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坂井亮太 著
『民主主義を数理で擁護する 認識的デモクラシー論のモデル分析の方法』
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序章 話し合いには、誰が参加するべきか
1.数理分析でデモクラシーの最適な参加者構成を示す
政治的決定を担うべきなのは、政治家か、専門家か、素人の市民か、あるいはそれらの混合体か。2019 年から世界的に流行した新型コロナウイルス感染症に対して、日本では、主に医療分野の専門家からなる「専門家会議」とその後改組され多分野の参加者をメンバーに含むことになった感染症対策「分科会」が感染症の拡大を封じるための政策提言を行った。彼らは、市民に外出自粛を求める緊急事態宣言の発出や社会経済的影響を最小化するための判断を求められた。専門分野の近いメンバーからなる会議体(専門家会議)と多様な専門分野のメンバーからなる会議体(分科会)では、どちらがより有効な政策提言を行う傾向があるのだろうか。
誰が政治的決定を担うべきかという問いは、政治学において長い伝統をもつ政体論のテーマともなってきた。これまで、独裁政、貴族政、民主政、混合政体など複数の政治的意思決定の形態の優劣が考察されてきた。そればかりでなく、あらゆる組織の中に、政治家、専門家、素人などの属性をもつ個人がいるものだ。職場では、明日の会議に誰を呼ぶべきか。地域では、話し合いには誰が参加するべきか。行政では、審議会の構成員は誰にするべきか。それぞれの持ち場で、我々は会議の参加者の人選に頭を悩ませている。
なるほど会議の人選は政治的決定そのものである。では、その人選を、政治的配慮ではなく、集合的決定の結果を向上させることを目指して行う場合には、誰を会議の参加者とするべきか。今日、我々は話し合いの機会に接することも多いとはいえ、誰が決定に参加するべきかという問いに自信をもって答えることができているだろうか。
本書は、政治的争点をめぐる決定に誰が参加するべきかを論じるものである。なかでも、民主的決定が正しい選択を導く機能に注目する「認識的デモクラシー論」(epistemic democracy)と呼ばれる議論を展開する。なるほど政治的決定に客観的に正しい答えなど存在しないかもしれない。しかし、バイアスに基づいた判断、不合理な判断、全体最適を実現しない判断を避けることは政治的決定の正統性を維持するために重要であろう。
本書の射程は、政治的争点をめぐる決定を対象としている。とはいえ、民主的参加の概念は、政治の場面に限られない射程をもつ。民主的参加(democratic participation)とは、シドニー・ヴァーバの定義を用いれば、「決定権限を持つ者の行為に影響を与えようとする行動」であり、政治的意思決定だけでなく民間部門における非政治的な意思決定にも同様に適用される概念である(Verba,1967 : 53)。そのため、本書の議論は、ビジネスや日常生活あるいは公的部門における会議や話し合いの場面で、誰を参加者とするべきかという問いに関心をもつ読者にとっても示唆となる部分があるだろう。
話し合いの参加者は誰であるべきかという問いに対する答えは自明ではない。なぜなら、話し合いにおける望ましい参加者の構成は、話し合いを通じて実現したい目的によって異なるからである。どのような目的を設定して、どのように参加者を選び出すのか。このような問題の一部は、これまで政治理論の領域において議論されてきた。
認識的デモクラシー論
たとえ民主的な決定がなされたとしても、その決定が誤っていたのなら、我々の民主的決定への納得感は大きく目減りしてしまうだろう。そのため、政治理論の領域では、民主的決定が認識的に正しい選択を導くのかに注目する議論が近年盛んになってきている。この議論は、「認識的デモクラシー論」と呼ばれる。
ここで、認識的(epistemic)という用語は、客観的な正しさにかかわる場合に用いられる。他方、個人が行う情報処理やその多様性にかかわる場合には、認知的(cognitive)という用語を用いて区別される。
認識的デモクラシー論の提唱者たちは、デモクラシーという決定方法が、他の決定方法よりも正しい選択を導く可能性が高いことを根拠として、政治や公共政策において、市民が参加する決定を一層促進すべきであると主張している。具体的には、認識的デモクラシー論者は、デモクラシーには真理追跡機能(truth-tracking functions)や問題解決機能(problem-solving functions)といった認識的な優位性があると主張する。そして、これがデモクラシーを規範的に擁護するための根拠の一つになると主張する。
素人か、専門家か、両者の混合か
近年の認識的デモクラシー論において大きな争点となってきたのは、素人による決定と専門家による決定では、どちらが認識的に優れるのかという対立であった。我々は、専門家の決定がより正しいだろうと推測するかもしれない。しかし、デモクラシーを集合知の形成過程としてとらえる見方が、局面を変えつつある。
口火を切ったのは、「素人参加派」の認識的デモクラシー論者であった。認識的デモクラシー論者として知られるエレーヌ・ランデモアは、我々が熟議(話し合い)を通じて集合的な問題解決にあたるときには、参加者の能力は高くなくても良いと主張した(Landemore, 2013a ; Landemore, 2021)。なぜなら、参加者の間の認知的な多様性が大きければ、熟議の結果得られる集合的決定の認識的パフォーマンスが良くなるからだという。第一に、熟議を通じてそれぞれの意見の精査が行われるので、個人の能力の低さからくる誤った判断は、集団の中で補正されていく見込みがある。第二に、ランデモアは、より重要な根拠を挙げている。それは、数理モデル分析に基づくもので、個々の参加者の能力よりも、参加者の認知的多様性の方が、認識的に重要な貢献を果たすかもしれないという指摘である。
ランデモアは、「熟議と多数決が適切に利用されるとき、ほとんどの政治的課題に対して(for most political problems)、民主的意思決定手続は、専門家会議や善意の独裁者による決定といった他のどのような非民主的な決定手続よりも優れた決定手続となる可能性が高い」と主張する(Landemore, 2013a : 3)。このランデモアの主張は、熟議の数理モデルとされる「多様性が能力に勝る定理」(Diversity Trumps Ability Theorem, 以下DTA と略記する)に依拠したものであった(Hong and Page, 2004)。そのため、客観的な根拠の提示を伴った信頼性の高い主張であるかのように思われた。素人か。専門家か。その混合か。ランデモアは、勝者は「素人」であると認識的な観点から主張する。
これに対して「専門家決定派」は、ランデモアの議論は専門家の能力を軽視しすぎており、専門家の能力を生かしつつ、社会における熟議のシステムの中に専門家を位置づけることが有益であると応じる(Moore, 2014 ; Moore, 2016 ;Moore, 2017)。ランデモアが援用したDTA モデルに対しても、政治学者ジェイソン・ブレナンをはじめとする複数の研究者が、モデルの誤りを指摘したり、現実的な条件の下ではランデモアの主張は成立しないとする批判を展開し論争となってきた(Friedman, 2014 ; Thompson, 2014 ; Brennan, 2016)。ブレナンは、現実世界の政治では、有権者の能力は低く、常に多様性が存在するとも限らないと指摘する(Brennan, 2014 ; Brennan, 2016 : 185─194)。これまでのところ、「素人vs. 専門家」という対立構図の下で、素人参加派と専門家決定派との論争の決着はまだついていない。
本書は、このデモクラシーの認識的機能についての論争に対して、集合知に関する数理モデル分析を精緻化することを通じて一定の決着を与えようとする試みである。特に、本書は、「素人vs. 専門家」という対立構図の下で、これまで注目されてこなかった「混合派」の主張に新たに光を当てていく。
実践の世界では、素人と専門家の混合の実現例を挙げることができる。たとえば、日本の裁判員制度では、刑事裁判に法律の専門家ではない一般国民が裁判員として参加する形式をとり、裁判員と裁判官との協働が実践されてきた(最高裁判所、2019)。あるいは、熟議の実践においても、オランダやベルギーでは、市民・公務員・政治家・雇用者による混合熟議が実践されており(OECD,2020 : 47)、東京圏の複数の自治体や愛媛県伊予市などでは無作為抽出市民・自薦市民・公務員・議員を含めた混合熟議が実践されてきた(下山・長野・坂野、2021;篠藤、2021)。しかしながら、認識的デモクラシー論が議論される理論レベルでは、「素人vs. 専門家」という対立構図の下で、素人と専門家を一つのグループにした場合の認識的な有効性についての議論は尽くされていない(e.g.Landemore, 2013a ; Brennan, 2016 ; Brennan and Landemore, 2021)。本書では、新たに「混合派」の主張が、認識的にみて優位性をもちうる可能性を指摘したい。
デモクラシーの数理モデル分析とは
「素人vs. 専門家」の論争からも分かるように、認識的デモクラシー論において、数理モデル分析は論証上の重要な役割を担っている。認識的デモクラシー論者は、数理モデル分析の力を借りて、次のことを論証しようとする。すなわち、一人ひとりの市民の認識的能力は政治的意思決定を単独で担えるほどには高くなくても、複数の市民の能力を合わせた集合知は各個人の能力的限界を超えることができる。そればかりか、集合知は、独裁者や専門家よりも優れた判断を導く可能性すらある。それゆえ、政治的な意思決定の手続に民主的参加を促進することを、認識的にも正当化できる。以上のような認識的デモクラシー論の論証において、数理モデル分析は、集合知に対する個人の認識的貢献を明らかにする役割を担っている。
数理モデル分析の射程は、一見すると狭いように思われるかもしれない。だが、数理モデル分析は、抽象度の高い理論的分析であるがゆえに、潜在的に広い応用可能性をもっている。認識的デモクラシー論における数理モデル分析は、集合知が生じるメカニズムやその条件を明らかにする。民主的参加が認識的にみて有効となる場合の条件を明らかにすることができれば、政治制度や公共政策のあり方に対して示唆を与えることもできるだろう。さらに、集合知に関する議論の射程は、政治的決定に限られるものではなく、社会生活における話し合いやビジネスにおける意思決定に誰が参加するべきかという疑問に対しても示唆を与える可能性を秘めている。
デモクラシーの認識的機能を指摘する議論には複数のものがある。たとえば、(1)数理モデル分析を用いるもの、(2)デモクラシーを人々が社会における各種の知識を持ち寄って行う社会的探究の一環としてとらえるもの、(3)デモクラシーがもたらす社会的な学習と教育効果を指摘するもの、(4)熟議がもつ認識的効果を指摘するものなどがある(田畑、2021:8─9)。
これらの中で、本書は、(1)の数理モデル分析によるアプローチに焦点を合わせる。なぜなら、数理モデル分析を通じて、ここに列挙された現象の根底にあるメカニズムについての洞察を得ることができるからである。
認識的デモクラシー論の研究アプローチに特徴的なのは、数理モデルを利用することで、規範的議論に対して明晰性と客観性を付加できる点にある。これは、哲学的分析や概念分析が主流となっている政治理論の文脈にあって異色でもある。なるほど、数理モデル分析を使わずにデモクラシーの認識的機能を指摘する議論も、認識的デモクラシー論の重要な構成要素である。しかし、本書の関心は、デモクラシーが認識的機能をもつ根底にあるメカニズムの解明にある。本書では、この数理モデル分析を用いたアプローチを、認識的デモクラシー論がもつ強みとしてとらえ、デモクラシーの認識的機能を生じさせる条件とは何かに切り込んでいきたい。
数理モデル分析の妥当性の向上を目指して
認識的デモクラシー論者の一部は、数理モデルを援用した論証を展開する。しかし、その妥当性は、他の規範的研究者および実証的研究者の双方から多くの批判を受けてきた(e.g. Estlund, 1997 : 189 ; Estlund, 2008 chap. 12 ; Anderson,2006 ; Althaus et al., 2014 ; Brennan, 2014 ; Brennan, 2016 chap. 7)。これらの批判は、数理モデル分析の内的妥当性(internal validity)および外的妥当性(external validity)に向けられたものである。
内的妥当性とはモデル自体に誤りがないこと、外的妥当性とはモデルが現実世界の分析に応用できることを意味する。一般に、特定の実験条件の下で、因果関係が確認されるかという問いは、内的妥当性の問題と呼ばれる。さらに、この因果関係を、異なる環境条件の下でも確認できて一般化できるかという問いは、外的妥当性の問題と呼ばれる(Campbell and Stanley, 1967 : 5)。数理モデル分析についても、この内的妥当性と外的妥当性の問題が生じる。ここでは、数理モデル分析の中で設定した条件の下で特定の因果関係が観察されるか、そして、数理モデル分析で得られた因果関係を現実世界において確認できたり現状の改善に生かせるのかが問題となる。
近年、抽選で選ばれた市民が、情報、時間、対話の機会を与えられた中で公共的争点について熟議を行うミニ・パブリックス(mini-publics)という試みや、抽選で選ばれた市民を議員とする抽選制の議会の構想が提示され、世界各地でその実践が試みられている(Fung, 2003 ; 篠原、2012;Gastil and Wright, 2019 ; 岡﨑、2019;OECD, 2020)。これらは、くじ引き民主主義や民主主義のイノベーション(democratic innovations)と呼ばれ、選挙や議会制といった従来型の民主主義とは異なる新たな民主的参加のあり方を示している(Smith, 2009;吉田、2021)。このような潮流の中で、認識的デモクラシー論の数理モデル分析は、民主的参加を擁護する強力な根拠の一つとなり得るはずである。
にもかかわらず、認識的デモクラシー論は、政治理論の領域においてすら批判を受け、公共政策に応用される機会も妨げられている。その原因の一端は、援用されるモデルの仮定やシミュレーション言語に分析結果が左右されることへの疑義(内的妥当性への批判)、さらに、現実世界における応用可能性への疑義(外的妥当性への批判)にある。
認識的デモクラシー論の議論の有効性は、いまだモデル分析と理論分析の内部にとどまっているといえよう。しかし、このままでは、たとえ政治的争点をめぐる議論に参加できる者が、政治的資源や能力に優れた者に限定されてしまっても、政治家や専門家といった同質性の高い参加者からなるフォーラム(議会、審議会、各種会議)が維持されてしまっても、我々はそれらに対して認識的に批判を加えたり、新しい政治制度を提案することができなくなってしまう。
もし、認識的デモクラシー論が、集合知への貢献という観点に立って、市民のデモクラシーへの認識的貢献を数理的根拠をもって明らかにすることができれば、市民参加をさらに促進するデモクラシーのあり方を描くことができるだろう。
(以下、本文つづく。脚注は割愛しました)