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アヴナー・バズ 著
飯野勝己 訳
『言葉が呼び求められるとき 日常言語哲学の復権』
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序論
かつて、おおむね二十世紀の半ばころ、伝統的な哲学的困難を理解して取り扱う新しいアプローチが現れ、哲学における新たなスタートもしくは転回が約束されたかにみえる時代があった。このアプローチは、〔哲学的〕論争から離脱する道を提供するものだと考えられた。そうした論争はたいてい、哲学の進歩に従事しているように自らを提示してきたのだが、すくなくとも一部の人びとにとっては、どこにもたどりつかない道とみえるようになっていたのである。その新たなアプローチは一般に、「日常言語哲学」として知られるようになった。
現在の分析哲学のメインストリームでは、日常言語哲学はすでになんらかの仕方で否定された、あるいはそうでなくても深く信用を失った、という考えが広く共有されている。だからそれを無視するのは哲学上正当かつ安全であろう、ともされる。本書の中心的な主張のひとつは、このように日常言語哲学を片づけてしまう人びとには、じつはそうする資格などないのだ、というものである。日常言語哲学への反対論としてよく引き合いに出される議論や苦情は、哲学的困難を解消しようとする日常言語哲学の一般的アプローチを掘り崩すのに成功していない、と私は論じるだろう。本書にはもうひとつ中心的な主張があって、それは日常言語哲学に対する再審を開始することが、今日の分析哲学にとって最良の利益になるというものである。
現代分析哲学で「日常言語哲学」が忘れ去られてしまっているとするなら、実際に忘れ去られているのは、ひじょうに漠然とした、そしてきわめて曖昧に区分けされただけの何かである。本書で私が「日常言語哲学」で正確には何を意味し、何を擁護しようとするかは、先に進むにつれよりあきらかになっていくはずだ。しかしごく大雑把に言うなら、私が指し示すのは、西洋哲学の伝統における、ある特有の批判のかたちである──それは哲学的もつれと不可解さを軽減する道を探し求めるのだが、哲学者たちが使う言葉の日常かつ通常の使用について、そしてそうした使用を可能にし、具体的な意義を与える日常世界の条件について考察することで、そうするのである。
最初に強調しておかなければならないが、本書において「使用」は、私がウィトゲンシュタインの用法だと信じる仕方で用いられる。つまり、どんなに取るに足らない平凡なものであっても、ある一定の種類の、人間による達成事を指し示すのである──これは、言葉に言及することではなく、言葉を遊ばせておくこと、あるいは言葉になんら(現実の)仕事をさせないことと対置される。これが意味することはひとつには、哲学の内部においてであれ外部においてであれ、発せられた一定の言葉がその発話の機会において実際に使用されているか否かは、そして、使用されているのならどう使用されているかは、けっして直接に経験的なことがらではないということである。この重要な件については、のちほど立ちもどる。
日常言語哲学が言葉の日常かつ通常の使用に訴えるのは、伝統的な哲学的困難への応答としてなのだから、使用という概念についての理解は、日常言語哲学の人びと自身がそれら困難をどうみているのかという理解と連動する。シンプルに表現するなら、日常言語哲学はその土台を以下のような主張に置くのである。すなわち、「言葉の意味」と呼ばれるような何かに依拠して、私たちが言葉でどう意味するかとか、理にかなって意味する仕方はどういうものとして見出されうるかといったことを等閑視し(これはここではたんに、私たちが言葉をどう使用するかとか、理にかなった使用はどういうものとして見出されうるかといったことを等閑視し、という意味である)、そのうえで言葉で思考を表現し、あるいは何かにコミットしたり何かを含意したりするときに、哲学的困難は立ち現れるのだ、と──ここで表現等されるものは、そのもっとも重要なものとしては、真理、知識、意味等々をめぐる伝統的な哲学的困難を生成するとされてきた種類のものである。日常言語哲学は論じる、伝統的哲学者は自分の言葉の意味をあてにして、それが自分の主題を十分に確定し、それについて自分が言っていることの意味や理解可能性を確保してくれるとし、そしてそのことにおいて、本来なら──それらの言葉を使って私たちが日常かつ通常行う仕事や、それが成功裏に行われうる条件を考えるなら──期待すべきでないなんらかの期待を、彼の言葉に寄せてしまうのだ、と。そのことによって彼は自らに困難を負わせるのだが、その困難がもつ力がどういうものであれ、それはまさに彼の期待そのものに由来するように思えるのである。
同じくらい重要なことだが、伝統的哲学者は自らの理論の言葉を、それらが現にもつなんらかの力を与えてくれる必要や利害関係、関心から切り離すことで、彼の理論がその解明に資するはずの世界との接点を失うリスクを冒している。日常言語哲学のユニークな価値は、そしてその擁護のために一冊の本を捧げる価値があると私が思った主たる理由は、それが私たちの言葉を私たちの世界との接触へと立ちもどらせることを可能にする道筋にある。しかもそのうえ、言葉と世界を引き離す哲学的プレッシャーを了解しつつ──そしてまさに了解することにより──、そうするのである。(日常言語哲学に対して何度もくりかえされる苦情、ゆえに私が異議を唱えたいと思う苦情は、それが言葉だけにしか関心を示さない、というものだが、この件については第3章の末尾で取り組むことになるだろう。)
結局はナンセンスな──すなわち、空回りしている──のではないかと疑われる哲学的言説のつらなり、あるいは意味をもつとしても、議論されていると想定される哲学的関心を下支えしない仕方でしかないような言説に対応するにさいして、日常言語哲学者が特徴的に行うひとつのことがある。哲学的言説のつらなりにおけるキーワードの、日常かつ通常の使用に訴えるのである。くりかえし唱えられる逆の主張に抗して私は、この訴えはそれ自体としては、当の言説のつらなりが何も意味しないことの論証を意図するものではない、と論じるだろう。というのも言葉の意味というものは最終的には、人びとがそれを見出すことができるところに存在するものなのだし、その人びとには伝統的哲学者も含まれるのだから。その訴えはむしろ、哲学的言説のつらなりは、身近な言葉を使って構文上正しく構成されているというただそれだけの理由によってじっさい意味をなすのだし、またたしかに意味をなさねばならない、という確信の維持の弱体化を意図するものである。そしてまた、哲学的言説のつらなりが明確な意味をなすと考える人びとをして、ではその意味とはどんなものでありうるのか、またもし単一の、もしくは一群の意味が理にかなって見出されるとして、それは真正の哲学的問題や哲学的困難を生み出すものなのか、あるいはともあれ彼らが書く必要や欲求を感じる哲学的著作に適合するものなのか、といった自問へといざなおうとするものでもある。私の理解によれば、日常言語哲学はこのように、本質的に応答的なものである。それが行ってきた「注意喚起」は、あれこれ特定の哲学的困難や不明瞭さを軽減しようという試みにおいて、「ある特定の目的」(Wittgenstein 1963, remark 12 7)のために組み上げられる。日常言語哲学による注意喚起は──うまく組み上げられた場合には──、ソームズがとがめるような「場当たり主義的」(Soames 2003, 21 6)なものではなく、慎重に組み上げられたものなのである。
以上のようなごく大まかな特徴づけだけでも、あきらかなはずだ。「日常言語哲学」の名称のもと過去六十年ほどのあいだにいとなまれてきたことの多くは、私が本書で指し示し、擁護を試みていくものではないのである。さらに、たとえいくつかの典型例から手がかりを得ていくとしても、しかし私は特段彼らの一人(や幾人か)を擁護するつもりはないし、そのテクストのひとつ(やいくつか)を擁護するつもりもない。私のねらいは日常言語哲学を、一般的アプローチとして最良と考えるありようにおいて擁護することであり、頑固な否定的風評にもかかわらず、それがいまもなお生きた何かを現代分析哲学者たちに与えてくれるのを示すことである。
本書における議論の全体構造をひとこと説明させてもらいたい。私の理解するところでは、日常言語哲学のアプローチは一般的議論のなんらかのセットによってではなく、哲学的困難の特定の諸領域に適用されたときに産み出す哲学的実りによって、よりよく正当化される。それゆえある重要な意味で、本書の議論がほんとうに始まるのは、第3章になってからである。その箇所で私は、哲学の理論形成における「直観」の信頼性をめぐる現代の論争に矛先を向ける。議論は第4章と第5章へと引き継がれ、そこでは命題的知識の概念をめぐる「文脈主義者」と「アンチ文脈主義者」の哲学的論争が詳細に議論される。そして結論では、文脈主義者とアンチ文脈主義者がともに応答している形態での懐疑論に対する理解と応答を提案する。エピローグで私は、哲学的困難の解消へと向かう日常言語哲学のアプローチを、カントが提案した「超越論的仮象」の取り扱いと比較し、対比させる。そこには、ほかに私たちがもつ、たとえば因果や魂といったトラブル含みの哲学的概念のケースに対して日常言語哲学がどう適用されうるのか、という示唆も含まれる。
理想にしたがうなら、私は第1、2章をまとめて飛ばして第3章の議論にまっしぐらに入っていただろう。自分が提案するアプローチを抽象レベルで特徴づけて擁護するより、それを真っ先に例証し、その実りがたしかにそれを正当化してくれるのを期待して。もしそうしていたなら、私はそのアプローチを「日常言語哲学」と呼びさえしていなかったかもしれない。そして代わりにそのアプローチに、先祖伝来の荷物から解放された、独自の名前を名乗らせていただろう。
しかし、本書の第3─5章と結論の初期ヴァージョンを公表しはじめてみると、私の議論がそこで出会われ、値踏みされるであろう哲学的文脈を単純に選ぶことなどできないと、私はすぐにはっきり気づかされた。たとえば私は、ティモシー・ウィリアムソンに反対して、こう主張しようとした。想定されたなんらかのケースがたとえば知識のケースなのか否かといった哲学者の問いへの答えは、日常の「非哲学的な」判断と重要な点で不連続であり、そしてそれゆえ、分析哲学における普及版研究プログラム(prevailing research program)は、これまでそれに対して提唱されてきたよくある反対論で言われる以上に、深く見当違いでさえある、と。これには、意味論と語用論のあいだの伝統的区別を想定しさえすれば、普及版プログラムはなお擁護されうる──たとえウィリアムソンが提案するような直截な仕方通りではないとしても──という応答があった。また私は、こう主張しようともした。命題的知識をめぐる現代の「文脈主義者」と「アンチ文脈主義者」の論争は、現行の条件のままでは調停できるものではないかもしれず、袋小路から抜け出す道は、両派が対立的な答えを提示してきたもともとの問いそれ自体が見当違いなのだと認識することにある、と。これには、私が「意味」と「使用」を混同しているという批判的応答が、ピーター・ギーチ、ポール・グライス、ジョン・サールに言及しての修正意見つきで、あった。こういう経験を通して私は、私のこれまでの議論が、退けられるというよりも、相手にされずに敬遠される定めにあったことを学んだのである。私は、いまさら同じようにはできなくなった。
以上が、本書の最初のふたつの章が書かれるにいたった経緯である。それらの第一のねらいは、「日常言語哲学」と呼ばれてきたものの歴史上の、何か特定の事例を擁護することではない──とはいえ私は、それら事例のなかには、一般に承認されてきたよりもたくさんの擁護できるものがあると信じるが。ふたつの章の第一のねらいはむしろ、これまでの日常言語哲学での試みに対して提示されてきたよくある反論のどれによっても本書の議論が掘り崩されることはない、とはっきり示すことである。言いかえればそのねらいは、本書の議論にフェアに耳を傾けてもらう構えを勝ち取ることにある。だから一部の読者にとっては、地ならし的な最初のふたつの章を飛ばして第3章から読みはじめてもらうのが、じっさいより有意義だろう。そのまま結論までの議論を全部たどり、必要ならそこから立ちもどって──もどらなくてもいいかもしれないが──最初のふたつの章を読めばよいのである。
(傍点と注は割愛しました)
第1章 基本の対立──さしあたっての特徴づけ
(略)
4 証拠物件2──オースティンの「他人の心」
私は次章で、意味の普及版概念への支持と日常言語哲学への反対という姿勢で推し進められる中心的な議論の検討に向かうが、その前に、オースティンの「他人の心」の考察を行っておきたい──日常言語哲学に対して言い立てられる意味と使用の混同を例証すると言われてきた、いまひとつのテクストである。本章で純粋に発見法的に使われ、本書の議論のこれからの展開では特段重要な役割ははたさないであろう、真理についてのストローソンの初期論文と違い、オースティンの論文は本書全体を通して、結論にいたるまでずっと、その関連性をはっきり示していくだろう。
日常言語哲学の批判者たちは、「他人の心」のほんの一部のページにもっぱら焦点を合わせる傾向を示してきた。それらのページでオースティンは、「私は……〔これこれ〕ということを知っている(I know that …)」が「これこれ」に付け加えるものは、事実と称されるさらなる何かについての記述ではない、と論じる──それは、これこれに対する話し手の認識的関係や、話し手の何か特定の心的状態についての記述ではなく、むしろ「私は……ことを約束する」が「私がこれこれを行う」に付け加えるものをモデルに理解されるべきだ、と。オースティンによれば「私はこれこれということを知っている」は、話し手自身についての記述を行うものではまったくなく、むしろ「他者に言質を与え」、これこれと言う「私たちの権限を、他者に分与する」という言語行為を遂行するものなのである(Austin 1979, 99ff.〔邦訳一四六以下〕)。ストローソンは、「真である」が文法的に「単称名詞」だからといって、それは「何かを指示する」(Strawson 1950, 13 0)のに使用されたり、「記述的表現」(Strawson 1949, 94 )であったりする、という考えへと誤誘導されてはならない、と私たちに迫るが、それとちょうど同じように、オースティンは「私は知っている」を「記述的表現」だと考えることのないよう、私たちに迫るのだ(Austin 1979, 103〔邦訳一五二─一五三〕)。
率直に言わなければならないが──そして後続の諸章でより展開させ強調するつもりの論点でもあるのだが──オースティンの説明は重要な意味で、不完全なものである。そして不完全さをそれとして提示していないがゆえに、たんに間違いと言われうるものであるかもしれない。オースティンが議論しているような「私は(これこれということを)知っている」の使用は、実際にはきわめてまれなものである。ふつう私たちはたんにこれこれだと言い(断言し、主張し、他者に知らせ……)、そしてそれからそう考えたり言ったりする根拠を他者に伝えるわけだが、それはしばしば、「あなたはそれをどのようにして知ったのか?」──「他人の心」でオースティンが焦点を合わせる問い──と問われたうえでのことである。大多数のケースで聞き手は、話し手の根拠を査定する能力の点で話し手とまったく同等であると思われ、したがって話し手は、自分にあると主張したり、自分に付与できるような特別な権威をなんらもたない。私の主張を支えるすぐれた根拠があったとしても、くわえてあなたのほうでもそれを適正に評価できると考えられるなら、私を信じなさいとあなたに迫ったところで、何の意味もないだろう。こういう場合ふつう私は、私の根拠が何であるかをたんに伝え、そのことによってあなたの疑念を軽減することに努めるだろう。続く諸章で私は、こういうよくある種類の状況においては、哲学者たちによって強調される、私は知っているのか否かという問いは──正確にはどのような問いに帰着すると考えられるにせよ──、当の状況に関与する人びとに関するかぎり、的を外している、あるいは空回りをしている、と論じるだろう。
オースティンが焦点を合わせている「私は(これこれということを)知っている」の使用は、その主張者が、たとえば鳥の種類を見分けたり、あるいはもしかしたらある特定の人びとの気分を同定したりするエキスパートといったような、なんらかの種類の専門知識に根拠を置いている状況でのみ、自然なものになるだろう。より一般的に言えば、その使用は、話し手以外の人びとがなんらかの理由により話し手のもつ根拠を査定する地位にないとき、所を得たものとなるだろう。
「私はこれこれということを知っている」がずっとよく使用されるのは、これこれ〔という事態〕の成立に何の疑問もなく、それを確証することなど誰も必要としないような状況においてである。たとえば、うわさの知らせへのリアクションを共有する「だってね(I know)」や、重要な事実を認める「わかっている(I know)」を思い浮かべていただきたい。オースティンは──知識を(まず誰よりも自身に対して)確証を与える地位にひとを就けるであろうものとする、伝統的な固定観念から手がかりを得つつ──、こういう状況を無視している。この種の状況における「私は知っている」の通常の使用法はあきらかに、オースティンが示唆するような「私は約束する」の通常の使用法に類比的ではない。
もちろん伝統的な視点からすれば、オースティンの観察も〔それに対する〕私の留保も、すくなくとも「知っている」の意味に関するかぎり、的を外しているとみえるだろう。なぜなら、「知っている」とその同族の言葉で行われうること──そして日常かつ通常行われていること──は、「知っている」が何を意味するかとか、知識とは何かということにとって、非本質的だとみなされているから。伝統的な理解によれば、文字通りかつ真剣に発話された「私はこれこれということを知っている」が話し手について言っている、唯一かつ同一のことがらが存在する──すなわち、彼は知っているということであり、彼はこれこれに対して知っているという関係にあるということだ。これらの言葉をさまざまな文脈で発することで私たちは発語内的に何を日常かつ通常行うのか、それらを行うことの意義や焦点(point)でありうるものは何か、なにかしら特定の仕方でそれらが適切に使用される、あるいは使用されうるのはどういう場合か、そのように使用されたとき、それに対してどう反応するのが適切でありうるか、等々──これらはすべて、「知っている」の意味と、「知っている」という発言において言われる(「表現される」)ことを前提にしている、とみなされるのである。
私の読みでは、「他人の心」はもっとも根本的なレベルで伝統的な見方に挑戦するものである。それはいま列挙したような問いを、二次的なものや派生的なものではなく第一次的な問いであり、伝統を悩ませてきた困難から離脱する道を見出したいと願うなら、ぜひとも焦点を合わせるべき種類の問いである、ととらえることへと私たちをいざなう。この基本的な考え──いうなれば、指示に対する使用の第一次性──は、以降の各章で反復されていくだろう。
サールはオースティンについて、「自分の分析が「知っている」の意味を与えるものと考えられるか否かについては、かなり慎重」(Searle 1999, 13 7〔邦訳二七六(原注13)〕)だと言う。しかしオースティンは、これについてはまったく慎重どころではない。「知っている」の意味の分析とサールが呼ぶであろうようなものを自分は提示している、という主張など彼はどこでも行っていないし、そう受け取れる提示の仕方もしていないのだ。論文の冒頭で、彼は自分のねらいを明言している。すなわち「「あなたはどのようにして知ったのか?」と問われたときどう言うべきか」を私たちに思い出させること、ただし、たとえば他人が怒っていることをどう知るかは、たとえばゴシキヒワが庭にいることをどう知るかとは根本的に異なる、という広くいきわたった考えを一掃するような仕方で思い出させること、である(Austin 1979, 76-77〔邦訳一〇五─一〇六〕)。
庭に何の鳥がいるのか知ることを、他人が何を感じているかを知ることと比較してオースティンは、私が思うにきわめて独創的な仕方で、他人の心について考える伝統的な方法の変容をねらう。他人がたとえば怒っていると知ることを、ひとつのこと(「行動」)からもうひとつのこと(「怒りそのもの」)への推論を行うといったものではなく、その行動において他人が感じ、表明するものが怒りであると識別すること──彼女が感じているのは怒りであると見分けること──といったものだと考えることへと、私たちをいざなうのだ。これが示唆するのはひとつには、私たちが自分自身の感情や情動に対してもつ関係と、他人のそれらに対してもつ関係とのあいだの本質的な違いは、認識論的なものではなく形而上学的、もしくは倫理的なものとみたほうがよい、ということである。他人の怒りは──あれこれの仕方で表出しようと、それとも抑えようと──申し分なく他人のものであり、私たちのものではない。私たちに課せられるのは、あれこれの仕方でそれに応答することである。しかし認識論的に言うなら、彼女も私たちも彼女が感じるものが怒りであることを識別する(ことができる)必要があり、また正確な識別にしくじる可能性もある。彼女の怒りは私秘的な感覚ではなく文脈鋭敏的な「パターン」なのであり、特定の感覚や感覚群を必要とするものでもなければ、それらがあれば十分というものでもない(ibid., 11 0〔同一六一─一六三〕をみられたい)。
さらに言うなら、「他我の懐疑論」へのオースティンの応答の細部は、私たちの目下の目的にとっては重要ではない。重要なのは、「私は知っている」を「私は約束する」へなぞらえる彼の類比、日常言語哲学の批判者から多大な非難を招いてきた類比が、そうした批判者たちから完全に無視されてきた文脈内で行われていることである。「他人の心」でオースティンが試みていることにひとたびはっきり気づくなら、私たちはおそらく、「私はこれこれということを知っている」の力についての彼の言が──これこれということの確証を他者が必要とする一方で、彼女が正しく理解できると理にかなって期待できる根拠を私たちが何も提示できない、という(まれな)状況において──哲学的にいかに啓発的であるかを見出すだろう。それはとりわけ、積年の懐疑論的心配事、すなわち知識は不可謬だと考えられるので(「もし私が(あなたが)知っているなら、私が(あなたが)間違っていることはありえない」)、可謬的な生き物である私たちはせいぜいきわめてわずかのこと──他人の心についてであれ、何か別のことについてであれ──しか知りえないように思えるし、自分や他人が何かを知っていると言うときは、(ほとんど)いつも偽なることを語っているのだ、という心配事に対する応答として、きわめて啓発的でありうる(ibid., 98ff.〔同一四三以下〕をみられたい)。私の理解する基本的考え方は、潜在的な知識所持者と事実や命題との任意のペアに対して「知っている」とその同族の言葉を適合させることは、それを行うことにおいて他の何かを発語内的に行うことなしに、ただそれだけで可能でなければならないという想定──いうなれば、言葉を(まずは)何の仕事に従事させることなく適合させることが可能でなければならないという想定──を捨てるべきだというものである。そしてまた、それにともなう想定、すなわち「知っている」を含む、「真剣で文字通りに」なされた直接法の文の発話はすべて、原理的に真偽の観点から査定可能であるという想定も、捨てるべきなのである。
これらの想定をひとたび捨て去るなら──私はそうするのが容易だとは言っていない、なぜならそれらは深く埋め込まれたものだから──、可謬的な生き物である私たちが「私は知っている」と言う資格などいったいどうやってもちうるのか、という問いは変容する。それは、可謬的な生き物である私たちが「私を信じて」や「私に任せませんか?」、「私が保証する」、「口先だけじゃないよ」、あるいは別様に、「〔それはもう〕聞いた!」や「私に言う必要はないよ」、「あなたの苛立ちはわかる」と言う資格などいったいどうやってもちうるのか、という問いと同様の、困惑的でも脅迫的でもないものになるのだ。これがオースティンの主要論点、あるいはともあれ主要論点であるべきものである。
私が読むように、オースティンにとっての「もし私が(あなたが)知っているなら、私が(あなたが)間違っていることはありえない」の真理は、人間の可謬性という逃れがたく否定しがたい背景に抗しつつ、「知っている」とその同族の言葉の十全な適用は何を必要とし要求するか、についての真理である(ibid., 98〔同一四三─一四四〕をみられたい)。それは彼にとって、なんらかの関係──知っているという関係──についての真理ではない。それを言葉で表現する(ことを望む)ように私たちを導くものがなんであれ、潜在的知識所持者と命題のあいだにときに端的に成り立つ関係についての真理ではないのだ。本書の結論部で私は、懐疑的結論をなお回避しつつ、知識の「不可謬性」と「叙実性(factivity)」をユニークな仕方で認めるオースティンに、回帰するだろう。
すでに触れたように、「私は知っている」にはオースティンが議論していない重要な使用法がある。その動詞にはまた、もちろん他の変化形もある。自分は「知っている」とその同族の言葉を含む直接法の文の全形式を議論してなどいないことを、オースティンは認める。しかしながら彼は、その動詞の他の変化形については、「私は……を知っている」のような仕方での「やっかいさ」はないと主張する(ibid., 98n1〔同一七五─一七六(原注16)〕)。他の箇所と同様、ここでもオースティンは、性急すぎるように私にはみえる。彼は自分の洞察と哲学的勘を、明確に、根気強く、そして十分に追求してはいない。というのもたしかに、「知っている」とその同族の言葉には、「記述的」と呼ぶのがふさわしいかもしれない使用法があるからだ。そうした使用法は「知っている」とその同族の言葉の意味にとって、あるいは私たちがもつ知識の概念にとって、周縁的なものではない。そして伝統的哲学者は、オースティンに反して、ともあれ自分はその概念の記述的もしくは表象的次元に興味をもっているのだ、とこだわる傾向にある。すなわち彼女の関心は、「ということを知っている」やその同族の言葉は、いついかなる条件のもとで人物と事実のペアの一部へと(正しく)適合させられるのか、という問いに向かう。そしてそのさい、そのペアへの透明な適合を超えて、これらの言葉で行われうるその他のことは、考慮の外に置かれるのである。
「他人の心」の全体としての中心的な教訓──「私は知っている」と「私は約束する」の対比によって生き生きと表現されると同時に、不鮮明にもされる教訓──は、「知っている」とその同族の言葉は、哲学者にとっての「適合」、すなわち言葉とアイテムやケースの透明な連結に合わせて仕立てられたものでは端的にない、ということである。(「哲学者にとっての用語の「適合」」で私が正確には何を意味するかについては、この先、とりわけ第3─5章に進むにつれて、よりあきらかになっていくだろう。)「記述的」として記述されるのがふさわしい場合と「非記述的」としてそうである場合の両方において、言葉の日常かつ通常の適合は、その適合の焦点(point)──オースティンが「企図と目的」として言及する、適合を導き、適合に満ちわたり、適合がそれに対して最終的に責任を負うもの(ibid., 84〔同一一八〕)──に、きわめて強力につながれている。このことは、主張を行ったり権限を与えたりするのに使用されるさいの「私は知っている」のケースに限定されず、一般に成り立つことが示されうる。じっさい、まさにこのことについて、私は続く各章で論じていくだろう。また、現代分析哲学で「文脈主義」として知られる立場について、その逆の見た目にもかかわらず、いまスケッチしたようなオースティン的視座から眺めれば、やはり伝統的な考え方にきわめて近い地点に帰着するものだ、とも論じていくだろう。だからそれは、伝統的な懐疑論の問題から抜け出る道を示すのに完全には成功しないのである。
懐疑論者とアンチ懐疑論者、可謬主義者とアンチ可謬主義者、外在主義者と内在主義者、文脈主義者とアンチ文脈主義者、等々のあいだで果てしなく続くかにみえる論争。そのすべての根には、すべての派閥によって採用されている想定がある。人物と事実のいかなるペアにも「知っている」とその同族の言葉を端的に適合させることが、私たちには原理的に可能であるはずだ、という想定である。それはもしかしたら、なんらか特定の「文脈」から離れてということではなく、なんらか特定の有意な使用の文脈から離れてということなのかもしれない。私がそう読むようにオースティンの論文は、私たちを次の考えへといざなう。すなわち、そうした想定を捨て、その想定が「知っている」の意味や私たちがもつ知識の概念にとって非本質的だと私たちに考えさせたものについて、きちんと関心を寄せる以外に論争から抜け出る道はない、と。すなわち私たちは、「知っている」とその同族の言葉のさまざま異なる使用について、そしてそれらの使用にそれぞれの焦点を与え、最終的に使用がそれらに対して責任を負う人間的必要や興味、利害関係に、関心を寄せるべきである。ウィトゲンシュタイン的用語で表現するなら、仕事を休んでいる言葉を熟考することで私たちは、適用されるさいのそれらの本質である何か、実り多く意義深い哲学的探究を持続させるに足る何かを発見できるであろう、という想定こそが、捨て去るべきものなのである。
(以下、本文つづく。傍点と注は割愛しました)