あとがきたちよみ
『日豪の安全保障協力』

About the Author: 勁草書房編集部

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Published On: 2022/3/1

 
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佐竹知彦 著
『日豪の安全保障協力 「距離の専制」を越えて』

「序章 なぜ日豪の安全保障協力は発展したのか」(pdfファイルへのリンク)〉
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序章 なぜ日豪の安全保障協力は発展したのか
 
1.解明すべき問題
 
(1)「特別な戦略的パートナーシップ」

本日は,いまや日豪が,歴史の試練に耐えたその信頼関係を,いよいよ安全保障における協力に活かしていくのだということを,豪州国民を代表する皆様を前に,厳かに,宣したいと思います。

2014 年7 月8 日,日本の総理大臣として初めてオーストラリア連邦議会で演説を行った安倍晋三首相は,第二次大戦後にオーストラリアが日本に差し伸べた「寛容の精神と友情」に感謝の意を示し,両国の経済関係の発展を振り返った後で,上のように述べた。安倍首相はまた,「特別な関係」へと脱皮した日豪が,ともに「太平洋からインド洋に及ぶ広大な海と,その空を,徹底的にオープンで,自由な場として育て」ていくことを呼びかけた。演説はすべて英語で行われ,また時折意図的にオーストラリア英語のアクセントが用いられるなど,入念な準備をうかがわせるものであった。
 安倍首相の演説は,オーストラリア側にもおおむね好意的に受け止められた。首脳会談後の共同記者会見で,オーストラリアのトニー・アボット首相(当時)は安倍首相の議会演説が「並外れた(extraordinary)」ものであり,「深く,心のこもった(heartfelt)」メッセージであったと持ち上げた。また野党労働党のビル・ショーテン代表も,東日本大震災時に労働党政権(当時)が日本に対して行った支援を強調しつつ,両国の関係の深さが単なる会談や条約にとどまらないレベルにあることを強調した。
 安倍首相は2006 年に発表した著書の中で,日米豪印での安全保障協力の強化を提唱するなど,個人的にもオーストラリアとの安全保障協力を重視する政治家であった。アボット首相もまた,アジアにおける「最も緊密な友人」である日本との関係強化を図った。ある時アボット首相は,日本の歴史的な負の遺産について「どの国の歴史にも暗いエピソードがあるのだから,日本が特別に悪かったわけではない」と語り,安倍首相を喜ばせた。ともに保守的な信条を持つ両首相は,個人的にも「馬の合う」関係であったと言われる。
 首脳会談後に発表された共同声明では,両国の関係を「特別な戦略的パートナーシップ」へと格上げすることを確認し,両首脳が自衛隊とオーストラリア軍の共同運用及び共同訓練を円滑化するための協定に向けた交渉を開始することで合意したほか,防衛装備品・技術の共同研究,開発及び製造を含む日豪防衛装備品・技術移転協定に署名したことが明らかにされた。会談後には,オーストラリア側の強い希望により,アボット政権の全閣僚と安倍首相の面会が実現した。翌日,政府専用機で西オーストラリアの鉄鉱山を訪問する途上,両首脳はおよそ5 時間の移動をともに過ごし,蜜月ぶりをアピールした。それはまさに,第二次大戦時に直接戦火を交えた日豪の関係が,戦後の経済的な結びつきを経て,「準同盟」とまで呼ばれるほどに進化したことを示す,象徴的な出来事であった。
 
(2)冷戦後の日豪安全保障協力の強化
 もっとも日本とオーストラリアの安全保障協力は,2014 年に突如として強化されたわけではない。むしろ,両国の防衛・安全保障面での関係は,冷戦終結以降,ほぼ一貫して強化されてきたと言える。1989 年12 月に米ソ首脳により冷戦の終結が宣言されると,翌年3 月には早くもオーストラリア国防省の代表団が日本を訪問し,外務省との間で非公式の「戦略対話」が開催された。同年5 月には日本の防衛庁長官が初めてオーストラリアを訪問するなど,防衛当局間のハイレベル交流も開始された。1996 年2 月には防衛当局間の公式の協議も立ち上げられ,翌年の日豪首脳会談では,首脳会談の定例化も決定した。その間,自衛隊とオーストラリア軍は部隊間交流や親善訓練などを通じて,徐々に交流を深めていった。
 2001 年9 月11 日にアメリカで発生した同時多発テロ事件を契機とし,日豪の安全保障協力はより実践的なレベルへと進化した。同時多発テロ後,両国はともにアメリカの主導する「テロとの闘い」に貢献するとともに,国連東ティモール暫定行政機構(United Nations Transitional Administration in East Timor:UNTAET)における活動や,イラク復興に向けた人道支援活動,そしてインドネシア・スマトラ沖における災害支援活動等において,自衛隊とオーストラリア軍が直接協力を行った。その結果,2007 年3 月には両国の間で「安全保障協力に関する日豪共同宣言」が発表され,同年6 月には最初の外務・防衛閣僚協議(2 プラス2)が開催されるなど,二国間の安全保障協力の制度化も進んだ。さらに2006 年3 月には初の閣僚級の日米豪戦略対話(Trilateral Strategic Dialogue:TSD)が開催されるなど,日米豪3 カ国での安全保障協力も強化された。
 日豪の安全保障協力の制度化により,自衛隊とオーストラリア軍の相互運用性(interoperability)は急速に向上した。両国の共同訓練の内容は,当初こそ災害支援のような非伝統的な安全保障協力が中心であったものの,その後徐々に対潜戦や戦闘機訓練,そして強襲揚陸戦といった,伝統的な安全保障協力にまで拡大した。また2010 年5 月には物品・役務相互提供協定(Acquisition and Cross-Servicing Agreement: ACSA)が,そして2012 年5 月には情報保護協定(Information Security Agreement: ISA)が日豪間で交わされるなど,両国の安全保障協力の深化に向けた法的整備も着々と進められた。さらに両国の協力は,サイバーや宇宙の安全保障,そして途上国における能力構築支援といった新たな領域にも及ぶこととなった。
 本章冒頭でみた日豪の「特別な戦略的パートナーシップ」は,こうした冷戦後の両国の安全保障面における協力の蓄積の上に打ち立てられたものである。安倍首相やアボット首相が推進した潜水艦の日豪共同開発は実現に至らなかったものの,両国はその後もアメリカを含む情報共有や共同訓練・演習の拡大等を通じて,緊密な安全保障協力を維持した。2020 年11 月の日豪首脳会談では,自衛隊とオーストラリア軍の相互訪問に際し,行政的,政策的及び法的手続きを改善するために必要な内容を規定した「円滑化協定」が「大枠合意」したことが発表された。日本がこの種の協定をアメリカ以外の国と結ぶことは,初めてであった。
 また2015 年9 月に日本で成立した「平和安全法制」では,「存立危機事態」や「重要影響事態」,「国際平和共同対処事態」においても,一定の条件下において自衛隊が米軍のみならず,オーストラリアを含む諸外国に対して協力支援活動を行うことが可能となった。平和安全法制では,自衛隊による米軍等の部隊の武器等の防護が可能となったことにより,自衛隊は米軍艦艇等の防護を開始したが,その後その対象はオーストラリア軍にまで拡大された。2021 年6月に開催された日豪2 プラス2 では,自衛隊によるオーストラリア軍の武器等の警護任務の実施について,体制が構築され,準備が整ったことが確認された。
 こうして,90 年代初頭から開始された両国の防衛交流は今世紀に入りより実務的な「協力」へと進化し,2000 年代の後半以降に拡大と深化を遂げた。いまや両国の中には,日豪の関係を「準同盟」を超えて,公式の条約を伴う「同盟」へと格上げすることを提案する識者すらいる。また日豪の協力は,有事における共同対処を含め,すでに日米同盟と比べても遜色がないとの見方もある。はたして,冷戦後の日豪の安全保障協力は,なぜこれほどまでに強化されたのか。そこには,いかなる国際もしくは国内政治上の力学が存在したのであろうか。
 
(3)「距離の専制」
 以上の疑問は,両国の間に存在する地理的な距離と,それに起因した戦略環境の違いを考慮に入れた場合,より興味深いものとなるであろう。オーストラリアの歴史学の権威であるジェフリー・ブレイニーは,1788 年の入植後本国であるイギリスからの距離に加え,広大な国土にも翻弄されたオーストラリアの歴史を,「距離の専制(Tyranny of Distance)」と呼んだ。ブレイニーによれば,オーストラリアの歴史とはこうした「距離」の問題をどのように克服していくかということにほかならなかった。
 「距離の専制」はまた,日豪の関係にもある程度当てはまる。同じインド太平洋地域に位置するとは言え,東京からシドニーまでの距離はおよそ7800 キロメートルもある。単純計算すると,オーストラリアの最新鋭の「ハンター」級フリゲート艦(50 ノット)がシドニー湾を出発してから東京湾に到着するまでに,およそ1 週間を要することになる。第1 章でより詳しく論じるように,こうした「距離」や戦略環境の違いは,対外的な脅威に対する日豪の認識の差異を理解する上で,一つの重要な要素であった。
 実際のところ,国家間の「距離」は,アジアにおいてアメリカとの同盟以外の安全保障協力が長らく発展してこなかった要因の一つでもある。NATO 研究者として名高いジョン・ダフィールドによれば,アジアの安全保障環境を規定した大きな要因が,地続きのヨーロッパ諸国と異なり,国家間が海によって隔てられているという地政学上の特性であった。こうした地理的特性ゆえに,アジア諸国の間では共通の脅威認識や安全保障上の相互依存関係が醸成されず,NATO 型の多国間の集団防衛機構が発展しなかった,とダフィールドは主張する。
 こうした指摘は,第二次大戦終結から半世紀以上経った今日においても,依然として一定の妥当性を持っているように思われる。インド太平洋地域では日米豪や日米豪印といった「ミニラテラル」と呼ばれる小規模な安全保障枠組みが生まれたものの,NATO のような集団防衛機構はいまだに存在しない。むしろ,異なる価値観や脅威認識,そして文化的基盤を持った国々による「多様性」こそが,インド太平洋地域を特徴づける一つの要素になっている。
 とくに周辺に北朝鮮や中国,ソ連に韓国といった,領土問題を含む数多くの係争国の存在する日本に対し,その種の問題を抱えないオーストラリアは,日本よりもはるかに安定的な戦略環境にいたと言ってよい。またオーストラリアは日本と自由や民主主義といった基本的な価値観を共有しているとはいえ,両国の歴史的なルーツや文化的な背景は大きく異なっている。そもそもオーストラリアにとって日本は,第二次大戦時に唯一その国土を脅かした「敵国」であった。だからこそ日本の軍事大国化を懸念する声は,1980 年代までオーストラリアのなかで根強く存在していたのである。それにもかかわらず,冷戦終結直後から日豪の安全保障協力の強化に積極的に取り組んだのは,日本というよりも,むしろオーストラリアのほうであった。そのことを,どのように理解すれば良いのであろうか。
 
2.先行研究と理論的視座
 
 日豪の安全保障協力については,これまで日本語・英語を含め数多くの論文が発表されてきた。しかし,こうした本書の疑問について体系的に論じたものは,必ずしも多くない。それでも,本書の問いに関連してそれらの研究を整理すれば,以下の3 つに大別されるであろう。
 
(1)中国の台頭と脅威の増大
 第一に,両国の安全保障協力を,台頭する中国とその脅威に対する「ヘッジ」(ここでは,「備え」の意)もしくは「バランシング」として位置づける見方である。著名な日本研究者であるジェフリー・ホーナンによれば,日本の対中政策は1972 年から1996 年の「純粋な関与(pure engagement)」から,1996年から2010 年にかけての「ソフト・ヘッジ」,そして2010 年以降の「ハード・ヘッジ」へと変化してきた。そこにおいてホーナンが挙げている証拠が,日米同盟の強化に加え,オーストラリアやインドといった民主主義国家との連携の強化である。
 ホーナン同様著名な日本研究者であるクリストファー・ヒューズによれば,とくに2006 年に誕生した第1 次安倍晋三政権以降の日本は,中国に対する伝統的な「関与(engagement)」政策からの転換を図り,アメリカやオーストラリア,そしてインドとの軍事的な協力を通じて中国に対する「バランシング」戦略を展開してきた20。同様に,古賀慶は2010 年の尖閣沖における中国漁船と海上保安庁の船舶の衝突事件以降,日本が対中政策を「バランシング」へと転換したとする。そこにおいても,日本とオーストラリアの安全保障協力の強化がその重要な証拠として挙げられている。
 本書は,こうした見方に異論を唱えるものではない。むしろ,日豪の連携に中国への対抗という側面があったことは,まぎれもない事実である。第4 章以降で見るように,とくに今世紀に入り日豪の政策決定者は将来的な中国の台頭を相当に意識するようになっていたし,またそうした懸念が両国の二国間もしくはアメリカを含む三国間の安全保障協力の強化に向けた重要な要因の一つとなっていた。
 しかしながら,中国の台頭やその脅威に着目した議論は,そうした要因が顕在化する以前から,日豪の安全保障協力が徐々に進んできた理由を説明できない。すでに見たように,防衛面での交流を含む日豪の安全保障協力は,すでに冷戦終焉直後から行われていた。そのことを,中国に対する「バランシング」や「ヘッジ」という概念で説明することは困難である。
 また,これらの研究は主として日本側の意図に注目しているため,オーストラリア側がなぜ日本の「ヘッジ/バランシング」に加担したのかという点については,明らかにしていない。次章でより詳しく見るように,冷戦期から冷戦後の日豪の対中脅威認識には,両国の異なる地政学的な環境や対中関係によって,大きな隔たりが存在した。とくに中国と歴史問題や領土をめぐる問題を抱える日本とは対照的に,オーストラリアは2010 年代の後半に入るまで,中国と良好な関係を維持していた。それにもかかわらず,日豪の安全保障協力は,冷戦後ほぼ一貫して強化されてきたのである。
(以下、本文つづく。脚注は割愛しました)
 
 
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