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『なぜ道徳的であるべきか』

 
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杉本俊介 著
『なぜ道徳的であるべきか Why be moral? 問題の再検討』

「はしがき」「序 「なぜ道徳的であるべきか」を問う意義」(pdfファイルへのリンク)〉
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はしがき
 
 「なぜ道徳的でなければならないのか」。思えば私は小さい頃からこの問いに引っかかっていたように思う。そんな私に対して,私の父や母は「そんなことは当たり前だ。それが道徳というものだ」という答え方をしていたように思う(そして,「そんなことを考えていないで早くご飯を食べてしまいな」という言葉が続いた記憶がある)。私にはこの答えがどうしても満足ゆくものではなかった。
 大学生になる頃,この問いにWhy be moral? という名前が付いていることを知った。そして,私の父や母の答え方は「トートロジカル」な答え方で,正当な答え方の候補から真っ先に外れることも知った。少し悲しかった記憶がある。
 Why be moral? 問題の議論のなかで,私の心を掴んだのは,大庭健・永井均・安彦一恵らによる『なぜ悪いことをしてはいけないのか――Why be moral?』だった(大庭ほか[2000])。いわゆる「大庭・永井・安彦論争」である。とりわけ,道徳的である必要なんてないとする永井の議論は衝撃的だった。こんなにあからさまに言ってしまって大丈夫なのか,と読者として心配になったほどだ。同時に,こうした永井のスタンスに憤りを感じ,悪いことをしてはいけないのは当然だ,と説く大庭の議論は非常につまらないものに思えた。
 しかし,永井の独創的な立場を「研究」として進めていく自信がなかった私は,修士課程でデイヴィッド・ゴティエのゲーム理論的アプローチを採り,安彦に近い立場を擁護していくことにした。そのなかで,このアプローチの魅力と限界が見えてきた。
 ところが,博士課程で研究を進めるなか,あの大庭の立場がだんだんと魅力的に思えてくるようになったのだ。悪いことをしてはいけないのは当然だ,という主張を,どうにかトートロジーにせず,擁護できるのではないか。そして,思い出されたのは,父や母の「そんなことは当たり前だ。それが道徳というものだ」という答え方である。
 なぜ道徳的であるべきか。今の私は次のように考えている。それは道徳的であることそのものがそうであるべきことだから。本書で私が試みようとしているのはこの意味で,私の父や母の答え方を擁護することである。そして,かつての大庭・永井・安彦論争についても現在の私なりに評価していく(補章を参照)。
 
 
序 「なぜ道徳的であるべきか」を問う意義
 
序・1 実践的問題と哲学的問題
 本書は,Why be moral?(なぜ道徳的であるべきか)という問いについて論じる。以下,この問いをWhy be moral?問題と呼ぶことにする。
 この問題は古代ギリシアから論じられてきた伝統的な哲学・倫理学上の問題である(1)。しかし,それはふつうの意味での倫理学上の問題ではない。この問題を一つの主題として最初に立てたF・H・ブラッドリーは次のように述べる(2)。

なぜ私は道徳的であるべきか。こう問うのは自然だが,それでも奇妙に思える。この問いは我々が問うべきものであるように見えるが,問うと道徳的観点(moral point of view)から全体的に離れてしまうように感じる。(Bradley[1876]5)

ブラッドリーが感じるように,この問題を考えるとき,我々はふつう倫理学上の問題がもつ倫理・道徳へのコミットメント,すなわち自身のかかわりを欠いてしてしまう。したがって,この問題を論じることには,倫理・道徳への無関係を装って素知らぬ顔で議論している側面があることは否めない。
 具体例を出そう。いま死刑について二人が議論している。一方は,それで死刑になる者の苦しみを差し引いても皆が幸福になるのであれば我々は死刑を認めるべきだと主張する。他方は,誰がどんな状況であっても人を殺してはいけないという決まりを守るべきなので,我々は死刑を認めるべきでないと主張する。この二人の議論にもう一人の人物が加わるとしよう。この人物は双方の言い分をきいて,二人が道徳的観点から死刑を認めるべきか,否かを議論していることに気づいた。この人物は二人に尋ねる。「そもそも,なぜ道徳の観点に立つべきか」。
 この人物がそう問うとき,たしかに道徳の観点からいったん降りて,あるいは降りた体(てい)で「素知らぬ顔」でいる。この人物に対して,二人のどちらか(あるいは二人とも)が怒ったり,恐怖を感じたりしても仕方がないだろう。「我々は道徳的であるべきだ」という二人が抱く根本的な価値観に疑問が投げかけられたからである。この点で,Why be moral? 問題に我々が抱く怒りや恐怖は「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに我々が抱くそれとそう変わりはない(3)。場合によっては,Why be moral? 問題は不道徳な問題であると受け取られることすらある。
 しかし,死刑の是非をめぐる議論に限らず,一般に,議論の前提を確認することは学問において大事なことである。倫理学が「学」であるかぎり,Why be moral? 問題は哲学者や倫理学者が取り組んでいかなければならない問題である。この意味で,本問題は極めて形而上学的な,その分「哲学的な」問題である。
 哲学では,「本当にこの世界は存在しているのか」という問い(外界の存在の問題)まで立てられる。そして,驚くことに,この世界は存在していないという主張を支持する論証が展開される。しかし,哲学で大事なのは,こうした論証があるからこの世界は存在していないと思って生きようとすることでなく,この論証のどこに間違いがあるかを見つけようとする態度である。
 Why be moral? 問題も同様である。我々が道徳的であるべきなのは常識である。我々が道徳的でなくてもよいという主張があるかぎり,どこに間違いがあるかを探すことが重要である。デイヴィッド・ルイスは著書『コンベンション』の冒頭で,哲学の意義を明確にしている。それは常識的真理(platitude)をあえて問うことで,人々を再考させる機会を与えるのである。

他の人々が再考せず受け入れる常識的真理を問うのが哲学者という職業である。危険な職業だ。哲学者にとって,常識的真理を信じるより,疑うほうが簡単なのだから。しかし,役に立つ職業でもある。よい哲学者なら,常識的真理に疑問を投げかけるとき,たいていそれが本質的に正しかったということになるだろう。だが,再考しなかった者が出会うことのない問題に,その哲学者は気づいたのである。結局,投げかけられた疑問は答えられ,その命題が正しいままであるほうがどちらかというと多い。それでも,その哲学者は,その常識的真理を受け入れてきた者たちの役に立ったのである。彼らを再考させたのだから。(Lewis[1969]1)

ルイスが言うように,本書でも「道徳的であるべきだ」という常識的真理についてあえて問うことで,読者に再考してもらえればよい(4)。
 常識的真理をあえて問う点で,Why be moral? 問題は外界の存在をめぐる問題の仲間であるが,両者が異なる点もある。この点を,バーナード・ウィリアムズは注意している(Williams[1985]24-26:邦訳41-42)。自分の心の外側にある世界,すなわち外界の存在について疑う者に対して,かつてG・E・ムーアは次のような証明を行なった。

両手をあげて,右手で合図をしながら,「ここに右手が存在しています」と言い,左手で合図をしながら,「ここに左手が存在しています」と言う。(Moore[1939]166)

つまり,ムーアは,外界の存在を疑う者の目の前に,物体の一つである自分の両手を示すことでその者を「動揺させた」(disconcerted)のである(Williams[1985]24:邦訳42)(5)。他方で,Why be moral?と問う者に対して,ムーアの手のように一つの確実な存在を提示することはできない,とウィリアムズは注意する(Ibid. 25:邦訳43)。なぜなら,Why be moral?と問う懐疑論者は道徳的な正しさが存在することを疑っているわけでなく,その力(force)に関して疑う者だからである。それは行為や生き方に影響を与える実践的な問題なのである。とりわけ,道徳の観点から我々がすべきことが容易ではないとき,「そこまでして道徳的でなければいけないのか」と問うこともまたWhy be moral? 問題なのである。
 この実践的なレベルでの問いを,クリスティーン・コースガードは次のように述べている(6)。

そして,倫理において,この問いが切実になることがある。道徳が命じ,強い,薦めることが大変(hard)になる日がたいていの人に訪れるからだ。聡明さや高潔さの面で信頼できない人々と意思決定を共有するときや,自分が不適格だと感じてしまう重い責任を引き受けるとき,自分の人生を犠牲にしたり,悦びを与えてくれるものをすすんで断念したりするときなどである。そのとき,この問い――なぜ(why?)――が迫ってくるだろうし,迫ってきて当然なのである。なぜ私は道徳的であるべきか。(Korsgaard[1996]9:邦訳11)

もちろん,「道徳」だと信じてきたものが誤っている場合もある。つまり,「道徳」だと信じてきたものが我々にあまりに要求しすぎる(too demanding)ので,本当は道徳ではなかったということがわかるかもしれない(7)。しかし,これとは別に,引用で言われているように,たとえ道徳であることを認めたとしても,それに従うべきことを疑問にする状況もある。これもまたWhy be moral? 問題である。
 このように本問題は我々が直面する実践的な問題であるとともに,いっそう深いレベルで常識的真理を疑う哲学的な問題でもある。どちらのレベルを強調するかは,この問題を議論する論者たちによるが,本書では両方のレベルを論じる(8)。
 
序・2 本書の目的と概略
 本書の目的は,Why be moral? 問題に答えることである(9)。本書では,この問題に対して,道徳的であることそのものがそうあるべきこと,つまり実践理性の要求だからだ,と答える。この答えの内実は本書で順を追って明らかにしてゆく。
 本書は4 部構成である。第Ⅰ部では,本書が主題とするWhy be moral? 問題がどういう問題なのかを明らかにする。第1 章では,問題設定を示し,その設定のなかでどのように答えることができれば十分であるかを検討する。とりわけ,課題となるのがWhy be moral? 問題が抱えるジレンマである。このジレンマから抜け出すための方策を提案し,そして本書の議論の概要を示す。また,この問題の歴史的背景を示す。
 第Ⅱ部では,この問題を擬似問題だとする立場に反論し,真正な問題だと論じる。そのため,この立場を支持する論証が不十分であることを示す。つまり,この立場は,「なぜ道徳的であるべきか」の「べき」を道徳的な観点からの要求として解釈してしまっている。この論証が不十分であるかぎり,Why be moral? 問題は真正な問題として改めて論じるべきものである。第2 章では,道徳的でなくてもよいという立場を支持する議論が不十分であることを示す。第3 章では,道徳的であるべきだが,道徳的であるべき理由は存在しないという立場を支持する議論が不十分であることを示す。
 第Ⅲ部からは,Why be moral? 問題に答えようとする試みを検討する。そのために,第Ⅲ部ではまず,「なぜ道徳的であるべきか」の「べき」を自己利益の観点からの要求として解釈する試みを検討する。第4 章では,こうした試みの一つであるホッブズ主義を検討し,その立場に反論する。第5 章では,道徳と自己利益が調停できるという立場を検討し,反論する。
 第Ⅳ部では,「なぜ道徳的であるべきか」の「べき」を今度は実践理性の観点からの要求として解釈する試みを検討する。第6 章,第7 章,第8 章ではそうした観点からの答えとしてそれぞれ,人生の意味,他者の利益,自律に訴える試みを検討する。それぞれの立場の問題点を明らかにし,それを克服するために実践理性それ自体に訴えるほうがよいことを示す。第9 章では,実践理性それ自体に訴えた先行研究の試みを検討し,実践理性に訴えてWhy be moral?問題に答えを与える。第10 章では,本書の主張に対する反論に応えてゆく。そして最後に,道徳的であるべき理由とは,道徳的であることが実践理性の要求だからだと結論づける。
 補章では,日本でのWhy be moral? 論争を紹介し,本書の議論がこの論争に対してどのような含意があるかを明らかにする。
 
(1) 本書では特に断りがないかぎり「倫理」(ethics)と「道徳」(morality)を置き換え可能なものとして扱う。両者を区別する論者としてバーナード・ウィリアムズがいる。ウィリアムズは,倫理システムのなかでも,道徳(morality)は近代特有の偏ったものだとする(Williams[1985]Ch. 10)。
 また現代の日本社会では「倫理」と「道徳」を異なった文脈で使う傾向にあるように思われる。「倫理」は倫理学が対象とする公共で議論されるもの全般を指すが,「道徳」は「道徳教育」など教育関係で主に使われ,また「モラル」は個々人の道徳意識を指すものとしてマナーやエチケットと並べて使われる傾向にあるように思われる。
 ただし10・1 で倫理的利己主義を検討するときだけ,特別な意味で「倫理的」という語を使う。
(2) ブラッドリーの議論は1・4 で見てゆく。
(3) たとえば,『なぜ人を殺してはいけないのか?』で,小泉義之は「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いがもつ残酷さを指摘している(永井・小泉[1998]96)。
(4) もちろん哲学の役割はこれに尽きない。ティム・ヴァン= ゲルダーは認知科学において哲学が果たしてきた役割を7 つ挙げている(van Gelder[1998])。
(5) ムーアによる外界の存在証明がどういう証明だったかには論争がある。ジョン・グレコのサーベイが参考になる(Greco[2007])。
(6) コースガードの議論は8・1 で見てゆく。
(7) 要求しすぎるという反論は功利主義に対して向けられることが多い。たとえば,ピーター・シンガーは著書『実践の倫理』でこの問題を議論している(Singer[1979]210-215:邦訳291-296)。
(8) 最近,私はもう一つ「子どもの問い」というレベルがあるのではないかと考えている。それは,はしがきで記したような問いである。5・2 や5・3 で子どもに道徳を教える文脈を取り上げる。
(9) したがって,本書の目的はWhy be moral? 問題に関する網羅的な先行研究のサーベイではない。そうしたものとして,Hospers[1961], Singer[1969], Singer[1979]Ch. 12,川本[1992],Gert[1998]Ch. 13, Black and Tiffany[2013], Himmelmann and Louden[2015]がある。
 
 
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