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小山静子 著
『良妻賢母という規範 新装改訂版』
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新装改訂版への序文
本書が出版されたのは、今から三〇年以上も前の一九九一年のことである。それから何度か増刷され、英語版も出て、多くの読者を得ることができた。そしてこの度、新装改訂版が刊行されることになり、著者としては嬉しい限りである。これを研究者冥利に尽きるというのだろう。
新装改訂版ということで、どこまで手を入れるか悩んだが、この三〇年の間に出された数多くの研究成果を取り入れればもはや新著になってしまい、収拾がつかなくなるため、論旨や内容の変更、新しい研究への言及は、一切行っていない。ただ、当時は「家庭」が歴史的概念であるということをわかってはいたものの、そのことに対する認識が甘かったために、江戸時代の家庭教育といった不用意な言い方をしている個所がある。そのため、ここだけは家での教育といった表現に改めた。これ以外は、事実誤認や引用文の転記ミスの修正、読みにくい文章や稚拙な表現の手直し、参考文献の不備の補正、表記の統一などを行うにとどめた。とはいえ、これらの最低限の作業でもかなり手を入れることになり、自らの迂闊さに呆れるばかりである。ただ、そのおかげでより正確な記述になったのではないかと思う。今回改めて読み返してみて、わたしがとても肩に力が入った書き方をしており、随分と大上段に振りかぶった議論をしていることに苦笑してしまったが、気負った印象を与える文章は当時のわたしの気持ちを表しているようにも思われるので、そのまま残してある。
本書は歴史書であり、史料に基づいて議論を組み立てているので、執筆時の社会状況の影響を受けにくいと思われるかもしれない。しかし実はそうではない。数多の史料の中からいくつかの史料を選び出し、それを意味づけ、歴史像を構築していく、という一連の作業においては、書き手の視点や問題関心が大きく関わっている。わたしは一九八〇年代に執筆した論文に基づきながら、一九九〇年ころに本書を書いたが、本書には今から三〇~四〇年前の問題関心や研究動向が反映されており、当時の時代状況が透けてみえる。そこで新装改訂版への序文を書くにあたって、なぜ本書をまとめようと思ったのか、当時のわたしの問題関心から述べてみたいと思う。
わたし自身はかなり自由奔放に育ったが、それでも世間には期待される女らしさや女性役割があることに、一〇代のころから気づいていた。女性は結婚して家庭に入り、子どもを産んで家事・育児に専念する主婦になること、これが女性にとっての幸福な人生であるという考え方が根強く存在していたように思う。そしてこのような生き方を象徴する言葉として、日常生活で聞くことはあまりなかったものの、「良妻賢母」という言葉が存在していることも知っていた。
長じてから、良妻賢母思想について書かれた研究をいくつか読んでみたが、残念ながら、それらの研究で論じられていたことは、わたしの実感とは違っていたと言わざるをえない。なぜなら、わたしにとって良妻賢母思想とは、性別役割分業を正当化し、女性に妻役割や母役割を強いるものであったが、当時の研究は、良妻賢母思想を戦前日本の家制度と深く関わる思想、封建的あるいは儒教的な思想としてとらえる傾向が強かったからである。これでは、わたしが現実に感じている生き難さを説明することは難しいように思われた。わたしは家制度に苦しんでいたわけではなかったし、封建的・儒教的と言われてもピンとこなかったというのが正直なところである。わたしにとって良妻賢母という言葉は過去のものではなく、現実に存在している「男は仕事、女は家事・育児」という性別役割分業を象徴するものであったし、そのことこそが問題とされなければならないように感じられた。
一九八〇年代は、今よりもはるかに強く性別役割分業が存在している時代だった。それはごく当たり前のものとして人々に認識されていたが、それに対する違和感を抱いても、それをどのように表現したらいいのか、適確に語る言葉をわたしはもっていなかった。ジェンダーという概念は研究の世界においてもまだ流布していなかったし、わたしも本書で用いてはいない。
たとえば中学校や高等学校での家庭科の授業は、女子だけが学ぶものだった。中学校では技術・家庭科という教科において、男子が技術、女子が家庭をそれぞれ学ぶという性別分離教育が行われ、高等学校では女子だけに四単位の家庭科が必修教科として課せられていた。家庭科は、将来の家庭内役割に備えて女子だけが学習すればよいとされていたのである。そして高等学校では女子が家庭科の授業を受けていたとき、男子は体育、なかでも柔道や剣道といった武道の授業を受けることが多かった。現代の視点でみれば、家庭的な女性と強く逞しい男性のための教育という、あまりに差異化されたカリキュラムが存在していたことに驚きを禁じえないが、当時は、技術・家庭科の性別分離教育も含めて、多くの人が当たり前のこととして、このような教育を受け入れていたように思う。この体制に変更がもたらされるのは、一九八九年の学習指導要領によってであるから(完全実施は中学校が一九九三年、高等学校が一九九四年)、男女ともに技術や家庭科を学ぶようになったのは、一九八〇年前後に生まれた世代からである。
高等教育に目を転じてみれば、一九八〇年代の進学状況は「男子は四大、女子は短大」という言葉があてはまる状態だった。一九八五年の四年制大学への進学率は、女子が一三・七%であるのに対して、男子は三八・六%であり、短期大学への進学率は、女子が二〇・八%であり、男子が二・〇%だった。そもそも、四年制大学と短期大学を合わせた高等教育機関への進学率も男子の方が高かったが、女子の場合はさらに四年制大学よりも短期大学への進学者の方が多く、高等教育を受けよう、あるいは子どもに受けさせようとする場合に、性別によって選択肢に大きな違いがあったのである。
しかも、女子が四年制大学に進学したとしても、大学で学ぶ学問領域は男女で大きく異なっていた。文部省の学校基本調査によれば、一九八五年において女子学生が学んでいる専攻分野は人文科学、教育の順に多かったが、男子学生は社会科学、工学という順になっている。文学などを学んで結婚する、あるいは教員になる女性に対して、会社員や技術者になる男性、という大学卒業後の進路の違いが、この専攻分野の相違となって現れていたことがわかる。
戦後に行われた教育改革によって、教育理念や教育制度上の男女平等が実現し、男女の教育機会の均等が実現した。このことの歴史的意義は高く評価されねばならないが、にもかかわらず、現実には性別によるカリキュラムの違いがあり、高等教育機関への進学状況にも随分と男女差があったのが、一九八〇年代の状況だったのである。そしてわたしは、理念や制度としての男女平等の意義を強調する気にはなれず、内実における差異やその問題の方に目が向いていた。
そして女子の四年制大学進学率が短期大学進学率を上回るのは、一九九六年まで待たなければならなかったし、現在でも四年制大学への進学率は男子よりも女子の方が低い。こういうと、当然だろうと思う人がいるかもしれないが、現代ではOECD加盟国のほとんどで四年制大学進学率は女子が男子を上回っており、男子の方が高いのは日本に特有な現象である。また専攻分野に関していえば、二〇〇一年以降、女子学生が最も多い分野は社会科学になった。すっかり様変わりしたが(残念ながら男子学生の専攻分野には変化がない)、リケジョという言葉があることからもわかるように、増えてきたとはいえ、まだ理系へ進学する女子は少ないのが現状である。そして私立大学医学部への入学において女子を排除する動きがあったことは記憶に新しく、隠れたカリキュラムの問題も含めて、現代においても教育の場における男女平等は達成されていない。
また一九八五年には男女雇用機会均等法(正式名称は、雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律)が制定されたが(施行は一九八六年四月)、この法律が制定されたこと自体が、女性の雇用をめぐっていかに問題が存在していたのかを示している。一九八〇年代に入っても、女性の仕事は補助的・短期的な性格のものが中心であり、結婚・出産退職が暗黙の了解事項として存在していた(寿退社という言葉もあった)。たとえば一九八五年における女性の労働力率は、二〇~二四歳では七一・九%であるのに対して、三〇~三四歳では五〇・六%であり、いかに結婚・出産退職が多かったかがわかる。そのため企業は女性の早期退職を想定して、四年制大学ではなく短期大学の卒業者を採用する傾向があり、四年制大学出身者の就職先は公務員や教員が多くをしめていた。そういう意味では、男女雇用機会均等法の制定はこのような状況に風穴をあけるものであったが、制定後はコース別人事が行われ、男女雇用機会均等法によって女性の雇用状況が一気に好転したわけではない。また他方で、同じ一九八五年には非正規労働者を多数生み出すことになる、労働者派遣法(正式名称は、労働者派遣事業の適正な運営の確保及び派遣労働者の保護等に関する法律)も制定されている。この二つの法律が同時期に制定されたことの意味を当時のわたしは理解できていなかったが、労働者派遣法はその後何度かの改正を経ながら、非正規労働者の大量出現にともなう雇用状況の不安定化、とりわけ女性労働の非正規化という、新たな問題状況をもたらすものとなった。
このような一九八〇年代の状況をどのように考えていったらよいのかということが、当時のわたしの問題関心であった。そしてこれらの事象の根底に性別役割分業観がある以上、それと深く関わっている良妻賢母思想に焦点を絞り、それがどのようにして生まれた、どのような女性観だったのかを歴史的に解明してみたいと思った。歴史研究というものは過去を対象としたものであるが、現在のありようを考えるために、今、わたしたちがいる場所が、どういう道筋をたどって形作られ、今に至っているのかを明らかにするものである。女性の幸せが、結婚して家事・育児に専念する主婦になることであるとしたら、そしてその状態を象徴するものが良妻賢母という言葉であるのならば、良妻賢母思想について、その思想の内実と変容、それがよってきた歴史的経緯や社会的背景を明らかにすべきだと考えた。しかも学問の世界の言葉でこのことを論じたいと思ったが、その時用いたものが、近代家族論という理論的枠組みだった。落合恵美子が近代家族についての論考を初めて雑誌に発表したのは一九八五年であるが、その時わたしは、漠然と思っていたことに対して概念が与えられたと感じたものだ。
それまでの研究では、戦前の家族といえば「家」というとらえ方が一般的であり、それは「遅れたもの」「封建的なもの」であり、そこからいかに脱し、近代的な家族を作っていくのかが、研究の関心事であったように思う。戦前の「家」から戦後の近代的家族へという図式のもとに、「自由」「平等」「民主主義」といった価値理念によって特徴づけられた家族へと転換すべきことが語られ、さらなる家族の近代化、民主化がめざされていた。しかし落合が提起した近代家族論は、このような考え方と全く次元を異にするものであった。彼女は欧米の社会史研究や家族史研究の知見を踏まえながら、家内領域と公共領域の分離、女は家内領域、男は公共領域という性別分業、家族成員相互の強い情緒的関係、子ども中心主義などの特徴をもつ家族として、近代家族をとらえたのである。これは近代という社会が生み出した家族のあり方であり、このような近代家族概念が提示されたことで、女性が担う家庭内役割、ひいては良妻賢母思想を、近代家族に関連づけて理解することが可能となった。そしてそれにより、良妻賢母思想を戦前日本の特殊な思想として把握する軛から脱し、戦後の日本、さらには欧米などの他の近代国家にも通底する思想としてとらえる道が拓かれていった。
(以下、本文つづく。注は割愛しました)