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『アフリカから始める水の話』

 
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石川 薫・中村康明 著
『アフリカから始める水の話』

「はしがき」「第1章 アマンズィ・アインピロ――水は命(冒頭)」(pdfファイルへのリンク)〉
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はしがき
 
 印象派の巨匠、「光の画家」モネは自然や人を優しい光で包みこんだ。赤いけしが咲く丘の道を行く母と子を見守るような青い空と白い雲、一面の雪景色の中で輝く一羽のカササギ、あるいはセーヌ川で舟遊びをする人々にふり注ぐ夏の光、そして睡蓮の池面に映る柳と空。100年前、光を探し求めていたモネがついに池でつかまえた光は、水であるかの如く、空気であるかの如く、じっと見つめていると光と水はまるで私たちのごく自然なパートナーであるかのように見えてくる。現に60年前、宇宙から初めて地球を見た人間、ガガーリンは「地球は青かった」と報告して人々を驚かせたが、今では宇宙ステーションから、ひいては月からも青と白に輝く美しい地球のカラー写真が送られてきて、私たちは光に包まれた「水の惑星」地球の姿をいつでも見ることができる。ところが、実は地球にある水のほとんどは塩水であって、淡水はわずか2・53%しかない。それどころか、淡水の大半は北極、南極あるいは深い地中や高い山の上にあり、人間が使える水は地球上の水の0・01%でしかない。となれば、水を私たちの自然なパートナーだと思っていたのはなにか錯覚だったのではないだろうか。
 私たちは、何億年も前に遠い祖先が海の中で誕生して以来、水とは切っても切れない仲にある。人間も、動物も、植物も、水なしには生きていかれない。襲いかかるイギリス軍と勇猛果敢に闘ったことで知られるズールー王国の戦士たちの子孫は、今でも「水は命─アマンズィ・アインピロ」と言い、その言葉は南アフリカの玄関口ヨハネスブルグ空港に大書されている。現に水は日々の渇きをいやし、やがて農耕を可能ならしめ、農耕は定住そして集落を生み、やがて四大文明が大河の畔に生まれた。人々は天水以上の水を求めて水道橋を作って都市が栄え、灌漑水路を引いて定住の地を広げ、水の上で風の力を借りて船で遠くまで出かけていくことも覚えた。川や海は国造りのための交通インフラとなり、またある時には通商の道ともなり、遠い国の人々が交易を通じてコミュニティが生まれた。けれども、今から400年ほど前のこと、一天俄かにかき曇り、海が闇に覆われた。アジア人が発明した火薬と羅針盤を悪用したヨーロッパ人によって平和の海とコミュニティはかき乱され、ついには砲艦によって海洋帝国というものが出現した。勝者は正義が勝ったと誇り、敗者は不条理の前に沈黙するか滅びるかの道をたどった。
 水はエネルギーも人間にプレゼントしてくれた。水車で水を汲みあげて農地や町に水を供給したり、水車小屋で粉を引いたりすることから始まり、そしてついに水と火を組み合わせることを思いついた。蒸気機関が生まれ、産業革命以降人々は科学や医学を飛躍的に進歩させていき、ダムをつくって洪水を抑え、水源から取りたいだけ水を取り、近代化という経済的繁栄の中で水道や工業用水として思い切り水を使い、そしてきれいにすることなしに川に戻した。科学技術や医学のすばらしい進歩の恩恵を受けるうちに、19世紀のはじめには10億人しかいなかった人間は2011年には70億人になり、2050年には100億人近くになる。地球という限られた空間に生きる人間は、たった250年の間に10倍になろうとしているのである。そうこうするうちに、もしかすると人間たちは水や自然と共生するという知恵をどこかに置き忘れてきたばかりか、母なる大地、母なる大河、母なる自然、という畏怖と敬愛を忘れてしまったようにすら思えてくる。
 しかし気をつけなければならない。子どもを愛する母親は、具合が悪いとは決して自分からは言わないものなのだから。増え続ける子どもたちが好き勝手にしている間、子どもたちに気づかれないようにそっと体を横たえる時間が少しずつ増えていき、やがて井戸で水を汲むのも、床から起き上がるのもつらくなり、はっと子どもたちが気づいたときには静かに微笑みながら、もう目をあけることはなく横たわっているのだから。何も言わずに、沈黙のうちに、まるでレイチェル・カーソンの『沈黙の春』のように。
 科学技術の進歩と素晴らしい経済的繁栄。そう謳歌する人に尋ねたい。なぜ日本のような美しいはずの国においても水を介する残酷な悲劇(四大公害病のうち3つ)が起きたのか、そして世界に目を向ければ、なぜ21世紀になって20年以上たつというのに今なお25億人の人間はトイレが自宅はおろか近所にもなく、10億人を超す人間は清潔な水とは無縁な生活をし、多くの国で年端もいかない女の子が1日6時間もかけて「たった」3杯の水、しかも泥水、を汲みに遠い水場まで歩かなければならないのだろうか、さらには、なぜ世界有数の大河で魚影が消え始めているのだろうか、と。
 この本は、2018年に開発経済学者の小浜裕久氏とともに著した『「未解」のアフリカ』(勁草書房)のある意味続編とも言いうる。そのアフリカの歴史と開発の本は、「歴史と正義は勝った者が書く」ということは今も昔も世界中でそうなのだが、しかしアフリカについてはあまりにもアンフェアではないかとの強い思いをもって書いた。その本を出版してしばらくしてから、次は「水」について書いてみたらと小浜さんに言われたとき、これまで訪れたり住んだりした世界のさまざまな土地で見聞きした水のこと、水について教えてくださった多くの方々からうかがった話、仕事でご縁があった水のこと、血縁や地縁がある人が子どもの頃から話してくれた水にかかわる昔話、そのようにご縁とご恩がある方々の顔を思い出しながら、古今東西人間が水とともに歩んできた道を振り返ってみようかと思い至った。ただ書くからには、どちらかと言うと陽が当たらなかった人たち、繫栄への道の犠牲にされてしまった人たちの悲惨と悲嘆、忘れられているかもしれない先達、強者の正義の前に立ちすくんでしまった人たち、苦労惨憺して偉業を成し遂げた人たち、限られた字数の中でそのようなことをなるべく書いてみたいと考えた。それとともに、日本が歩んできた道も振り返りながら、私たち人間は母なる自然への畏怖と敬意をそろそろ思い出すべき時期にきているのではないかと、問いかけてみたいのである。
 この本を書くと決めたとき、かつての同僚で砂漠の国で水のプロジェクトで苦楽を共にした農業土木の技師、中村康明さんを執筆に誘おうと考えた。当時、中村さんは農林水産省から派遣され、水資源灌漑、農業土地開拓、環境などの分野の支援を担当しており、この本に書いたナイル川沿いの農業用水の水枯れ対応などは中村さんとその先輩である日本の農業土木・農村振興技術者たちの知恵と人脈によって実現したものである。この本では、水と土に生きる人々の目線で、日本各地に残る先達の偉業をコラム形式で紹介してくれている。
 中村さんはとうの昔に原稿を仕上げていたのだが、石川はいつもの悪癖が出て筆のスピードにむらがあり、当初考えていた予定よりもずっと遅くなってしまった。実は執筆中、小浜さんはもとより、世銀高官として活躍された浅沼信爾さんにもひとつ章を書きあげては原稿を読んでいただき、コメント・ご叱声を頂戴した。その上で勁草書房の宮本詳三さんにもドカンとコメントをいただいて、ようやく何とか出版にこぎつけた。小浜さん、浅沼さん、宮本さん、中村さんの忍耐強さがなければ、この本が陽の目を見るには至らなかったと思う。ただただ感謝するばかりである。
 細心の注意を払ってこの本を書いたが、思わぬ勘違いや間違いがあるかもしれない。お気づきの点があればご指摘いただければ幸いである。また、この本は政治的主張には一切無縁のものであること、執筆内容については両著者個人の考えであって現勤務先や元勤務先の立場や意見とは関係がないことを念のため申し添えたい。
 
2022年2月
石川 薫
 
 
第1章 アマンズィ・アインピロ─水は命
 
1 水と人間
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。世中にある人と栖と、又かくのごとし。たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き卑しき人のすまひは、世々を経て尽きせぬ物なれど、是をまことかと尋ぬれば、昔しありし家はまれなり。或は去年焼けて今年作れり。或は大家滅びて小家となる。住む人も是に同じ。所もかはらず、人も多かれど、古見し人は二三十が中に、わづかに一人二人なり。朝に死に、夕に生まるゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。」
 平安時代末期から鎌倉時代初期に生きた鴨長明は次から次に流れ下る河の水に母なる自然の永遠を思い、その中の泡を見てはかない人生を思って無常を説いたと昔学校で習った。
 くだって明治時代には、城が落ちて久しく時が流れても「千代の松枝」は枯れていない情景を土井晩翠が「荒城の月」として詠い、滝廉太郎の憂いに満ちた美しい曲とともに日本中で愛され、歌われ、さらには日本の代表的な歌曲として海外に紹介されてきた。
 冬の間山に降り積もった雪や年間を通しての降雨のおかげで日本では河の水が枯れることはないし、松を枯らしてしまうほど長期間にわたって雨が降らないこともない。日本の原風景とも言える水田が広がる里の景色は何よりも雪解け水や梅雨の豊かな水を前提とし、またかつては大名の位が米の石高で表され、納税も米、侍の給与も米、という次第で大阪堂島市場が発達し、ひいては世界で初めて大阪堂島で先物取引が発明されるなど、日本の資本主義は米のおかげで実に古い伝統があるというのも歴然たる事実である。それはまた、元をたどれば豊富な水のお蔭と言っても過言ではあるまい。
 今日の京都の年間降水量は1523ミリ、鎌倉の年間降水量は1408ミリであるが、よくよく考えてみれば、「湯水のごとく」という表現をほかの国では聞いたことがない。それほどに水が豊かな日本では、江戸時代の三世紀に及ぶ太平の世、すなわち治安の良さと相まって、時に水争いは見られたにしても基本的には「水と安全はタダ」という意識がごく普通のこととして久しく私たちの中にあるのではないだろうか。
 翻って、日本から6時間かけて東南アジアに飛び、乗り換えてさらに12時間近くインド洋の上を飛んでようやくたどり着く南アフリカ共和国のヨハネスブルグ空港。飛行機から降りて空港のパスポート審査場に向かう大きな階段の正面の壁に「Amanzi-ayimpilo, Water is Life」(水は命)と大書してある。そこは、ほかの国の多くの空港では「Welcome」(歓迎)と書いてあるような場所である。Water is Life が最初の歓迎の言葉とは……、ここはアフリカなのだ、南アフリカは豊かな国とはいえ、水こそが生きる礎なのだと厳しい大自然の現実を突きつけられる一瞬である。
 南アフリカ共和国という国は自然も街も美しい。ヨハネスブルグ空港を出ればここはアメリカのカリフォルニアかと見まごうばかりの高速道路が地平線めがけて走っていることに驚き、街に入ればヨハネスブルグは高層ビル群の大都会、その近くにある首都プレトリアはジャカランダが咲き乱れる閑静なたたずまい。悪名高きアパルトヘイト時代が去った今ではアフリカ系、ヨーロッパ系、マレー・インドネシア系、インド系などいろいろな民族が仲良く暮らしているようにも見える。ところが、南アフリカ共和国の第一の特色であるこの複雑な民族構成を紐解けば、アフリカ大陸の最南端で繰り広げられたオランダ人対コイサン人、イギリス人対オランダ人、イギリス人対ズールー人などの凄惨な戦争のみならず、アジアでのオランダ人対ジャワ人、イギリス人対マレー人、イギリス人対インド人など、ヨーロッパ人の世界侵略の縮図ともいえる歴史の結果であることに複雑な思いを抱かざるをえない。なにしろ、そうした歴史の行き着いたところとして、住民を「人間」と「準人間」に分けたとしか呼びようがない非道徳的で無慈悲なアパルトヘイトという人種差別制度を国家機構の根幹に置いたのであるから。そのあまりの冷酷さと非人道性に世界中が憤激してついに制裁を課した結果国として立ちいかなくなってアパルトヘイトが廃止され、27年間も牢獄につながれていた人種差別撤廃運動の指導者ネルソン・マンデラ氏が1994年に大統領に選出された。マンデラ氏はこのような悲しい歴史や怨念にとらわれることなく、逆に、多様性、虹の国、真実追求と和解、といった積極的な思考と政策で見事に南アフリカ共和国を生まれ変わらせ、広くそして深く尊敬を集めた。ところが、カリスマと哲学的尊厳に満ち満ちた指導者マンデラ大統領が1999年に引退し、その跡を継いで虹の国をなんとか守り抜こうと奮闘したターボ・ムベキ大統領は2008年に政敵ズマに敗れてしまった。その頃すでに、南アフリカ共和国には隣国モザンビークで20年近くにわたった内戦が終わった後の余剰武器と不法移民がどっと押し寄せ、治安の悪化対策に悪戦苦闘していた。そうした状況の中で成立したズマ政権のもとでの南アフリカの社会と国家は汚職や腐敗にまみれるに至り、せっかくこれまで空の虹に向かって登ってきた丘からずるずると滑り落ち始め、ただただ悪化し続ける治安のみならず、各界における中間管理職の圧倒的不足などから、虹がどんどん色あせてしまった。ヨハネスブルグは世界有数の銃器犯罪の都市と化し、また組織・建物・設備・機器を維持管理するという「常識」が消滅したかのごとく電球が切れたままの信号機が現れ、ひいては高級ホテルのシーツに穴が開いているありさまになってしまった。
 消えていくかに見えたのは虹ばかりではなく、虹の正体である水もまた生まれた後どう育てるかという課題に直面しているかのごとくであった。水が生まれたときの大きな喜び、それはマンデラ政権の下で推し進められていた国民皆に何とか水を届けようという政策によって生まれた。1999年1月、ムベキ副大統領(当時)と橋本龍太郎元総理を乗せたヘリコプターが、首都プレトリアからおよそ100キロ東方のクワ・ンデベレ地区のクワ・ムランガ村に向かって飛んでいた。眼下に広がるのは水のないアフリカの赤い大地、その先の目的地クワ・ンデベレ地区はアパルトヘイト時代黒人が押し込められていた黒人居住区であり、それがゆえに白人政権によってまともには水道がひかれていなかった。カネがなかったからではない。南アフリカは石油を除けばあらゆる鉱物資源に恵まれた豊かな国であり、現に美しい芝生と花々に囲まれた白人の高級住宅地はヨーロッパの郊外よりも美しい。そうした中、水をまともには引かないという政策は、アパルトヘイトという制度が「有色」人種を「準人間」としか位置づけていなかった、人間の尊厳などと言うものを認めていなかった、その事実を痛烈に感じさせる証左であった。なればこそ、マンデラ政権はさまざまな開発政策を打ち出す中で水を重視し、クワ・ンデベレ地区での給水整備を日本に依頼、その日はムベキ副大統領自ら橋本元総理を招いて水道の開通式典が現地の村で開かれたのである。式典において水道栓から水が出た瞬間、花火が上がり、伝統的な衣装で人々は踊り出し、喜びを爆発させた。
 ところが、それからあまり時を経ないでクワ・ンデベレ地区での給水計画は当初計画の4割程度が実現したところで終了してしまったと報告されている。水供給の権限と機能が中央政府から地方政府に移管されたこと、計画当初の同地区の年間人口増加率7・5%を踏えた人口推移見通しが過大だったこと、その結果の需給バランスなどの判断に起因するとされる。「水は命」なのだから、人々に届けば喜びが爆発する。また旧黒人居住区の住民たちの人間性を回復したいという新しい国家の最重要課題であれば、なおさらのこと世界中が応援したいと考えた。しかし、水のみならず国家というものはなによりもインスティテューション(国家の機構や制度)が機能して初めて人々に喜びを届けることができるというのもまた、厳しい事実である。それは人種差別という政治意思に基づく意図的なインスティテューションの欠損の場合でも、夢を追う中での立案・維持管理能力の未熟によるインスティテューション不全の場合でも、深く考えるべきことを示しているのではないだろうか。
 日本の約3・2倍(122万平方キロ)の面積を持つ南アフリカ共和国は、アフリカ大陸最南端に位置し、気候は海岸線と内陸部の高原地方で異なり、また砂漠から湿潤気候と多岐にわたる。各地方の年間降雨量は次の通りである。西部海岸線はナミブ砂漠の南端であり海岸町のポート・ノロスでは35ミリ。南西部海岸線のケープタウンは地中海性気候で505ミリ、南部海岸線は地中海性気候と西岸海洋性気候の中間に属し、ポート・エリザベスで625ミリ、東海岸のダーバンは温帯湿潤気候で1010ミリである。国土のほとんどは高原地帯で、その西部に位置する北ケープ州のアピントン(標高835メートル)では185ミリ。北部のナミビアおよびボツワナとの国境地方はカラハリ砂漠の南部をなしている。高原中部のキンバリー(標高1200メートル)は435ミリ、東部のヨハネスブルグ(標高1700メートル)では705ミリ、そして国の東北端のクルーガー国立公園では565ミリである。
(注は割愛しました。以下、本文つづく)
 
 
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