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レジャーヌ・セナック 著
井上たか子 訳
『条件なき平等 私たちはみな同類だと想像し、同類になる勇気をもとう』
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訳者あとがき
本書は、「レシキエ通りRue de l’échiquier」という名のパリの出版社から、二〇一九年に刊行されたL’Égalité sans condition. Osons nous imaginer et être semblables の全訳である。著者のレジャーヌ・セナックRéjane Sénac(一九七五年─ )は、二〇〇四年にパリ政治学院で博士号を取得し、現在はフランス国立科学研究センターCNRS・パリ政治学院政治学研究センターCevipof の研究主任。パリ政治学院ジェンダー研究・教育プログラムPRESAGE の運営委員として、教鞭もとっている。また、二〇一三年から二〇一九年まで女男平等高等評議会HCEfh のパリテ部門代表をつとめた。著書として、『性別による秩序――女・男不平等の認識 L’ordre sexué : la perception des inégalités femmes-hommes』(PUF社、二〇〇七年)、『パリテLa Parité』(PUF社、クセジュ文庫、二〇〇八年)、『条件付きの平等――ジェンダー、パリテ、多様性 L’égalité sous conditions. Genre, parité, diversité』(シアンスポ出版、 二〇一五年)などがある。
本書の翻訳についての打診があったとき、本を開いてみて、冒頭のエピグラフから驚いてしまった。ヴォルテールといえば、自由を信奉し、『カンディード』などで奴隷制を告発した思想家だと思い込んでいたので、「こうした取引はわれわれの優位性を示している。主人に仕える者は、主人をもつために生まれついているのだ」といった、あたかも奴隷制を容認し黒人を差別するような文章にショックを受けたのだ。また、現代フランスの有名文化人らしいラファエル・エントヴェンとか、歌手のメネル・イブティセム、オレルサンなど、日本ではあまり知られていない(というか、わたしはまったく知らなかった)名前が出てくるかと思うと、ジャン=ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、ピエール・ブルデュー、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ロラン・バルトなど現代の著名な思想家たちはもちろん、『21世紀の資本』のトマ・ピケティまで引用されている。流行作家のミシェル・ウエルベックも登場する。ジョン・ロールズやナンシー・フレイザーなど、フランス以外の欧米の学者の名前も並んでいる。情報量が多すぎて、浅学なわたしには消化しきれないのではないかと危惧した。おまけに文体も手強い。正直なところ、受けるかどうかとても迷った。
とはいえ、これまでフランスを中心にフェミニズム思想を研究してきたわたしにとって、現在のフランスの状況を知るうえで看過できない書物だということは明白だった。セナックの意図は、フランスが平等の国であるというのは神話にすぎないことを、共和国のスローガン「自由・平等・友愛」の再検討を軸に論証することだが、右に記したような知識人たちの考えを参考にし、また、最近の具体的な事例を示しながら展開しているので、納得がいく。これまで知らなかったことに驚き、新たな知見に接する喜びを味わった。
フェミニズム研究を始めようとしている方にも是非、読んで欲しいと思った。日本では、フランスのフェミニズムというと、第二波フェミニズムでのアントワネット・フークなどの性的差異派とクリスティーヌ・デルフィなどの普遍派の対立や、英米圏由来のいわゆる「フレンチ・フェミニズム」のビッグスリーとしてジュリア・クリステヴァ、リュス・イリガライ、エレーヌ・シクスーに関心をもつことが多かったのではないだろうか。しかし二〇〇〇年代になると、フランスにも第三の波がやってきて、様相は一変した。フェミニズムは細分化され、たとえば、パリテ(男女同数代表制)、生殖補助医療(特に、代理出産)、買春の罰金化など、フェミニストたちの意見が分かれないような問題を見つけるのは困難なくらいだ。ヴェールの禁止法についても、ヴェール着用は女性の服従の象徴であるとして禁止を積極的に支持したエリザベート・バダンテールと、一方的な禁止は人種差別的であり、「人種化された」*1男性だけでなく女性もまた同じ抑圧を受けるとして反対したクリスティーヌ・デルフィの考え方は、同じ普遍派とはいっても、全面的に対立している。本書においても、女性に対する暴力/#MeToo や、闘争の手段としての「非・混在」をめぐる意見の対立などが取り上げられている。他方で、いまやフェミニズムはフランス社会における「支配的な言説になり、メディアも政治制度もフェミニズムの主張を常に肩代わりしている。〔中略〕男性優位の状況を変えることに反対する人はいない」*2という。確かに、フランス政治における男女平等の進展はめざましく、特に二〇一二年からのフランソワ・オランド大統領のもとでの男女同数内閣の成立は特筆に値するだろう。その後、二〇一七年五月に大統領に就任したエマニュエル・マクロンも一一月二五日の「女性に対する暴力撤廃の国際デー」で、女男平等を向こう五年間に取り組むべき国家的大義として宣言し、自らフェミニストであると語ったことなどが、本書でも言及されている(日本の首相がこうした記念日に発言したのを聞いたことはない)。しかし、セナックは同時に、マクロンの「フェミニズム」が、女性を他者性に帰し男女の不平等な補完性を肯定するという矛盾をはらんでいること、また、この補完性は収益性の有無によって評価されるものであることを批判している。
フェミニズムとは何かを定義するのは容易ではない。フェミニズムの定義はフェミニストの数だけあると言われたりもする。ちなみに、『広辞苑』の第七版では、(第六版にあった「男性支配的な文明と社会を批判し組み替えようとする思想・運動」という表現がなくなり、)「女性の社会的・政治的・法律的・性的な自己決定権を主張し、性差別からの解放と両性の平等とを目指す思想・運動。女性解放思想。女権拡張論」と定義されている。つまり、フェミニズムは男女平等を目指す思想・運動であると言えるだろう。しかし、それでは、「平等」とは何なのだろうか。これが、セナックが本書で取り組んだ問題である。
セナックは、まず第一に、平等が適用されているのは誰に対してなのかを問う。フランスの憲法には共和国のスローガンとして「自由・平等・友愛」が掲げられているにもかかわらず、いまだに不平等が続いているのはなぜなのか。それは、スローガンの最後の言葉「友愛(フラテルニテ)」が含意しているのは「兄弟たち」の友愛であって、そこからは、「兄弟ではない者たち」――女性だけでなく、女性・男性のどちらにも区別されない人たちや、白人ではない「人種化された人たち」――が排除されているからだ。「平等」が適用されているのは、「兄弟たち」だけなのだ。この事実は、「兄弟ではない者たち」にとっては自明のことなのに、「兄弟たち」には理解できていない。「兄弟たち」は自分たちが普遍であり、基準であると考え、「兄弟ではない者たち」は特異な存在であると見なす。そして、彼ら・彼女らを自分たちとは異なる集団としての特異性のなかに閉じ込めて、排除する。たとえば、女性は「おしゃべりだから」と十把一絡げに決めつけて、排除する。いまどき信じられないが、フランスでも、ジャーナリストや知識人のなかにさえ、「兄弟たち」のフラテルニテに対して、「兄弟ではない者たち」のソロリテ(姉妹愛)は、「派閥的な連帯」を示すものだと決めつけて、「女性や『人種化された』マイノリティは、一般利益の何たるかを知らず、あるいは一般利益を犠牲にしてまでも自分たちの『ちっぽけな』利益だけを守ろうとする」といった発言をする者がいることを、セナックはフランスで最も聴取率の高い朝のラジオ番組の一つで遭遇した例を挙げて示している。セナックは、さらに、同性婚、フランス語の文法における男性形の女性形に対する優位、ムスリムの女性歌手と白人の男性ラッパーをめぐる議論など、最近の事例を紹介しながら、「兄弟ではない者たち」には必ずしも「平等」が適用されていないことに気づかせる。「友愛(フラテルニテ)という言葉の見せかけの中立性は、政治的、宗教的、哲学的等々のさまざまな共同体の中に、平等なファミリーの一員としてふさわしいと認められた者とそうではない者との間に歴史的にも現代においても、境界線が引かれていることを(不完全にであれ)隠している」のだ。「自由・平等・友愛」の友愛をフラテルニテではなく、ソロリテ(姉妹愛)に置き換えてみると、フラテルニテという言葉が中立ではないことがよく分かるのではないだろうか。
セナックがフラテルニテという言葉を問題にするのは、単に男・女の差別という観点からだけでなく、「社会的マイノリティ」に対する差別という観点からであることも指摘しておきたい。セナックは、「人は潜在的に差別の原因となりうる複数のアイデンティの交差点(インターセクシヨン)に存在している」という観点から、性別、人種、そして社会階級といった社会的関係に照らして、差別の基準がどのように関連し合っているのかを考察している。
二一世紀の現在、男女平等は多くの国で著しく進展している。男女平等ランキングといわれるジェンダーギャップ指数(世界経済フォーラム)で、日本は二〇二〇年に世界一五三ヵ国中一二一位だったが、たとえば二〇一四年には一〇四位(一四二ヵ国中)、二〇一一年には九八位(一三五ヵ国中)だったのが徐々に順位を下げている。これは日本の男女平等が後退したからというよりは、他の国の男女平等が前進したからだと言えるだろう。フランスはどうだろうか。ジェンダーギャップ指数を見るかぎり、二〇一四年に前年の四五位から一挙に一六位に躍進し、二〇二〇年も一五位と上位を維持している。それでも、本書を読むと、まだ全然平等ではない国のように思える。なぜか。それは、平等に関するセナックの第二の問い、「どんな平等か?」とも関わっている。
現在、「兄弟でない者たち」も、権利の平等を享受しているように見える。「ただし、それは、自らの特異性つまり差異への帰属を演出するという意味と、利益をもたらすという二重の意味でパフォーマンスするという条件においてなのだ」。つまり、「兄弟でない者たち」を、超えることのできない他者性の領域に、同類であることとは両立しない補完性の領域に閉じ込めたままにし、しかも、その補完性は利益をもたらすものであることが期待される。補完性とは、たとえば、男性と女性にはそれぞれ特性があり、両者が互いにその特性を生かして補い合うという考え方である。一見、良い考えのように思える。しかし、実際には、この補完性は不平等なものであり、一方(「兄弟たち」)が他者(「兄弟ではない者たち」)を同類として認めず、他者(「兄弟ではない者たち」)を硬直した特異性の中に閉じ込め、個人としての自由を奪っている。最近では、多様性の名のもとに、「兄弟たち」とは異なる特性をもつ者が参加する方が良い効果をもたらすと言われたりするが、特性には長所だけでなく、短所もある。女性の特性には付加価値があるから包摂するというのは、女性だから排除するというのと同じように、危険である。「重要なのは私たちが互いに普遍的に同類であると認め合うことであって、『兄弟ではない者たち』に文化的、社会的および/あるいは経済的な『付加価値』を期待することではない」。そうではなくて、「兄弟たち」の間では互いに平等であることと一人ひとりが特異で異なる存在であることが矛盾しないのと同じように、「兄弟ではない」とされている人たちもまた、性別や人種、宗教、社会階層などに結びつけられた集団的なアイデンティティに閉じ込められることなく、一人ひとり個人として同類であると認められなければならない。
本書のタイトル『条件なき平等』があらわしているのは、集団としての特異性の中に閉じ込められることなく、集団としての特異性によって「補完性」に割り振られることなく、そして、社会に収益をもたらすという「条件なし」に、一人ひとりが同類として平等であるべきだ、ということである。「人間として、すべての人が同類となることこそは、一人ひとりの特異性を平等に開花させることができるための条件である」とセナックは結論している。
そのためには、どうすればいいのだろうか。まずは「フランスは平等の国であるという神話」から解放されて、平等ではない現実に気づくことである。そのうえでセナックは、具体的な方策として、アファーマティブアクションや非・混在を真の平等にたどり着くための「一時的な」手段として容認するという、本書の大胆かつ辛辣な論法からは意外なほど柔軟なスタンスを取っている。男/女あるいは白人/非白人という分類によって不利に置かれている人たちを「教育優先ネットワーク」のようなアファーマティブアクションによって救済したり、女性だけ非白人だけで集まって議論するのを認めたりすることは、差異による分類を受け入れていることになるとか、逆差別だといって反対する人も多い。だがセナックは、「機会の平等を促進するための活動は、権利に差をつけることによって行われる場合もありうる。それは、不平等の削減という目標の結果として生じる一般利益が、権利の平等原則の例外を道理にかなったものと認め、そうした例外を法的に可能にする場合である」と擁護している。また、差別の根源にある、同じものと異なるものを区別し、対立させ、序列化する二分法的思考、とりわけ男/女の二分法からの解放については、「支配する男/支配される女、男が能動/女は受動、男が主体/女は客体という硬直化した二分法がいまだに深く刻み込まれた異性愛規範モデルからの集団的かつ個人的な解放がなされなければならない」とし、「アイデンティティを特定するカテゴリーに働きかけ、そうしたカテゴリーが、疎外をもたらす序列的な分類に従わないようにしなければならない。とりわけ身分証書の『女性/男性』という二分法に『その他』あるいは『中性』といったカテゴリーを加えることによってカテゴリーを増やすこと」を提案している。
そもそも条件つきの平等すら実現していない日本においては、セナックの考え方は先鋭すぎると感じる読者もいるかもしれない。しかし、セナックが呼びかける挑戦、「人間の多様性が、疎外を招くような個別化へと変化することなく、女性も男性もすべての人がどの人も同類として認められ、同類として生きることを可能にするという挑戦」には同感できるだろう。本書はフランスでの議論なので、「兄弟=白人男性」「兄弟ではない者たち=非・男性、人種化された人たち」が問題になっているが、この構図はフランスだけではなく日本にも当てはめて考えることができる。そこにどういった人たちが歴史的、社会的に当てはめられてきたのか、当てはめられようとしているのか、わたしたちには考えてみる義務があると思う。
最後に、原書ではいわゆる「包摂的言語」が用いられているが、翻訳にあたっては、必ずしも厳密に反映していないことをおことわりする。フランス語の文法には男性形と女性形の区別があり、さらに複数形では男性形で代表されるので、たとえば、「すべての人」というのは一般にはtous と表記されるが、これでは女性が見えなくなってしまうので、セナックは「すべての女性」という意味のtoutes と「すべての男性」という意味のtousを合わせてtou-te-s と記している。したがって、tou-te-s は厳密には「女性も男性もすべての人」と訳すべきだが、単に「すべての人」とした場合もある。そのほうが読みやすいと判断したからだ。他にもles non-blanc-he-s「非白人男性および非白人女性」やles premier-e-s concerné-e-s「男性および女性の当事者」など、同様に判断した。もちろん、「包摂的言語」に反対だからではない。現在では職業名の女性化も進んでいて、個人的には喜ばしいと思っている。たとえば、作家という語は、従来、auteur という男性名詞しかなかったのを、女性の作家にautrice またはauteure という表記を(アカデミー・フランセーズの反対にもかかわらず)用いることで、女性の存在を見えるようにする動きがある。しかし、日本語では、保母、看護婦、助産婦など、女性に割り当てられてきた職業名を脱ジェンダー化する(それぞれ保育士、看護師、助産師にする)方向にあり、わざわざ女性作家というと、逆に差別を感じてしまう。そこで、本書の翻訳に際しては、男女差別にならないように留意しながら、文脈に応じて使い分けた。
引用文については、既訳を参考にさせていただき、大変助けられた。また、原文の解釈については早稲田大学教授オディール・デュスュッドさんから、フランス社会の現状についてはフランス国立東洋言語文化研究所研究員・パリ大学教員の猿ヶ澤かなえさんから、いろいろ教えていただいた。原著者の幅広い知識に対応するのに苦労して難航しながらも、本書が無事に出版の運びとなったのは、これら多くの方のお蔭である。ここで心から感謝の意をお伝えしたい。最後になったが、編集部の関戸詳子さんにも大変お世話になった。彼女の熱心な励ましがなければ、挫折していたかもしれない。ありがとうございました。
二〇二一年二月
井上たか子
*1 この用語については、本文中の訳注を参照されたい。
*2 クロード・アビブ「21世紀に期待されるフェミニズムとは」、『日仏文化』、no87、公益財団法人・日仏会館、二〇一八年、一一九頁。