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成田和信 著
『幸福をめぐる哲学「大切に思う」ことへと向かって』
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はじめに
いったい、どのようなことが、幸福なのであろうか。快楽を享受することが、幸福なのであろうか。それとも、欲しいものが手に入ることが、幸福なのであろうか。あるいは、才能を伸ばして発揮することが、幸福なのであろうか。私は「人には、たいてい、大切に思っていることがあるが、それが実現することこそが、幸福である」と考える。この本の一番の目的は、この考えを推奨することにある。ただ、この考えをきちんと推奨するためには、この考えの意味することを正しく伝えなければならない。そのためには、少なくとも、次の二つの問いに答えなければならない。
⑴ここで言われている「幸福」とは、どのようなことを意味するのか。
⑵「大切に思う」とは、どのようなことであるのか。
さらに、この考えを推奨するかぎり、なぜこの考えが推奨するに値するのか、その理由を説明する必要があろう。すなわち、次の問いにも答えなければならない。
⑶この考えの魅力は、どこにあるのか。
この本は、二つの部からなる。⑴の問いには、第Ⅰ部で答える。⑶の問いには、第Ⅱ部で答える。そして、⑶の問いに答える過程で、⑵の問いにも答える。
今述べたように、第Ⅰ部では、⑴の問いを扱うわけであるが、この問いは、「幸福」という概念の意味に関する問いである。「幸福」という言葉は、語り手によって、また、文脈によって様ざまな意味が与えられている。私の見るところ、「幸福」という言葉は「幸福感」とか「幸福な気持ち」を意味すると思っている人が、けっこう多くいる。たしかに、そのような意味で「幸福」という言葉が使われることはある。しかし、私がここで問題にする「幸福」とは、そのような意味での「幸福」ではない。では、どのような意味での「幸福」であるのか。それは、「〈当人にとって良いことが生じている〉という事態」を意味する「幸福」である。私は、介護を必要とする九十歳になる母親と同居している。ときとして私は、何が母親にとって良いことであるのか、迷うことがある。母親は重い心臓病を抱えているので、食事の制限がある。たとえば、塩分はなるべく控えなければならない。しかし母親は、塩分を多く含む食べ物がとても好きである。母親は、気力も衰えているし、体も弱っているので、何もしないで家の中でじっとしている。ただ、食べる意欲はある。それに、楽しみと言えば、好きなものを食べることくらいしかない。だから、あまりやかましく言わずに、好きなものを食べさせてあげた方が、母親にとっては良いのかもしれない。しかし、塩分を多く摂ると、それだけ寿命が縮まるかもしれない。したがって、やはり塩分を多く含むものは食べさせない方が、母親にとっては良いのかもしれない。そこで私は、どうすることが母親にとって良いことであるのか、迷うわけである。ところで、このように迷っているとき私は、母親の幸福を考えているのではないか。すなわち、食べ物に関してどのようにしてあげることが、母親の幸福に寄与するのかを考えているのではないか。そして、その「幸福」とは、「当人にとって良いことが生じている」という事態を意味するのではないか。第Ⅰ部では、私がこの本で問題にする「幸福」とは、このような意味での「幸福」であることを明らかにする。
しかし、「幸福」とは、「当人にとって良いことが生じている」という事態を意味する、と言うだけでは、「幸福」という概念の意味の説明としては、不十分である。というのは、ここで言われている「~にとって良い」とは、どのようなことを意味するのか、よくわからないからである。「~にとって良い」という言葉も、使われる文脈によって様ざまなことを意味する。だから、この本で問題にする「幸福」の意味を明確にするためには、ここで言われている「~にとって良い」とは、どのようなことを意味するのかを説明する必要がある。第Ⅰ部のかなりの部分は、この説明に費やすことになる。
第Ⅱ部では、「どのようなことが、幸福であるのか」という問いを考える。この問いで問われているのは、「幸福」という概念の意味ではない。この問いで問われているのは、世の中には様ざまなことがあるが、その中のどれが幸福を構成する実質的な中身となるのか、ということである。冒頭で述べたように、この問いに対する私の答えは、簡単に言えば、「当人が大切に思っていることの実現が、幸福である」というものである。そして私は、この考えを「ケア型評価説」と名づける。ここで「大切に思う」と呼んでいる心的態度は、英語で言えば「care about」である。英語の「care」のカタカナ表記が「ケア」であり、また、後に述べるように、ある対象を大切に思うことは、その対象を大切なものとして評価することでもあるので、「大切に思う」という心的態度を「ケア型評価」と呼ぶことにする。日本語として使われる「ケア」という言葉には、いろいろな意味が付与されているので、本当は「ケア」という言葉は使いたくないのであるが、「大切に思う」という心的態度を表す適当な日本語の名詞が他に見つからないので、やむをえず「ケア」という言葉を使うことにする。
さて、先に述べたように私は、ケア型評価説を推奨したい。そのためには、ケア型評価説のどこに魅力があるのかを説明する必要があろう。つまり、⑶の問いに答えなければならない。ところで、「どのようなことが、幸福であるのか」に関しては、今日まで、様ざまな説が提唱されてきた。第Ⅱ部では、それらの説のうちでもとくに、五つの代表的な説を取りあげて批判的に検討したい。その五つの説とは、「快楽の享受が、幸福である」と説く快楽説、「人間の本性の発達と発揮が、幸福である」と唱える完成主義、「知識、快楽、友愛関係、自律、徳といった複数の要素の獲得が、幸福である」と考える客観リスト説、「欲求の充足が、幸福である」と主張する欲求充足説、そして、「〈ある事態を喜んだり嬉しく思ったりしていて、かつ、その事態が実際に生じていること〉が、幸福である」と唱える情動型評価説である。これらの説はいずれも、それなりに説得力がある。しかし同時に、難点も抱えている。第Ⅱ部では、まず、これらの説それぞれがどのような説であるのかを詳しく説明し、あわせて、これらの説のそれぞれが抱えている難点を指摘したい。その後で、今挙げた五つの説とは異なる、もうひとつの説として、ケア型評価説を提案する。そして、ケア型評価説の立場から今挙げた五つの説を改めて批判的に吟味し、さらに、ケア型評価説の利点を示すことで、ケア型評価説の魅力を浮き彫りにすることを試みる。しかしケア型評価説も、いくつかの課題を抱えている。第Ⅱ部の最後では、それらの課題についても触れる。
この本では、以上のような作業を行うわけであるが、その過程で、次のような問題についても論じることになる。
⑷「~にとっての良さ」とは、どのような価値か。
⑸快楽とは何か。
⑹人間の本性とは何か。
⑺欲求の充足とは何か。
私は、単なる「良さ」とは異なる、「~にとっての良さ」という価値が存在する、と考える。先に述べたように、第Ⅰ部では、「~にとって良い」という概念の意味を説明するわけであるが、その説明は同時に、「~にとっての良さ」という価値がどのような価値であるのか、その輪郭を描く作業にもなる。すわわち、⑷の問いに答えることになる。⑸の問いに関しては、快楽説を検討するときに論じる。この問いに対しては、少なくとも、三つの異なる答えが提示されている。それらの三つの答えを紹介するとともに、それらの答えのそれぞれにもとづいて構築される、三つの異なる快楽説を検討する。⑹の問いに関しては、完成主義を検討するさいに考察する。そして、完成主義は、この問いに答えることの難しさのために、困難を抱えることを指摘する。さらに、⑺の問いについては、欲求充足説を検討するときに問題にする。そこでは、「欲求の充足」は、単なる「欲求の対象(欲求されていること)の実現」とは異なることが示される。
以上のように、この本では、⑷から⑺の問いも考察の対象とする。それに加えて、ケア型評価説を詳しく説明するさいに、先に示した⑵の問いにも答える。すなわち、「大切に思う」とはどのようなことであるのかを説明する。「大切に思う」という思いは、(秩序だった)情動や欲求や注意への性向と、「大切さ」という価値の(知覚的な)認識によって構成される、複雑な心的態度である。ところで、我われがある対象を大切に思うとき、それによって、その対象は「大切さ」という価値を備える。すなわち、我われがその対象を大切に思うことによって、その対象は我われにとって大切なものになるのである。そして、その対象が「大切さ」という価値を備えると、我われはその価値を認識し、それによって、その対象を大切に思うという我われの気持ちは、さらに維持され、ときには、より深いものなる。このように、「大切に思う」という気持ちは、「大切さ」という価値を生むと同時に、その価値の認識によって維持され強化されるのである。そしてさらに、このような特性をもつ「大切に思う」という気持ちは、我われの情動や欲求や注意や意図や行為を左右し、その意味で、我われの生き方を形作るのである。このことは、ケア型評価説を説明するさいに、詳しく語る。
この本では、以上で述べたように、「「幸福」とは、どのようなことを意味するか」という問題と「どのようなことが、幸福であるのか」という問題を中心に論じるのであるが、その過程で、⑵の問いや、⑷から⑺の問いといった、幸福を論じるさいに浮かびあがる哲学的な問いについても考察を加えることになる。
(傍点は割愛しました)
Ⅰ 「幸福」とは、どのようなことを意味するのか
幸福に関して異なる二つの問いがある。ひとつは、「「幸福」とは、どのようなことを意味するのか」という問いである。そして、もうひとつは、「どのようなことが、幸福であるのか」という問いである。前者は、「幸福」という概念の意味は何か、という問いである。後者は、世の中には様ざまなことがあるが、その中のどれが幸福を構成する実質的な中身となるのか、という問いである。この後者の問い、すなわち、「どのようなことが、幸福であるのか」という問いに対しては、たとえば、「快楽を享受することが、幸福である」とか「欲しいものが手に入ることが、幸福である」とか、あるいは、「才能を伸ばして発揮することが、幸福である」といった答えが返ってくるかもしれない。そして、それぞれの答えを出した人びとの間で、どの答えが最も妥当であるかについて論争が起きるかもしれない。ところで、それらの答えが、同じ問いへの答えであるためには、そして、妥当な答えをめぐるそれらの人びとの論争がかみ合った論争であるためには、それらの人びとの間に「「幸福」とは、どのようなことを意味するのか」についての共通の了解がなければならない。すなわち、それらの人びとが「幸福」という概念の意味として心に描いているものが同じでなければならない。それらの人びとが「幸福」という概念に異なる意味を込めているとすれば、そもそも、それらの答えは、同じ問いに対する答えではなくなるし、それらの人びとの間の論争も共通の争点に関するものではなくなる。
このように、「「幸福」とは、どのようなことを意味するのか」という問いと「どのようなことが、幸福であるのか」という問いは異なる。そして、後者の問いに関する話がかみ合うためには、前者の問いへの答えに関する共通の了解がなければならない。この本の最終的な目的は、「どのようなことが、幸福であるのか」という問いに対する私なりの答えを提示することにある。読者の中には、私が提示する答えに賛同する人もいるであろうし、異議を唱える人もいるであろう。だが、今述べたように、私とそれらの人びとの話がかみ合うためには、私とそれらの人びとの間で「「幸福」とは、どのようなことを意味するのか」ということに関する共通の了解がなければならない。「幸福」という言葉は、語り手によって、また、文脈によって様ざまな意味が与えられているように思われる。そこで第Ⅰ部では、私がこの本でどのような意味の「幸福」を問題にするのかを明らかにしておきたい。とは言っても、私が「幸福」という言葉に恣意的に与えた意味を示そうというのではない。私が「幸福」の意味として説明することは、人びとが「幸福」という言葉で実際に意味していることのひとつであり、しかも、その中で最も重要なことである、と私は考える。(以下、本文つづく)