人は「寒気団」という言葉をどこかで聞いて、その意味もわからないまま「寒気団が来ている」と言ったのである。通常このような人に私たちは知識を認めない。つまりこの人が北極から寒気団が来ていることを知っているかと問われるならば、かりにそういう寒気団が来ていることが本当だったとしても、私たちは「知っているとは言えない」「知識の基準を満たしていない」と答えるだろう。
 このことは、ある人がある命題についてそれを知っていると言えるためにはその命題の意味を理解していなければならないということを示している。「寒気団」という言葉の意味も知らない人が寒気団が来ていることを知っているということはありえない。
 また、意味を理解していることと知っていることは違う。「裏のコンビニは午前3 時でも営業している」という命題の意味を理解することと、それを知っていることとは違う。つまり何かを知っていると言えるためには、その何かに同意し真として受け入れていることが最低限必要であろう。この意味で知識(K)は、信念(B)という要素を必要条件として含むように思われる。
 ところで本書の読者の大半であろう日本人には、ここで使われる「信念」や「信じる」という言葉について特別な注意が必要である。これらは英語の“belief”や“believe” の訳語で、定訳になっているのでそのまま本書でも用いるが、あまりいい訳語ではない。他に適当な言葉がないのでしかたがないが、いま確認したとおり「知っている」の意味に含まれる可能性があるのはそれほど強い意味で「信じる」ことではなく「同意している」「受け入れている」「思っている」と表現できる程度の比較的弱いニュアンスでもかまわない。力を込めて信じないといけないようなことは、むしろ知っていることを疑わせるかもしれない。
 とくに注意が必要なのは、日本語の「信じる」は宗教上の信仰を意味することがあるが、ここではそれはまったく関係がないという点である。現代認識論では信仰などの宗教的な信念やその正当化も研究対象になりうるが、少なくとも標準分析が問題になるとき、知識の要素に信仰が関係することはない。
 さらに日本語の「信念」には、個人が自分の心の中で強く思うこと、これと決めて容易に変わらない固い思い、人生を支える自分の価値観、というようなニュアンスがあるが、これもここで言う「信念」とは大きくズレている。私たちは日常生活で非常に多くの知識をやり取りしているが、すべての知識にそんな力が入っていたらみんな疲れ果てるだろう。

「あのパン屋、今日は開いているかな」
「開いてますよ」
「本当だな。本当に固くそう信じてそう言っているんだな」
「いったいどうしたんですか。センパイ」

 ある店舗が営業しているかどうかについての知識にここまで確信を求める場合、むしろ何か特殊な事情が働いている(たとえば、今日、そのパン屋の看板娘に告白しようと思っている(1))ことを思わせる。私たちが探究するのはそのような特殊な知識ではなく、日常生活で普通の人が普通に使う「知識」や「知っている」の意味内容や構造である。
 
1. 4 真の信念は知識に足りない ――正当化
 
 ちょっと考えると、真である信念、言い換えれば本当のことをある程度の確信を伴って心に抱いていることが知っていることであるようにも見える(つまりK=TB)。しかし何も考えがないのに何かを信じてそれがたまたま的中しても知識とは言わない。

「きっと宇宙人はいるよ。俺は知っている」
「おもしろい人ですねえ。何か証拠はあるんですか」
「ない」

 いまかりに、本当に宇宙人がいる、すなわち地球外知的生命体が存在すると仮定する。そうするとこの人は、宇宙人がいるという真の信念をもっている。もし知識とは真の信念である(K=TB)ならば、この人は宇宙人がいることを知っていることになる。しかし普通私たちはそうは言わない。このような人は、たんに宇宙人がいると信じているだけであり、今の場合はそれがたまたま当たっただけである。このように、偶然事実に一致したからといって知っていることにはならない。
 では、思考や言論があればいいのだろうか。

「きっと宇宙人はいるよ。俺は知っている」
「何か証拠はあるんですか」
「広い宇宙だから一人くらいいるだろう」

 たしかにここには思考があり言論がある。というよりも、ないことはない。しかしかりに地球外知的生命体が存在するとして、この人は宇宙人が存在することを知っているだろうか。もし認めたくない気分があるとすれば、それは知識に求められる正当さが思考や言論であれば何でもいいわけではないことを示している。
 では真である信念が知識であるためにはどのような思考や言論が必要だろうか。これを解明することこそ認識的な正当さとは何かという現代認識論の重要な問題である。
 
1. 4. 1 認識的な正当さとそれ以外の正当さ
 正当さにはさまざまな種類があるので、最初にこれから問題になる認識的な正当さをそれ以外の正当さから区別しておくことは、整理のために役立つだろう。次の会話を見てみよう。

「息子さんが、本件の重要参考人なんですよ、お母さん」
「あの子はそんなことをする子じゃありません。絶対に犯人ではありません」

 かりにこの息子はここ数年行方不明であり、母親は息子の最近の様子について何も知らないとする。しかしこの母親の信念は、親としてそう思うのがごく自然でもっともなものであり、その意味で正当である。かりにその息子が犯人でないとすると、このお母さんの信念は正当であり、かつ真であることになる。しかし母親がそれを知っていると言えるかと問われたらどうだろうか。次の例と比べてみよう。

「息子さんが本件の重要参考人なんですよ、お母さん」
「あの子はそんなことをする子じゃありません。絶対に犯人ではありません。だってあの子はその時間に私と家にいたんですから」

 この場合母親は証拠に基づいて、すなわち息子のアリバイに基づいて息子が犯人でないという主張をしている。それゆえこの母親の主張は自分の信念が認識的に正当であるという主張である。これに対して前の例では母親の真の信念は息子への愛情のみから出たものであり、その意味で認識的でない。したがってもし前者の例で母親の信念が正当であるとしても、それは認識的ではない別の意味、おそらく人間的にあるいは家族愛的に、より一般的には倫理的、道義的に正当だと言った方がよいだろう。それゆえ前者の例で母親の信念は(倫理的に)正当でありかつ真であるが知識とは言えない。
 さらに道義的に正しいかどうかとは別に、もう少し広く実践的な意味で正当な信念もあるだろう。

「みんな、明日の試合は絶対に勝てる。みんながこれまで耐えてきた練習が必ず勝利をもたらしてくれる!」
「そう信じた方が力を出しやすいということですね、コーチ!」
「そういうこと言うなよ」

 おそらく勝てると信じた方が力を発揮しやすいということはあるだろう。よい結果をイメージして打席に入るのは野球選手の基本的な心構えである。しかしこれも認識的に正しいわけではなく、何らかの実践的な意味、あえて言えば結果主義的な立場からの正しさであろう。
 このように正当さにはさまざまな種類がある。とくに広い意味で実践的な正当さは私たちの生活の中で重要であり、それだけ認識的な正当さと混同されやすいので注意が必要である。現代認識論が関心をもつのは、あくまでも(もしそういうものがあるとして)認識的な正当さである。
 
1. 4. 2 「正当化」という訳語にも注意しよう
 「信念」のときと同じように、この「正当な」「正当さ」という言葉も“justified”,“justification” という英語の訳語なので、少し注意が必要である。これは通常「正当化」と訳されるが、「正当」がもつ「正しい」という含意、つまり英語でも“just” という語源に由来する意味が認識的正当化の理解をゆがめる怖れがある。
 「正しい」という言葉や概念は、有名な「正義」という徳をただちに連想させ、そして正義が関係する倫理の領域へと誘導する。しかしこれは、認識論の中で「正当」という言葉を使うときに意図していることではない。もちろんそれを初めから排除しているわけではないが、認識論研究者の中にはそのような倫理的、道徳的なニュアンスを嫌ってわざわざ別の言葉を使う人たちもいる。
 たとえば「目の前に車がある」のような視覚による日常的で単純な認識の場合、そこで道徳的な事柄が問題になっているとは思えない。それが問題になるのは「目の前の車を運転する」というような、意思主体による意図的な行為であろう。
 意図的な行為であって初めて「目の前の車を運転することが正当化される」という判断が意味をなす。そしてこの判断は、その車の所有者にとって正しいが車泥棒や免許をもっていない子供にとっては正しくない。
 したがってこのような場合に、認識論の中である認識的な側面が「正当」という言葉で表現されるのが自然なのは、意志のもとにあるような特殊な認識についてである。たとえば裁判官が検察側と弁護側の両方の証拠を検討し、その上で意志的に有罪や無罪の判断を下すとき、まさに問題になるのはそれが正当な判断かどうか、つまり「被告が有罪である」という判断が正当化されるか否かである。
 しかし現代の認識論はそのような特殊な判断だけではなく「目の前に車がある」というような、単純で素朴で日常的な、そして人間生活にとってきわめて重要な認識も研究対象にしている。このように考えれば「正当」「正当化」という言葉を使うのは、あまり適切でない。このため「合理的」(reasonable)、「保証」(warrant)、「プラスの認識的地位」(positive epistemic status)、「認識的に望ましいもの」(epistemic desiderata)などの表現がこの分野では使われているが、それぞれに微妙なニュアンスがあり、そのどれかを採用することが何らかの立場表明につながるという別の危険もある。そこで本書では以上のことを注意した上で「正当な」「正当化された」(justified)、「正当さ」「正当性」「正当化」(justification)という用語を一貫して使うことにする(2)。
 また「正当化」でなく「正当さ」や「正当性」、「正当化された」でなく「正当な」と言うこともあるが、それは文脈上「正当化」の「化」のニュアンスが必要な場合と邪魔な場合があるからである。言葉の微妙なニュアンスに敏感な本書の読者には気になる向きが多いと思うが、本書ではとくに注意しないかぎり、これらはすべて“justification” やその派生語を指していると理解していただきたい。
 
(1) このセンパイは、本書第7 章で大活躍することになる。
(2) Alston (1993) は、認識的価値の多様性を積極的に認めることを提案して大きな影響力をもった。
 
(図と傍点は省略しました。pdfファイルでご覧ください。)
 
 
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