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『啓蒙と教育』[教育思想双書〈第2期〉]

 
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田中毎実 著
『啓蒙と教育 臨床的人間形成論から』[教育思想双書〈第2期〉]

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はしがき
 
 本書の主題は、「啓蒙」と「教育」との関連である。その際、焦点づけたのは、「啓蒙」とその「野蛮化」への人々の向き合い方である。よく知られているように、第二次大戦の惨禍を経て、啓蒙の展開が「真に人間的な状態」をもたらすのではなく、「一種の新しい野蛮状態」をもたらす逆説的な事態があることを指摘したのは、ホルクハイマーとアドルノである。この啓蒙の野蛮化は、ファシズムに限らず、これに対抗した合衆国にも認められるとされた。現代の我が国も例外ではない。
 高度産業化、少子化、財政危機のもとで、近年の我が国の教育制度は、合理的で無駄を排した、効率的な組織化をめざしてきた。結果としてあらわれてきたのは、他の一切の組織化様式を排除した「官僚制」的なシステムであり、他の一切の合理性を排除した「技術的合理性」の制覇である。しかしこのような官僚制・技術合理主義的なシステムに組み入れられ、これを主体的に担うべく誘導される組織成員の多くは、得体のしれない不全感によって、システムを維持するモラールそのものを失いつつあるようにみえる。大学教育を含むさまざまな教育現場でみてきたのは、このような組織の合理化や機能化のもたらす不合理性であり機能不全である。まさに啓蒙の野蛮化そのものである。本書では、この啓蒙の野蛮化にどう向き合うべきかについて、できるだけ多面的に考えてみた。
 「啓蒙」は、人類史を導く巨大な文明化の運動である。そして「教育」は、人類が自身を文明化する自己啓蒙である。しかし、啓蒙はときとして野蛮化する。啓蒙のありようがさまざまな地域の歴史的場面でそれぞれであるように、その野蛮化のありようもまたそれぞれである。近代以降の啓蒙の爆発的な進展のもとで、その野蛮化もまた、ある場合には目に立つ非日常的な仕方で、別の場合には目立たない日常的な仕方で、あらわれてきている。本書では、一九一〇年あたりから後の啓蒙とその野蛮化への向き合い方について検討した。
 本書の中核をなすのは、師弟関係にある田邊元、森昭、そして筆者の理論での啓蒙の野蛮化への向き合い方である。この三者の理論的継承は、前大戦をはさむ京都学派教育学の展開のうちにある。したがって本書では、啓蒙の野蛮化への対峙という局面から、京都学派教育学の理論的諸特質の一つを検討したことになる。
 この特異な京都学派教育学の理論展開を(それを包み込む)包括的な時空間のうちにマッピングするために、まず、第一次大戦後のドイツ・オーストリアにおける啓蒙の野蛮化への理論的対峙を概括的に把握し、次いで、「遠野、花巻、盛岡 一九一〇年」の時空間における若干の民俗学者・文学者たちの対峙を概観した。この概観によって、京都学派教育学による啓蒙の野蛮化への理論的対峙の特質と意義と限界があきらかになったものと考える。
 
 
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