あとがきたちよみ
『学校組織の解剖学』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2021/12/27

 
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鈴木雅博 著
『学校組織の解剖学 実践のなかの制度と文化』

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まえがき
 
 私たちは教師の組織実践について語る際に,制度や文化といった枠組みを頼りにしがちです。これは研究者に限ったことではなく,現場の先生方にとっても,自らの実践を法令や諸規程,あるいは職位や組織形態といった制度面から語ることや「文化が人びとの行為を縛っているのだ」といった文化論的な説明を与えることが定番となっています。そうであるからこそ,学校組織改革をめぐって,「校長のリーダーシップが重要だ」「民主的な意思決定による共通理解の促進を」「職場の文化を変えることが必要だ」といった制度や文化にまつわるさまざまな声が流通しているのだと言えるでしょう。
 しかし,人びとは常に特定の制度や文化に規定されて日常を生きているわけではありません。ある制度や文化が人びとの実践を規定するのであれば,その同じ制度・文化の下にいる人びとは皆同じように行動するはずですが,現実はそう単純ではないはずです。
 もちろん,種々の調査によって制度や文化が人びとに与える影響について明らかにすることは有益な知見を蓄積してきましたし,私は本書でそれらを否定しようというわけではありません。しかし,インタビューやアンケートで「私はその制度・文化に従って行動した」と答えた人であっても,具体的な実践においては,その制度や文化の枠組みに従っていることもあれば,(図らずも)そうはなっていないこともあるはずです。
 例えば,次のような教師A と生徒B のやりとりを考えてみましょう。

01 A:その下着,ちょっと派手じゃない?
02 B:えーっ,いやらしい。なに見てんの?

 従来の研究では,このやりとりをもとにどのような検討が行われ得るでしょうか。一つには,学校の諸規程から,これを説明することが考えられます。「教師は職員会議で決定された指導基準(=校則)に基づいて指導している」,「教師は「品位ある服装」という校長が掲げた学校教育目標に従って指導している」といった説明がそれにあたります。他にも,「教師は横並び意識が強く他の教師と足並みを揃えた指導を行っている」「教師は強圧的な物言いをしないことで生徒との対立を避ける戦略をとっている」といった文化的側面からの説明もあり得ます。それ以外にも,教師の年齢や性別,着任年数,校務分掌等の属性から説明を与えることが試みられるかもしれません。
 実際の検討では,こうした説明を説得的なものにするために,インタビューやアンケート,あるいは他の観察事例や文書資料といった,より多くの,さまざまな角度からのデータによる裏付けが為されます。他方で,そもそも「下着の色を規定する「ブラック校則」は生徒の人権を無視するもので問題だ」といったように,規範的な立場から論理を展開していくことも,研究の一つの姿だと言えるでしょう。
 ただし,ここで分析の枠組みとされている制度・文化や種々の属性は必ずしもやりとりそのものと関連があるわけではありません。01 を見ても,それ単体では,そこに職員会議の決定や学校教育目標,あるいは教師集団内の同調圧力,さらには年齢・性別といった属性との関連を見出すことはできません。つまり,ここにあげた種々の要因による説明は研究者の問題関心を起点として作りあげられたものだと言えるでしょう。事後的な調査で当事者のコメントや質問紙の回答を集めたとしても,それらは研究者が持ち込んだ枠組みから自由であるとは言えません。
 他方で,私たちは本人たちに聞いてみなくても,A・B 間のやりとりを「教師が注意し,生徒が拒絶した」場面として理解することができています。しかし,それぞれの発言を字句通りに読めば,01 は事実の確認に過ぎず,02 もまた単なる質問だと言うことができるでしょう。にも拘わらず,私たちは,01を「注意」として,02 を「拒絶」として聞いています。これはいったいどういうことなのでしょうか。
 本書で分析しようと試みるのは,こういった事柄なのです。それは従来の研究が,対象から得られたデータを研究遂行上のリソースとして扱い,その収集・比較等を通して,制度や文化,諸属性を変数とした説明を与えようとしてきたこととは根本的に異なる試みです。言い換えれば,それは従来の研究が自明視し,研究の起点としてきたその事柄自体を研究のトピックとし,それが実践の参与者によってどのように達成されているのかを明らかにしていく試みなのです。
 この試みを先ほどの例に立ち返って示してみたいと思います。まず,01 を「注意」として聞くことは,私たちが{教師}という主部に「生徒を注意する」という述部を結びつけて捉えていることによって支えられています。そして,私たちは,しばしば教師が生徒の服装や通学用のバッグの色といった細かい事柄について指導をしていることも(その是非はともかくとして)知っています。A による01 の発言を耳にした時,私たちはこのようなひとまとまりの知識を想起することで,それを「注意」として理解することが可能となっています。
 ここで留意すべきは,たとえ授業中であっても,A とB の関係が常に{教師・生徒}であるわけではない点です。実際,B の発言02 は両者の関係を{男・女}として組み直すものとなっています。これにより,01 は「教師から生徒への注意」ではなく,「男から女へのセクハラ」へと転換され,非難されるべきものとして位置づけ直されることになります。B によるこのような転換は「注意」を「拒絶」する方法の一つだと言えるでしょう(ちなみに,これまでA・B の性別を明示していませんでしたが,それでも私たちはA を男,B を女として見てしまっているはずです。このこともまた{男・女}というカテゴリーにどのような述部が結びついているのかを私たちが知っていることに支えられています)。
 A・B 間の関係が常に{教師・生徒}として固定されているわけではないという事実は「A は教師だから注意したのだ」という説明の足元が不確かなものとなり得ること,そして,そうした説明が自明視してきたことが検討の対象となることに気づかせてくれます。この新たな検討においては,対象をデータとして扱い,そこから一般化した説明へと向かうのではなく,対象それ自体がどのようにして成り立っているのかを記述することが目指されます。
 こうした記述は,A が01 で何をしていたのかはA が頭のなかで何をしようと意図していたのか(教師あるいは組織の一員として,教育効果,職員会議の決定,校長の方針,同僚の視線やその他諸々の何を気にかけていたのか)とは無関係に成立します。その場においてA がしたことは,A の意図やその背後にある制度・文化やその他諸々によって確定されるものではなく,後続するB の発言に決定的に依存しているのです。
 このような研究はエスノメソドロジーと呼ばれています。これは,アメリカの社会学者H. ガーフィンケルによって創始され,その共同研究者であるH. サックスによって深化されました。本書のタイトル『学校組織の解剖学』は両者の論文を収めた『日常性の解剖学』(北澤裕・西阪仰編訳,1989 年,マルジュ社)に範をとったものです。「解剖学」は,それが対象をつぶさに観察し,その成り立ちを明らかにする点,また,それは臨床医学とは異なり,対象者に即効性のある処方を施すとは限らない点等がエスノメソドロジーに重なるものであり,本書の特色を表す適切なメタファーだと思っています。
 もっとも,ここで「即効性のある処方を施すとは限らない」と宣言してしまうと,このまえがきを見て,本書を読み進めるか否かの品定めをしようという方の講読意欲を削いでしまうかもしれません。これは,エスノメソドロジーが実践の参与者に新たに行うべき何かを示すのではなく,かれらが既にできていることに記述を与える試みであることに由来します。とは言え,私たちが日本語を話すことができるのに,その文法を精確に言い表すことができないのと同じように,組織において教師たちが実践している,その仕方をかれら自身が精確に述べることができるとは限りません。であるならば,それを記述しようという本書の試みにもいくばくかの貢献があるだろうと考えています。また,こうした知見は「これを新たに行うべき」という規範論が実践のなかでどのように作用し得るかを吟味する上で役に立つ可能性もあるでしょう。自分たちが何をどのようにやっているかについての見通しを持たずに組織改革を考えることは難しいのではないでしょうか。
 ここまで,本書がどのような研究方針を採り,それが従来の研究とどのように異なり,そしてどのような貢献を為し得るかについて簡単に述べてきましたが,先行研究との対比については第1 章で,エスノメソドロジーについては第2 章でそれぞれ詳しく論じています。調査対象校の概要と調査方法を記した第3 章を加えた三つの章が研究としての本書の序論を構成しますが,学校組織研究ではまったくなじみのない方針を採用するに至った経緯を示すために,通常の研究論文におけるそれよりも多くの紙幅を割いています。「エスノメソドロジーとは何か?」「なぜエスノメソドロジーを採用したのか?」という点を理解する上で,助けとなる箇所ですので,基本的には,第1 章から順に読み進めていただくことをお薦めします。もちろん,先に第4 章以下の具体的な分析をお読みいただき,なぜこのような研究方針を採ったのかという疑問を持った後に,第1 章・第2 章に立ち戻るという読み方をしていただいても構いません。
 第4 章から第6 章は,教師たちの実践のなかで制度や組織がどのように成し遂げられているのかを分析します。まず,第4 章では,先行研究において長く争点とされてきた学校組織における官僚制/民主制を教師による実践に即して描出します。続く第5 章では,学校評価をめぐる会議を対象とし,学校評価制度導入を正当化する鍵概念の一つであるアカウンタビリティ=「説明責任」が相互行為のなかで,どのように参照されるかに照準し,近年の学校組織改革の具体的な作動を解明します。さらに第6 章では,学校内部での慣行的不文律であり,民主制規範のサブカテゴリーである先議者規範(先行する会議で審議に関与した者は,後続する会議で事案に対する異議申立てを控えるべきであるとの規範)と組織の関係を析出します。
 第7 章では,生活指導事項をめぐる相互行為場面を対象にして,「荒れ」やそれを克服・防止するための共同歩調に関する知識や経験について教師が語る実践を検討します。
 第8 章から第10 章では,成員カテゴリーや指導事項に関するカテゴリーをめぐる教師たちの実践を分析します。まず,第8 章では,組織への新たな参入者である「新任者」であることをめぐる実践に照準します。次いで,第9 章では,校則の曖昧な表記と実際に行われていた厳格な指導のズレをめぐる議論を対象に,教師が両者の関係をどのように整合させていくのかをそれぞれの場面ごと,そして年間を通した流れのなかで描出します。第10 章では,勤務時間短縮を契機とした下校時刻見直しが主題となった会議場面を読み解き,教師が種々の規範を参照しながら,下校時刻を誰の何の問題として扱っていくのかを明らかにします。
 第11 章では,教師が組織から距離をとること(議論への消極的参加,決定事項の不履行)を正当な,少なくともやむを得ないこととして説明する実践を分析的に記述します。
 最後に,終章において,本書が解明した事柄を整理した上で,若干の含意を示し,今後の課題を確認します。
 第4 章から第11 章は学校における具体的な場面を検討したものであり,どの章からお読みいただいても構いません。従来の研究であれば,諸章が有機的につながりながら何らかの一般化された理論やモデルの提示という結論へと向かうところですが,本書はそれぞれの実践の成り立ちを記述する試みであり,こうした意味での「結論」を持ちません。本書は,組織を生きる教師の方法の論理を実践に即して記したカタログとしてお読みいただければと思います。
 学校組織研究は教育行政学・教育経営学において蓄積されてきましたが,本書はこれらに学びつつ新たな研究のあり方を模索するものです。また,その新しさはエスノメソドロジーに多くを負っています。このため,本書の読者としては,まず,学校組織を対象とした教育行政学者・教育経営学者およびエスノメソドロジスト等の社会学者を想定しています。加えて,学校現場に関わり・関心を持つすべての方に本書を手に取ってほしいと思っています。教師の皆さんに本書の知見を知っていただきたいことはもちろん,近年は保護者や地域住民,そして子どもが学校づくりの参加者となりつつあり,これらの方々に学校組織でのやりとりの有り様を知ってもらうことも重要な意味を持つと考えています。
 とは言え,本書が実際にどのような貢献を為し得るかは,読者の皆様に委ねられています。その意味では,本書が為し得る貢献も私の意図ではなく,後続の反応に依存するのだと言えるでしょう。本書が,学校組織の日常に対する新たな気づきと活発な議論の契機となることを願っています。
(傍点は割愛しました)
 
 
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