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あとがきたちよみ
『軍事理論の教科書』

 
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ヤン・オングストローム、J.J. ワイデン 著
北川敬三 監訳
『軍事理論の教科書 戦争のダイナミクスを学ぶ』

「第2章 戦争」「第4章 作戦術」冒頭(pdfファイルへのリンク)〉
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第2 章 戦争
 
1 は じ め に
 2001 年9 月11 日のワシントンDC とニューヨークに対するテロ攻撃は,世界に衝撃的かつ恐怖の経験をもたらした。テロ攻撃は,長年にわたり西洋社会にとって,大して重要ではなく,優先順位の低いものとされていた。これが,突如として差し迫った脅威となったのである。このテロ攻撃は,既存の戦争の概念を構成する学術体系,具体的には安全保障研究,軍事理論,国際法,国際関係論への挑戦でもあった。9 月11 日のテロ攻撃は,戦争であろうか,それとも大規模な犯罪であろうか。これは,戦争の本質に関する膨大な分野における問いの一例にすぎない。店の値引き競争はテロリストに対する戦いや内戦,電撃戦,世界大戦と同じ現象なのであろうか。戦争と平和は互いにどう関係しているのであろうか。たとえばサッカーの試合におけるフーリガンの乱闘や,組織的犯罪,暴動,また不正行為や差別,迫害といったいわゆる構造的暴力(Galtung 1985)などのすべての暴力的な行為を,戦争として理解すべきなのであろうか。
 本章の目的は,戦争をどのように理解し,分類するかについて,さまざまなアプローチを紹介することである。さらに,戦争を分類するための境界線はどのような文脈によって引かれているのかを明らかにする。たとえば,われわれはアメリカで19 世紀に生起した南北戦争をどのように理解すべきであろうか。南北戦争は,現代の国家間戦争とほぼ同じ手法で戦われた。すなわち,開戦前に一方の勢力から,戦時国際法を尊重し,捕虜を外国軍に所属する兵士のように扱うことが宣言された(これは国内紛争の歴史においては珍しいことである)。同時に,カンザス州とミズーリ州で激しいゲリラ戦が行われた(Brownlee 1986)。そこでは,現代でいうところの民族浄化,すなわち民族の排除と残虐行為が行われ,すべての前線で長距離奇襲のような新たな戦術が採用された。南北戦争では,いくつかの戦争が並行して行われたのであろうか。あるいは,南北戦争を「内戦」と呼ぶことは誤りであろうか。本章は2 つに大別される。まず戦争の概念について,次に戦争及び武力紛争を分類するさまざまな方法について述べる。
 戦争を理解するためのさまざまなアプローチは,戦争における勝利と敗北の単純化を防ぐため重要である。したがってそれは,分析にきわめて重要である。また,もし,ある作戦が戦争と呼ばれていれば,法的,政治的に大きな影響を及ぼさずとも,戦争の解釈は政策論議においても中心的な命題となる。過去数十年の間,ノルウェーやスウェーデンのような北欧の小さな国々のいくつかは,アフガニスタンにおける作戦を「戦争」と表現することを避けていた。またジョージ・W・ブッシュ(George W. Bush)元アメリカ大統領は,キューバのグアンタナモ米軍基地において疑わしいアルカイダ諜報員を尋問し,彼らを法的に許可された拘留期間を超えて尋問する際,あえて「戦争捕虜」という用語を使わなかった。それゆえに何らかの現象を「戦争」と名付けることは,それ自体が政治的な決断なのである(Mansfield 2008)。戦争をいかに理解するかということは,戦略の核心であると同時に戦争の遂行そのものである。また戦争を理解することは,国際社会のために戦争を止める努力に直結する。クラウゼヴィッツは,この議論の背景にある論理を適切に捉えていた(Clausewitz 1993: 100)。

政治家や将軍が行う最初の大規模かつ決定的な判断行為は,始めようとしている戦争を正しく認識することである。戦争の本質と異なるものを求めたり,作為しようとしないことである。

 クラウゼヴィッツが発言した約150 年後,全く異なる文脈において,毛沢東は同様の考えを表明した。「戦争の実際の状況,その性質,そして戦争が与える影響を理解していなければ,戦時国際法を理解することも,戦争を指揮することも,勝利を勝ち取ることもできはしない」(Mao 1966: 96)。このように戦争を理解することは,戦争を成功裏に遂行するため,もしくは戦争に介入し,殺戮を止めるために重要なのである。ハリー・G. サマーズによれば,アメリカが最終的にヴェトナム戦争に敗北した主因は,ヴェトナム戦争の本質を理解できなかったことであった(Summers 1982)。まさに始めようとしている戦争について理解することによって,戦略上,作戦上における敵に対する自分自身の強みを知ることができる。そして自分自身の強みを認識することによって,最適な戦略を構築することができるのである。
 
2 戦争という概念
 戦争と平和の最も共通する点は,おそらく双方が国家間に存在しうるさまざまな状態であることである。その区別は,しばしば二者択一的と捉えられる。すなわち国家が戦争状態にあるのか,それとも平和な状態にあるのか。この解釈によれば,戦争と平和は相反するものである。平和な時には,個人,団体そして国家は,対話,法の支配,主として非武装の競争を通じて目標を実現し,紛争は平和的手段によって解決される。しかしながら,戦時においては,目的を達成しようとするアクターの手段は,力,暴力,殺戮となる(Wight 1966: 33; Kalyvas 2005: 89)。戦争と平和を理解することは,国際法と欧米諸国の政策を理解することに通じる。また戦争と平和を理解することは,戦略研究,国際関係論,平和と紛争の研究の学術的論議の大部分を占める(Coker 2010 を参照)。この学術的論議においては,平和は戦争のない状態であると解釈されている(Samaddar 2004; Hoglund & Soderberg-Kovacs 2010 を参照)。さらに,戦争は,平時の平和的な社会関係が崩壊したものと見なされる。そこでは,戦時法が「通常の」法を引き継ぎ,国家が軍隊を動員し,経済は「軍需生産」にシフトしようとする。戦争と平和を分けて考えることは,これらを明確に区別できることを前提としている。しかし,クリストファー・コーカー(Coker 1997)やホルガー・アフラーバックとヒュー・ストローン(Afflerbach & Strachan 2012)が示しているように,戦争の開始と終結を特定することは難しい場合がある。第二次世界大戦のような重大な戦争であっても,戦争の開始と終結を特定することは困難だ。たとえば,第二次世界大戦は1945 年5 月に終結したのか,それとも1945 年の8 月に終結したのだろうか。
 本章においては,戦争を理解するための3 つのアプローチについて議論する。それらは「戦争とは何か」という問いに対する異なる3 つの答えとなるものだ。第1 のアプローチは,戦争の機能的意義を特定することを目指す。第2 のアプローチは戦争の本質と性質を区別する。第3 のアプローチでは,戦争の客観的な定義を特定することを通じて戦争を経験的現象として理解することを目指す。この3 つのアプローチは密接に関係しているが,いくつかの相違点も存在する。とりわけ異なるのは,戦争とは何かという問いにどう答えるかというアプローチの出発点である。3 つのアプローチは類似しており,これは,どのアプローチとも戦争の歴史に基づく同じ経験的証拠に基づいて,同じ質問に答えようと試みているためであり,類似することは自然なことであるが,「戦争とは何か」という問いに対する答えはわずかに異なっており,また抽象化のレベルによっても異なってくる。「戦争とは何か」という問いに対し,戦争がどのように理解されるべきかを論じたさまざまなアプローチを組み合わせることで,より包括的な答えを導くことができる。一方では,戦争の測定できる定義がなければ,戦争の理論を経験的に検証することは困難であろう。他方,戦争の機能的意義の前提がなければ,戦争の測定は不可能である。このように,これらのアプローチは相互に補完しあうものである。
 
戦争の意味とは何か?
 戦争を理解する第1 のアプローチは,戦争の機能的意義を明らかにしようとするものである。このアプローチは,戦争に関する現象を適切に分析する前に,戦争にまつわる出来事自体の意味を整理する必要性を強調する。たとえば,クラウゼヴィッツの論じるように(Clausewitz 1993),戦争が政治的手段であり,合理的であると議論する前に,戦争が何らかの目的を達成する手段となりうるかという点について吟味する必要がある。戦争を概念として捉えるアプローチは,戦争の作戦としての定義を策定しようとするものではない。むしろ複数の異なる文脈で戦争の意味を特定することによって,戦争を理解することに焦点を当てる。以下では,戦争に関する7 つの異なる枠組みについて述べる。すなわち,手段としての戦争,武力闘争としての戦争,紛争管理としての戦争,交渉としての戦争,警察機能としての戦争,術アートとしての戦争,自己実現としての戦争について考察する。
 戦争の第1 の意味,すなわち「手段」としての戦争は,戦争を政治的で合理的な現象として捉えるクラヴゼヴィッツの解釈から導かれる。これは,おそらく最も影響力のある戦争の解釈である。これは,その後に現れた合理主義理論の大部分と共鳴するものであることが証明されている(たとえば,Schelling 1966; Pillar 1983; Wagner 2000; Reiter 2003; Smith & Stam 2004)。クラウゼヴィッツは,戦争は「ほかの手段による政治の継続」であると主張し,戦争は政治的目的を達成する手段であると示唆した(Clausewitz 1993: 99)。「政治的目的こそが戦争の目的であり,戦争はそれに到達する手段に過ぎない」。さらに,クラウゼヴィッツが戦争を政治的目的のために権力を行使する手段として理解していたことは,明らかである(Clausewitz 1993: 83)。「戦争は,したがって,我の意志を相手に強要する行為である」。戦争のほかの目的を強調する学者も存在するが,戦争は主として手段であるという点に関してはクラウゼヴィッツに異論のある者はいない。たとえば,デイヴィッド・キーンは,クラウゼヴィッツの主張を言い換えて,戦争はほかの手段による経済の継続であると述べた(Keen 2000)。キーンが言及したことは,戦争が経済的目的を達成する手段となりうる,ということである。このような戦争の解釈については,1990 年代に加速され,アフリカの内戦に関する研究に代表されるいくつかの研究分野において共通的なものとなった(たとえば,Ballentine & Sherman 2003 やCollier et al. 2009)。戦争の経済的な動機付けは,アフリカの軍事指導者やエリートに限られたものではない。マルクス主義理論によれば,戦争は,政治と経済の両方の目的のための道具であり,このため,戦争において,政治と経済の間に意味のある違いを見出すことはできないとされる(Heuser 2002: 138-42; Doyle 1997: 315-80)。また,戦争は手段であるという本質的な理解に立った上で,戦争は名誉または名声のために遂行されていると強調する意見もある(たとえば,Lebow 2008, 2010)。
 戦争の第2 の意味は,激しい「暴力」や大量虐殺である。マーティン・ショウは,クラウゼヴィッツが使用する「戦い(Schlacht)」という言葉が,ドイツ語としては2 つの目的をもって使用されることを指摘している(Shaw 2003)。ドイツ語で「戦い」は戦闘と虐殺の両方を意味する。ショウは,クラウゼヴィッツがこの二重の意味を念頭に置いて,この言葉を使用した可能性があることを示唆している。クラウゼヴィッツは,彼の代表作である『戦争論』のいくつかの節において,「本質的に戦争は戦闘である。戦闘は一般に戦争と呼ばれる多様な活動における唯一の有効な原則である」として,戦闘と闘争を重視している(Clausewitz 1993: 145)。ベアトリス・ホイザーは,「若い観念主義者のクラウゼヴィッツ」と「年老いた現実主義者のクラウゼヴィッツ」を分けて考えることによって,クラウゼヴィッツの見解における矛盾を読み解いた……(以下、本文つづく。写真と傍点は割愛しました)
 
 
第4章 作戦術
 
1 はじめに
 1973 年の春,最後のアメリカ兵がヴェトナムから正式に撤退した。この撤退により,米軍の20 年近くにわたったヴェトナムへの関与に終止符が打たれた。ヴェトナム戦争の期間を通して米軍は,どの主要な戦闘においても負けたことはなかった。米軍は,長期間にわたって獲得していた航空優勢と制海の双方により,北ヴェトナムのインフラと経済を大いに弱体化させた。そして,米軍は北ヴェトナムにはるかに多くの犠牲を強いるとともに,自軍の撃墜された数よりもはるかに多くの北ヴェトナム軍の戦闘機を撃墜した。それにもかかわらず,アメリカは戦争に敗北したとされている。どうしてこうなったのだろうか。どうしてすべての最前線及びすべての領域における戦術的勝利の積み重ねを,アメリカ政府及び同盟国の戦略的かつ政治的な利得に変換できなかったのだろうか。
 ヴェトナム戦争が終わり,その後約10 年間にわたって,アメリカと世界中の戦略家は,このパラドックスを考え抜いた。徐々に戦略家たちの多くは,似たような結論に至った。第1 に,戦争における戦術的勝利は,自動的に戦略的勝利に帰着するものではない。したがって,適切な戦術的勝利を獲得することがきわめて重要であって,唯一,戦略的勝利に帰着する戦闘に勝利するために戦うことにより,戦略的効果をあげることが可能となる。第2 に,戦略レベルと戦術レベルの間に新たな戦争のレベルを確立する必要があると信じられた。いわゆる,作戦レベルである。このレベルにおいて,軍の司令部は,選ばれた戦略を実現することに努力を傾注することが要求されることになった。この文脈で作戦レベルをつかさる概念である「作戦術(オペレーショナル・アート)」は,戦略上の目的と戦術上の手段を最適に調整する術(アート)として理解されるようになった。とはいえ,作戦術は現代になってから生じたものではなく,作戦術の考え方は意識的,無意識的を問わず,何らかの形態をとりながら歴史的に存在してきたと考えられる。本章の目的は,作戦術に関する原則やアイデアを描き出すことである。さらに,これら諸論の説明的価値と規範的価値について議論することである。作戦術とは何であり,それは何をするものなのか。作戦術を理解するための主要な概念とは何であるのか。どのような要因が軍事行動と海上作戦にとっての必要条件となるのか。
 このため本章の議論は,ほぼ概念的なレベルに終始することになる。本章は,すべての作戦,つまり,統合作戦もしくは,航空作戦,陸上作戦,海上作戦,水中における作戦のような単一軍種による作戦に共通する概念と事象を取り扱っている。本章に続く第5 章から第9 章までは,さまざまな理論に基づいた多様な内容の作戦術の概念が記されることになる。したがって,本章では,作戦術の定義,重心,指揮と命令,インテリジェンスを扱うことにする。第5 章から第9 章では,たとえば,戦いの原則,諸兵科連合,機動戦,消耗戦,封鎖,斬首作戦などの理論を扱うことになる。
 
2 作戦術──歴史的発展及び定義
 歴史的経緯として作戦術は,主に18 世紀後半のフランス革命期間における戦争の形態の変化と19 世紀初頭の技術開発の結果として萌芽したといってよい。1790 年代のフランスに見られる徴兵制を土台とした大規模な国民軍の登場は,戦争の遂行に重大な影響を与えた。19 世紀中葉に起こった鉄道の敷設,電信,兵器の大量生産もまた,戦争の遂行に影響を与える要因となった。これらの情勢の変化により,戦闘における指揮も,従来と異なるアプローチが求められることになった。なぜなら,国民軍が登場した後の新たな戦争は,膨大な兵士を動員させるため規模が拡大し,指揮官個人の裁量によって部隊を率いることを事実上不可能とした。現在,軍隊の部隊の構成は,18 世紀後半と比較して,より小さな単位である師団,軍団,方面軍に分割され,配置されている。このことは,今までにない組織的意思決定,関連する幕僚,計画作成手順及び指揮命令系統をともなった新たな指揮の形態を必要とした(English 1996; Vego 2009; Olsen & van Creveld 2011; Naveh 1997; Newell 1991)。
 産業革命による資本,武器,弾薬及び火薬類の大量生産は,19 世紀中葉に加速された。軍隊の拡張は,軍需品と糧食を製造し貯蔵する拠点からの補給線をより必要とした。鉄道や自動車といった新たな輸送形態の導入は,軍事に革命をもたらした。電信の導入,新しいコミュニケーションの効果的な使い方と情報共有は,軍事インテリジェンスの行動態様に影響を与えた(van Creveld 1977: 231-7; Herman 1996: 16-17)。これらの変化は,戦略レベルと戦術レベルの隔たりを大きくし過ぎたため,両者の間に位置する作戦レベルの必要性を急速に作り出した。19 世紀後半以降の戦争では,たった1 回の決戦で決着するのは稀になった。その代わりに,連続した戦闘による長期的な戦キャンペーン役が,しばしば敵を打ち負かすために必要とされた。このような戦役は,持久力,ロジスティクス,計画及び戦略目的に適合するための戦術行動を調整する能力を軍隊に求めることになった。
 しかしながら,1945 年の核兵器の導入以降,大規模な軍隊を指揮する最適な方法は,軍事組織と軍事思想家たちの関心の的からはずれていった。なぜなら,作戦術を必要とする部隊や大規模に集中した軍需品は,核攻撃時の中心的な目標となったからである。このため,作戦術の考え方は,時代遅れなものと思われた。しかし,1960 年代から70 年代にかけて,米ソ両陣営の間で大規模な核戦争に代わる代替案についての真剣な議論が始まり,米ソの作戦レベルにおける思想は,発展することになった。
 1970 年代,アメリカの作戦思想に影響を与える3 つの要因が生起した。第1に,ヴェトナム戦争中のアメリカの作戦で,戦術的勝利が自動的に戦略的効果につながらなかったこと。第2 に,兵器の技術的発展は,将来の通常型戦争に大きな衝撃を与えることが期待されたこと。とくに,1973 年の第四次中東戦争の機動と火力を駆使したイスラエル軍勝利の教訓は,兵器と戦術の関係を考える上で決定的な事例となった。第3 に,1970 年代半ばに登場した新たな米軍のドクトリンは,未成熟であり実戦に使うにはあまりにも多くの不備を有していたこと(Menning 1997: 42-3)。これらの検討の結果,米軍は,将来の戦争が通常型及び核戦争の双方で起こりうるとの結論に至った。これが,通常型の軍事作戦に関する新たな思考を生み出す必要性を促した。これは,国際舞台における核兵器の登場が作戦術の消滅と復活の双方に作用したことを意味した。1976 年7 月におけるアメリカ陸軍ドクトリンFM 100-5 オペレーションズの発表は,アメリカにとって重要な第一歩であった。この文書の発表は,古典的な軍事思想とドクトリンの発展に対する関心を一新させた。FM 100-5 オペレーションズを抜本的に見直した1982 年夏の改訂版は,エアランド・バトル構想を導入したドクトリンに変貌した。この革新的なドクトリンは,とりわけ,「拡張された戦場」という考えを導入した。この考えの重点は,主導の確保,高速機動力,小規模で自己完結型の戦闘単位による重心攻撃,戦域全般における協調的な航空及び陸上作戦の重要性に置かれた(第6 章を参照)。エアランド・バトル・ドクトリンは,多くの概念を導入した。このドクトリンは,現代の機動戦につながるとともに(第7 章を参照),アメリカにおける新たな作戦術の確立に向けた第一歩となった(Starry 1981; Echevarria 2011b: 154-6; Swain 1996: 157-61; Leohard 1991; Lock-Pullan 2006)。
 1980 年代,アメリカ陸軍によって提示された作戦術そのものと作戦術に関連する概念の定義は,数回にわたって改訂されNATO ドクトリンにも影響を与えた。この作戦術の定義は重要であり,ここで全文を引用する。

作戦術とは,戦いのデザイン,編成,統合,戦域戦略の実施,戦役,主作戦,戦闘を通して,戦略上及び,または作戦上の目的を戦域内で達成するために軍隊を巧みに使う術アートである。作戦術は,戦域の戦略とデザインを作戦のデザインに変換する。作戦のデザインは,戦術戦闘と交戦を戦域の戦略とデザインに連結し,統合する。これにより,戦術戦闘と交戦での勝利は,戦略目的を達成するという作戦の成果となる。戦略レベルや作戦レベルといった指揮が行われる段階のみが単独で作戦術に関連しているのではない。最も簡単な表現をすると作戦術は,いつ,どこで何のために主戦力が戦うのかを決定する。作戦術は,戦力の展開,戦闘への参加ないし戦闘からの撤退,連戦の順序付け及び主目的を達成するための主要な作戦を決定する。作戦術は,司令官たちが戦役計画を通して戦略目的を達成するために,兵士,資材,時間を有効に使うことを確実にしようと努める。(FM 100-5 Operations, 6-2, 1993)

この定義により,作戦術の目的は,戦略目的を達成するために効率的な方法で軍事力を用いるということが明確となった。しばしば耳にするこの抽象的な目的は,作戦術を駆使するアクターによって,具体的な作戦活動と戦術レベルでのより具体的な行動に結びつく計画に変換される。それによって,作戦術に戦略的意義が与えられる。戦術行動とは,敵と戦闘すること,または,戦闘を回避することであり,作戦成果を達成するための手段である。作戦術は,戦略目的に対し最適に貢献するため,どこで,いつ,いかなる戦闘が実施されるべきかを決定しなければならない。したがって,作戦術は,兵力の配置,使用及び個々の戦闘ないし戦闘の回避をより高次の作戦目的に適合するようコントロールする。作戦術は,指揮官に,活用できる資源である部隊,装備,及び時間を決められた戦略目的に対して可能な限り最善の方法で運用することも求める概念である。
 通常戦争のための軍事作戦と作戦術に関する新たな発展は,1960 年代から1970 年代にかけてソ連側でも生起した。この新たな発展が生じた主な理由として,当時将来の紛争においてNATO は核兵器使用に手間取るであろうことを前提としていたことがある。したがって,通常戦争型の軍事作戦と作戦術は,核兵器を使用可能とする政治決断がなされる前に地上における戦争に迅速に勝利するために重要な意味を持った。この期間中,ソ連は,西側における先進的なエレクトロニクスとコンピュータに基づいた最新の装備技術の発展を意識していた。最新装備技術の発展は,超大国間における将来の戦争結果にとってカギとなる要素であると考えられた(第6 章のRMA に関する議論を参照)。同様にこれらの要素は,通常戦争型の作戦構想と作戦術にとってのルネサンスを導くことになった(Glants 1996: 134-9; Kipp 2011: 88-9)。
 ソ連の作戦術は,比較的長い歴史を持つ。1920 年代に現れた作戦術に関する最初の思想は,「縦深戦闘(deep battle)」に関するさまざまな概念を有していた。これは後にウラジミール・K. トリアンダフィーロフ(Vladimir K. Triandafillov,1894-1931)とミハイル・N. トハチェフスキー(Mikhail N. Tukhachevsky,1893-1937)によって「縦深作戦(deep operations)」として発展した。とはいえ,近代的な作戦術の発明者は,アレクサンダー・A. スヴェーチン(Alexander A.Svechin, 1868-1938)であった。1927 年,スヴェーチンは,その著書『戦略(Strategija)』において,作戦術を戦術と戦略をつなぐ「橋」に例えた。ここでの橋とは,上級指揮官が所与の戦域において戦術的成功を戦略的成功に変換する手段を指す。具体的には,「戦場における付与された役割のなかで,共通の目的達成に向けて,機動と会戦の総体を戦役中の決勝点に位置づけることである」(Kipp 1992: 38)。このような考え方は,アメリカ側の作戦術の定義に影響を及ぼした(Triandafillov 1994; Stoecker 1998; Glantz 1991; Harrison 2001;Kokoshin 1998 を参照)。
 ソビエトのS. N. コズロフ陸軍少将の著書『士官のためのハンドブック(The Officer’s Handbook)』(1977 年)では,作戦術を次のように定義した。「総合的な戦略デザインと諸計画に応じた陸海空三軍の作戦形態を含む作戦の準備と遂行の基本に関わる戦争の術(兵術)の一部分である」(Kozlov 1977: 58)。これを踏まえると,作戦術は,戦略目的全体を達成するための統合作戦の実行と準備も包含すると考えられる。このように,作戦術は,現代における統合作戦の……(以下、本文つづく)
 
 
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