ジャン・ボベロ/ラファエル・リオジエ『〈聖なる〉医療』の末尾には、それぞれの著者による「補論」が収録されている。日本語訳が刊行されるのに合わせて、訳者から著者に短い論考を書いてもらえないかと依頼したのである。ボベロから寄せられたテクストは、こちらがお願いしていたよりもずいぶん長く、そのままの形では書籍には収録できないことが判明した。そこで、紙の本についてはボベロの了解を得て訳者の側で適宜編集をして訳出することにしたのだが、もちろんテクストにはカットするのが惜しい部分もあった。そこで、「けいそうビブリオフィル」の場をお借りして、ボベロの補論として寄せられたテクスト全文の翻訳を「完全版」として掲載する次第である。[訳者]
この「あとがき」は学問的なものではない。私は連れ合いミシェルの「介助者」としてこれを書くことにした。彼女は数年来、アルツハイマーという病に冒されている。そのため、私は医師や看護師たちと定期的に連絡を取っている。本書では、革命から現代に至るフランスの医療史について論じたわけだが、あとがきに代えて、それについての主観的な見方を示すというのも一興ではないか。一般的現実の活写ではなく、個人的状況の報告という私的証言を行なってみたい。私個人の状況を記したものとはいえ、これは医学界が治す術のない病気に冒された人を前にしたときに見せる困惑の具体例である。また、ケアする者とケアされる者(介助者も広い意味ではケアされる者に含まれることは後述する)のあいだでなされるやり取りの具体例でもある。この点は重要であって、現在の医療に関する行動はすべてこの相互のやり取りのなかでなされている。
診断が下るまで
病気を認識すること自体が最初の問題だった。いくつかの徴候から、私は連れ合いのミシェルが記憶を失くしつつあるのではないかと思うようになった。これらの徴候が最初に現われたのは、私たちが自宅から遠く離れたところにいるときだった。慣れない場所にヴァカンスに出かけると、最初は道に迷ったような感覚を受けるものだ。だが、そのうち目印をいくつか覚えるようになる。特に泊まるホテルとその周辺を目に浮かべることができるようになる。たとえば、街の特徴的な場所(雑貨店、交差点、目立つ建物など)が脳に書き込まれると、定期的に行き来しなければならない場所の視覚的な記憶ができる。そうすれば、もう道を尋ねなくて済むようになる。
二〇一三年の春、ミシェルと私はフィレンツェを訪れた。この風光明媚な都市に滞在するのは初めてではなかった。大聖堂(ドゥオーモ)の近くという好立地に佇むホテルの一室を私は予約した。非常に便利な場所にあり、観光地のすぐ近くでもあったから、どこにあるかは覚えやすい。一日のうちに何度かホテルに戻って身支度を整え直し、ひと休みすることもできた。だが、数日もあれば取り戻せるはずの「土地勘」をミシェルが取り戻していないことに私は気がついた。彼女はずっと、まるで初めてその道を目にしたような、見知らぬ場所を彷徨っているような様子だった。
私は不安を覚えた。フランスの自宅に戻ると、私は細かな徴候にも注意を向けるようにした。それらは、注意深くなければ見逃してしまうような類のものだった。うっかりによる些細な失敗と言ってもおかしくないようなものだった。だが、何度も繰り返されるのを見るうちに、事態はより深刻なのではないかと思うようになった。とはいえ、私は医者ではないし、他のこと(特に自分の仕事)では記憶はしっかりしているようだったから、まさかアルツハイマーを患っていようとは思わなかった。彼女は働き詰めだったし、私たちの息子のひとりが夫婦間の危機に陥っていたことに悩んでいたので、一時的なものだろうと私は考えていた。とはいえ数ヶ月経った頃、私は彼女に不安を打ち明け、記憶障害専門の医者にかかる気はないかと尋ねてみた。彼女はきっぱりと断った。翌年、彼女はかかりつけ医による定期健康診断の際に相談をしてみたところ、診察では別段問題なく、ただの疲労によるものでしょうと言われたとのことだった。
私は診察に同伴していなかったので、かかりつけ医が実際に言ったことを彼女が矮小化したのかどうかはわからない。ただ、ここでひとつの機会が失われてしまった可能性はある。別に事態は深刻ではないと思ってしまったのだろう。いずれにせよ、彼女にしてみればこの診察で問題は万事解決した。専門病院にかかるのを拒否する体のいい口実を手に入れたのである。けれども、私の目には、記憶喪失の徴候が少しずつ明白になっていった。そこから数ヶ月のあいだ、私たちは何度か議論をし、ちょっとした口論に陥ることもあった。いずれにせよ彼女のかかりつけ医は、彼女の記憶に何らかの問題があると気づいていた様子はなかった(こうして第二の機会が失われた)。私たちの子どもにせよ、友人にせよ、周囲の人たちの誰も、彼女の行動から記憶に欠陥があるのではと気がついた者はいなかった。(彼女が主張していたように)私の「思い過ごし」だったのだろうか。彼女は自分でごまかしながら、客を家に迎えたり、診察を受けたりしていたのだろうか。私はどう考えてよいかわからず、一人で重荷を背負っていた。
私はこのような状況で倫理的な問題に直面することになった。医療史に関心を持って研究に取り組んできた私は、医療権力を批判してきた。それは本書にも反映されているだろう。成人は、治療を受けるか受けないかを自由に選ぶ権利を有している。治療を受けることを拒む人に、それを強制することはできない。これが私の確固たる信条のひとつだったし、今でもそうである。この信条は、果たして診察を受けさせて診断結果を出してもらうことにも適用すべきなのだろうか。アルツハイマー病なのではという懸念をますます抱くようになりつつ、それが私の知るかぎり不治の病だっただけに、この問題はより悩ましいものになった。だが、何冊か本を読んだりインターネットで調べたりするうちに、この病気には初期から手を打つこともできると考える人たちもいることがわかった。さて、どうしたものか。
妻に内緒で彼女のかかりつけ医に会いに行くのは嫌だったので、私は自分のかかりつけ医に相談してみた。ジレンマを抱えたままだと、そのうち自分のほうが体調を崩してしまうことになりかねないからと自分を正当化した。医師は私の戸惑いと状況の複雑さを理解してくれた。そのうえで彼は、今後どうすべきかを知るためにも、やはり診断を受けるべきだと主張した。もし本当にアルツハイマーなら、薬を使って病気の進行を遅らせる方法がある。そう言って彼は、彼が有能と見込んだ記憶障害の専門家二人の医師の連絡先を私に教えてくれた。そして、診察を受けるよう説得できるまで、このことについて妻と何度か話をするよう勧めてくれた。
私は説得することができなかった。むしろ議論を重ねれば重ねるほど、ミシェルはますます意固地になって、診断を受けることを拒否した。私にはパニックを起こしているとしか思えなかった。妻は言語療法士だったことがあり、彼女の患者にはアルツハイマー病に冒された人びともいた。彼女は、この病気が徐々に衰弱をひき起こすことや、医師がこの病気を治せないことをよく知っていた。だから彼女は否認の態度をとったのだと思う。私の不安はだんだんと大きくなった。二〇一五年、私たち二人はあるシンポジウムに参加するためにメキシコシティを訪れた。私は最終日に全体のまとめをすることになっていたから、発表を注意深く聞いておかなければならなかった。一方、妻はすべての報告を聞こうとはしなかった。私は他の登壇者の連れ合いに私の懸念を説明して、一緒に出かけるよう声をかけてもらえないか、妻が迷子にならないように注意して見ていてもらえないかと頼んだ。それでも私はシンポジウム期間中ずっと、もし彼女に何かあったらどうしよう、言葉もわからず、犯罪率も高いこの大都市で迷ったらどうしようと心配でたまらなかった。
やがてこの不安は的中する。それから数ヶ月経った二〇一五年の秋、友人宅を訪ねた彼女は車に忘れ物をしたといって出ていったきり、アパートに戻ってこなかったのである。たいへんだ、彼女を探さないと。結局、彼女は見つかった。だがこの日、彼女の意に反してでも早晩行動を起こさなければならないことを私は理解した。とはいえ、私はあれこれと言い訳を見つけては、それを先延ばしにしていた。行動を起こそうと決めたときには、二〇一六年三月になっていた。妻の言っていることがおかしい、鬱になったのではないか、なぜ精神科に連れていかないのかと私は友人から叱責されてしまったのである。
かくして、私はとうとう自分の信条に背いた。私は安心を得る必要があると主張し、私たちの夫婦関係を維持するために何が何でも診断を受けてもらいたいと彼女に伝えた。こう言って私は電話機を掴み、彼女の目の前で病院の予約をした。この行動は、私たちカップルの関係性を大きく変えることになる第一歩だった。私たちは数十年間、対話を重ねながら平等を理想に生きてきた。けれども病気が進行するにつれ、私たちの日常生活において、そしてカップルの関係において、次第に私は一方的な権力を行使することを余儀なくさせられるだろう。そしてマックス・ウェーバーの言う「道具的合理性」が彼女から失われるにつれて、この権力は増大していくことになるだろう。
診断結果が出る
病院の予約の話に戻ろう。おそらくミシェル自身、自分の状態を認めたくないという気持ちと、明らかに問題があるという意識とのあいだで引き裂かれていたのだろう。彼女は私が予約を入れることに反対せず、外来診療日に病院に行くことを受け入れた。彼女はそれを拒否することもできたはずだし、そうであれば私も決して彼女を無理に病院まで引っ張って行くことはなかっただろう。こうして私たちは二人で病院に向かった。医師(X博士と呼んでおこう)は彼女にいくつかの神経精神医学検査を受けさせると、脳の核磁共鳴画像(MRI)を撮るようにと命じた。ここでもミシェルは拒否することなく、近所の私立病院にこの検査を受けに行った。帰宅した彼女は上機嫌だった。MRIを撮った医者は「何も写っていない」と言ったそうで、検査での不具合はまったく見られないと告げたらしい。彼女は胸を撫で下ろし、二度目の診察のために私と一緒に病院へと向かった。
ミシェルはMRIの結果をX博士に見せて、私立病院の医師はすべて正常と言っていたと主張した。だが、X博士は声色を強くして反論した。「ほら、ここです」。彼はMRI画像のある特定の箇所を指差して言った。しかし、じっくりと目を凝らす私の前で、医者はその画像をすぐに消してしまった。それはまるで奇術師が帽子のなかの鳩を消すみたいだった。私は考えた。本当はMRIには何も写っていないのだろう。ただ、一度目の診察の検査がすでにアルツハイマーの徴候を示していたから「識別診断」をしたかったのだろう。要するに、X博士はアルツハイマーに似た別の病気ではないことを確認したかったのだろう。
私のかかりつけ医にこの出来事を話したところ、その予想はたぶん当たっているとの答えだった。MRIはあくまで脳の細い動脈が閉塞していないかを知るためのものだ。こうした検査をする医療スタッフは検査結果を患者に渡すとき、まるでそれだけが医療診断のすべてであるかのようにして「嘘の良い知らせ」を言うことがあるのだと彼は教えてくれた。本来は患者の質問に答えるようなことは控える慎重な態度を取るべきで、検査を受けるように命じた医師の次回の診察に委ねるのが筋だという。患者と医師ではものの考え方が違う。医師は自分の診断を正確にするためにさまざまな方法を用いて他の病気の可能性を排除していくが、病人は結果が良かったと聞くとたちまち自分は健康なのだと信じてしまう。いずれにしても、ミシェルが抱いたのは偽物の希望であった。ここには、本書で扱った問題が顔を覗かせている。医師が医療上の目的を患者に告げることのないまま指示を出してしまうという問題である。もしもMRIでわかることは部分的なものでしかないことを最初から告げられていたら、ミシェルが偽物の希望を抱くこともなかっただろう。
語るべきときになされたのは沈黙であった。一方、内緒にしておくべきときに回答が与えられてしまった。しかも、妻はアルツハイマー病に冒されるとはどういうことかを(先述のように)よく分かっていた。だから、X博士が下した診断は彼女にとって死刑宣告のようなものだった。不治のがんを患っていると宣告されたようなものだった。
私の反応はもっとアンビバレントなものだった。もちろん私はそれが間違いであってほしかった。それでも、MRI検査で(良好という)結果が出てからX博士のところで二度目の診察を受けるまでのあいだも、私はまったく安心できなかった。普段の生活で、ミシェルがいくつかの日常行動をもはやうまくできなくなっていることに気がついていたからである。また、ミシェルがさまざまな理由で自宅のアパルトマンから外出して「普通の」時間に帰って来ないと、私は不安になった。彼女の携帯に電話をかけようとするのが常だった。だが、私が電話をすると彼女はひどく怒ってしまう。彼女にしてみれば、それはある種の監視のように思われて、受け入れがたかったのである。
要するに、医療チームがまったく問題なしと断言していたときでさえ、私はそのようなわけはないとわかっていた。だから、アルツハイマーという診断結果にも、私はほとんど驚かなかった。それでも私は、妻と同じように、この診断結果から不安を抱いた(この病気に冒されることが何を意味するのか、私もある程度理解していたからである)。他方、この診断結果は、それまでの沈黙や孤独に終止符を打つことになった。いまや問題は名づけられ、医療チームがそれに対応する。つまり、私はもう自分に課せられた困難に一人で孤独に立ち向かう必要はなくなったのである。
名づけることの重要性
時系列順に出来事を記すのはこの辺でやめにして、以下ではよりテーマ的に、治療者、病人、介助者、社会の四者関係に見られるいくつかの面を記していきたい。
私は先ほど「問題は名づけられた」と書いた。これは次のように付け加えねばならないだろう。問題は医療チームという権限と社会的正統性を持つ機関によって名づけられたのだと。この名づけることの社会的重要性を強調しておきたい。もし医者が宣告していなければ、妻は社会的にはアルツハイマーでないことになっていただろう。アルツハイマーと医学的に認められた日に、彼女はこの病に冒されたのである。私はその瞬間から、子どもたち、親近者、その他の人びとに、彼女がアルツハイマーを患っていると伝えられるようになった。それだけではない。私はその瞬間、自分自身がこの事実を心のどこかで知っていたことに気がついたのだ。「彼女はいつからアルツハイマーなのですか」と聞かれると、私は不安な徴候に初めて気づいた日でも、彼女を医者に診せなければと考えた日でもなく、この医学的承認がなされた日を答えたものだ。
だが、もちろん病気の進行は非常にゆっくりとしたものだったから、診察を受ける数ヶ月前も診察を受けたときも、妻の状態はほとんど変わらなかったわけである。経験的な現実において、彼女の病気の始まりは診断が下された瞬間とはまったく一致しない。それでも、彼女が病人であることを社会的に決定づけ、彼女が抱える病気を社会的現実にしたのは、この診断なのである。
社会的に正統な審級によるこの命名によって、私にも「介護者」という新しい立場が与えられることになった。私は次第にこれを理由にして会合を欠席したり、学術委員や顧問を辞任したりするようになる。妻には私の手助けがますます必要になっていくのだから、私がこのような態度を取ることは、たしかに経験的な現実に見合っている。しかし、診察の半年前と比べても、状況はあまり変わらなかったし、苦労は同じようなものだった。たとえば、私は彼女が外出する際、一緒について行く言い訳をなんとか探さねばならなかった。もし私が彼女を病院で診察を受けさせるための予約を半年か一年先延ばしにしていたとしても、彼女に対する私の態度はまったく同じだっただろう。この点でも、名づけるという行為は「社会的事実」を作り出すのだと言える。
したがって、多少は経験的なものでありながら、経験的なものにはけっして還元されえない象徴的実在というものが厳然と存在しているのである。「介助者」であることは特定の社会的地位を帯びる。あなたが「介助者」の状況に置かれていると伝えれば、相手はただちにその役割が制約の多いものであることを理解してくれる。相手はあなたを病気や医療の領分にいると考えるようになり、あなたの状況を知り合いの状況と重ねて考えるようになる。親近者に「介助者」がいる者は少なくない(自分の両親の一方がもう一方の「介助者」であるのはよくあるが、自分の配偶者の「介助者」というケースは少なく、この二つにはさまざまな違いがある)。また、相手はあなたにはできないことがあることを認めてくれるだけでなく、普通は理解や同情を示してくれる。
しかし、アルツハイマーを前にした医師は、命名はしても、治してはくれない。医師にできるのは、容赦のない病気の進行をせいぜい一時的に遅らせることだけであり(この点についてはあとでまた触れる)、言葉が通常持つ意味でそれを「治す」ことはできない。そのことが医師を深く困惑させていると私は理解している。医師は自分自身について抱くイメージ、昔から社会が医師に委ねてきた役割、今日一層専門化している役割に照らして、自分が無力であると感じている。たしかに(他の職業とは異なり)、医師には結果達成義務はない。ただし、本書で論じたように、現在はライシテ化の第三段階に当たっているわけで、聖職者(特に医療聖職者)の先験的ないし本質的な正統性は以前に比べて縮小している。他の聖職者と同じく、医師は自らの正統性をわざわざ証明し、自らの信用を社会に対してだけでなく自分自身に対しても定期的に取り戻さなくてはならなくなっているのである。
病人を「治す」代わりに介護者を「ケア」しようとする意志の「転移」
アルツハイマーに冒された病人を実際に治せないとなると、医師は注意の向けどころを変えて、介護者を「ケア」しようとする傾向がある。介護者には別途かかりつけ医がいて、そのようなケアは頼んでいないにもかかわらず、そういうことをしようとする。病院の治療スタッフにも、妻のかかりつけ医(Y博士と呼んでおこう)にも、このような傾向が認められた。病人を治せないから介護者をケアしようとするこの傾向は、私の場合において非常に顕著だった。X博士もY博士も、新聞や雑誌に載った私のインタビュー記事を読んだり、テレビに私の姿が映るのを見たりしていた(話の中身も聞いてくれていたと思いたい)。その結果、私は不快感を抱くことになった(抱いた印象が事実の受け止め方に影響を与えている可能性はある)。治療不可能と判断されたミシェルが、彼女の悲しい運命に捨て置かれてしまったように思えたからである。対照的に、病気ではない私の健康が極端に心配された。社会的役割を果たし、社会への貢献を続けられるように、健康を維持しなければいけないとされたわけである。
このような役割に鑑みて私の健康が普通の人の健康よりも重視されたことに、根拠があるにせよないにせよ、私は不快感を抱いた。そして、ライシテが連日メディアで議論されている現在、介護の「負担」を背負い込むことなくライシテの専門家として社会で活躍し続けられるように、妻を要介護高齢者用病棟という専門施設に入れたらと提案されたときには、特に強い不快感を覚えたのである。
このような特別な気遣いの背後には、できるだけ長いあいだ自宅で病人の面倒をみようとする「介護者」はそもそも間違っているという発想があるのではないか。私は幾度となく次のように言われたものだ。見捨ててはならないという責任感から要介護者につきっきりになると、介護者のほうが疲れ果ててしまう。病気の進行とともに病人が要介護高齢者病棟に入るのは「普通」なのに、介護者はきちんと理解していない(言外には、病人が要介護高齢者病棟に入るかどうかの判断や許可は医師に委ねられるべきという考えが暗示されている)。要するに、介護者は病人よりも早く過労で死んでしまうと脅されたのである。
私はアルツハイマーに冒された人への付き添いが疲れるものであることを否定しているのではけっしてない。認知機能が低下し、振る舞い方が変化し、固定観念が強くなり(ミシェルの場合はずいぶん前に亡くなった母親に会いたいというほとんど偏執的な欲望が生じた)、自律性を失い、人付き合いが難しくなった相手には、最低限必要な身の回りのことをうまく「管理」してやらなければならない。そのうえ、病人が社会生活の基準を持たなくなり、食事や身だしなみや睡眠に関心を持たず、介助者にしたがわなかったり強く抵抗したりするときには、実践的な困難も生じてくる。
私はまた、私が妻に対して取っていたのとどこか同じような態度を、医師たちが私に対して取っていると感じた。この人は現実を否認してしまっているから、多少強引にでも、もっと健康によい決断ができるよう、あと押ししてあげなければならないと医師たちが考えているような気がしたのである。
たしかに、こうしたことは理解できることではある。しかし、二つの重要な留保をつけておかなければならない。第一に、妻の病気が私に及ぼす影響は、私自身のかかりつけ医が医学的にフォローアップしてくれる。妻の病気と私の総合的な健康状態を関連づける資格があるのは私のかかりつけ医である。この状況について話し合い、対策を立てるのは私のかかりつけ医と私なのであって、妻の治療者の権限や責任の範疇にはない。だから私はそれを注意の向けどころを変える「転移」だと言ったのである。第二に、私が話をした相手のなかで、介護者が早く死んでしまうことを証明する科学的調査や、介護者の死のうち何割が厳密に「介護」に起因するのかを正確に示す科学的調査を提示することができた人は一人もいなかった。それゆえ私には、それは本当に確立された知ではなく、むしろ医療業界での常識やただの先入観でしかないように思えた。そうであれば、医師がこの先入観を介護者に繰り返し吹き込むのは見当違いではないだろうか。早く死んでしまうと介護者に告げることは、介護者を意気喪失させ、社会学で言う「自己成就的予言」になってしまう危険があるのではないだろうか。
また、医学界と社会の現状には齟齬が生じているのではないだろうか。本書で論じたように、寿命を重視し、主要な目的はできるかぎり死を遅らせることにあると考えるのは、ライシテ化の第二段階の問題意識の典型である。第三段階の文脈では、無限に生を延ばそうとする欲望よりも、生の質への配慮がしばしば重要性を帯びている。そして私にとっては、それがどれだけ私の時間を取り、私の力を消耗させるものだとしても、たくさんの思い出をともにしてきた彼女とともに生きることは、私の生の質にとって大切なことである(もはや彼女とこれらの思い出を鮮明にともにすることができないとしても、感情を揺さぶる共通の記憶は残り続ける)。医師が私の選択がはらむリスクを私に説明してくれるのはよい。だが、「「最初に「逝って」しまうのは介護者のほうだから気をつけて」という言葉が医師のお決まりの台詞になっていて、私に対する彼らの振る舞いを規定していることは、医療の表象が社会の表象の変化に十分追いついていないことを示している。
たとえば、私は病院に行くたびに、介助の様子や自分の状態についてのアンケートに回答しなければならなかった。するとたちまち、回答の集計結果は私が「許容範囲」の限界に近づいていることを示していると指摘された。予想通り、その次に病院に行くと、私がその限界を越えてしまっていることが明らかになった。そのテスト結果は、付き添いの「肩の荷を下ろす」ために、ミシェルを特別病棟に入れるべきことを示唆していた。私はすぐにその準備を始めなければならないと指示されたのである。
私はそのようなつもりでテストを受けていたわけではなかったし、正直なところあまり重視していなかった。診察の儀礼の一部くらいに考えていたのである。思い返してみれば、どのような回答が例の指示につながったのかは簡単にわかった。「非常によくそう思う」と答えていたところを「よくそう思う」と答え、「よくそう思う」と答えていたところを「時折そう思う」と答えておけば、私は介助者を続けるのに相応しくないと見なされる一線を越えることはなかっただろう。
私自身、どの回答を選ぶかでしばしば迷ったし、私がよく考えずに選んだ回答は診察の前日に起きた出来事に大きく左右されていた。たとえば、食事が冷めないように「食卓についてほしい」と頼んだとき、ミシェルは食欲がなくて怒り出すことがあった。また、やる必要があることを彼女が自分ではじめておいて、すっかり別のことをしていることがあり、私が精神的にきついと思うことがあった。そうしたとき、私は介助者の仕事に苦労していることをほのめかす回答をしがちだった。反対に、診察の前日が問題なく過ごせたり、言葉でのコミュニケーションがうまくできなくても、私たちのあいだに感情的な交わり(コミュニオン)があったりしたときには、私の回答はまったく違うものになった。選択肢が曖昧であるうえ(「時折そう思う」と「よくそう思う」の境界線はどこにあるのだろうか)、回答はとりわけその時の気分によって左右されていたのである。にもかかわらず、そうした回答を医療チームは状態の変化を測る信頼度の高い指標と見ていた。要するに、私に言わせれば、こうしたテストに科学性はまったくなく、適切な処置を行なう判断材料にはならない。ましてや、私の選択を阻止する規範にはなりようがない。
そこで私は、次の診察では例のテストに楽観的な回答をした。介助者が病人を許容できるとされる枠内に収まるような「良好な回答」をしたのである。治療スタッフはその変化に少し驚いた様子だった。彼らがその理由をどう思ったのかはわからない。私は意識的に、妻の介助者であり続ける決断をした。ミシェルが私の存在を享受しながら家庭環境のなかで思い出に囲まれていられるように、ある程度のリスクを冒す決断を下した。いい加減な判断基準に則ったテストをもとに、医療スタッフに私の行動を指図されたくはなかったのである。
介護者の選択を医療戦略の出発点にすること
興味深いことに、私のかかりつけ医は病院スタッフと全然違う態度を取った。彼は、妻を家で見守りたいと私が望んでおり、それができると私が考えていることを理解して、私の選択を尊重してくれた。そして、この目的に合わせた医療戦略を実現できるようにアドバイスしてくれた。ライシテに関するラジオやテレビ番組では、しばしば偏向した議論が加熱していたし、彼は私が長いあいだ高血圧を抱えていたことを知っていた。妻に付き添うことで生じる問題による「ストレスに(メディアによる)ストレスを重ねる」ことはよくないと彼は私に説明した。そして、今後はこうした論争に加わることはやめて、新聞への寄稿かラジオやテレビでの個人インタビューに限定するように助言してくれた。これは理に適っていると私は思った。実際にそうしてみると、血圧の数値もよくなった。このように、医療的「教権主義」に陥ることなく医療の能力を行使することだってできるのである。
私は何が何でも妻を自宅に留め置こうとしてきたわけではない。先のことは考えないようにしているわけでもない。アルツハイマー病に関する文献を読むうちに、在宅介護がもはや不可能となる限度もあることがわかった。他方で、新しく生じてくる問題に解決策がある場合もある。たとえば、私が直面した問題のひとつは、同じベッドで寝ることに関するものだった。ミシェルは日中うとうとしていたから、夜にどうしても眠れない。二時や三時に起き出して本を読みはじめるのだが、私のほうは電気が点いていると眠れない。電気を消しほしいと頼むと、「なに言ってるの、ここは私のうちなんだから、したいことをしてもいいでしょ」と怒り出すのだった。こっちにとっても自分の家なのだから、お互いの希望を考慮して妥協点を見つけることが必要だと理性的に反論してみるのだが、病に冒された脳のはたらきには効き目があったかどうか。それに、彼女は寝ているときによく動くのである。私は睡眠不足に陥っていった。
この問題は、リビングに昔からあったソファーベッドを新しく買い替えて「別室」を作ることで解決した。だが、私はこの経験を通して、彼女が真夜中に起き出して私に何度も徹夜を強いる振る舞いをとる段階になったら(そういう段階が来ることはいくつかの書物で指摘されている)、おそらく私はたちまち力尽きて、介護者の役割を十分に果たせなくなると確信した。さらに二〇一九年には、二人で夏のヴァカンスを田舎で過ごしたらと楽しいだろうという今から振り返るとよからぬ考えを思いついた。その結果、私は実際的な問題に直面して本当に疲れ果ててしまい、体重は一〇キロ減って目眩がするようになってしまった。もう限界という状況だった。私は息子に頼んで迎えに来てもらい、パリ近郊の自宅まで送り届けてもらったのだった。
幸いにも、私のかかりつけ医は適切な治療を施してくれた。おかげで体重は戻ったし、目眩も治った。他方、私はパートタイムのヘルパーを雇うことにした。彼女は今も午前中に妻の面倒をみてくれている。こうして私は数時間研究に集中できるようになった。今から思うと、私が「辛抱」してきたのはよかった。二〇二〇年には、新型コロナウイルスの流行によって要介護高齢者用病棟は深刻な打撃を受けたからで、死亡率もかなり高い。なお、私がこの文章を書いている現在、要介護高齢者用病棟の入居者との面会時間は週にたった二〇分に制限されている。もしも妻が要介護高齢者用病棟に入っていたら、「何かあったらどうしよう」と私は毎日心配して、たしかに現状にもかなりの制約や困難があるわけだが、今よりも健康を損ねていたかもしれない。
アルツハイマーに冒された人を治すのが不可能だからといって、医師たちはただ手をこまねいているわけではない。X博士は、少なくとも週に1度、妻を「日帰り病院」に来させるよう私にアドバイスした。だが、ミシェルはアルツハイマー病に冒された他の人たちと触れ合うことにも(彼らの衰弱した様子を見て彼女は深く落ち込んでしまった)、朝夕の送迎車の運転が荒いことにも耐えられなかった。彼女は日帰り病院から帰ってくるたびに、もう死んでしまいたいと言っていた。彼女は決して自殺などしないだろうが、その言葉は、表向きは彼女を手助けするというこの措置が、実際にはどれだけ彼女を困惑させていたのかをよく物語っていた。もうやめようかと私が言ったとき、彼女は満面の笑みを浮かべたのだった。
それから、さまざまな治療士(音楽療法士や精神運動士など)を紹介してもらった。私たちの家にやってきて治療をしてくれるのだが、ミシェルを子ども扱いするのである。たしかに子どものような振る舞いをするようになってはいたが(たとえば、私がスーパーに連れて行くと、彼女は一目散にお菓子コーナーを目指すのだった)、彼女がそのように扱われてよいはずがない。それは彼女を喜ばすことではなかったし、なにより私自身がそれを許せなかった。私はさまざまな事柄について、彼女に説明することを続けている。理解していないように見えるとしても、何事かは「通じている」はずだと考えるからである。一方、言語療法士は彼女を「同僚」として扱い続けてくれた。そして言語療法は長いあいだ効果を発揮していた。それでも、ミシェルの理解力は次第に衰えていった。そしてある日、言語療法士は治療を止めることに決めた。だが、言語療法士はそのとき非常に適切な仕方でそうしてくれた。言語療法士は妻に、もう十分に治療をしたから、あなたは自分自身で読書を続けられるはず、と言ったのである。
闘病は続く
アルツハイマー病は治ることがないとしても、薬を開発している研究所や医師の一部は薬で病気の進行を遅らせることはできると考えている。この薬の有効性については議論がある。効き目は薄く、むしろ副作用があると考える医師もいる。ある委員会は二〇一六年に、この薬を保険適用対象外にすると提案した。私はこの措置に反対する人びとに加わった。確実なことがわからないのだから、一律的な措置を取るのは適切ではなく、個々の事例に応じた個別的な決定をするほうがよいと私は考えた。私はまた、病気の進行を遅らせると言っても一時的効果にすぎないという委員会の議論に異議を唱えた。介護者の時間の観念は、委員の時間の観念と同じとはかぎらない。数日引き延ばすことができれば、すでに十分な達成という考え方もある。結局二〇一八年にこの薬は保険適用対象外になった。議論にはきりがない。保険適用を求める者たちは、経済の論理が健康の論理よりも優先されていると批判する。保険適用対象外にすべきであると考える者たちは、研究所は薬が保険でカバーされるようにロビー活動をして一儲けを企んでいると主張する。
X博士はミシェルに問題の薬を処方した。もちろん問診のたびに副作用がないかをチェックしながらである。あるとき、副作用がはっきりと現われた。するとX博士は薬の投与を続けるのは重大な結果につながると考えた。そこで彼は断念した。だが、それはミシェルにひどい効果をもたらした。私の妻にしてみれば、この薬を服用することは自分の病気と闘うことを意味していた。だから処方の停止は、死の宣告のように思えたのである。医師はこのような振る舞いによって、それが象徴することを考慮することなく、もはや手の施しようがないと彼女に伝えたも同然であった。その衝撃は、最初に診断が下ったときに匹敵するものであり、第二の判決と言うべきものだった。私はそこでプラセボ効果を狙って別の薬を手に入れようとした。けれども、薬剤師は医師の処方箋がなければプラセボも売ることができないのだという。そこで私はX博士に処方箋を書くように頼んだのだ。だが、救急外来にかからせなかったのは私の失敗だった。救急外来を受診させていれば、厳密な意味での医療上の効果はなくとも、その儀礼的側面が治療効果をもたらしてくれたかもしれないのに。結局、X博士が処方したプラゼボに彼女が騙されることはなかった。
それでもミシェルは闘いを諦めていない。言語療法士に最後に言われたことを覚えているからなのか、それとも彼女自身が言語療法士の仕事をしていた頃にアルツハイマーに冒された患者に文字を読ませていたことをどこかで覚えているからなのか、私にはわからない。それでも彼女は、多くの単語にひっかかりながら、同じ段落を何度も読み返しながら、今も毎日数時間「読書」を続けている。「彼女には何も理解できていないはずだ」と言われることもある。そうかもしれない。だが、重要なのはそこではない。彼女自身は必ずしもそう意識していないかもしれないが、彼女は読むという行為にこだわり続けなければならないという感情を抱えているように私には思われる。なんとか読むことさえできれば、いくつかの単語で躓くことがあっても、挫折は取り返しのつかないものではない。こうした感情を希望と呼ぶのである。
ジャン・ボベロ(Jean Baubérot) 1941年生まれ。専門はプロテスタントとライシテの歴史社会学。高等研究実習院で講座「プロテスタンティズムの歴史と社会学」の教授(1978年から1990年)、講座「ライシテの歴史と社会学」(1991年から2007年)の初代教授を歴任。1995年には「宗教とライシテの社会学グループ」を創設し、2007年まで初代所長を務めた。現在は高等研究実習院の名誉学長・名誉教授。代表的著作に、『ライシテの100年――情熱と理性のあいだ』(Seuil, 2004)、『ライシテに背く共和国原理主義』(L’Aube, 2006)など。邦訳書に、『フランスにおける脱宗教性(ライシテ)の歴史』(白水社、2010年)、『世界のなかのライシテ――宗教と政治の関係史』(白水社、2014年)がある。
聖職者に代わって偉くなったのは医者だった? 医療が神聖なものになった? フランス近代医療を宗教と世俗の歴史の中に位置づける。
ジャン・ボベロ、ラファエル・リオジエ 著
伊達聖伸・田中浩喜 訳
『〈聖なる〉医療 フランスにおける病院のライシテ』
https://www.keisoshobo.co.jp/book/b557015.html
ISBN:978-4-326-15473-9
四六判・304ページ・本体3,700円+税