あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。
西山雄二 編著
『いま言葉で息をするために ウイルス時代の人文知』
→〈「はじめに」(pdfファイルへのリンク)〉
→〈目次・書誌情報・オンライン書店へのリンクはこちら〉
*サンプル画像はクリックで拡大します。「はじめに」本文はサンプル画像の下に続いています。
はじめに
西山雄二
二〇二〇年初頭から新型コロナウイルスの感染が拡大し、中国からヨーロッパへ、アメリカやアフリカへと世界的大流行(パンデミツク)を引き起こしている。各国で外出制限や隔離政策がとられ、情報科学技術を駆使した公共衛生が強化され、ワクチンの開発と接種が進んでいるものの、ウイルスの拡大は変異株の発生をともないながら第二波、第三波とくり返され、私たち人間のあり方を大きく変えてしまった。そうした状況を考察するために編まれた本論集では、欧米(とくにフランス)で発表された論考を訳出し、それぞれの訳者が現在(二〇二一年春)の状況を踏まえた解題を加えることで、人文知の観点からコロナ時代における人間の諸条件を問い直している。論考は新型コロナウイルスの世界的大流行が始まった二〇二〇年春におもに執筆されたもので、感染症拡大の最初の衝撃に際して人文学者たちが何を考え、何を書いたのかを生々しく伝える歴史的ドキュメントにもなっている。哲学・文学・歴史・人類学・宗教の各分野から文章を配することで、多角的な視座からコロナ渦を考察できるような構成にしている。
本稿では、新型コロナウイルスが蔓延し始めた時期の出来事に即して、ヨーロッパ(とくに筆者が専門とするフランス)でのさままざま言説について記しておきたい。
ヨーロッパでは二〇二〇年の春先に第一波のピークが訪れ、ほとんどの国や都市では厳しい外出制限をともなう隔離措置が取られた。こうした事態に直面して、ヨーロッパの哲学者たちがウェブメディアを通じて続々と発言し始めた。YouTubeでは「感染症時代の哲学(Philosopher en temps d’épidémie)」のチャンネルがフランスの哲学者らによって創設され、ほぼ連日、各国から哲学者・文学者のメッセージが掲載された。その初回の導入文は運営責任を負う哲学者ジェローム・レーブルによって次のように記されている。「政治と医療という二つの巨大な集合的身体にとって、コロナウイルスの影響はいかなるものだろうか。生命にもかかわる未確定なこの脅威を前にして、私たちはいかなる状況にいるのだろうか。不動のままで私たちはいかに生きていけばいいのだろうか。孤立した状態で、私たちは共同体の新たな形式を創造することができるのだろうか。技術はエコロジーの点で厳しく批判されているが、それでも、私たちの情動的・社会的な絆を保持するべく技術を信頼しなければならないのだろうか」。このチャンネルでメッセージは九六回分公開されたが、隔離政策の政治的批判や疫病の思想的考察にとどまらず、詩が朗読されたりもした(本論集に収録されているミシェル・ドゥギーの「コロナ化」はそのひとつである)。興味深いのは、過去の思想家・文学者の引用も多数参照されたことだ。一七世紀のフィレンツェを襲ったペスト禍に関するボッカチオ、マキャッベリ、マンゾーニの記述、インフルエンザの感染拡大に関して伝達経路の特定という地理学的課題を提唱するカントの「医師たちへの告⽰」、身体という内的要因と自然、地理、歴史の外的要因を区別して語るヘーゲルの自然哲学講義、社会秩序を瓦解させるペスト感染になぞらえて演劇の革新的な力の可能性をみるアルトーの「演劇とペスト」、ジャン・ジュネの獄中生活と文学創作の関係、モーリス・ブランショ『至高者』におけるペストの描写、ペスト禍の動乱に即してイメージ論を語るディディ= ユベルマンの「ペストをめぐるメモランダム」、生について語ることの過剰さを提起したデリダの「生き延びる」(『境域』に所収)などである。ウイルス時代の人間のあり方を浮き彫りにするために、時代を超えて人文知を参照することが有効性であることがわかった。
一般向けの「哲学雑誌(Philosophie magazine)」のウェブサイトでは特集サイトが設けられ、思想家たちのインタビューが掲載された。各新聞紙上でも哲学者や文学者らの談話が次々に掲載された。英語圏でも「クリティカル・インクワイアリー(Critical Inquiry)」誌のウェブサイトで特集サイト「パンデミックからの投稿」がつくられて、思想家らの英文テクストが一覧できるようになっており、二〇万以上のアクセスがあったという。二〇二〇年六月頃からは欧米圏でも雑誌特集も出され、新型コロナウイルスに関する書籍が続々と刊行されている。
高齢の思想家・文学者も精力的に表現をおこなったが、彼らの知性の機動力には驚かされた。九〇歳(当時)の哲学者・詩人ミシェル・ドゥギーは「コロナ化」という詩を創作し、みずからが主宰している雑誌「ポエジー」のウェブ時評欄に三月二二日に掲載した。新型コロナウイルスが二月にイタリアで急拡大し、三月にフランスにも第一波が到来したことを受けて、同月一六日にマクロン大統領が自宅隔離措置を発令した時期である。「コロナ化」では、中国、イタリア、フランスといったグローバルな感染の推移を踏まえて、各国の政治家の態度への揶揄を交えながら、困惑に向かう世界情勢を軽快な韻律で表現している。
九八歳になる哲学者エドガール・モランは「リベラシオン」紙のインタビューで、「全人類が運命共同体だとかつてないほど強く感じています」と告げる。「私は国家の命運や惑星規模の災厄に直面している気がしている。人類が不確かで見知らぬ道へと歩み出していると感じている」と述べるモランの言葉は重い。人類は生物、文明、人類という三つの危機に直面している。まず、いたるところで医療崩壊が生じており、生存の危機に曝されている。次に、移動に基づく文明がその機能不全に陥っている。ただモランによれば、「消費文明で私たちはずいぶんと軽薄で空しい商品の中毒になっているため、いまは精神的・物質的な解毒(デトツクス)の時期だ。皮相的なものを捨て、大切なもの(愛、友情、連帯、博愛)を選ぶ時期である」。そして、人類の脆弱さが顕わになっており、技術資本主義によるグローバルな統一が連帯性を欠いた相互依存状態を生み出してきたことが明らかになった。モランの力強い提言によれば、「新しいヒューマニズムなど要らない、ヒューマニズムを再生させよう。人間を神格化することのない、人間同士のヒューマニズムを。[・・・]連帯するだけでなく、不確かで見知らぬ危険な道行きのなかにいるという感情の共有がこれからのヒューマニズムに必要である」。
カタストロフィとパンデミック─出来事の時間性
これほどの規模のパンデミックはなるほど破局的出来事にみえるが、しかし、パンデミックとカタストロフィは相違した事象である。自然災害にしろ、人為的事故にしろ、「カタストロフィ(破局)」は一回限りの出来事である。カタストロフィ(catastrophe)はギリシア語katastrophē に由来し、この語はkata-(上から下まで、完全に)とstrephein(回すこと)から成る。その含意は「決定的な転換や転覆、反転」で、予期せぬ仕方で人間に降りかかる衝撃的な出来事だ。他方で、パンデミック(pandemic)は接頭辞pãn(すべて)とdemos(民衆)からなる語である。感染流行は一定地域、あるいは世界中にあまねく疫病が拡散した状態であり、一回限りの出来事という限定性はない。カタストロフィのような決定的な転換ではなく、じわじわと浸透しては突如として劇的な拡大をみせるので終わりをなかなか見定められない。治療薬やワクチンが発見されて有効な手段が講じられないかぎり、感染は終息することはないし、しかも、ウイルスは別の形へと変異して何度も反復されかねない。
作家・哲学者のトリスタン・ガルシアは、こうした感染症の状況から、私たちが遍在的な危機の状態にいると診断する。従来の危機は歴史を画する出来事として生じ、それ以前とそれ以後で時代が変化したとされてきた。たとえば、二〇〇一年のニューヨークでの同時多発テロは、テロリズムとそのスペクタクル、テロとの戦いといった諸相を変容させてしまった。ある危機的な出来事ならば歴史の流れを寸断し、その後にどんな可能性が開けるのかと未来を垣間見させてくれる。「ところが、私たちはいま、連続したカーブ(症例数や死者の数のカーブ)に釘付けになっています。カーブに従って、全体の軌道や屈折といった表現で推論しています。ですから、私にとって、問いは「隔離生活が解除されると何が変わり、何が始まるのか」ではありません。むしろ「何が継続されるのか、何の方向が変わるのか、何が増大するのか、何にアクセントが置かれるのか」です」。東日本大震災の後、福島第一原発から流れ出た放射能汚染のリスクから身を守るべく、私たちは大気中の放射線量を警戒する日々を過ごした。放射線量という数値のカーブのなかで、カタストロフィが過ぎ去っていくのを待っていた。コロナ禍において、私たちは感染者数や死者数、病床数の数値のカーブのなかで生きているように感じる。「コロナ以前/以後」といった歴史の断絶を基点とするというよりも、この危機の深化や増大、屈折の長いカーブを生きることはいかなる経験なのだろうか。
本論集では、パンデミックという出来事の時間性に関する議論が散見されるが、それそれの視点を互いに比較すると興味深い。ペーター・サンディとアレクサンダー・ガルシア・デュットマンが異なる仕方で指摘しているのは、パンデミックという出来事の捉えがたさである。
サンディの「ウイルス時代」で主題化されているのは、グローバル化した世界における新型コロナウイルスの時間性である。今回の感染症は突如到来した事象ではなく、新自由主義的な経済活動による衛生環境の解体が長年にわたって準備してきた結果である。生態系の破壊によって、ウイルスはある生物種から別の生物種へと伝染するように促されてきた。いま私たちに到来している事態はすでに長期間にわたって準備されてきたものであり、それゆえ出来事の同時性を捉えることが難しい。「現在進行中のパンデミックが暴き出しているのは、出来事が到来し、勃発するのに影響を与える速度差、出来事に穴を穿ち内部から弛ませる速度差なのである」。(本書一一四頁)
他方、デュットマンの「共犯者」では、パンデミックという出来事の構造と効果が鋭く問われている。パンデミックは歴史的にくり返されてきた事象であり、今回の出来事もある程度予見されえたはずである。では、新型コロナウイルスのパンデミックという出来事性は歴史的な予見可能性のもとで無化されるのだろうか。デュットマンの鋭敏な分析によれば、出来事というものはそもそもその認識可能性を前提としているが、一度生じてしまうと、その一回限りの新しさは予見しえたものとして身近なものに感じられてしまう。そうなると、私たちの生活をこれほど変容させてしまった出来事の驚きが見失われてしまい、すべては予測通りだったとする保守主義的な言説ばかりが幅を効かせてしまうおそれがある。
さらに、パンデミックを長期の歴史的時間性のなかで精緻に分析する歴史家ブルース・キャンベルの言葉に耳を傾けると立体的な理解が深まるだろう。キャンベルが生物考古学者や環境学者と共同しておこなった研究成果によれば、ユーラシア大陸全域を結ぶ交通網が発達していた一四世紀において、気候、疾病、社会といった異なる力学の絡み合いによって歴史的な大遷移が生じた。中世におけるペストの蔓延もこの遷移の一現象として理解できる。つまり、ペストはヨーロッパ特有の感染症だったのではなく、アジアを起源として、気候変動とともに世界に拡散した多面的な現象だったのである。パンデミックは人類の歴史を通じて頻繁にくり返されてきた現象であるが、その到来は複雑に関連する諸要因においてである。「歴史は決して繰り返されませんが、そこから学ぶべき教訓はつねにあります」(本書二三〇頁)と言い放つキャンベルから、コロナ禍の出来事の新しさと驚きに立ち返って思考する心構えを学びたい。
「家(ホーム)」の意味─不動と運動
コロナ禍の世界のいたるところで人々が強いられた経験、それは都市封鎖や外出制限によって自宅に隔離された状態である。突然生じた「自宅への流刑」(カミュ『ペスト』)を通じて、私たちは移動が制限されることの不自由さ、互いに孤立した状態の閉塞感、人々が対面して活動する現実感の欠落を感じた。もちろん、現在では情報技術メディアの発達により、音声と映像を介した遠隔交流は維持されるので、さまざまな娯楽で気晴らしをし、孤絶した状態を緩和させることはできる。ただ、これだけ長い期間の隔離状態を経験することで、自分にとっての「家」の意味を再確認した向きは多いだろう。本論集でも、カトリーヌ・マラブーとエマヌエーレ・コッチャは「ステイホーム」を通じて「家」の意味を考察している。
マラブーは「隔離から隔離へ」において、感染症拡大による自宅への隔離だけではなく、さらに社会的なものからの隔離も重要だと説く。「ステイホーム」という隔離状態からさらに隔離を洗練させることは、通常の生活では得がたい自分ならではの孤独を見出す好機ではないか。そうした孤独こそが自分ならではの活動を可能とし、自分の家を居住可能なものにするのではないか。こうした「ラディカルなロビンソン・クルーソーの経験」によって赤裸々になった自己から出発して、再び社会の意味が明らかになるのである。
コッチャは「世界規模の新たな隠遁生活を反転する」において、人間が抱く「家」への強迫観念を生態学(エコロジー)のイメージと結びつける。それは地球があらゆる生き物の家であり、この家のなかでみなが共生しているというイメージである。ただ、生物学者リンネの弟子イザーク・ビベルクのように、自然を巨大な家政的秩序と考えるなかで、その創造者たる神の存在が想定されてしまい、家父長制的な意味合いを帯びてしまうことがある。地球を家に見立てる振る舞いは、あくまでも人間の目からみて、遵守されるべき秩序を備えた場を設定し、そこに生き物たちを自宅隔離することではないのか。「私たちは、他の生き物に対して、家を離れ、家の外で暮らし、政治的、社会的な生活、家庭外の生活を営む権利を認めない。[・・・]彼らの自然状態とは彼らの生の営み全体における隔離状態である」(本書九五頁)。感染症によって自分たちの住処が脅かされていることに気づいた人間にとって、コッチャの巨視的な考察はきわめて刺激的である。
感染症拡大への憂慮に加えて、家に留まり続けることでどこか実存的な不安に駆られるのはなぜだろか。哲学者クレール・マランは長い療養生活の経験から、電話やSNSのおかげで今回の隔離生活はまだ贅沢なものだと告白する。入院患者や退職した老人の生活の日常、つまり、屋内にいて、来客がほとんどいない生活のことにみなが今回気づいたはずだ。この隔離生活の不安は他人と出会えないこと自体ではなく、自分のアイデンティティの承認が難しくなる点に由来する。マランによれば、「私たちは自分の社会的な役割に慣れていても、隔離生活によってこの役割が失われてしまいます。承認のための要因を失うのです。同じひとつの空間であらゆる人物を演じなければならないのは実に困難です。パリのアパートで、私は同時に母親、八歳の娘の先生と遊び相手、遠隔授業をする教授でいなければなりません」。私たちは日常的に移動し、さまざまな人と交流することで、社会的な立場をその都度演じている。隔離生活で移動が制限されると、私たちは同じ場所に留まったまま、異なる役割を果たさなければならない。社会生活において、移動と承認はきわめて重要な要素なのである。
移動が制限され、外出自粛が奨励されるコロナ禍の生活においては、文明の時が止まったかのようである。この停滞した状態のなかで、近代社会が未来への前進のためにつねにさらなる速度を求めていたことに気づかされる。みずからは移動しないウイルスが私たち生物を媒介(メデイア)にして移動する以上、感染を止めるためには私たちが不動でいるしかない。それでも私たちが移動するならば、情報技術メディアによって私たちの行動を管理・統制する必要が生じてくる。移動の制限を経験した私たちにとって、ベンジャミン・フランクリンの次の格言はどのように響くだろうか――「すべての人間は三つのタイプに分類される――動けない人、動ける人、動く人である」。フランクリンの区別によれば、現状の自分に満足して行動を起こさない人、状況を理解して行動する可能性を知っているのに傍観者の立場に留まる人、そして、実際に行動に身を投じて変化を起こす人がいる、というわけだ。すでに言及した哲学者ジェローム・レーブルは『不動礼賛』において、この格言を注釈して運動と不動の相違を考察している。目的地や宛先を欠いたまま、運動と不動の対立によって人間を分類するこの格言には意味が欠けており、むしろ意味が運動と不動のあいだを揺れ動く。動く者は永遠に動き続けることができない以上、ほかの二つのタイプの者とつねに表裏一体である。動ける者は動く者に近いようにみえるが、しかし、動ける者はみずからの意志や選好によって動こうとしない点で動けない者に似ている。動けない者はたえず不動のままではいられず、人間に絶対的な不動をもたらすのは死のみである。動けない人、動ける人、動く人のあいだに絶対的な相違はなく、運動と不動の対立こそが問いに付されるのだ。「不活性の事物と、動くと同時に動かないままでいられる生き物のあいだにははかない差異しかない。動かないで留まり続けることは生き物に努力と緊張をも課す。不動性と運動性はかくして対立せず、互いに差異化し、互いに入れ替わり、共謀しているのだ」。感染症対策として長い外出制限を経た私たちはすでに、不動と運動のあいだの多層的なグラデーションを体感した。動かないことはたんなる停止状態ではなく、運動に向けた潜在的な力を高める緊張状態でもあるのだ。
パンデミックと政治
新型コロナウイルスの感染拡大に対して、各国は移動の自由の制限や公共衛生対策、IT技術による情報管理など、さまざまな手を打ってきた。個人の病理現象にとどまらないパンデミックははじめから社会的な事象である。それゆえ、パンデミックがいかに政治を変え、また、政治がいかにパンデミックを活用して統治政策に適用してきたのかを問うことは重要である。
イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンはコロナ禍に関する政治的考察をもっとも早く公表した哲学者である。二〇二〇年二月にイタリアで感染が拡大し、緊急政令によって人々の公的活動は制限された。公衆衛生と健康管理を口実として全国に拡大された例外状態をアガンベンは批判し、主権的権力の無制約な行使とセキュリティ技術の遍在化が結託した状態を危惧する。人々は社会的な生活を維持できなくなり、死と隣り合わせの「剥き出しの生」に曝され、ただ毎日を生き延びるという実存的な価値しか残らなくなる。他方で、公衆衛生の名の下で公共空間が管理され縮小され廃止され、主権的権力が強いる例外状態が一般化してしまう。アガンベンはこうした閉塞状況に抗して一連の政治時評を書き続けたが、その科学的知見の不適切さ、社会陰謀論の不確かさなどから、多数の批判を受けた。ただ、パンデミックが語源的にデモス(民衆)に関わる概念である以上、政治的な考察を絶やしてはならないというアガンベンの実践的態度は記憶されるべきだろう。
アガンベンの考察に素早く反駁したのはジャン= リュック・ナンシーで、本論集に収められた二編のテクストでもその主張を理解することができる。アガンベンは主権的権力がコロナ禍を利用して永続的な例外状態をつくり出しているというが、政治権力はいまだにそれほどの主導的な力をもっているのだろうか。「標的を間違えてはならない。問われているのは、あきらかに、文明の全体なのだ。存在しているのは、生物、情報、文化の面でのウイルス性の例外化のようなものであり、これが私たちを巻き込んでパンデミック化しているのである」。アガンベンが問題視している「生政治」は地球規模で展開される技術・経済的マネジメントの一面にすぎず、諸力の複合的なネットワークが織り成す文明の視点から解釈されるべきとされる。本論集のキャンベルの表現を用いるならば、人間と自然の複雑な相互関係――「社会生態系」――から、パンデミックの現象を理解すべきと言うことになるだろう。
――つづく(注は割愛しました)