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浜田陽太郎 著
『「高齢ニッポン」をどう捉えるか 予防医療・介護・福祉・年金』
→〈「第1章 誰でも介護が必要に」「終章 高齢ニッポンをどう捉えるか 社会保障のメディアリテラシー」(抜粋)(pdfファイルへのリンク)〉
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第1章 誰でも介護が必要に
この章では、主に介護分野の動向をとりあげる。介護保険料を払うのを拒否してきた男性が突然倒れ、介護を受けるようになったケースを「生きた教科書」として、公的介護保険の意義を確認する。高齢者介護は、「人材不足」という課題の解決が見通せていないのが現状だ。事業者は人材派遣会社への依存を深め、私たちの保険料が職員の待遇以外のところへ流出している。人手不足の背景にある「介護職への悪意のない見下し」に向き合いつつ、期待高まるロボットや情報技術を活用する現場を歩く。日本とスウェーデンで体験した「実習」を通して、「いい加減」と「よい加減」の介護について考える。
第1節 八〇歳まで働くはずが……。六九歳警備員の誤算
「膨れ上がる社会保障費を抑制せよ、負担が重すぎる!」
経済界を中心にくすぶっている不満と主張を煎じ詰めれば、こういうことだろう。
政府の文書にもあからさまに、この見解が盛られたことがある。二〇一五年六月三〇日に閣議決定された「経済財政運営と改革の基本方針2015」、いわゆる「骨太の方針」は次のようにうたった。
「社会保障給付の増加を抑制することは個人や企業の保険料等の負担の増加を抑制することにほかならず、国民負担の増加の抑制は消費や投資の活性化を通じて経済成長にも寄与する」
おそらく、同じ考えを持つ人も少なからずいるはずだ。
いま元気で、老後も自分の貯金で食っていける自信と覚悟のある人は、特にそう感じやすいのかもしれない。
小西雅昭さんはまさに、そんな人だった。
八〇歳まで働き、一千万円ためれば老後は何とかなるんじゃないか──。そんなライフプランを思い描いていたが、それが崩れたのは突然だった。
六九歳の誕生日を前月に迎え、警備員として働いていた二〇一七年一〇月三〇日午前八時、横浜市内の工事現場で朝礼の最中、「○×警備の小西です」と名乗ろうとしたがろれつが回らない。周りの人から「フラフラしているぞ」といわれ座り込んだ。立ち上がろうとして倒れ、そのまま病院に救急搬送された。
くも膜下出血だった。一ヵ月後、リハビリ病院に転院し、五ヵ月後の三月三〇日に退院した。左半身にまひが残り、歩くことも不自由になった。当然、警備員として働くこともできない。大誤算だった。一方で、まったく頼る気のなかった公的な社会保障によって、小西さんの生活は支えられることになった。
「社会保険料はムダ」
小西さんと最初に会ったのは二〇一三年一〇月六日のことだった。きっかけは、当時、私が所属していた論説委員室に届いた一通の投書。「介護保険法は憲法違反」というタイトルだった(図1-1)。
六五歳になって介護保険証が送られてきた。市役所と厚生労働省に問い合わせると、「強制加入で脱退できず、介護保険料を払わなければ差し押さえられる」といわれた。手紙は「介護を受けない自由、介護保険から脱退する自由を認めないことは、憲法で保障された基本的人権を侵害する」という論旨だった。
手紙には、年金も受け取っていない、健康保険にも入っていない、ともあった。いったい、どんな人なのか。興味を引かれ、小田急線沿線の喫茶店で会い、詳しく話を聞き、メモをとった。
一九七三年のオイルショックのさなかに大学を卒業。最初の就職先は「未上場株を扱うサギの会社」だったことがわかり一〇ヵ月で退職。まともに社員として働いたのは三三歳まで。それ以降はずっと「フリーター」として働いてきた。工場の作業員や警備員の仕事を中心に、長くて数年、短ければ数日の勤務を繰り返し、八五回転職したという。
「社会保険料はムダ」との思いから、なるべく余分なお金を払わない働き方を選んできた。国民健康保険は未加入。病院にかかった記憶はない。自分の健康に自信があったし、仏教の熱心な信者である自分は「信仰によって健康を維持できている」と考えてきた。
国民年金の保険料は一ヵ月払っただけ。「働けなくなってお金が無くなったら飢え死にを選びます。介護を受けるなら生きている意味はない。認知症になるなんて考えられないですね」
当時の取材でペンを走らせたノートには、こんな言葉が残っていた。
「介護保険のお世話になっています」
その後、手紙のやりとりはあったが、会うことはなく時は過ぎた。
驚きの知らせが届いたのは、二〇一八年四月。くも膜下出血で倒れてから、入院、退院までの経緯がつづられていた。さらに「医療保険や介護保険の世話になっています」と書いてあった。すぐに連絡をとり、初めて自宅を訪ねた。
小西さんは東京都狛江市に住んでいた。自宅のあるアパートは、急行が止まらない駅から七─八分歩いた先にあった。間取りは六畳一間に簡単なキッチン、バス・トイレつきだ。月の家賃は三万九千円。介護用のレンタルベッドが入り、転倒防止の手すりが張りめぐらされていた。
左半身にまひが残り、歩くのもままならない小西さんから話を聞いた。
倒れて搬送された急性期の病院で約五週間を過ごし、その後、リハビリ病院に転院した。そこで医師から介護保険を使うよう説得されたという。退院後の生活に不安が感じられたのだろう。「介護保険を使わないと退院させられない」といわれた。病院から地域包括支援センターに連絡が行き、介護保険のケアマネジャーを交えて小西さんのケア会議が開かれた。
滞納した介護保険料二年分などをまとめて払い、要介護認定を受けた。ホームヘルプが毎日、デイサービスと訪問リハビリテーションをそれぞれ週一回、というケアプランでサービスを使っている。まさに「強制加入」という公的保険の性格が幸いした。
そのほか、訪問診療が月二回、社会福祉協議会から生活支援員が月二回来訪し、金銭管理を助けている(図1-2)。
「大言壮語して恥をかきました。反省しています」と、小西さんは小声で話した。
「働いて健康保険に入っている間に倒れたのは不幸中の幸いだった。もし、仕事をやめた後に倒れていたらもっと大変だったろう」
「ヘルパーさんが来たり、ベッドがレンタルできたり、介護保険でどういうことができるのか、病気になって初めてわかった」
「そうでなければ、年金から介護保険料を天引きするとは何事だと文句ばかり言っていたかもしれませんね」
月約四万円の年金も受け取っていた。二〇一七年に無年金対策の法律が施行され、細切れの加入歴を足し合わせたら最低必要な一〇年に届いたのだ。今の会社で健康保険に入っていたため、入院中の医療費もカバーされ、傷病手当金の支給もあった。
ただ、「八〇歳までは働いて一千万円貯金すれば、老後はなんとかなるだろう」というライフプランは崩れた。入院時には約二四〇万円あった貯金は徐々に取り崩さざるをえず、残高が一ヵ月の生活費を切る程度になった時点で、生活保護を受け始めた。「お金が無くなったら飢え死にする」といっていた小西さんだが、いまは「ヘルパーさんへの支払いがあるから、生活保護を受けないといけない」と話した。
「生きた教科書」になる
小西さんのことは二度、記事にしている。最初の短いコラムで小西さんは「Kさん」として登場した。
反響がいくつかあった。ある医師はツイッターで「講演会したりユーチューバーとして世の中に情報発信したりしてこのKさんが食べていけるといいな」と感想を書いてくれた。また、川崎市立看護短期大が、社会人向け入試の小論文でコラムを取り上げ、受験生に「社会保障の価値」を論じさせた。こうした反応を報告すると、小西さんは喜んでくれたようだった。
私はもう一度、小西さんが記事に登場してほしいと強く思った。
個人にとって元気で働けているうちは、社会保障のための負担など「自分が使えるお金、可処分所得が減る」という意味しかない。病気や高齢などで働けなくなって初めて、社会保障という「支え合い」のありがたさが実感できる。小西さんは、まさに「生きた教科書」だ。
わざわざ、退院後に手紙で報告してくれた小西さん。その真摯な反省に対して、私は報いたいと感じた。一年後、私は小西さんの許可をとった上で、実名、写真つきでくわしい記事を書いた。
いま、小西さんは生活保護を受けながら、介護保険サービスを使って日常生活を送っている。一日一回、ヘルパーの訪問。理学療法士によるリハビリが週一回、毎週金曜日はデイサービスで入浴する。コロナ禍のもとでも、サービスは続いている。
「足らざるところ」を描くとすれば
さて、小西さんのエピソードを、従来型の報道にありがちな枠組みで描くとすると、例えばこうなる。
すなわち、職を転々とする非正規労働が長かった小西さんは、公的年金の給付額が少ない「低年金者」だ。病気で働けなくなったいま、銀行の預金を取り崩して生活を維持し、近く生活保護の受給を始める。この事例は年金を社会保険方式で運営する限界を物語る。「国は一定年齢になったら、誰にでも基礎的な年金を税で賄う『税方式』に転換すべきだ」とか「(今、流行りの)ベーシックインカムの議論を加速すべきだ」という識者を探してコメントをつける……。
この枠組みは、小西さんの年金が老後の生活を支えるには不十分であるという問題点のみに焦点を当て、批判する。そのうえで、一部の学者が提唱する税方式やベーシックインカムを、あたかも問題を解決する「魔法の杖」であるかのように取り上げる。
その一方で、小西さんが脳血管疾患で倒れたのち、設備の整った大学病院で治療、リハビリを五ヵ月にわたって受けたことは「当然のこと」だから描かれない。
小西さんが希望した在宅復帰が実現するまでのプロセスも記事からは捨象される。病院のソーシャルワーカー(MSW)が、滞納していた介護保険料を払う手続きをし、地域包括支援センター経由で介護事業所が選ばれ、ケアマネジャーが、介護用具の手配を含めてケアプランを立てる。これも「当たり前」なので、あらためて記事に書かれることはない。
病に倒れた小西さんが受けた社会保障のサービスは、空気や水のように「当然そこにあるべきもの」としてとらえられる。メディアの思考パターンはフェアなのか。
今の制度は歴史を背負っている
「メディアの思考パターン」に浸ってきたのは、実は私自身である。「現状の年金制度は、不公平感と不信が強く、理念もあいまいになっている。基礎年金を『シビルミニマム』ととらえ直し、広い範囲の人がそれぞれ負担する『税』を財源とした制度に切り替えることを考える時期ではないか」などと書いたのは二〇〇一年のことだ。厚労省の向こうを張り、何か目新しいことを書かないといけない、というプレッシャーがあったと思う。
小西さんを取材して、最大の気づきだったのは、日本の社会保険制度がもつ包摂的な性格だ。健康で働けている間、社会保険の負担から逃れよう逃れようと行動していたにもかかわらず、病を得てから年金、医療と介護のサービスを社会保険から受けることができている事実が、そのことを雄弁に物語る。
まず年金である。小西さんの年金記録の回答票を見せてもらった。年金の加入月数は、一九七〇年から七四年までの「四七ヵ月」から始まり二〇一七年の「三ヵ月」まで細切れの記録を足し合わせて「一三六ヵ月」とあった。このうち小西さんが自発的に払った国民年金保険料は一ヵ月分だけで、あとは勤め先で厚生年金に加入し、給料天引きで保険料が払われていた。
日本の公的年金の被保険者は、約六千七百万人、受給権者は約四千万人。日本で暮らす二〇歳以上の人が、どこに勤務し、保険料算定の基礎となる収入はどのくらいだったのか、という記録を少なくとも六〇歳になるまで積み重ねる。その記録に基づいた年金額を算定し、保険料を払った人が死ぬまで二ヵ月に一度振り込み続ける。小西さんが年金受給にたどりついた裏側では、そんな巨大なシステムが機能している。
この営為は、労働者年金保険法が成立した一九四一年から現在に至るまで、幾度にもわたる国会論議を経た制度設計と運営に携わってきた関係者による努力の歴史を背負っている。もちろん、年金の加入記録がしっかりと管理されず、五千万件が「宙に浮いた」状態にあることが判明するなど、様々な問題はあった。それは、私自身が三〇歳代に厚労省の記者クラブに所属し追いかけた問題でもある。その経緯は第3章で取り上げる。
だが、現実として、社会保険方式は、年金保険料という名目で約三九兆円(二〇一九年度予算ベース)を集める財源調達力がある。消費税を上げるのがこれだけ難しい国で、実現性を試されていない「税方式」の年金制度と同列に比べていた記者は、実は私自身だ。
医療はどうか。もし小西さんが、国民全体をカバーする公的医療保険がない米国に暮らしていたら、莫大な医療費を払いきれなかったろう。中進国や途上国であれば、お金があっても日本ほど手厚い医療はとても望めない。
小西さんが「憲法違反」とまで非難し、保険料の支払いを拒否していた介護保険だが、病院の医者に説得され、過去二年分の保険料を追納することで、受給資格を得ることができた。延滞していたので、三ヵ月間は自己負担が本来の一割から三割になるペナルティがあったが、保険事故である「要介護状態」になってから保険料を追納して給付を受けるということは、民間の保険商品ではありえない。これが可能なのは、公的介護保険は強制加入であり、いくら本人が望もうが「脱退」はできないからである。
介護は、かつて自治体が措置によって給付の可否を決め、その財源は税だった。二〇〇〇年に社会保険である介護保険としてスタートし、四〇歳以上の国民から広く保険料を集める制度になってから、サービスの量は飛躍的に増大した。もし、措置制度のままだったら、小西さんがこれほど迅速に地域の事業所から介護やリハビリのサービスを受けられたかは疑問である。
そして生活保護。この制度は、一般的に働けるだろうと見なされる年齢層について受給のハードルが高いことが「水際作戦」として度々批判される一方、「受給者バッシング」といわれる現象もあり、一筋縄ではいかない難しさを抱えている。
六五歳以上の高齢者で、小西さんのように障害がある人の受給が拒否されるケースは耳にしない。被保護者のうち高齢者は半数近くを占める。年金と貯金で暮らせない高齢者には、とにもかくにも最後のセーフティネットは用意されていると言える。(以下つづく。図と注は省略しました。pdfでご覧ください。)
終章 高齢ニッポンをどう捉えるか 社会保障のメディアリテラシー
社会保障をめぐるメディアのあり方について自らの体験から考えた章である。政治権力の中枢である首相官邸や中央官庁での記者クラブ取材を経験し、権力取材の舞台では「構図の単純化」が起きやすく、複雑な背景のあるテーマや長期にわたり進行する問題を報じることに課題を感じてきた。一方、記事の読まれる場が、紙からデジタルへと変化するなかで、記者が自らをさらして「読者と信頼の回路」をつなぐ重要性がわかってきた。信頼を得るには、記者以外の視座からものを見る体験も有益だ。社会保障の充実に必要な「政府への信頼」をどう捉えるべきなのか。成熟した議論のために「引き受けて一緒に考える」リテラシーを備えた読者とメディアがお互いを高め合うプロセスを希求する。
第1節 首相官邸取材という異世界
コロナ禍による国民の感情の噴出や奔流に政権が揺れている。本稿を執筆中の二〇二〇年五月下旬までに、報道機関各社が実施した世論調査で、新型コロナウイルスへの政府の対応を「評価しない」という回答が、朝日五七%、毎日五九%、読売五八%、日経五五%と六割近くにのぼった。朝日新聞が五月二三、二四日に実施した調査では、内閣支持率は二九%(不支持率は五二%)まで落ち込み、二〇一二年一二月に第二次安倍政権が発足して以来、最低になった。支持率の低下傾向は報道各社の世論調査で鮮明になっている。
どこまでが対策の巧拙への評価なのか、不便な生活や経済的な苦境を強いられた結果に対する怒りなのかはわからない。東京高検検事長の辞職問題の影響もあったろう。今後、支持率は持ち直すかもしれない。いずれにせよ、少なくとも一時的には政権が「国民の感情」への対応に苦慮している。
政治、そしてメディアも、人々の感情に働きかけ、活用しようとする。怒りや不安、不信といったネガティブな感情が引き起こすエネルギーは強い。感情に訴求する断片的な情報が流布し始めると、複雑な背景が捨象され、わかりやすい単純な構図におとしこまれることが往々にして起きる。
メディアを通じて政治が関係する制度・政策に関する情報を受け取る側は、そうした特性を踏まえたリテラシーが求められる。
それを知ったのは、二〇〇三年から二〇〇六年にかけて、小泉純一郎首相率いる首相官邸の記者クラブに一年強、厚生労働省の記者クラブに二年間、所属したときだ。
二〇〇三年、自民党幹事長に起用された安倍氏がテレビで「大好物」と紹介したアイスクリームが驚異的な売れ行きを見せる。そんな「幹事長人気」をテコに、五割を切っていた小泉内閣の支持率は同年一一月の総選挙を前に六〇%近くまで戻った。この現象を描いた朝日新聞の記事の見出しは「劇場政治眼力問われる有権者」。
「小泉劇場」や「ポピュリズム」が時代を画するキーワードになりつつあった。確かに、小泉首相は、「ワンフレーズ・ポリティックス」と呼ばれた天性のコミュニケーション能力で、人々の感情をコントロールする術を持っているように感じた。
官邸の記者クラブに配属されるまでの数年間は「くらし編集部」という部署で、投書などを頼りに普通の人の声を聞きながら年金や医療の取材をしてきた。だが、「権力の館」である官邸は異世界だった。
政治部のデスクからは「世の中は、二〇人が決めている。それを取材するのが政治部」とたたき込まれた。官邸に常駐する「政府首脳」に生活に密着した社会保障の現場を取材してきたと自己紹介すると、「ああ、そういうの、男の記者でもやるんだ」といわれたことを、今も鮮明に覚えている。
そこでは、社会保障の制度・政策は生活から切り離され、「権力闘争の材料」の一つとして扱われていた。二〇〇二年のサラリーマンの医療費自己負担の三割への引き上げをめぐっては「首相と族議員のどちらが先に引き下がるかを試すチキンゲーム」が繰り広げられた。政府・与党が年金改革の枠組みを固めた二〇〇三年には厚生族・公明党と自民執行部が「保険料上限で主導権争い」を演じ、二〇〇四年の年金国会では「内閣の番頭と野党第一党の党首の首を奪った未納政局」が法案審議をゆるがした(図4-1)。
大物政治家というスターが登場し、権力追求や党利党略の思惑をもって闘争を演じる。そこでの葛藤や転落が激しくなるほど、紙面での扱いは大きいのである。
社会保障が政治の表舞台にあがると、政策の中身は「緊迫した政局」の材料、もしくは権力をめぐる取引の通貨として扱われる。逆にいえば、政争の具になってはじめて、社会保障は政治の表舞台にあがる。様々な政策は、権力闘争の材料として流通可能な範囲で報じられる。そのニュース価値は、「権力」の動きにどんな影響を与えうるか、有権者の中にどのくらい強い感情を動員するかという点で評価されていた。
官邸記者クラブを経験した後、社会保険庁の研修所から講演を頼まれた私は、「ニュースの構図」を、四つに分類したレジュメをつくった。
①ケンカをしている→興奮する。格闘技はエンタメとしておもしろい。
②弱い者がいじめられる→憤慨、悲憤慷慨する。
③強い者、かっこいい者がこける→嫉妬心、溜飲を下げる。
④悪い奴、ずるい奴がやっつけられる→正義をなしたような気がする。
共通項は、不信や怒りといった「感情の動員」である。
社保庁で働く人たちに伝えたかったのは、「年金は権力闘争の材料」としての地位を得ているという認識だった。その後、それまでは単なる制度の執行機関だった社保庁が「悪い奴、ずるい奴」というヒール(悪役)扱いされるようになり、年金記録問題を契機にワイドショーから怒りをぶつけられる対象になっていく。
ここで国民の老後にとってかけがえのない年金を運用する社保庁の組織や機能の問題はサイドストーリーに過ぎず、メディアの関心の焦点は、不祥事によって打撃を受ける第一次安倍政権の命運であり、その後の政権交代という権力の移動だった。
政治報道の眼目は、「権力の中心軸」の位置と今後の動きを正確に見定めることだ。政治権力をコマにたとえると、回転軸がいまどこにあり、何がどの方向にどのくらいの力を与えているのかを把握する。コマが回る速度を速めたり弱めたり、傾けたりする事象を全力で取材する。政党幹部など「世の中を動かす二〇人」には番記者がつき、片言隻句、一挙手一投足を記録し、その情報をもとに権力の状態を分析する。と同時に報じることで権力の有り様に影響を与える。
年金が、コマの動きに影響を与える材料であり続けているのは、第3章で取り上げた「老後二千万円不足」問題にみる通りである。少子高齢化への不安がすり込まれるなかで、私たちの感情が動員されるハードルは下がっているかもしれない。(以下つづく。図は省略しました。pdfでご覧ください。)