あとがきたちよみ
『プラトン『国家』を読み解く』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2021/12/17

 
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岡部 勉 著
『プラトン『国家』を読み解く 人間・正義・哲学とは何か』

「第一章 『国家』を読む難しさ」より「1 何が難しいか」(pdfファイルへのリンク)〉
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第一章 『国家』を読む難しさ
 
1 何が難しいか
 
読めない理由
 『国家』は十巻からなる大著です。文庫本二冊分の、しかも内容満載といった感じの、ソクラテス(c. 470 – 399 BC)を主人公とする対話篇です。古代ギリシア・ローマの昔は黙読という習慣はなくて音読していたそうですが、音読すると十二時間ほどかかります。このように長い対話というのは、もちろん、現実にはあり得ないものです。プラトン(427 –347 BC)はそれを承知で書いていると思います。これだけ長いと、それだけで全体を把握することが非常に難しくなります。それが問題のはじまりです。しかし、それは問題のはじまりでしかありません。
 本当の問題(本当はこれを「問題」と言うべきではないと私は思いますが)は、プラトンは(『国家』に限らず)対話篇の読み方を、読者が自分で考えなくても分かるように、手取り足取りして教えてくれたりはしない、というところにあると思います。推理小説は最後に謎解きとか種明かしがあります。しかし、そういうものを期待してもらっては困る、何を読み取るかは読者が決めることである、哲学のテキストとはそういうものである、プラトンはそう言うだろうと思います。だから、読者は『国家』篇の外部に手がかりを求めようとします。例えば『第七書簡』とかアリストテレス(384 – 322 BC)の『形而上学』とかです。しかし、前者は(仮に偽書ではないと見なすとしても)哲学のテキストではありません。また、後者はプラトンのものとアリストテレスが見なす「学説」について論じてはいますが、プラトンのテキストを根拠にして論じているのではありません。アリストテレスは、『国家』をどう読むかという話は一切していません。よく知られた、「プラトン哲学の成立」にソクラテスの影響だけでなく、ヘラクレイトスとピタゴラスの影響をも見るというような(『形而上学』第一巻第六章)、アリストテレスのプラトン理解がそもそもどのようにして成立したのかについて、ここで詳しく論じるつもりはありませんが、それがプラトン理解の歴史に悪い影響を与えてきたことは間違いないと思います。アカデメイア内部でプラトンから直接口伝された「教え」が共有されていたとする説がありますが、根拠のない憶測の類いだと思います。哲学は、「教え」ではありません。「献辞」に本書を捧げると記した、松永先生(松永雄二、1929 – 2021)の昔の学生さんたちがときどき先生に、「先生はこういうふうにお考えであると私は思っておりましたが、違いますか」と問うことがありました。それに対して先生は、たいていは素っ気なく、「違います」と答えておられたように記憶しています。哲学は「対話」ですが、「哲学的対話」というのは、手取り足取りするようなものではありませんから、相手が言っていることをどう理解するかは聞き手次第ということになります。仮にプラトンと直接対話ができたとしても、「テキスト外の資料」に依存するような読み方をしている限りは、「違います」と言われるだけだろうと思います。
 『第七書簡』とか『形而上学』のような、いわゆる「テキスト外の資料」に依存するプラトン理解の「外在主義」的な考え方が、『国家』を読めなくしている一番の障害だと私は考えます。ここでは、そういうものからはできるだけ遠く離れて、プラトンが書いたテキストをとにかく読み解く(どう読むのかを問題にする)ことにこだわりたいと思います。そういう意味では、私の考え方はいわば徹底した「内在主義」の立場に立つものと言えるかもしれません。
 『国家』は、今から二千四百年近く前に(375 BC 前後とされます)、古代ギリシア語で書かれた、間違いなく大昔の著作です。しかし、そのことが読むことを難しくする理由になる、ということはないと私は思います。確かに、当時の状況とか人物その他について、多少の基礎知識が必要になる、ということはあるかもしれません。幸い、そういうものに関しては、私が勉強をはじめたときからその恩恵にあずかっている、大先輩に当たる藤沢令夫(1925 – 2004)という先生のりっぱな翻訳があって、そこに詳しい註が付けられていますから、簡単に手に入れることができます。それに、プラトンが書き残したテキストは日常語で書かれていて、難解な哲学の専門用語が使われているということは、基本的にはないと思います(部分的に議論の余地はあるかもしれませんが)。だから、何も難しいことはないはずなのですが、もちろん、ことはそう簡単ではありません。
 
哲学のテキスト
 『国家』は「第一級の哲学のテキスト」だと先に言いましたが、『国家』を哲学のテキストとして読まない読み方もあるかもしれません。例えば、国制論とか国制史の資料として読むというような読み方です。しかし、得るものはそう多くはないと思います。他方で、現代の哲学者(他意は何もなくて、思い付きを言うだけですが、例えば現代英米哲学の研究者とか現代倫理学の研究者)は、本気で『国家』を読んだりしないかもしれません。また、プラトン研究者は(たいていは)『国家』を読むと思いますが、哲学のテキストとして読むというよりは、プラトン研究に貢献するために西洋古典学の一テキストとして読むというようなことかもしれません。そうすると、現代において『国家』を哲学のテキストとして読むというのは、よく言って変わった読み方であるということになるかのようですが、プラトンが求めているのは、もちろんそういう読み方だと私は思います。これには、正当な理由があります。
 プラトンによると、哲学というのは「魂の向け変え」のことです(これについては、第三章第3節で詳しくお話します)。この営みは、ソクラテス的な対話(すなわち「論駁」)によってのみ可能であると(『国家』篇の中程で)プラトンは主張しています。プラトンがソクラテスを主人公とする対話篇を書いたというのは、その「対話」がソクラテスの言う「哲学の方法」だからです。他に理由はないと思います。そして、『国家』もそうした対話篇の一つです。そういう意味では、『国家』をプラトン中期の作と位置付けて、前期の「ソクラテス的対話篇」とは明確に一線を画した上で、中期の「プラトン的対話篇」においてはプラトン自身の学説(イデア論)が展開されているとする、一般に流布する考え方を受け入れるというのは、本当は根拠のない思い込みを受け入れることでしかない、と言わなければならないと思います。要するに、前期であれ中期であれ後期であれ、プラトンがソクラテスを主人公とする対話篇を書いている限りは、ソクラテスの「哲学の方法」を意識しつつ「哲学のテキスト」を書いているということだと思います(「哲学の方法」をめぐっては、第三章第4節で改めて論じます)。
 しかし、『国家』篇の対話は「論駁」という形式になっていないではないかと言われるかもしれません。確かに、「論駁」ではないと言えるかのようですが、そもそも「論駁」というのは、対話相手の主張を批判的に吟味して、それを否定して終わるというだけのものではありません。例えば『クリトン』篇がそうであるように、自分たちの思いとか考えの何が残って何が残らないのかを批判的に吟味・検討して、結果として、ソクラテスの積極的な主張が示されることになる、そういうものも含まれます。『国家』篇の対話は、それに準じた批判的吟味・分析のテキストなのだと思います。
 ところで、「魂の向け変え」という営みは「無知と思い込み」からの解放を目的とするものですが、この場合に問題となる「無知と思い込み」というのは私たち自身のそれですから、プラトンのテキストが(意味のあるものとして)読めないというのは、プラトンのテキストに問題があるというよりは、私たち自身に問題があるということだとまずは疑ってみてくれ、そうプラトンは言うだろうと思います。読めない理由をテキストのせいにしてしまうと、私たちの「魂の向け変え」ははじまる前に終わってしまいます。私たちが目指すのは、自分自身の「無知と思い込み」と向き合いながら、テキストの全体を筋が通るように読み通すことです。テキスト以外の資料(例えば『第七書簡』)に依存するような読み方は、そういう考え方からすれば、プラトンの意図に反するということになります。肝心なのは、テキスト全体に筋を通せるかどうかです。それが、読解の試金石になると思います。特定の部分だけを切り取って読むことももちろんできますが、その場合は、その部分がどういう位置付けになっているのかを、ある程度は明確にすることが条件になります。とりわけこの作品は、そういう緻密さが読者に求められていると言えるほど、用意周到に作り込まれていると思います。
 以上のような考え方に基づいて、本書では「テキスト」という語を、狭い意味ではもちろん『国家』篇のテキストのことを言うものですが、もう少し広く、『国家』がある意味では当然のこととして前提にしていると考えられる、『ソクラテスの弁明』(以下では『弁明』と略記)『クリトン』『ゴルギアス』『パイドン』等を含めて言うものとしたいと思います。
 
道しるべ
 『国家』は十巻からなる大著だと言いましたが、間違いなく(そう私は言いたいと思います)、プラトンの主著と言えるようなものだと思います。主著であるというのは、この場合、自分(プラトン)はソクラテスから何を学んだのか、そもそもソクラテスとは何であったのか、哲学とは何であるのか、自分が理解したそのすべてをこの著作に託す(すべてをここで言い尽くす)ということだと思います。過剰な期待と言われるかもしれませんが、もしそういう対話篇がプラトンに一つあるとしたら、候補になり得るのは『国家』だけではないか、私はそう考えます。この著作は(おそらくは長い時間をかけて)入念に作り込まれていると思います。あまり指摘されませんが、ソクラテスと同じような目に遭わないようにするための用心ということも、実はあったのではないかと私は思います(これについては、後でもう少しお話します)。しかし、どう読めばよいかを示す「道しるべ」は、間違いなくあります。
 「道しるべ」の一つは「人間の話」です(もう一つ別の「道しるべ」がありますが、それについては第三章第2節でお話します)。全編を貫いて、「そもそも人間とはどのようなものか、人間とは何か」が問われていると思います。これを見逃さないことが肝要です。この「人間の話」に、「正義とは何か、正義は人間にいったい何をもたらすというのか」という問い(第三章第1節及び第四章第3節)、そしてさらに、「哲学とは何か、哲学(すること)によって人間はいったいどうなるというのか」という問い(第三章第2節以下)、この二つの問いが絡んできます。人間とは何か、正義とは何か、哲学とは何か、これら三つの問いにプラトンがどう答えているのかを読み解くこと(それぞれの問いに対する答えは、間違いなく見出すことができると思います)、また、それに対して自分はどう答えるのかを自分でも考えること、それが『国家』を読むということだと思います。
 通常は、「すぐれてプラトン的」と言われるような「国家論的思想とイデア論的思想」を読み取ることが『国家』を読むことである、と言われるものと思います。確かに、そういうところに目が行くようにプラトンが仕組んだ、と言えるようにも思われます。人が「理想論にすぎない、荒唐無稽な話である」と受け取ることを、あるいはそう言い訳できるようにしておくことを、むしろ狙いとした、ということかもしれません。そうだとすると、それは用心のためであったと私は思いますが、これについてはもう少し後で(第三章第2節)お話したいと思います。
 もちろん、「国家論」も「イデア論」(イデアへの言及)も『国家』に見出すことができるものですが、そこにばかり目をやると見えなくなるものがあります。「道しるべ」は間違いなくあるのに、「国家論」とか「イデア論」のまばゆいばかりの輝きに惑わされて、全編を貫く本来の主筋が見えなくなる、元はと言えば、これこそが『国家』を読めなくしている元凶かもしれません。しかし、これまで誰もがそういう読み方をしてきたではないか、それに異を唱える方がよほど荒唐無稽ではないか、と言われるかもしれません。それに対しては、今は「たとえ二千数百年の歴史が立ちはだかるとしても、異を唱えることをはじめから不可能にするようなものは何もないだろうし、少なくとも、別の読み筋があることを誰の目にもはっきりと分かるような仕方で示すことは可能だと思う」とだけ言っておくことにしたいと思います。他方、もし誰かが『国家』(という第一級の哲学のテキスト)をどう読むかということを後回しにして、例えば「イデア的世界」について(「書かれざる教説」の類いを、想像をたくましくして)論じたいと言う場合には、それは哲学することからは遠く離れた無益な営みだと、私は言いたいと思います。
 いずれにしても、問題を解決する道は、間違いなく一つだけあると私は考えます。それは、できるだけ思い込みを廃して(自分自身に対して批判的・反省的に)『国家』篇のテキストと向き合うことだと思います。ソクラテス・プラトンが考える哲学というのはそういう批判的・反省的な営みのことだとすれば、テキストがそういう営みを要求するような仕方で書かれていると想定することに、それほど無理はないと思います。
 このような『国家』に対するアプローチの仕方というものを、私は松永先生から学んだと自分では思っています。そもそも、『国家』という(誰もが名前だけは知っている、しかし誰もが遠い過去のものだと思っている)作品がそういうアプローチの仕方を要求するということについて、またその要求に(それなりに長い時間と労力を費やして)こたえようとするだけの(いや、それ以上の)価値があるということについて、私は松永先生から学んだのだと思っています(先生がどう思っておられたのか、それは分かりません)。
(注は割愛しました)
 
 
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