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橋本 努 編著
『ロスト欲望社会 消費社会の倫理と文化はどこへ向かうのか』
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橋本努
いかに自分らしく生きるか、いかにセンスよく生きるか、いかに意義深い人生を送るか……。
消費社会論はこれまで、こうした私たちの生き方をめぐる問題に、さまざまに答えを与えてきた。T・ヴェブレン、J・K・ガルブレイス、J・ボードリヤールといった論客たちは、人々の消費スタイルの是非をめぐって華々しい知の世界を築いてきた。ところが二一世紀に入って、消費社会の研究は、理論書や思想書としてみるべきものが少なくなったように思う。先進諸国では軒並み、消費社会そのものが停滞してきたからであろうか。この二〇年間、日本では消費論を専門とする理論家がほとんど現れず(例外は間々田孝夫)、注目すべき海外の消費理論の多くも紹介されていないのが現状である。
けれども消費社会はいま、新たな局面を迎えている。欲望消費が衰退するなかで、多様な消費行動や消費者運動が生まれている。本書はその新たな動きを捉えるべく、第一線の研究者たちが取り組んだ共同研究の成果である。最新の消費理論を紹介しつつ、新しい消費文化の動向を分析している。消費者市民の活動、ハンドメイド文化、産消提携運動、脱プラスチック運動、無印良品、消費ミニマリズムなどに光を当てている。これらは日本が誇るオリジナルな消費文化であるにもかかわらず、これまであまり研究されてこなかった。
本書のタイトルは「ロスト欲望社会」としたが、これは序章で論じたように、私たちはいま、ポスト近代の消費文化がしだいに衰退する時代を生きているという認識に基づいている。むろん本書の各章は、欲望の衰退をストレートに論じているわけではない。私たちの欲望が衰退しても、消費社会は多様に展開する。その新しい動向について検討している。
それにしても私たち日本人の欲望は、本当に萎(な)えてしまったのだろうか。
例えば最近、欲望消費の中心にあった自動車が売れなくなり、若者たちが異性と交際する割合もしだいに減ってきたと言われる。若者たちの欲望消費が喚起されず、結果として日本経済は、外国の需要(外需)に頼らざるを得ない状況が生じている。経済ナショナリズムの観点からみれば、私たちは旺盛な欲望消費を営むべきではないか。欲望消費は、日本経済を支える営みであり、愛国的な営みでありうるからである。
ところが最近の若者たちの欲望消費は、減退している。例えば、かつてバブル期の女子大生ブームを牽引した女性誌『JJ』は、二〇二一年に事実上の休刊に追い込まれた。一時は七七万部の発行部数を誇った同誌は、二〇二〇年四~六月には平均して約四万五、〇〇〇部にまで落ち込んだという[1]。他の女性ファッション誌もしだいに売れなくなってきた。この一〇年間で、ファッション誌の特集内容も変化している。かつては結婚対象となる男性の目線を意識した服装を提案してきた女性誌も、最近では、「自分目線」でゆったり着ることができるような服やスニーカーを紹介するようになった[2]。例えば雑誌『Oggi』は、二〇一九年二月と二〇二〇年二月にそれぞれスニーカー特集を組んだところ、完売になるほどの人気が出たという。
おそらく欲望消費がピークに達したのは、日本では一九八〇年代末から一九九〇年代初頭にかけての「バブル経済期」であっただろう。それ以降、若者たちの可処分所得は減り、日本経済の先行きが不透明になるなかでしだいに節約志向が高まっていった。加えて世界は現在、地球温暖化によって新たな局面を迎えている。環境問題に照らしたとき、欲望消費は問題である。欲望消費は多くの二酸化炭素を排出せざるを得ない。地球温暖化とともに、きらびやかな欲望消費に対する倫理的な咎(とが)めが生じてきた。
一九八〇年代に消費文化が花開いたとき、話題の中心にあったのは、ブランドの衣服であった。ポストモダンの記号消費は、同じ性能でも、他者が買う商品とは異なる色や形の商品に、付加価値(プレミアム)をつける文化を生み出した。さまざまなバリエーションの衣服が売られ、人びとは競って他者と異なる記号の衣服を纏(まと)った。ところが衣服はその後、売れなくなる。衣服の販売数量はそれほど減っていないが、利益率が低くなり、毎年過剰の在庫が生じるようになった。一九九〇年に売れ残った衣服(下着を含まない外衣のみ、アウトレットでの販売数は含まない)は、三・五%であったが、二〇一八年になるとこれが五三・四%に達している。この年には実に、約一五億五、〇〇〇万点の衣服が売れ残ったことになる[3]。
ファッションの世界では、衣服の単価を下げるために、大量生産が求められる。その一方で流行のサイクルは速く、結果として売れ残った在庫が大量に処分される。こうした「衣服ロス」は、環境に対して破壊的であるだろう。地球環境の問題を考えるとき、私たちはファッション産業の実態に憂慮の念を抱かざるを得ない。
すでに私たちの環境意識は、二〇一一年三月一一日に起きた東日本大震災をきっかけに高まっていた。私たちは震災後、原子力発電や火力発電に頼らず、自然エネルギーを用いて生活したいと展望した。そのためには電気代を節約する必要があることも理解した。
近年になって、ヨーロッパでは気候変動問題をめぐって、「気候のための学校ストライキ」を起こしたグレタ・トゥーンベリさんの活動が関心を集めた。二〇一七年、一五歳のときに一人で学校ストライキを起こしたグレタさんの活動は、現在、国際組織や政府組織に対して、新たな環境対策を促す大きな力になっている。
加えて、二〇一八年に提出されたIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の特別報告書も、反響を呼んだ。この報告書によると、私たちが大きな気候変動を避けるためには、地球の温暖化を産業革命以来、一・五度以下の上昇に抑えなければならず、そのためには二酸化炭素(CO2)排出量を二〇三〇年までに四五%削減し、二〇五〇年頃には正味ゼロにしなければならないという。それ以上に二酸化炭素を排出すると、地球は気温の臨界点を迎えて、大規模な災害に見舞われる可能性が高いという。この削減目標を達成するためには、私たちは毎年平均して、一五%の二酸化炭素排出量を減らさなければならない。しかしこれはほとんど実現不可能な問題ではないか。日本政府は現在、二〇五〇年までに温室効果ガスの排出量を実質ゼロにするという目標を掲げているものの、IPCCが指摘する二〇三〇年問題に対しては、根本的には応じていないようである。
地球環境の問題を深刻に受けとめるとき、私たちは二〇三〇年までに、どんな消費行動をすべきなのだろうか。二〇二一年に入って、NHKのシリーズ・テレビ番組「NHKスペシャル2030未来への分岐点」が話題を呼んだ(一月九日/二月七日/二月二八日放送)。第一回は「暴走する温暖化〝脱炭素〟への挑戦」と題して、温暖化をめぐるさまざまな予測が紹介された。二一〇〇年には、東京の猛暑日が四七日間になると予想され、屋外で労働できる時間は、三~四割減少するだろうと予測されている。もし私たちが大きな気候変動を避けることができなければ、世界経済は二〇五〇年までに、二〇%の損失を生み出すとの試算もある。長期的にみると、私たちがいま欲望消費を減らすことには経済的に合理的な理由がある。けれども私たちは、この経済合理性を真剣に受け止めていないようにみえる。このままでは地球は破局的な状況を迎えてしまうのではないか。破局に陥らないための分岐点が二〇三〇年に迫っている。二〇三〇年に向けて、私たちはいま何をすべきなのか。NHKの番組では、このような大きな問題が、とりわけ未来を担う若者たちに投げかけられた。
地球環境問題に対応するために、私たちは現在、欲望消費を抑えるように求められている。私たちは欲望を喪失することが、倫理的であるような時代を迎えている。けれども、次のように考えることもできるのではないか。すなわち、自分の欲望を抑えるのではなく、欲望の向かう先を変えて、これまでとは異なる仕方で欲望を充足しうるのではないかと。
例えば地球温暖化の影響で、牛肉やマグロの値段が高騰すれば、私たちはその代替物、例えばクリーン・ミート(培養肉)や近海でとれる小魚の食事に、新しい快楽を発見するようになるかもしれない。私たちは、自然環境と両立する欲望消費を育むことができるかもしれない。
現代人にとって、消費の根本問題とは、ますます深刻化する環境問題を受けて、代替的な快楽消費はいかにして可能か、という問いになるだろう(本書第一章を参照)。このような可能性も含めて、本書のタイトルは「ロスト欲望社会」とした。ロスト欲望社会は、欲望の喪失が倫理的である時代において、新しい消費文化はいかにして可能か、という問いを提起している。