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あとがきたちよみ
『重要なことについて 第1巻』

 
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デレク・パーフィット 著
森村 進 訳
『重要なことについて 第1巻』

「序論(サミュエル・シェフラー)」「序文(冒頭)」(pdfファイルへのリンク)〉
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第2巻のたちよみはこちら→→《『重要なことについて 第2巻』「訳者解説」》
 

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序論
 
サミュエル・シェフラー
 
 緻密に論じられており真に独創的な本書において、デレク・パーフィットは実践哲学の最も基本的な諸問題のいくつかに取り組んでいます。本書はそれぞれ三部からなる二つの巻から構成されています。本書の中心をなす第Ⅱ部と第Ⅲ部は実質的な道徳の争点を取り扱うものですが、この部分はパーフィットが二〇〇二年十一月にカリフォルニア大学バークレイ校で行った全三回の〈タナー講義〉から来ています。第Ⅰ部と第Ⅵ部では、パーフィットはこのバークレイの講義でカバーしなかった争点を取り扱っています。第Ⅰ部は理由と合理性についての広範な議論で、これは第Ⅱ部と第Ⅲ部の中の道徳に関する彼の主張の背景を与えます。第Ⅵ部は、理由と合理性の両方に関する主張を行う際のわれわれの規範的言語の利用が引き起こすメタ規範的問題を取り上げます。
 パーフィットのバークレイの〈タナー講義〉に応答した三人のコメンテイター――トマス・スキャンロン、スーザン・ウルフ、アレン・ウッド――は、第Ⅳ部で彼らのコメントの改訂版を提出します。それに加えて、バークレイの時には参加者でなかったバーバラ・ハーマンが本書のため特別に書いたコメントを寄稿しています。パーフィットはこれらのコメントのすべてに第Ⅴ部で答えます。彼とコメンテイターたちとの間のやりとりは、主としてバークレイの講義から来た部分に焦点を当てています。
 パーフィットは道徳に関する部分で、道徳哲学の領域を再確定しようとします。この分野の授業を受ける学生は通常次のように教えられます。――帰結主義者とカント主義者との間には根本的な意見の不一致がある。前者は行為の正しさはの帰結全体だけの関数だと信じているが、後者は――しばしば「定言命法」の何らかのヴァージョンに言及して――われわれは帰結主義的に最善の結果がもたらされるか否かにかかわらず果たさねばならないある義務を負っていると論ずる。帰結主義者の見解もカント主義者の見解も多くのバリエーションと洗練を容れると認められているが、両者の間の区分が深くて根本的だということは、ほとんどの帰結主義者とカント主義者を含む、ほとんどの哲学者の認めるところである――。
 本書の第Ⅱ部と第Ⅲ部におけるパーフィットの一次的な目的は、この想定を掘り崩して、われわれが相互に敵対者だとみなすことに慣れている複数の立場の間に驚くべき収斂があると証明することです。パーフィットはまずカント自身の道徳哲学の厳正な検討から始めますが、その中には定言命法やその他のカントの中心的な道徳観念の多くの、彼によるさまざまな定式化が含まれています。カントの倫理学の著作、特に『道徳形而上学の基礎づけ』は道徳哲学の歴史の中で最も広く論じられているものの一つですが、これらのテクストへのパーフィットの取り組みは豊かで新鮮な観察と洞察をもたらします。
 パーフィットの序文からも明らかなように、カントに対する彼の態度は複雑でたやすく要約できません。彼はカントを「古代ギリシア人以来最大の道徳哲学者」(第1巻259頁)と呼び、「わずか四十ページの花火の滝の中で、数世紀間の哲学者を全部集めたよりも多くの、新しい実り豊かな観念をわれわれに与える」(同202頁)と言います。しかしながらパーフィットはすぐに、「カントがそれほど多くのことを達成できた原因である資質の一つは、首尾一貫性の欠如だ」(同202頁)とつけ加えます。多くの解釈者ははっきりとカントの見解の批判者か擁護者として現われますが、パーフィットのアプローチはそれとは違います。彼はカントのテクストを、優れた同時代人の観念に与えるのと同じ真剣さをもって取り扱うに値するが、その多くは明確化か改訂を必要とし、そのいくつかは単純に使い物にならない、主張と議論と観念の宝庫として取り扱うのです。パーフィットはこれらの広範な主張と議論と観念を検討し、精査にさらしますが、それは焦点が定まっていることと分析力の強さによって注目すべきものです。パーフィットの一次的な目的はカントを擁護することでも批判することでもなく、彼の観念のどれを用いればわれわれは道徳哲学において進歩できるのかを確定することです。結局のところ、パーフィットの本当の目的は進歩なのです。カントの定式の一つを改訂すべき理由を説明する際にパーフィットが言うように、「偉大な哲学者たちの著作から学んだ後で、われわれはもっと進歩しようとすべきだ。巨人の肩の上に立つことで、われわれは彼らよりもさらに遠くを見ることができるかもしれない」(同332頁)。
 パーフィットはカントの思想の中で、彼が特に重要だとみなし支持する用意のあるいくつかの要素を特定しますが、それにはいくつかの重要な改訂と追加がついています。しかしながら、これらの観念の内容と含意の解釈の仕方においてパーフィットは他の指導的な解釈者たちとしばしば意見が異なります。おそらくこのことは、「普遍的法則の定式」として知られる定言命法のヴァージョンの取り扱いにおいて一番明らかでしょう。パーフィットが言うように、定言命法のこの定式は実にたくさんの深刻な反論にさらされてきたので、他の点では共感を示す解釈者の多くも、これは正と不正を区別するのに役立ちうる行動指導原理としてはほとんど価値がないという結論に至ってきました。多くの指導的なカント学者が、定言命法の他の定式の方が豊かで啓発的だという結論に達してきたのです。
 パーフィットは対照的に〈普遍的法則の定式〉の中に大きな可能性を見出します。支配的な解釈に逆らって、彼はこの定式は「役に立たせることができる」と主張し、「全体的にカント的なある仕方で改訂すれば、この定式はめざましく成功する」(同325–326頁)と論じます。実際、パーフィットはこの定式を適切に改訂したヴァージョンは「カントが見出そうとしていた、道徳の至上の原理であるかもしれない」(同377頁)とまで言っています。
 パーフィットが支持する〈普遍的法則の定式〉の改訂ヴァージョンは「誰もが、その普遍的受容を誰もが理性的に意志できるような原理に従うべきである」というものです。一種の普遍的な選択あるいは合意に訴えかけるこの定式は、「契約主義」の一形態としての資格を持っています。そしてパーフィットはこれを「カント的な契約主義の定式」と呼びます。このように解釈されると、カント的な立場は契約主義の今日のヴァージョン、特にそれら自体が広い意味でカント的な発想を持ったヴァージョンとの比較を誘います。ジョン・ロールズが無知のヴェールの下で選ばれるであろう原理に訴えかけたことはその一例です。もっともロールズは、この道具をほとんどもっぱら社会の基本的構造のための正義原理の選択のためにしか適用しませんでした。この同じ道具がもっと一般的に道徳原理の選択に適用できるかもしれないという考えを、ロールズはかつて『正義論』の中で一時的に持っていたのですが、彼はこの考えを追究しませんでした。しかしながらパーフィットはこの考えを厳しい批判にさらし、これは道徳の一般的説明としてはトマス・スキャンロンが発展させたヴァージョンの契約主義よりもはるかに有望でないという結論に達します[51節] 。
 パーフィットの言い方では、「スキャンロンの定式」は「誰もが、誰も合理的に拒否できない原理に従うべきである」とするものです。少なくともいくつかの解釈によれば、普遍的受容を誰もが理性的に意志できる原理とは、誰もが合理的に拒否できない原理とまさに同じものだということになるだろうから、〈スキャンロン的契約主義〉と〈カント的契約主義〉とは一致する、とパーフィットは論じます。契約主義のこの二つの形態が一致するという可能性は大して驚くようなことではないと思われるかもしれません――もっともパーフィットとスキャンロンは、両者が一致する正確な範囲について意見が異なるのですが。それよりも驚くべきことは、契約主義と帰結主義の間の関係に関するパーフィットの評価です。
 すでに述べたように、カント主義と帰結主義との間の対立は深くて根本的なものだと普通考えられてきましたし、今日の契約主義はロールズのものもスキャンロンのものも、かなりの程度まで、帰結主義に対する説得的な代替案を明確化したいという欲求が動機になっています。ところがパーフィットは、カント的契約主義は実際には「規則帰結主義」を含意していて、これは「誰もが、その普遍的な受容が物事を最善にさせるであろう諸原理に従うべきである」とするものだ、と論じます。誰もが普遍的な受容を理性的に意志できる諸原理とは、まさにこれらの「最善化的」規則帰結主義の諸原理である、と彼は主張するのです。従って〈カント的契約主義〉と〈規則帰結主義〉とを結合して、彼が〈カント的規則帰結主義〉と呼ぶものを作ることができます。「誰もが最善化的諸原理に従うべきである。なぜならこれらの原理だけが、普遍的法則であることを誰もが理性的に意志できる原理だからである」(同450頁)。この立場は人々が従うべき諸原理に関する内容においては帰結主義的ですが、われわれがこれらの原理に従うべき理由の説明においては帰結主義的というよりもカント主義です。われわれがそれらの原理に従うべきであるのはなぜかというと、それらの普遍的な受容が誰もが理性的に意志できることだからであって、帰結主義者なら言うであろうように、究極的に重要なことは物事が一番うまく行くからではありません。
 〈カント的契約主義〉は〈規則帰結主義〉を含意し、そして〈カント的契約主義〉のあるヴァージョンは〈スキャンロン的契約主義〉のあるヴァージョンと一致するのですから、三つの立場のすべてもまた結びつけることができます。その結果生まれる「三重理論」は、「ある行為が不正であるのは、最善化的で、それだけが普遍的に意志可能で、合理的に斥けられない諸原理が、そのような行為を否認するときだけである」(同451頁)と主張します。パーフィットの信ずるところでは、立場の一致のこれらのさまざまの可能性から出てくる結論は、カント主義者と契約主義者と帰結主義者との間に深い意見の不一致があると考えるのは間違いだ、というものです。そうではなくて、「これらの人々は同じ山に別々の方向から登っているのだ」(同458頁)。
 この中心となる議論を展開する際、パーフィットは理由と合理性に関する実質的な主張に多くを依拠しています。パーフィットが検討する諸理論のすべては、人々がさまざまな事柄を欲したり行ったりするための理由の種類と、諸個人の行動がいかなる条件の下で合理的あるいは理性的であるのかとに関する主張を行います。従って、これらの理論についてのパーフィットの評価の多くは、この種の異なった主張の持つ力の評価からなっています。パーフィットはこのことを認識して、道徳に関する部分の前置きとして、これらのトピックに関する彼自身の見解の詳述と弁護を加えています[第Ⅰ部]。
 多くの哲学者は、行為についてのわれわれの理由はすべてわれわれの欲求によって提供されると信じています。われわれの現実の欲求、あるいはわれわれが理想的状況の下で持つであろう欲求を最もよく実現することなら、それが何であれ、われわれはそれを行うべき理由を一番多く持っている、というのです。パーフィットが「主観主義の諸理論」として分類する、欲求に基礎を置くそのような諸見解は哲学の中でも外でも大変有力ですが、パーフィットはそれらは深いところで見当違いだと信じています。そしてそれらに対する彼の批判は徹底的です。それらの見解はひどくもっともらしくない含意を持つだけでなく、最終的には「砂の上に築かれている」[98頁]、と彼は論じます。それらの見解が含意するところは、われわれが持つ理由はわれわれが理由なしに持っている欲求からその規範的な力を引き出している、ということだが、そのような欲求はそれ自体ではわれわれに理由を与えることができない、と彼は論じます。すると結局のところ、欲求に基づく見解が含意するのは、われわれは行為のための理由を何も持たない、ということです。そしてもっと根本的には、われわれは自分が実際に気にかけていることのいずれについても気にかけるべき理由を持たないという意味で、何も実際には重要でない、ということでもあります。
 パーフィットはこれらの「荒涼たる」見解を斥けて、われわれはその代わりに価値に基づく客観主義を受け入れるべきだと論じます。この説によると、行為のための理由を提供するものはそれらの行為が現実化あるいは実現する価値(あるいは彼の言い方では、ある事柄をそれ自体のために行うに値するものたらしめる事実、あるいはある結果を善いものや悪いものたらしめる事実)です。このように理解すると、合理性に関する判断よりも理由に関する判断の方が根本的だということになります。というのは、パーフィットの見解によると、われわれが理由あるいは表見的理由に応えるときに、われわれは理性的だからです。また、われわれの信念が真であるならば、われわれがなすべき善い理由を持つことを行っているときにわれわれの行為は理性的だ、ということになります。これは実践的合理性に関する人気のある説のいくつかとは対照的です。後者はたとえば、実践的合理性を期待効用の最大化と同一視したり、実践的な不合理性を非一貫性の一形態として解釈したりする説です。
 トマス・スキャンロンがその寄稿部分で述べているように、理由の方が合理性に先立つという考えはカントの見解とも衝突します。カントにとっては、定言命法の権威も内容も、理性的行為の要請によって理解されるべきものであって、人々が持つ理由についての何らかの独立のとらえ方によって理解されるべきものではありません。スキャンロンが「理由に関するカント的構成主義」と呼ぶカント的見解について次のように述べている通りです。「理由(もっと厳密に言うと、人が理由とみなさなければならないもの)に関する主張は、理性的行為に関する主張、つまり、人が自分自身を理性的行為として見ることと矛盾せずに取れる態度に関する主張に基づいていなければならない。正当化がこれと反対の方向で、理由に関する主張から合理性の要請するものに関する主張へと進むことは決してない」(第2巻119頁)。
 パーフィットはスキャンロンと同様、理由に関するカント的構成主義を斥けます。そしてスキャンロンが指摘するように、パーフィットが収斂すると証明しようと努める道徳理論のすべては、「人が持っている理由とそれらの相対的な力という、独立して理解可能な考え方をまず前提とした、『人が理性的に意志することができる』という観念に訴えかける」ような仕方で築きあげねばなりません。このことは、これらの理論をカント自身の理論から、またクリスティン・コースガードのような今日の何人かの有力なカント主義者の見解からも、区別するものです。パーフィットが認めるように、彼は「理由」という、原始的で「定義できない」観念に依拠し、そして還元不可能に規範的な真理が存在するということにも同時にコミットしているために、彼の見解はコースガードが「独断的理性主義」と名づけたものの一ヴァージョンになっています。そのような彼の見解は、コースガードのようなカント的構成主義者だけでなく、さまざまの形態の自然主義や非認知主義のようないくつかの極めて異質なメタ倫理学上の見方をとる論者からも抵抗を受けるでしょう。
 それゆえパーフィットは第Ⅵ部で規範性に関する彼のとらえ方を説明し擁護しようとします。彼は自らが「非形而上学的・非自然主義的認知主義」と呼ぶ見解を支持しますが、これは還元できない仕方で規範的な真理についてわれわれが知っていると言われる、ある直観的信念に訴えかけるものです。この見解は現実の時空の外にあると想定された部分に関する主張を行うという意味でのプラトン主義ではありません。またそれが直観に依存するからといって、規範的事実は知覚に類似した心理的能力を通じて把握されると示唆しているわけでもありません。われわれは正しさとか合理性といった規範的性質の因果的な影響を受けた結果として、これらの性質の存在を探知するわけではありません。そうではなくて、われわれは数学や論理学の真理を理解するのと何か同じような仕方で、規範的な真理を理解するのです。実際のところ、数学や論理学の推論自体、われわれが信ずべき理由を持つことに関する規範的真理を認めてそれに応えるということを含んでいる、とパーフィットは論じます。たとえば、pであるということと、もしpならばqであるということがともに真だということは、qであると信ずべき決定的な理由をわれわれに与える、とわれわれは認めます。これらの真理がわれわれの信ずべきことに関する真理であるのと同じように、われわれがなすべき理由を持つことについても真理がある、とパーフィットは主張します。
 むろんパーフィットは、彼の意味で還元不可能に規範的な真理の存在を受け入れない哲学者がたくさんいるということをよく知っています。ニヒリストとエラー理論家は、すべての規範的主張は偽であると主張します。自然主義者は、規範的事実は自然的事実に還元できると主張します。非認知主義者は、規範的主張は人間生活の上では重要だが、事実の言明として機能しているのでは全然ないと主張します。パーフィットはこれらの立場の影響力ある多くのヴァージョンを論じて批判しますが、その中にはサイモン・ブラックバーン、リチャード・ブラント、アラン・ギバード、リチャード・ヘア、ジョン・マッキー、バーナード・ウィリアムズの見解が含まれます。彼の論ずるところによれば、これらの見解のいずれも、われわれの思考の規範的な次元を十分に説明できず、そのような見解によれば規範性は幻想にすぎないことになり、ただ消えうせてしまう、というのです。結局パーフィットは、このような見解はすべてニヒリズムに向かう、そしてニヒリズムは還元不可能に規範的な真理があると認めることに対する唯一の真正な代替案である、と信じているように見えます。彼はまた、規範性に関する「実在論」に対するコースガードのカント的反論にも説得されません。彼女の主張と反対に、彼はこう断言します。――規範性はその起源を意志に持っているのではない。その逆に、われわれが信じたり欲したり行ったりすべき理由を持つことに関する、還元不可能に規範的な理由の存在がその起源である――。
(以下、本文つづく)
 
 
序文
 
 本書には要約があるから、私はここで本書の内容についてほとんど述べない。本書は長いが、その中にはいくつかの短い本が含まれている。第Ⅲ部の中の重要なことは何一つ第Ⅱ部に基づいていないから、第Ⅰ部と第Ⅲ部だけを読むこともできよう。主として倫理学に関心がある人なら、第六章から第十七章までだけを読むこともできよう。主として理由と合理性とメタ倫理学に関心がある人なら、第Ⅰ部と第Ⅵ部だけを読むこともできよう。
 
 シジウィックは自らの単調な大著『倫理学の方法』をいかにして書くに至ったかを述べる際、自分はカントとミルという「二人の師」を持っていたと言う。私の二人の師はシジウィックとカントだ。
 
 カントは古代ギリシア人以来、最大の道徳哲学者である。シジウィックの『倫理学の方法』は、私の信ずるところでは、かつて倫理学について書かれた最善の本だ。プラトンの『国家』やアリストテレスの『倫理学』のように、それよりも偉大な業績である本は存在するが、シジウィックの本は、重要であり真でもある主張を他のどの本よりも数多く含んでいる。シジウィックがプラトンやアリストテレスやヒュームやカントほどには偉大な哲学者でなかったにもかかわらず、彼らよりもよい本を書けたのは驚くべきことではない。シジウィックの方が後に生きたからだ。ホメロスやシェイクスピアよりも後の詩人や劇作家はこの二人よりも優位に立つわけではないが、哲学は進歩するから、後に生まれた哲学者は優位に立つ。
 
 シジウィックもカントも、ともに弱点も欠点も持っている。たとえばシジウィックは時として退屈で、カントは時として腹を立てさせる。これらの弱点の存在を認め、そしてわれわれがそのために失望したり意欲をなくしたりすべきでない理由を述べることによって、私はいくらかの人々がシジウィックの『倫理学の方法』とカントの数冊の本を読むか再読するよう説得できるだろう。
 
 カントとシジウィックはすばらしく対照的なペアだ。たとえば自分自身の業績を論ずるにあたってカントはこう書く。

批判哲学は、理性の道徳的・実践的目的だけでなく理論的目的をも満たそうとする抵抗できない傾向に自信を持ち、いかなる見解の変更も、いかなる修正も、その他いかなる形態の再構築も、その余地がないと確信しなければならない。『批判』の体系は十分に確定した基礎によっており、永遠に確立している。それは未来のあらゆる時代の人類の高貴な目的にとっても不可欠であると示されよう。

 シジウィックはこう書く。

本書は何一つ解決しないが、一人か二人の人の考えをいくらか整理できるかもしれない。

 カントは極めて独創的である。いくつかの崇高な主張を行い、激しく情熱的だ。シジウィックは自分がこれらの資質に欠けているということを知っていた。彼は友人にこう書いている。――「私は自分自身を批判することが好きだ。そしてこの点について以下の定式化をした。

長所:常に考え深く、しばしば精妙だ。一般的に分別があり不偏的だ。対象に正しい観点からアプローチする。
短所:筋道立てて整理することが下手だ。文体において堅苦しく、議論において本当に印象的なところや独創的なところがない。」

 シジウィックはまた、自分の「冗漫で難解な退屈さという恐ろしい欠陥」にも触れている。
この最後の文句はあまりにも厳しすぎる。シジウィックの本は長く、そしてその中のいくつかの章は今では無視できるが、冗漫ということはない。シジウィックはめったに同じことを繰り返さず、多くの重要な点を簡潔に、かつ一度だけ述べる。またシジウィックの本は難解でもない。彼の主張と議論の中には複雑なものもあるが、ほとんどすべては明快に書かれている。
 
 シジウィックの退屈さはもっと多くの議論を必要とする。ホワイトヘッドはシジウィックの『方法』にすっかりうんざりして、そのため他の倫理学の本も一冊も読もうとしなかった。しかしケインズはシジウィックの回想録と書簡集を読んだ後で「私はこれほど退屈な本にこれほど引き入れられたことがない」と言った。イングランド国教会を論じてシジウィックは書いている。

ケンブリッジで私はそれを何かこういうものと見るのに慣れている。つまりかつては生きて成長していたが、今では複雑な建物の中でよくわからない意味を持っている柱か支え壁であるというだけの理由で存在しているが、誰も今すぐそれを壊そうとはしないものだ。だが私はここでは、水から上がった大きな魚を見ているような気がする。スムースに動きながら、陽気に成功への大道を進んでいる魚を。

 さらに二つの文章を引用しよう。

疑いもなくイングランドの男たちは主として異常な時に恋に落ちるようだ。――読書会とか、海岸とか、外国のホテルとか、クリスマスとか、ともかく何か外的な状況あるいは支配的な感情が永遠の氷を溶かす時に。残念なのは、この一時的な雪解けが長続きしないと、すべての利益が失われてしまうということだ。交差した二つの生涯の線がおそらくは永遠に離れてゆき、一層強い霜がおりてくる。
 
私は人間性の重荷を贅沢な生活という膝の上に置いていて、その結果その重荷をあまり感じていない。結局のところ、パスカルは実際正しかった。――もし人が無限の疑念を抱くならば、それがはらわたの中に水のように、骨の中に油のようにはいりこむならば、それは悔恨に苦しみ独房の中で生きるべきで、四七年産のポートワインやW・G・クラーク[ケンブリッジ大学の一九世紀後半の公定演説家]のさわやかな弁舌の中にあるべきではない。私は自分の部屋にはいると、奇妙な恐ろしい感じに打たれる。それがあなたに手紙を書く理由だ。だがまた―― もしこの「時間は短い」という意識を強くなるままにしておくならば、それは全生涯を情熱的な一瞬に包み込むように思える。
  世界が私の衝動を感ずるか、私が死ぬかだ[出典不明]
 こんなことを言って死んだ二流の人々のことを考えてみよ――そして――誰が気にするだろう?
  蝶々も死滅を恐れるかもしれない[ブラウニングの詩 “A Toccata of Galuppi’s” XIII]
 これは私には奇妙な気分だ。だが今日トランピングトンで私はクモを殺して「これも知覚がある」と言った。私は複雑な知覚以上の何物だろうか?

 シジウィックは人を楽しませることもあった。そして彼の会話は「陽光きらめくさざ波の小川」と描写された。しかし『方法』の初版にはほんのいくつかの冗談しかなく、そのうちのいくつかをシジウィックはその後削除した。だがこの本の多くはうまく書かれている。たとえば、

「自分自身にしか従わない」という理想が〈代表民主政〉によって近似的にでも実現できると考えることは、一層明白な不条理である。というのは、代表議会は通常国民の一部だけによって選ばれるし、個々の法律は議会の一部分だけによって可決されるし、自分が投票した一人のメンバーに反対して議会の過半数が通過させた法律にその人が合意したなどと言うのはばかげているからである。

 あるいはもっと生真面目に、

〈義務のコスモス〉はかくして実際には〈カオス〉に至り、理性的行動という完璧な理想を形作ろうとしてきた人間知性の長きにわたる努力は、不可避の失敗へと運命づけられてきたということが明らかになる。

 この壮大で暗鬱な主張はカントの激しさをいくらか持っている。カントについて書かれた別の文章もそうだ。

私は、自分のすべての義務を神の命令であるかのようにみなすという道徳的必然性の下に自分自身が置かれていると考える、という方便に頼ることができない――何かそのような〈至上の存在〉が実在するという思弁への資格も持たないのに。私はとるべき理由のない思弁的な真理を実践的目的のために信ずる義務を全然感じない。その程度といえば、これらの言葉が記述しているらしい心の状態を想像さえできないほどである――哲学的絶望の暴力的発作の際の一時的な愚かしい非合理性としてでなければ。

 多くの名文句は全部引用するには長すぎる。そのような文章の一つは次のように終わっている。

利己的な人は、広い関心が与える高揚と拡大の感覚を欠いている。彼は一個人の幸福よりも有望な諸目的に向けられた活動に継続して伴う、もっと安定した穏やかな満足感を持てない。彼は共感の入り組んだ反射に依存する独特の豊かな甘美さを感じられないのだが、その共感こそ、われわれが愛し感謝する人々のために行う奉仕の中に常に見出されるものである。利己的な人は、彼自身の生命のリズムと、自分自身の生命が取るに足らぬ一部であるにすぎないもっと大きな生命のリズムとの間の不調和を、一千ものさまざまな仕方で感じざるをえない。

 別の文章はこう終わっている。

「汝邪悪であれ」[ミルトン『失楽園』第4巻110行]と言って、それにふさわしく自分の行為の恐るべき非合理性をわずかに曖昧に意識していた――というのは、自分が感嘆されるべき者になれる唯一のチャンスは、今到達している下降の道の極にしかないという間違った想像のために曖昧にされているのだが――者でさえ、率直で首尾一貫した邪悪さの中にあるに違いない。

 シジウィックは友人に、自分の本は「思考の厳格さ」を達成しようと努めているから「いくらか無味乾燥で読みにくくならざるをえない」と警告した。しかしこの厳密さはしばしば見事に表現されている。たとえば友情を論ずる個所でシジウィックは書いている。

〈常識〉が、すべての密接で強い愛着を見る時の感嘆とすっかり同じではない共感、そして〈常識〉が、その愛情の崩壊を見る時の不満とすっかり同じではない残念さ……

 ドライだとはいえアイロニーの鋭さを持った文章も多い。たとえば、

子どもはその生存を作り出した人々に感謝すべきだと言われるかもしれない。しかし生活を幸福にすることなしの生命だけでは、価値が疑わしい恵みであって、生命の受け手への配慮なしに与えられたときには、ほとんど感謝を引き起こさない。
 
AをBよりも幸福にすることについては何の正しさもなさそうだ――その原因が、Aがコントロールしない状況がまず彼を幸福にしたというだけのことならば。
 
すると〈功利主義〉の結論は、入念に述べると次のようなものになりそうだ。――〈ある行為を秘密にする方がその行為を正しいものにする〉という見解それ自体も比較的秘密にしておかれるべきであり、また同様に、〈密教的道徳は便宜にかなっている〉というドクトリン自体も密教にしておかれるべきだ。
 
本当に透徹した批判というものは、特に倫理学では、ブラッドレイ氏が決して習い覚えなかった入念な共感の努力と、彼が維持することができないらしい平静な気質とを要求する。
 
[この本は]決定的なように見えるが、論争的すぎることによって敗北している。この種の破壊的な攻撃の中には、少なくとも公正さを気取るところがあるべきだ。

 シジウィックはそのアイロニーのために、実際には秩序紊乱的であるときにも堅苦しく見えるかもしれない。たとえばバーナード・ウィリアムズが、性道徳に関するシジウィックの議論は時には少々勇敢だが「純潔という観念をかなり無批判に利用している」と書いた時、ウィリアムズは誤解していた。シジウィックは確かに「では〈純潔〉Purity が禁ずる行動は何だろうか?」と書いたが、彼の書いていることを注意して読むならば、彼の回答は「何もない」というものだということがわかる。イングランドで一八七四年に出版された本で、性的快楽をそれ自体のために楽しむことに何の道徳的反論もないと――慎重な表現をしているとはいえ――論ずるのは、少々勇敢だという以上のことだった。
 人々がシジウィックは退屈だと感ずるとき、彼らはシジウィックの文体ではなく彼の最大の哲学的長所の一つに反応していることが多い。シジウィックは日記の中でこの長所についてうまいことを言っている。

コントとスペンサーを読んだところだ。前からいつも、彼らの知的な力と勤勉さに感嘆し、彼らのばかげた自信には驚き以上のものを感ずる。私には二人とも自己批判ということの意味を知らないように思われる。これは彼らの卓越性と切り離せないものかどうかわからない。確かに私は自分の自己批判がたくましい気迫ある著述への妨げになっているとわかっているが、その一方で、私の著作がいくらかでも持っている価値はそのおかげだと感じている。

 シジウィックは自分の見解への反論の力を人並みはずれてよく理解した。シジウィックがある論文を擁護するのを聞いてウィリアム・ジェイムズは言った。

シジウィックは時にはいらだたしくなるほど率直な反省を示した。人は自分の敵に対してそれほど公正である権利を持たない。

 たとえばシジウィックは論敵の本を論じて次のように書いた。

私は本書をできる限り賞賛したい。……これはすぐれた能力を持った著者による書物である。……とはいえ――彼は私には全く間違っているように思われる。私は彼の理論をふさわしい尊敬をもって取り扱うことが難しい。疑いもなく、私も彼の眼にはそのように映るだろう。そしてわれわれのいずれも間違っているのだろうか? 本書は倫理学について私をかなり憂鬱にさせた。

 これらの美徳のため、シジウィックの書いたものは読みにくくなることがある。一つの問題は、C・D・ブロードが書いたものだ。シジウィックは、

休むことなく純化し、限定し、反論を取り上げ、それに答え、その回答に対するさらなる反論を見出す。それぞれの反論と回答と再反論と再回答はそれ自体として立派なもので、著者の鋭敏さと率直さを限りなく証拠立てる。しかし読者はいらいらして、議論の筋を失いがちになる。机から頭を上げて、これまで感心し続けながらたくさん読んできたのに、今やほとんど何も覚えていないことに気づくのである。

 『倫理学の方法』をわれわれが最初に読むときの印象は、そこに刺激的なものがほとんどないから、ある意味では最悪だ。だがこの本を再読するたびに、われわれは以前見落としていたいくつかの新しいよい論点に気づく。それは少なくとも私が見出したことだ。
 
 シジウィックは自らを批判してこう書いている。

私は独創的でない。私は毎日自分の思考を一層低く評価する。

 この評言は厳しすぎる。シジウィックはいくつかの点で独創的だ。しかし彼の偉大さはそこにはない。カントやヒュームのような他の哲学者はもっと独創的で輝かしい。これらの哲学者はニュートンやアインシュタインのようなもので、明々白々たる天才だ。シジウィックはもっとダーウィンに似ている。彼は「ほとんど天才の域に達するほどのよいセンス」を持っていると言われた。ブロードが言うように、『倫理学の方法』の中では「倫理学のほとんどあらゆる主要問題が極端に鋭く論じられている」。そしてシジウィックは極めてたくさんのことについて正しい。彼は古代と近代の倫理学の中の快楽主義・利己主義・帰結主義という三つの重要な主題について最善の批判的説明を与えた。またその本の全四部の中で一番長い部分で、彼は多元主義的な非帰結主義の常識道徳についても最善の批判的説明を与えている。シジウィックは間違いも犯していて、そのうちのいくつかに私は注の中で言及するが、私の信ずるところでは、その数は多くない。シジウィックの『倫理学の方法』はこれらの事実のために、倫理学に関心を持つ誰もが読み、記憶し、そして他の人々も読んだと推定できる、最善の書物になっている。
 
 シジウィックへの私の恩義はたやすく述べることができる。私が哲学の大学院生になった理由の一つは、いかにして自分の人生を過ごすべきかを考えていた時、本当に重要なものが何かを決めにくかったという事実がある。私は哲学者たちがこの問題に答えて賢くなろうとしてきたということを知っていた。私が失望したことに、私を教えてくれた哲学者と私が著作を読むように言われた哲学者のほとんどは、「何が重要か?」という問いには真の解答がないか、それどころかそもそも意味がないと信じていた。しかし私はシジウィックの本を古本で買って、彼が少なくともいくつかの事柄は重要だと信じていたということを知った。そして私が道徳哲学者の問うべき他の問題や解答のいくつかについて最も多くを学んだのはシジウィックからだった。
 
 私は今やもう一人の師であるカントに向かう。私が最初にカントの『道徳形而上学の基礎づけ』を一九六〇年代に読んだ時、私はこの本が魅力的だが曖昧だと思った。それから三十年後私がこの本とカントの他の本の大部分を再読した時、私は意外にもカントの倫理学にとりつかれた。それから二、三年の間、私はそれ以外のことをほとんど考えなかった。
 
 私がカントにとりつかれたことが私にエネルギーを与えたとはいえ、このエネルギーは最初ほとんど全く否定的なものだったと告白すべきだろう。私はカントが天才だということを疑わない。しかし私は他の多くの人々と同様、カントの主要な主張のいくつかにも、彼の哲学のやり方にも、深く反対している。私がカントにそれほど反対する点に言及し、私の態度がどう変化したのかを述べることによって、何人かの人々に、私がそうしかかったようにカントを無視しないよう説得することができるかもしれない。
 
 カントはシジウィックが欠いているいくつかの重要な資質を持っているが、シジウィックが持っているいくつかの重要な資質を欠いてもいる。シジウィックは明晰に書き、大体として首尾一貫しており、たまにしか間違いを犯さないが、これらのことはカントには言えない。
 
 シジウィックの『倫理学の方法』と違って、カントの『基礎づけ』は最初に読む時がある意味では一番よい。読者を鼓舞する刺激的な主張があり、われわれは理解できないところは気にしないからだ。しかし『基礎づけ』を再読すると、われわれの多くは意気阻喪してあきらめてしまう。カントは偉大な哲学者かもしれないが、われわれには適さないと決めてしまうのだ。
 
 最初の問題はカントの文体だ。正真正銘の悪文を哲学的に受け入れられるものにしたのはカントである。われわれは誰か別の人のひどい文章を取り上げて「こんな文章を書く人のものがどうして読むに値するか?」と言うことがもはやできない。それに対してはいつでも「カントはどうなのか?」と答えられるからだ。
 
 もっと深刻な問題もある。私がカントにとりつかれた時、私はカントの主要な主張と議論のいくつかをもっと明快に述べようとしてみたが、この仕事は非常にいらだたしいものだということがわかった。私はカントの複数の主張を一貫した見解にまとめることができなかったし、カントの議論の多くは明らかに妥当でも健全でもないように思われた。カントの最大の崇拝者の中にさえ同じように感ずる人がいると知っていれば私の助けになっただろう。たとえばオノラ・オニールは『基礎づけ』をカントの本の中で「最も腹を立てさせる」ものだと言う。
(以下、本文つづく。注は割愛しました)
 
 
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