あとがきたちよみ
『ソーシャルワークはマイノリティをどう捉えてきたのか』

About the Author: 勁草書房編集部

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Published On: 2020/8/25

 
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西﨑 緑 著
『ソーシャルワークはマイノリティをどう捉えてきたのか 制度的人種差別とアメリカ社会福祉史』

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序章 問題意識と本書の位置づけ
 
 一九六八年五月二九日(水)午前九時、サンフランシスコで開催された第九五回全米社会福祉会議(NCSW)では、社会福祉業界における長年の人種差別が糾弾されようとしていた。
 まず全米黒人ソーシャルワーカー幹部会を代表してT・ジョージ・シルコットと四人の代表が登壇した。彼らは、この日のために推敲を重ねた方針案一〇項目を発表し、NCSW理事会が彼らと会合を持ち、制度的人種差別撤廃にNCSWが積極的に関与する方針を発表するよう求めた。次いで、会議に参加していた四〇〇人ほどの黒人ソーシャルワーカーが事前の打ち合わせ通り揃って会議場を退出し、市内のグライド記念教会に集結した。
 黒人ソーシャルワーカーたちは、苛立っていた。しかし彼らのこの大胆な抗議行動は、決してその場の感情に流されたものではなく、周到な計画に基づいていた。一九六八年という年は、アメリカ社会の情勢が彼らの行動を後押ししたにすぎない。この年、キング牧師の暗殺によって非暴力による運動の限界が見えていた。公民権や経済的平等を求める黒人に対しての白人からの暴力は止まず、警察の暴力も黒人の生命を脅かしていた。ジョンソン政権の貧困戦争は黒人の生活を豊かにしなかった。AFDC受給者に対する行政担当者の度重なるハラスメントと世論のバッシング、地方行政と不動産業者との結託による線引きにより都市の劣悪な住居に黒人たちが閉じ込められていたこと、多くの黒人たちが就職や昇任の機会を奪われ低賃金で不安定な仕事にしか就けなかったことなど、黒人コミュニティの不満は、頂点に達しようとしていた。
 全米社会福祉会議(NCSW)を目前に黒人ソーシャルワーカーたちが抗議行動の実施を決意したことは、それらの不満を背景としていた。しかし直接的契機は、NCSWがAFDC受給者の当事者団体である全米福祉権団体(NWRO)の参加を認めなかったことである。この時点で白人中心主義の社会福祉業界の体制を改革しなければ、それ以後も決して変わらないという、追い詰められた気持ちが、彼らを突き動かしたのであった。
 本書では、この黒人ソーシャルワーカーの抗議行動に至るまで、アメリカ社会がどのように黒人たちを抑圧してきたのか、そしてその抑圧構造に対して、結果的に加担、あるいは協力することになった社会福祉界の歩みを批判的に振り返る。特に一九世紀末からの専門ソーシャルワークの生成・発展の歴史、およびニューディール以後の福祉国家政策を、マイノリティ、特に黒人の立場から照射することにより、専門ソーシャルワークの特性を再検討する。
 これまで日本で出版されたアメリカ社会福祉の歴史は、「ソーシャルワーカーの歴史」を軸に置いたものであった。つまり、ソーシャルワーカーの専門職化と、「救貧法から福祉国家へ」というW・トラットナー流の「制度の普遍化」の二つを肯定的に捉えた上で、アメリカ社会福祉の歴史が語られてきた。確かにアメリカ社会福祉の歴史を勉強する目的が、先進国アメリカで発達した専門的技法を学ぼうとすることにあるなら、これまでの歴史研究は十分な役目をはたしてきたと言えるのかもしれない。専門ソーシャルワーカー養成教育の発展、専門的技法の高度化、貧困者からスティグマを取り除き、対症療法的処遇から防貧へと「発展」した福祉国家の歩み、という歴史は、ソーシャルワークの専門性が社会的に認められていなかった二〇世紀後半の日本では必要だったのかも知れない。
 しかし二一世紀の今もそれでよいのだろうか。二〇一九年現在、日本国内でソーシャルワーカーの国家資格を有している人は、社会福祉士二四万五千人、精神保健福祉士八万九千人、専門的資格なしでソーシャルワーカーの仕事をしている人を加えるとこれ以上になる。もはや、専門職として認められるために「ソーシャルワーク先進国のアメリカの歴史を学ぶ」必要があるという段階ではないだろう。では、今、アメリカ社会福祉の歴史を学ぶ意味は何か。それは、アメリカという社会の歴史の中で、「支援者の歴史」が取捨してきた「対象者の歴史」を学ぶことであり、それを支援者がなぜ、どのように取捨してきたのか、そしてなぜそれをよしとしてきたのか、ということを捉えることではないだろうか。
 このような「影の歴史」(あるいは「陰の歴史」)へのアプローチは、まず二〇世紀の終わりに歴史学においてはポストコロニアル歴史観に基づく社会史研究として始まった。教育学の分野では貧困児童や障害児に対する教育の社会史的研究があり、社会福祉の分野では、福祉国家の歴史を批判的に扱ったジャンソン(島崎訳)の『アメリカ社会福祉政策史』(The Reluctant Welfare Stsate)や、ラディカル・ソーシャルワークの歴史を描いたマイケル・ライシとジャニス・アンドリューズのThe Road Not Taken などが出版されてきた。それらの知見を踏まえつつ、本書では、アメリカ社会の中で周縁化され差別的扱いを受けてきたマイノリティ、特に黒人の側から光を当て、ソーシャルワークの歴史を見つめてなおしてみる。それは別の言い方をすれば、ソーシャルワーカーたちが、生活困難な人々への支援を行うことを目指しながら、なぜ黒人コミュニティの生活困難の根本的な原因である制度的人種差別の解決に努力をしなかったのか、ということを明らかにする取り組みである。
 この作業を行う際に鍵になる概念が、一人ひとりのソーシャルワーカーとソーシャルワーク専門職集団の両方のPerception(知覚、感知)とPerspective(展望、観点、見通し)である。自らが生きて活動した社会とその中に存在する事象を、彼らがどのように認識していたのか、さらに彼らが、ソーシャルワーク専門職の未来や社会での役割をどのように予測したのか、あるいはどのように変化していくべきと考えていたのか、という点を明らかする。つまりソーシャルワーカーたちの関心を占めていたものと、それによって描かれる世界が、マイノリティが自らの知覚や展望に基づいて構成する世界とずれていた、という理解なくして、「支援者」と「対象者」の埋まらない溝の存在を解き明かすことはできないのである。
 さて、本書の研究で用いた主要な史資料について概説しておこう。一つ目は、National Conference of Charities and Correction 時代からNational Conference on Social Welfare にいたるまでのNational Conference の年次大会主要トピックを毎年編集したProceedings である。全米のソーシャルワーカーたちが集合した年次大会には、当時のソーシャルワーカーたちが関心を持っていた話題が議論された。Proceedings の中に見られる黒人観や、黒人が関わる貧困問題についてのソーシャルワーク界の考えを掬い上げてみる。二つ目は、人物史、回想録、オーラルヒストリー、新聞・雑誌記事、手紙や日記に記録された関係者自身の言葉である。白人ソーシャルワーカー、黒人ソーシャルワーカー、それぞれ自身の言葉で表現された思いの断片をこれらの史料から拾い上げる。三つ目は、二次資料であるが、黒人ソーシャルワークの歴史研究の著書と論文である。Iris Carlton-LaNey, Elisabeth Lasch-Quinn, Annie Woodley Brown などの黒人研究者が、黒人ソーシャルワーカーたちの実践と、当時の人種差別の社会環境について発表しているが、彼らが黒人の立場から、黒人ソーシャルワークの歴史についてどのような解釈と意味づけをしているのか、を踏まえておく。これは、黒人ではない筆者が黒人及び黒人による広義のソーシャルワークの歴史を解釈する上で必要なプロセスであった。
 それでは、以下に各章の構成と概要を述べておこう。
 第1章のアメリカ・ソーシャルワークの起源と黒人の排除では、そもそも奴隷であった黒人は、市民としての位置づけがなく、主人にその運命が委ねられていたこと、そして南北戦争による奴隷解放も、黒人の生活を豊かにはしなかったことを述べる。またソーシャルワークの前史は、信仰覚醒を経験した人々が、真のキリスト教的世界を実現するために社会の浄化を目指す中で起きたため、倫理的問題として都市の貧困者を指導することや奴隷制度の廃止を進めるという意識はあっても、人種差別そのものの問題には気づいていなかったことを述べる。
 第2章の初期ソーシャルワーク界のマイノリティ認識では、産業の発展とヨーロッパからの移民の流入という社会の急激な変化に対抗するためにソーシャルワークが誕生したものの、専門職として認められなかったために、専門職としての社会的認知をソーシャルワーク界が第一の関心として置いたことをまず述べる。そして、それはあくまでも北部都市での出来事であり、南部で進行していた黒人の人権侵害については無関心であったことを述べる。また第一次大戦時には、南部の黒人の北部への大移動が起きたが、黒人居住区に押し込められ、低賃金・不安定な仕事に就かざるを得なかったそれらの人々の救済や生活環境改善は、ソーシャルワーク界ではなく、黒人教会や黒人女性クラブ、そして後には全国都市同盟などの黒人による組織の手によって行われたことを述べる。
 第3章の福祉国家体制におけるソーシャルワークと人種問題の浮上では、ニューディール以後、国家が社会保障制度を整備して国民の面倒をみる福祉国家体制がアメリカでも整備されたこと、そして増大した公的福祉部門がソーシャルワークの公民分担関係を作り出したが、人種差別の解決には公民どちらも消極的であったことを述べる。また公的扶助が社会保障制度に組み込まれたことと、戦時体制におけるソーシャルワーカーの役割の変化によって、精神医学ソーシャルワーク(PSW)がソーシャルワーカーたちの関心を集めたことを述べる。
 第4章の冷戦期のソーシャルワークとアメリカ黒人では、パックスアメリカーナとして世界の覇者を目指すアメリカに対して、社会主義陣営との緊張が高まる冷戦期に起きたソーシャルワークの変化をまず扱う。冷戦の社会不安が蔓延する中で、白人中流家庭を対象とする家族ソーシャルワークに、専門ソーシャルワークは傾斜していった。そのため人種統合に関しても、中流白人のクライエントを失うことを恐れて緩慢にしか反応できなかった。また、反共キャンペーンによって、ソーシャルワーク界の社会改革的動きが抑制されたため、ソーシャルワーカーたちは保守的色彩を強め、北部や西部の都市で増加したADC受給者に対するバッシングに対しても、抵抗する力が弱かったということを述べる。
 第5章の当事者運動と専門職との緊張関係では、ニューディールの系譜に位置づけられるケネディ=ジョンソン政権下の福祉官僚たちが、社会工学的発想で貧困対策を次々に展開しようとしたこと、そしてその政策の中心に「リハビリテーション」概念を置いたことをまず述べる。これに対して、一九六〇年代後半からAFDC受給者による福祉権運動が「人間としての扱い」を求め、受給者の人権と自己決定を追及して、政権と専門職を批判したが、ソーシャルワーク界がその批判に応えて、自らの変革を行うことができなかったことを述べる。
 これらの歩みを通して見えてくることは、ソーシャルワーク界の持つWASP的世界観によって、ソーシャルワーカーたちが認識していた社会の問題は、マイノリティが日々の生活経験から知覚していたアメリカ社会の基本構造に由来する問題とは全く違っていたということである。それゆえ、両者の認識は交わることなくきてしまったのではないかということである。
 なお、本書で用いる「黒人」という表現について、ここで断っておかねばならない。日本では最近まで一般的に「黒人」あるいは「アメリカ黒人」という表現が用いられてきた。アメリカでの英語表記の歴史的変遷を見ると、一九六〇年代半ばまでNegro(ニグロ)という表現を黒人自身も使っていたが、その後Black Power が興隆するとともにBlack(黒人)という表現に変わり、一九八〇年代末には人種の多様性・相対性が増すにしたがってAfrican American(アフリカ系アメリカ人)と変化してきた。現在、日本のアメリカ史の研究者の間でも、アフリカ系アメリカ人という表記を用いることが多くなってきているが、本書では、歴史的表記の変遷に従うことによって、主要テーマに混乱が生じることを避けるために黒人という表記で統一することとした。
 
 
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