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あとがきたちよみ
『道徳の自然誌』

 
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マイケル・トマセロ著/中尾 央 訳
『道徳の自然誌』

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第一章 相互依存仮説

なぜわれわれを社会体に結びつけているコミットメントが義務的かと言えば、このコミットメントが相互になされていること以外に理由はない。それはすなわち、コミットメントを果たすことで、他者のために働けば、同時に自分のために働かざるをえないということなのである。 ジャン=ジャック・ルソー『社会契約論』(1)

 自然界での協力には二種類の基本的な形がある。一つが利他的な援助であり、他者の利益のために自身を犠牲にする形である。もう一つが相利共生型の協同であり、何らかの形で関与者すべてが利益を得る。道徳性として知られるヒト独自の協力形態も、上と類似した二つの形を取る。憐れみ、配慮、慈悲のように自己犠牲的な動機に基づいて、他人を助けるために自分を犠牲にする形が一つ目であり、公平、平等、正義のように偏りのない動機に基づき、よりバランスの取れた方法で、全員が利益を得られる方策を探す形が二つ目である。道徳哲学における古典的な説明の多くで、両者の違いが慈善(善)の動機と正義(正)の動機の違いとして説明され、現代的な説明の多くでは、同情(sympathy)という道徳性と公平(fairness)という道徳性の違いとして説明されている。
 同情という道徳性はもっとも基礎的なものである。他者の幸福に対する配慮は、道徳的な物事すべての必須条件だからだ。同情的配慮の進化的源泉はほぼ間違いなく、血縁選択に基づく子への親の世話にある。哺乳類の場合、この世話には授乳によって子に栄養を与えること(これは哺乳類の「愛ホルモン」であるオキシトシンによって統制されている)から、捕食者や他の危険から子を守ることまでのすべてが含まれる。この意味において、基本的にすべての哺乳類は、最低限自身の子には同情的配慮を示す。しかし、一部の種では一部の非血縁者にも同情的配慮を示す。一般に、同情の表現は公平などに比べれば単純である。自身の子もしくは他者に対して何が良いのかを決定するには、多少認知的に複雑な処理が必要かもしれない。しかし、一度その決定がなされれば、援助は援助である。唯一の問題は、その援助を動機づける同情が、その場面に関わる利己的な動機を克服できるほどに強いものかどうかでしかない。同情的配慮によって動機づけられた援助行動は、自由に行われる利他行動であり、余計な部分を取り除けば義務感は伴わない。
 対照的に、公平という道徳性は基本的でも単純でもない。それはおそらくヒトに限定されるだろう。根本的な問題は、公平を必要とする多くの状況で、さまざまな個体の協力的・競争的動機が複雑に相互作用することである。公平であろうとすれば、この複雑な相互作用のすべてで何らかのバランスをとろうとしなければならず、多くの場合、これを成し遂げるにはさまざまな基準に基づいたさまざまな方法が考えられてしまう。こうしてヒトは、自身を含めた関係者の「相応性(deservingness)」について道徳判断をくだせるようになった上で、この複雑な状況へと足を踏み入れる。しかし同時にヒトは、不公平な他者に対し、腹立たしさや憤慨のように懲罰的な道徳的態度も備えている。さらにヒトは、正確には懲罰的なものではないが、それでもやはり厳しい他の道徳的態度をも備えており、その中で関係者を相互に責任、義務、コミットメント、信頼、尊敬、責務、非難、罪悪感の観点から判断し、相手の行為の責任を明らかにしようとする。公平という道徳性はこのように、同情という道徳性よりはるかに複雑なものなのである。さらに、ひょっとするとこれは無関係ではないかもしれないが、多くの場合にその判断は責任感もしくは義務感を伴う。関係者すべてに公平でありたいというだけでなく、関係者すべてに公平であるべきだ、というものである。一般に、同情は純粋に協力と言えるかもしれないが、公平とは、多くの関係者の多様な動機から生じる多くの相容れない要求に対し、バランスの取れた解決策を探し求めるために競争を協力化したようなものなのである。
 本書の目的は、同情と公平の両者の観点から、ヒトの道徳性の出現を進化的に説明することである。本書は次のような想定のもとに話を進めていく。ヒトの道徳性は協力の一形態、特に、ヒト独自の新しい社会的やり取りと社会的組織化に対する適応として現れてきた形態である。ホモ・サピエンスは超協力的霊長類であり、そしておそらく、唯一の道徳的霊長類である。それゆえ、本書ではさらに以下のような想定を踏まえて議論を進める。ヒトがその特に協力的な社会的調整の中で生き残り、うまくやっていくことを可能にするようなヒト独自の至近メカニズム(認知、社会的相互作用と自制の心理プロセス)によって、ヒトの道徳性は構成されているのである。これらの想定を仮定した上で、本書では(一)主に実験研究に基づき、ヒトの協力が最近縁な霊長類の協力とどのように異なるかを、できる限り詳細に明らかにすることと、(二)ヒト独自の協力がどのようにしてヒトの道徳性を生み出したのかについて、もっともな進化的シナリオを構築することを目的とする。(以下、本文つづく。傍点は省略しました)
 
 
訳者解説
 
中尾 央
 
 本書はマイケル・トマセロ(一九五〇~)によるA natural history of human morality(The MIT Press, 2016)の全訳である。著者について、もはや詳細な説明は不要だろう。長らく勤めたマックス・プランク研究所の所長も二〇一八年には退職し(正確な時期は不明だが、本書の謝辞に名前の上がっているイヴァンから、二〇一八年一月頃に送別会があると聞いていた)、デューク大学へ本格的に籍を移したようである。彼ほど長く、そして体系的に、比較発達心理学研究を継続してきた研究者もいないだろう。トマセロの主な研究対象はヒトの幼児・子どもとヒト以外の霊長類(特にチンパンジー)であり、テーマは言語、コミュニケーション、協力行動など多岐に亘る。ただ、これらのテーマも相互に様々な形で関連しており、本書冒頭で触れられている『思考の自然誌』(A natural history of human thinking, The MIT Press, 2014, 翻訳は勁草書房から近刊)、また同じく勁草書房から翻訳が出版されている『コミュニケーションの起源を探る』(Origins of human communication, The MIT Press, 2008, 翻訳は松井智子・岩田彩志、二〇一三年)などを合わせて読めば、その関連もよくわかるだろう。また、これ以外にも多数の著書が(そして翻訳も)出版されており、どれも当該分野の重要文献とみなされている。本来であれば本翻訳出版後に出るはずだったBecoming human : A theory of ontogeny(Belknap Press, 2018)ももう出版されてしまった。
 
 以下、まずは本書の内容について確認しておこう。ただし、本書の議論は少し入り組んでいるため、以下での確認はごく大まかな概要に止める。第一に、重要な進化のステップとして、本書では三段階が挙げられている。(一)ヒトとヒト以外の霊長類(特にチンパンジー・ボノボ)との共通祖先(六〇〇万年前頃)、(二)初期ヒト(early humans, 四〇万年前頃、ホモ・ハイデルベルゲンシスの頃)、(三)現生ヒト(modern humans, 十五万年前頃、ホモ・サピエンスが登場した頃)という三段階であり、この各段階を考察するにあたり、(一)現生のチンパンジー・ボノボ、(二)現代の三歳までの幼児、(三)三~五歳頃の幼児・子どもに対する実験・観察が主に参照され、それぞれ第二~四章で考察されている。この三段階のそれぞれにおいて、考察の軸となるのが同情(sympathy)という道徳性と公平(fairness)という道徳性の進化である。また第五章は、主に関連するこれまでの諸研究と本書の議論の比較が行われている。
 この三段階のうち、本書で特に強調されているのが初期ヒト(すなわち、一から二への進化)と現生ヒトへの(すなわち、二から三への)進化プロセスである。ただし、まずは初期ヒトに至る前段階、ヒトとそれ以外の霊長類の共通祖先の段階についてまとめておこう。この共通祖先段階では、主に競争に勝つため、基本的には血縁者や「友達」個体に対して同情的配慮を見せ、またコストがそれほど大きくなく、競争が起きない場面では、それ以外の個体も援助する。とはいえ、基本的には順位制社会であるため、公平感は見られない。発表当時、フサオマキザルの公平感を示す研究として話題になったBrosnan and de Waal(2002)も、今では額面通り受け容れられてはいない。さらに、チンパンジーなどでも集団狩猟は見られるが、これは後述するような共同志向性を欠いた協同である点に注意が必要である。
 初期ヒトが生まれた頃、生態環境が大きく変化し、初期ヒトは協同的な狩猟採集を余儀なくされた。お互いに相互依存しながら協同で狩猟採集を行わなければ、ヒトは餓死するしかなかったのである。こうして、(血縁個体や友達以外の)協同相手に同情的配慮を感じる進化的理由が生まれた。協同相手に同情的配慮を感じ、援助することは、当然自分にとっても利益となるのである。
 この強制的協同狩猟採集という共同目標をうまく達成するためには、共同主体である「わたしたち」を形成し、お互いの共通基盤の中で協力的コミュニケーションを通じて「わたし」と「あなた」の役割を調整する必要があった(この個人と「わたしたち」の二重構造を可能にするのが、共同志向性という認知プロセスである)。この調整の中で、お互いが果たすべき理想的役割がお互いの共通基盤の中に生み出された。役割を果たすヒトが誰であれ、各自が各自の役割を果たさなければ協同狩猟採集は成功せず、生きていけなかっただろうということを考えれば、この理想的役割は、その役割を果たすのが「わたし」か「あなた」かとは関係のない主体独立なものだっただろう。各自がこうした役割の交換可能性を認識し、お互いの役割を鳥瞰図的視点から眺められるようになれば、自他の等価性が認識できるようになる(このように、この自他等価性の認識そのものは事実の認識でしかなく、道徳的内容は含んでいない)。
 さらに、協同狩猟採集を確実なものとするためには、良いパートナーを選ぶか、あまり有能でない相手にもうまく働いてもらえるようにその相手を制御しなければならない。ここで、もし選べる相手が比較的限られており(すなわち、自由に相手が選べるわけではなく)、また利用できる情報が限られているとすれば、特定の誰かがパートナー選別において有利になることもそう多くはなかったかもしれない。こうした市場においては、自身のパートナーとしての地位が他人とおおよそ等しいものだと各自が理解しており、それが先述した自他等価性の認識と結びつくことで、パートナー同士での互敬が生み出された。パートナー制御に関しても、自他等価性の認識を踏まえ、戦利品に相応しくないと判断されてただ乗り者は排除されていっただろう。さらに、パートナーとして選んでもらうためには、有能な協同パートナーであるという社会的アイデンティティ(すなわち、協力的アイデンティティ)を備え、維持していなければならなかった。そして、上述した鳥瞰図的視点から、他人への評価のみならず、他人が自分をどう評価しているかをも理解できるようになっていれば、この社会的アイデンティティは個人的なアイデンティティの感覚につながっていっただろう。
 協同狩猟採集をさらに確実なものにしたのが(そして、この協同を戦略的なものから非戦略的なものへと変えたのが)、共同コミットメントの形成である。コミットメントとは、ある種の約束のようなものであり(約束という言葉をトマセロは使わないが)、計画や目的に自分たちを縛り付けるようなものである。さまざまな障害を超えて協同活動を最後までやり遂げるのだという共同コミットメントを、初期ヒトは二人称呼称を用いた明示的な協力的コミュニケーションによって形成することができた。これにより、協同活動の参加者は「わたしたち」という超個人的実体に一体化し、「わたしたち」が各自を自制し始める。理想的役割を果たさないヒトは、相手から抗議などの非難や制裁を受けるかもしれないが、これは各自が各自の視点から行う個人的なものではなく、両者がコミットしている「わたしたち」によって不偏的に判断され、行われるものである。それゆえ、こうした非難や制裁は正当なものだと判断された。この「わたしたち」による自制が内在化されれば、共同コミットメントへの責任を感じ、またもし自分が理想的役割を果たせない場合には、罪悪感を感じることもあっただろう。そうしなければ、協力的アイデンティティが失われてしまうからだ。こうして、「わたしたち」への共同コミットメントと「わたしたち」による自制プロセスが、共同コミットメントを形成する二人の間に限られるものだが、ある種の非個人的・非戦略的な規範感覚(すなわち、「べき」の感覚)を生み出した。こうして、相応しい相手に敬意を持って接すべきという、公平という道徳性が、協同相手との間で誕生したのである。
 このように、非戦略的理由から、協同相手に対して配慮を行い、敬意を払うことこそが、初期ヒトの二人称の道徳性とトマセロが呼ぶものである。これは自身の利害に基づくものではないが、あくまでも協同相手との間にしか成立しえないものであり、上述した責任感や罪悪感、抗議などもすべて二人称のものに過ぎない。たとえば、現代のヒト幼児が協同関係にない第三者へ抗議や制裁を行わないように、二人称の道徳性は協同していない相手に及ぶことはない。しかし、後述するように、社会規範を道徳的なものにしているのは、この二人称の道徳性なのである。
 現生ヒトへの移行は、この「わたしたち」が「文化集団」に置き換わったときに生じた。協同狩猟採集が成功し、集団サイズが大きくなるにつれ、集団同士が敵対するようになり、また集団内部では分業化が進んだ。結果、現生ヒトは協同相手だけでなく、集団全体(あるいは集団のメンバー全員)に依存し、集団と一体化するようになった。相互依存関係が拡大されたわけである。ここで、協同相手への同情も集団全体への忠誠に拡大される。
 次に拡大されたのは、共同志向性と共同コミットメントである。協同相手との限定的な「わたしたち」は集団メンバー全員に拡大され、集合志向性と集合コミットメントが生み出された。集合志向的活動においても、各自が果たすべき理想的役割は主体独立であり、集団全体の文化的共通基盤の中で共有されている。この役割を慣習的方法でうまく果たし(また集団外メンバーを排除するなどして)、有能な集団メンバーであるという文化的アイデンティティを創出・維持することで、現生ヒトは集団へのコミットメント(すなわち、集合コミットメント)に参加することができた(このコミットメントは協同相手との共同コミットメントとは異なり、各自が一から形成したわけではなく、自身が生まれる前から、他のメンバーによる集合コミットメントがすでに存在していた)。この役割が果たされなかったときに行われる非難や制裁を正当化するのは各自がコミットする集団であり、集団によるこうした自制は、それゆえ「わたしたち」を超えた、ある種の「客観性」を備えたものであった。この「客観性」には、集団の歴史的背景も含まれている。行動の善悪が正当化されるのは、今のわれわれがそうだからというだけでなく、われわれの祖先もそうだったからである。また、もちろん「客観的」といっても、それは集団の内部に限られた話であり、集団外のヒトは「野蛮人」のようなものとして扱われていた。この集団による自制が内在化されれば、共同コミットメントの場合と同じように、集合コミットメントを維持しようという義務感、そして自分が理想的役割を果たせない場合には、罪悪感を感じていただろう(これが道徳的自己統制と呼ばれるものである)。そうしなければ、後述する道徳的アイデンティティが維持できなくなるからである。こうして、集合志向性と集合コミットメントにより、現生ヒトの「客観的」道徳性が生み出されたのである。
 また、集団が大きくなるにつれ、協同パートナー同士で行われていたパートナー選別・制御の方法も変化していった。お互いが直接抗議し合うという二人称の抗議では、あまり親しくない相手とのやり取りが少なくない状況では、制御の機能をうまく果たさないだろう。そこで登場したのが、文化的共通基盤で共有される社会規範である。もちろん、この社会規範には純粋に慣習的なものも、また道徳的なものも含まれる。社会規範が道徳規範とみなされるためには、先述した二人称の道徳性に関連していなければならない。なんらかの社会規範を破ることが、集団メンバーに対する配慮・敬意を欠いた行為だとみなされれば、それは道徳規範の違反とみなされるのである。
 最後に重要なのが、道徳的アイデンティティの形成と維持だろう。これは文化的アイデンティティに含まれるものであり、基本的にはここまで述べてきた意味で道徳的に行動・判断することで形成されていく。このアイデンティティをうまく形成・維持できなければ、当然集合志向的活動に参加することはできない。十分な地位を備えた大人・人物とみなされないからである。とはいえ、図4‐2(本書、一七八頁)が示すように、そして本書の議論が示す通り、現生ヒトの道徳性・道徳的アイデンティティには複数の異なる方向性を持った配慮が含まれる。それゆえ、病気になったメンバーにより多くの食べ物を分け与えることは、他のメンバーにとってみれば平等な扱いに反する行為とみなされ、そのメンバーは憤慨するかもしれない。ここで重要なのが、コア道徳的アイデンティティの周囲にある防御帯である。現生ヒトはこの防御帯において、一見非道徳的に見えるかもしれない行動をうまく理由づけし、正当化しながら、コア道徳的アイデンティティを維持しているのである。
 
 では次に、本書の意義について簡単に述べておこう。確かに著者が言う通り、協力行動や利他性の進化を考察するにあたって、近年(特に直接的)互恵性についてはその適用範囲の狭さゆえに、あまり注目されなくなってきているように思われる。もちろん、間接的互恵性については、ベーム『モラルの起源』(Boehm, 2012)など、道徳性の進化プロセスでその役割を重要視する研究者は少なくない。実際、二〇〇八年の段階ではトマセロ本人も本書より間接的互恵性を重要視していたようである(Tomasello, 2008, pp. 199-200, 239, 邦訳一八〇-一八二、二一七頁)。しかし、トマセロ本人も認めるように(本書、九四頁)間接互恵性で前提されている評判の伝達にとって、言語のような正確なコミュニケーション手法が重要である限り、それはヒトの道徳性のかなり限られた部分しか説明できないかもしれない(Ohtsuki & Iwasa, 2006)。他方、本書の中心に据えられている相互依存のような相利共生関係は、(トマセロ本人の考察を除けば)道徳性の進化を考察する上でこれまであまり注目されてこなかったうえ、互恵性では説明できなかった点、特に道徳心理の進化が説明できるようになる。本書ではあまり強調されていないが、もちろん言語などが進化する以前に、ヒトの道徳性の進化を遡ることができるという利点も考えられるだろう。
 また、第五章で触れられている通り、協力や利他行動に関わる心の進化についても、従来のアプローチ(特に道徳心理学、グリーン『モラル・トライブズ』(Green, 2013)やハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか』(Haidt, 2012)などを参照)では情動や直観が注目されがちであったが、トマセロが長年考察してきたような共有志向性を前面に押し出した考察は、ほとんど行われてこなかったと言って良いだろう。こうした道徳心理学的アプローチでは、情動や直観が重視され、非直観的な(どちらかというと熟慮的な)道徳判断は直観的な道徳判断の理由づけに使用される、二次的な役割を果たすものだと考えられがちである。しかし、本書においては、こうした理由づけにも重要な役割があると論じられている。すなわち、道徳的アイデンティティの維持である。また、慣習的社会規範と道徳規範の区別も長らく議論が行われているが、この区別がやはり情動などに基づくと考えている他の研究者とは異なり(Nichols, 2004 など)、トマセロはこの区別の根底に二人称の道徳性があると論じている。
 さらに、同情だけでなく、これまであまり注目されてこなかった各種の道徳心理、すなわち公平感や罪悪感、責任感や義務感などの進化に踏み込んでいる点も重要である。ダーウォルやコースガード、さらにはヒュームなど、さまざまな哲学者の議論を取り入れ、参考にしている点も特徴的だろう(そもそも、共有志向性という概念そのものが哲学的議論に由来するものである)。この辺りについてはPhilosophical Psychology, 31 ( 5 ), 2018 においても特集号が組まれているので、そちらも参照されたい。また、道徳性の進化に関する重要文献についても近年に出版されたものはおおむね参考文献から辿ることが可能であり、その点でも本書は有用である。このテーマに関して本書以降の重要文献を挙げるとすれば、Buchanan and Powell (2018)などがあるだろう。
 このように、本書が重要な議論を展開していることは間違いない。もちろん、問題を指摘することも可能だろう。たとえば、本書の議論はあまりにも比較心理学実験の成果に依拠しすぎであり、実際の進化プロセスに関して、ところどころで根拠の弱い想定が置かれてしまっている。著者は初期ヒトのパートナー選択市場が平等主義的であったという想定を挙げているが(本書、二四二頁)、他にも、文化集団への移行や文化集団同士の争いがどれほど強い選択圧として作用したのかなど、まだ議論の余地が残されている点についても、必ずしも深く掘り下げられているわけではない。ただ、比較心理学実験を軸にしてヒトの道徳性の進化プロセスを考察すれば、このような議論が可能であるという、一つの集大成的成果であることは確かである。そして、こうした視点でここまで体系的な議論を行った研究はこれまで存在しなかった。
 実際、トマセロのこれまでの研究を考えれば、本書の議論はある意味(共有志向性それ自体は、コミュニケーションの進化を考察している段階から彼にとっては重要な基礎概念になっていたし、彼が協力行動の進化に関心を持っていたことは確かなので)これまでの研究の自然な発展ではある。そして、二〇〇八年の『コミュニケーションの起源を探る』などと比較すると、トマセロのアイディアがどのように修正・発展させられてきたのかが見えてきて、なかなか興味深い。しかし、それが道徳性の進化にまで拡大されたという点で、訳者個人にとっては非常に驚きであった。内容自体についても(これもまたトマセロ自身が哲学に相当な関心を持っているということは知りつつも)、まさかここまで哲学的議論を参照しているとは思わなかった。昨今はさまざまな形で心理学と哲学の垣根が取り払われつつあるが、本書もまた、こうした分野間の無意味な溝を埋めるような試みになっていると言えるかもしれない。
 最後になったが、本翻訳の出版が当初の予定より大幅に遅れてしまったことについて、関係各所に心よりお詫び申し上げねばならない。メールを遡ってみたところ、初稿は依頼を受けた数カ月後、二〇一六年五月にできあがっていたようだが、諸般の事情により今日に至るまで出版が遅れてしまった。特に本訳書の各種スケジュールが急に動き始めた二〇二〇年三~五月頃には、この翻訳にかなり多くの時間を割かねばならなくなり、様々な方面にご迷惑をおかけしてしまった。四年という長期に亘る遅延の原因は訳者自身には制御できなかったものであり、どうかご容赦いただきたい。また、お世話になった方々、特に勁草書房の永田悠一さんにも御礼申し上げたい。
 
参考文献(本書の参考文献表にないものに限る)
Buchanan, A., and Powell, R. (2018). The evolution of moral progress : A biocultural theory. Oxford University Press.
Ohtsuki, H., and Iwasa, Y. (2006). The leading eight : Social norms that can maintain cooperation by indirect reciprocity. Journal of Theoretical Biology, 239, 435-444. 
 
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