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あとがきたちよみ
『持続可能性』

 
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ポール・B・トンプソン、パトリシア・E・ノリス 著
寺本 剛 訳
『持続可能性 みんなが知っておくべきこと』

「第1章 持続可能性とは何か」(pdfファイルへのリンク)〉
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第1章 持続可能性とは何か
 
持続可能性とは何か
 持続可能性(サステナビリティsustainability)とは、あるプロセスや活動が継続できるかどうか(あるいは、どの程度持続できるか)を示す尺度の一つだ。これはごく一般的な説明であり、さまざまなかたちで具体化することができる。問題となるプロセスや活動は、ごく日常的なこと、例えば、食料品店へ定期的に食料の買い出しに行くといったことかもしれない。あるいは、グローバル経済をかたちづくる生産や取引のシステム全体のように、極めて複雑で広範囲にわたることもある。何かがどのくらい長く、どのくらいの程度で継続できるかということを、データを集めることで計測できる場合もある一方、経験や勘だけで判断して評価する場合もある。正確にであれ、大雑把にであれ、私たちは多種多様な無数の活動についてその持続可能性を分析することができる。特定の農法や食品セクター全体の持続可能性を評価することができる。また、特定の建物や建築デザインの持続可能性を見極めることもできるし、都市の建築環境へと目を転じて、その持続可能性を判断することもできる。適切なデータと理論的ツールがあれば、企業の事業活動であれ、経済セクター全体であれ、その持続可能性を評価することができる。専門家は、各種の代替包装梱包材の持続可能性を計算してランクづけすることができるし、持続可能性の考え方を生物集団や火山の噴火などの自然のプロセスに適用することもできる。
 人々はさまざまなプロセスや活動の持続可能性について語り、それは十分に意味をなしているのだが、私たちが本書で重視したいのは、システムの持続可能性だ。経済や地域の生態系といった大きなシステムは、相互に影響し合うより小さな規模の活動から構成されている。これら小規模の活動がどのようなかたちで組み合わさっているのかを理解しようすると、ものごとが互いに連結し合っていることについて考えることになる。別の言い方をすれば、これら小規模の活動がどのようなかたちで組み合わさっているかを理解しようとするならば、孤立しているように見えたり、他のものと結びついていないように見える活動やプロセスが、実はあるシステムの内部で起こっていることを理解する必要が出てくるのだ。何らかのプロセスや活動が持続可能かどうか、という問いに対する答えは、それが組み込まれているより大きなシステムのあり方に左右される。さらに、この問いに答えるには、問題となっているシステムが依存している諸々の小さなシステムが持続するかどうかも重要になってくる。こうしたことに目を向けることで、企業、コミュニティ、生態系、ライフスタイルの持続可能性にだけ注目している人でも、より全般的なかたちでシステム思考をすることができるようになる。それはつまり、ものごとを、それらが依拠しているより大きなシステムとより小さなシステムの観点からとらえ、異質に見える活動や出来事が互いに結びついているあり方を探求できるようになるということだ。
 システムはどんなふうにも描写できてしまうため、その捉えどころのなさに呆然として混乱する人がいるかもしれない。またある特定の活動やプロセスに関しても、それをごく狭い範囲でしか理解しない人もいれば、もっと広い視野から理解する人もいて、そのあり方はさまざまだ。もしある車が他の車よりも燃費が良いとしたら、その車はより持続可能だと言えるかもしれない。というのも、その車は一ガロンの燃料でより遠くまで走ることができるからだ。しかし、次のように言う人もいるだろう。化石燃料を燃やすことはどんなことであれ持続可能ではない。なぜなら、石油の供給は有限であり、最終的には枯渇してしまうからだ、と。一般的に言えば、持続可能性という考え方は、この四〇年間に、幅広い包括的な社会目標として受け入れられてきている。そういう意味では、無数の活動が相互に関係しあって今の暮らしを支えていることについて人々は考えており、持続可能性はこの暮らし方が続くかどうか(もしくはどの程度続くか)ということの一つ尺度になっている。こうしたより大きな社会的文脈を念頭におく人からすれば、(燃費効率の良い車に乗るかどうかといった)より具体的な実践やプロセスの持続可能性は、特定の暮らし方の継続性を促進するのか妨げるのかという観点から評価されなければならないことになる。
 どうすればある活動が持続可能になるのかが把握できれば、その活動に関心を寄せている人々の役に立つ。もっとも、持続可能性は今のところ、「すべての人が依存している活動やプロセス全体を話題にするときによく使われる言葉」として話題になっているにすぎないのかもしれない。この意味で持続可能性はビッグアイデアの一つである。持続可能性をビッグアイデアとして理解するためには、現在の人々の暮らしと関連するさまざまな意味や活動全体について考えてみなければならない。それらがどのように結びついて、諸々の活動やプロセスからなる一つの全体的なシステムをかたちづくっているのかを検討する必要もある。ほとんどのビッグアイデアと同様に、特定の個人が重要だと考えていることには、その人の経験と人生の目標が反映されている。そして自分たちの暮らしと結びついたことがらについて考え始める時、人は異なる立ち位置からそれを始める。それぞれの経験や人生における目標の違い、つまりは各々の出発点の隔たりが、持続可能性とは何かという問い対する答えにもずれを生じさせている。
 
あらゆることが相互に結びついているなら、まずどこから始めるのがよいのか
 これは難しい問題だ。ものごとの結びつきについてよく考えてみれば、最終的にはより大きな文脈について検討することになるのだから、どこから始めるのかは大した問題ではないように思われるかもしれない。しかし、出発点を選ぶということは、会話を始める(もしくは本を書き始める)時には重要になってくる。というのも、持続可能性について考え始めるための入り口が、ある人にとっては自明なものであったとしても、別の人にとってはわかりにくいもの(あるいは退屈なもの)であるかもしれないからだ。私たち(あるいはほとんどの人)は、システムという言葉で表すことのできるもののごく一部については、それが継続することに強い関心を寄せている。例えば、勤めている会社とか、住んでいるコミュニティとか、通っている教会とか、ハイキングしたりキャンプしたり魚釣りをしたりする森や川といったものの継続性は気にかけている。しかし、これらすべてのことが互いにどう結びついているのかといったことや、そのうちの一つを持続させると他のものにどのような影響がもたらされるのかといったことには、すぐには考えが及ばないかもしれない。もちろん、包括的な視点に立って、一つの大きなシステムであるこの地球のことをしっかりと考えている人々はいるが、地球という惑星の内部にある場所や施設の存続を心配している人がいるのも確かであり、そうした場所や施設が滅びて、地球だけが存続するという可能性もある。しかしそうだとしても、ビジネスの継続に必要なことを詳しく見ていくことで、教会やコミュニティやお気に入りの自然エリアを存続させるための原理について多くのことを学ぶことができるだろうし、少なくとも、この本はそのことを前提としている。私たちはビジネスを持続させるために何が必要か、というところから考え始めることにする。そうした原理を理解して使えるようにするコツのようなもの、それこそが持続可能性についてみんなが知るべきことだと、著者である私たちは考えている。
 
持続可能性は環境だけに関わることなのか
 いくつかの事例を見ていくうちにわかってくることだが、多くのプロセスや活動は、天然資源や地球の生態系が生み出すさまざまなサービスに依存している。このようなプロセスや活動の持続可能性を評価する際に、それが自然のシステムを利用していたり自然のシステムに影響を及ぼしていたりすることを考慮しなかったとすれば、その評価には何の意味もない。また、持続可能性への関心は、天然資源の枯渇、飲料水や大気の汚染に対する人々の意識の高まりに由来している。その結果、多くの人の頭の中では、持続可能性と言えば、まず第一に環境への影響に関わることだと考えるのが定番となっている。
 しかし、環境とは間接的にしか関わらないような仕方で持続可能性を評価することもできる。後ほど詳しく説明することになるが、持続可能性の追求が国際政治の中でスローガンになった理由の一つは、環境保護のために経済発展を制約する国際的な動きに対して、貧しい国々が強く異議を唱えたことにある。このような国々には持続可能な発展という考え方の方がしっくりきたわけだが、それはこの考え方が人間に必須のニーズを満たすことの優先性を認めているように思えたからだ。もっと一般化して言えば、ある活動の持続可能性は、それが安定した経済的基盤を伴っているかどうかに左右される。政府や大学や非営利組織などの大きな組織の管理者が、ある新しい計画の持続可能性を問題にする場合、彼らの関心は、往々にして、その計画がそれ自身の資金基盤を支える持続的な源泉(例えば利用料や顧客の支払い)を作り出せるかどうかという点にある。もしその計画を進めるために資金をどんどん注ぎ込まなくてはならないのだとしたら、管理者はそのプログラムを持続不可能なものと判断する。つまり、一般に流布している想定とは異なり、持続可能性にはさまざまなものがあり、それは環境に関わることだけに限定されるわけではない。持続可能性とは多種多様なプロセスの再生産能力を評価するために適用される概念であって、そのなかには天然資源や生態系サービスとはほとんど関係ないようなプロセスも含まれている。
 
持続可能性は主に気候変動に関わることなのか
 環境の質(環境質)に対する懸念から持続可能性の問題に関心を持ち始める人々の多くは、温室効果ガスの排出が地球の気候を恒常的に変化させる恐れがあることに注目している。平均気温の変化や極氷冠の融解がもたらす影響により、地球規模の生態系の多くがすでに安定性を失いつつあり、さまざまな野生種の生活が脅かされていることにほとんど疑いの余地はない。農家の人々はこのような変化に必死に対処しているが、もし降雨量や日照や気温について予想されているとおりの変化が実際に起きた場合には、この惑星が人類に十分な食料を供給する能力は数十年のうちに衰え、深刻な危機に見舞われることになるだろう。この種の影響はたしかに持続可能性の問題ではあるし、何人かの論者は持続可能性について考える際にこの問題を前面に押し出している。
 持続可能性にとって気候変動の問題が重要なのは明らかだが、私たちは本書において気候変動にテーマを絞るつもりはない。もしこの種のトピックを同じようなQ&A形式で読みたいのであれば、同シリーズの、ジョセフ・ロミー著『気候変動──みんなが知っておくべきこと』をおすすめする。私たちの本では、持続可能性という考え方がもっと多様で、身近な相互作用のプロセスに根ざしているということに焦点を当てる。気候変動を引き起こすような大気の流れは、そうしたさまざまなプロセスのうちの一つにすぎない。持続可能性の概念は、ビジネスの活動やガバナンスの課題、経済発展など、さまざまな社会領域に適用可能だ。持続可能性をめぐる問いに対する私たちの返答を手引きにして、読者のみなさんが気候変動の問題を、こうした社会の諸領域において持続可能性が問題となるさまざまな側面と結びつけられるようになればと考えている。
 
持続可能性は経済・社会・環境における進歩が合わさったものなのか
 持続可能性をシンプルに表すために、三つの円が重なり合う図がよく使われている。それぞれの円には、多くの場合、社会・環境・経済もしくは人々・惑星・利益という名前がつけられており、私たちはこれを三重円の持続可能性(three circle sustainability)と呼んでいる。この三つの領域は持続可能性の三つの柱として描かれることもあるが、考え方は同じだ。第二章で見ることになるが、このモデルはビジネスにおけるトリプルボトムラインの議論に由来するものと思われる。このモデルの優れた点は、環境以外の他の領域の重要性にも人々の目を向けさせることができるところにある。しかし、弱点もある。第一に、環境保護のために努力する場合でも、企業が利益をあげたり、人々が自らのニーズを満たしたりすることは容認しなければならない、という単純な主張として理解されかねない。一般的には、収益性と社会の進歩は環境の持続可能性を脅かすものとみなされてはいるが、それらの活動自体が持続可能かどうかは問題とはみなされていない。第二に、このモデルでは三つの領域すべてが満たされなければならないことが示唆されてはいるのだが、そのことは、三つの領域がどのように相互に結びついているのか、あるいは、そもそもそれらが相互に結びついているのかということについては教えてくれない。例えば、環境へフィードバックするビジネスの活動があるのか、環境に関わる出来事はビジネスの持続可能性に影響するのかといったことは示されていない。この三重円の図を見るだけでは、このような結びつきが持続可能性を検討する上で重要だと考える必要があるようには思えないのだ。第三に、この三つの円の繋がりをある種のスイートスポットと見なすことで、持続可能性を高めるための意思決定において、三つの領域それぞれがめざしている目標の間に深刻なトレードオフが生じる可能性があることを見落としかねない。そして最後に、この三つの領域の概念が狭く設定されてしまう可能性がある。課税や政府の財政は社会の円に入るのか経済の円に入るのか、もしくはこれらの活動はどの円からも締め出されてしまうようなものなのか。科学的な研究や宗教、芸術はどうだろう。これらは社会という言葉によって十分に説明されるものだろうか。私たちが議論のテーマにする諸々の活動は、三つの領域のうちのどれかに含めることができるのかもしれない。しかし本書で持続可能性という言葉を使うときには、どちらかと言うと、より広範な活動やプロセスをイメージしたり評価したりするための手段のことを考えている。
 
持続可能性は善いことのみに関わるのか
 あるプロセスや活動が継続しうるかどうかという問いは、さまざまな仕方で理解することができる。これを純粋に事実の問題とみなす人もいるだろう。つまり、ある活動が実際に起こり続けるか、あるいは制約となる要因が何かあって、その活動が減少したり、低下したり、停止したりするかを問題にするのだ。しかし、「できる(can)」という言葉は許可を意味することがあり、その場合には「何かをし続けることができない」ということは、それをすることが許されていないという意味になる。当然、この二つの「できる」の意味は互いに対立することがある。例えば、学校の先生が教室の前で教卓を叩いて「そんな態度を続けることができると思うなよ!」と怒鳴っており、後ろの席の生意気な生徒たちが「何で? いくらでも続けることができるさ」とうそぶいている光景がそれにあたる。このことは、持続可能性という概念がはじめからある種の緊張関係をはらんでいることを意味している。さまざまなプロセスや活動の実行可能性を強調する概念と、その望ましさや許可を強調する概念とがそこには同時に存在しているのだ。言い換えれば、持続可能性には、あるプロセスや活動が続くべきかどうかについての価値判断を反映する場合があるということになる。
 まったく望ましくもないのに、明らかに持続可能性が高すぎると思われるような現象もある。戦争、貧困、疫病、人々の悲惨な状態は今のところすぐに止むような気配はない。悪い状況について、それが事実として将来まで続くかどうかという意味で持続可能性を問うことは原理的には可能だ。しかし、続けることが善なのかどうか、続けることが許されるのかどうかといったことに力点を置く人々は、持続可能性という概念をそのような事実的な意味では使っていない。実際、私たちの一般的な暮らしを支える広範な活動のシステムについて語る際に、人々は概して持続可能性の追求が偏見や弾圧や不公平といった悪徳を弱体化し、それらの根絶を推し進めるものだと思い込んでいる。ここにもまた、意見が対立し、誤解が生じる要因がある。というのも、めざすべき社会目標ということでどのようなものを考えるかは人によって異なるからだ。これは出発点の違いから生じるのとは違った種類の不一致だろう。持続可能性の意味について意見の不一致があるとすれば、そのいくつかは、社会生活において何が可能なのか、何が望ましいのかということについての意見の相違から生じている。
 これからの議論では、あるプロセスが持続可能かどうかを見積もることと、そのプロセスは持続すべき(もしくは持続すべきでない)という言い方で勧めることの間にある緊張関係が折に触れて浮かび上がってくる。私たちはそれについては第6章の社会正義に関する文脈の中で直接取り上げることにする。一般的なことを言えば、もしあなたが持続可能性という概念をある特定の社会的、倫理的な目標に強く引きつけて理解しようとしているのだとしたら、私たちはそうすることはおすすめしない。持続可能性を向上させる活動においては、人々が維持したいと思っている望ましいものに注目が集まるが、悪がどうしてしつこく残り続けるのかを理解することもまた事態を変化させるために不可欠の条件だ。持続可能性という概念は、この両面をサポートするために役立てることができる。私たちのアプローチでは、持続可能性は多様な社会的、自然的なプロセスをカバーする傘のような概念であり、こうした多様なプロセスがすべて一点の曇りもなく善いものであるというわけではない。したがって、この問いに対する答えはノーということになる。持続可能性が常に善いことのみに関わるとは限らないのだ。
 
持続可能性の追求は社会運動なのか
 社会運動とは、大規模で広範囲にわたる集団的な活動であり、一般的には社会規範や社会の今後の見通しに大きな変化をもたらすことを目的としてなされる。そのための手段はさまざまであり、例えば、政党や組織(労働組合など)による公式のアクションが必要な場合もあるし、そうした公式の手続きとは関係なく、人々の態度が変わることで社会に変化がもたらされることもある。社会運動はいくつもの相容れない目標を包含している可能性があるし、たいていそうなることが多い。また社会運動は、それが実際に起きている間よりも、むしろ運動が終わった後の方が特定しやすい。主要な目標を達成できる運動もあるし、失敗に終わるものもある。二〇世紀を代表する社会運動には、労働運動のほか公民権運動や女性解放運動といったものがある。
 持続可能性のことを、包括的で、ラディカルですらあるような社会変革のためのプログラムの一つとみなしている人たちは確かに存在する。しかし、本書の冒頭で、私たちは持続可能性をすべてのプロセスや活動がどのくらい持続する可能性があるかをはかる尺度として特徴づけた。この定義に従うのであれば、この概念は、社会変革とはほとんど関係ない多くの状況にも当てはめることができるようなものだといえる。この本の最初の三分の二は、非常に広範な適用範囲を持つさまざまな概念や方法の説明に費やすつもりだ。こうした概念や方法は、制度の変革にはほとんど関心がない人や組織でも使うことができる(そして実際使っている)ものだ。このような組織には企業も含まれており、そのうちのいくつかは現状維持にかなり強い関心を寄せている国際的な大企業だ。持続可能性の追求を一つの社会運動と見なしてしまうと、持続可能性は善いことにしか関わらないのだと前提する場合に生じるのと同じ問題に煩わされることになると私たちは考えている。このような見方は、善いことの支えにも悪いことの支えにもなりうる根本的なシステムや包括的なシステムについて考える際の妨げとなってしまうのだ。
 
持続可能性の追求は経済成長と対立するのか
 いや、対立はしない。実際、持続可能性についての専門的研究の多くは、経済成長に関する経済学的な理論の内部で発展してきたものだ。第5章で論じるように、成長は経済発展の鍵となる基準の一つなのだが、唯一の基準というわけではない。さしあたりここでは、経済成長がさまざまなかたちを取りうるということだけ理解しておくことにしよう。ある種の成長は資源を枯渇させ、地球の生態系に取り返しのつかないダメージを与える可能性があるが、その一方で、ほんの少しの資源しか使わず、むしろ生態系を回復させるような成長もある。成長がみんなを助けることもあるが、別のタイプの成長は社会不安や戦争、革命を助長する。つまりここで問題なのは、私たちがどんな種類の成長を話題にしているかということだ。この問いにさらに詳しく答えるには、成長の測定の仕方と、それが発展とどう関係するのかについて予備的な議論をしておく必要がある。こうしたことが、第5章の主題となる。
 
持続可能性の追求は政治的なアジェンダなのか
 持続可能性を向上させようとしている人々の多くは、政治的に解決されるべきアジェンダがあると考えているが、それでもやはりこの問いに対する答えはノーだ。持続可能性の定義は大変幅広いものなので、異なるイデオロギー的な立場や文化的な前提、政治的な意見を許容することができる。しかし、持続可能性という考えそれ自体は、特定の政治的な見方と本質的に結びついてはいない。それは主観的なものではないし、意見の問題でもない。ここで私たちはある友人のことを思い出す。ある農業組織のメンバーと議論している際に、その友人は「持続可能な農業を支持するのかしないのか」と尋ねられた。それは「持続可能な農業は主流となっている農業活動に対する政治的な攻撃だ」という見解を反映した誘導尋問であり、話の流れからして、主流の農業活動に批判的なことを言うのは政治的にまずい状況だった。友人は、「持続可能でない農業を支持するつもりは毛頭ない」と答えた。質問者は持続可能性をある特定の政治的な意図と結びつけており、持続可能でない農業を支持していると仄めかしてしまったがために、すぐにやり込められてしまったわけだ。根本的な争点は、政治的な理由で支持されているある種のフードシステムが持続可能かどうかということよりも、むしろあらゆる農業の形態それ自体が持続可能かどうかということだ。活動やプロセスの持続可能性について考えることは、事実を基盤にしてなされる。そのことは、活動やプロセスそれ自体について鋭い政治的な分断があるときでも変わりはない。これがここで得られる教訓だ。
 個別事例の検討に取り掛かかれば、プロセスや活動の根底にある構造や必要条件を明らかにすることが多くの場合に可能だ。また、そうしたプロセスや活動をある時代から次の時代へと継続させたり繰り返し生じさせたりするものについて、純粋な洞察を深めることもできる。どんな事例にも適用できるような持続可能性のレシピは存在しないが、本書では、話題がさまざまに移り変わっても特定の活動の持続可能性を客観的事実に基づいたやり方で確認し、検討していく。
 その一方で、持続可能な農業について問われた友人の答えを見るとわかるように、どのプロセスや活動を維持すべきかということについての信念は、たしかにその人の政治的信条に左右されるものでもある。本書では、ビジネス活動や公共政策の持続可能性を評価する方法や基準がどのように発展してきたのかを事例を交えて説明し、また、人類が以前にもまして広範な自然環境に影響を与えているさまを具体例とともに描き出すというアプローチをとる。このような例を検討する際には、「持続できる」という言葉を、基本的には事実的な表現として使うことにする。何かを続けるべきかどうかということについて、規範的な評価を下すことに重点を置いて持続可能性という概念を使うと、それが特定の社会目標を明示しているようにみなされてしまう傾向が特に強くなる。社会活動をより公平、公正、平等にするための変革に向けたアジェンダとして持続可能性が前面に押し出されているような場面では、そのことをはっきり示すために、社会目標ないしは社会正義といったフレーズを使うことにする。
 
持続可能性はそもそも確保できるものなのか
 よく言われるように、永遠に続くものなどない。このような考えから、持続可能性の確保は論理的に不可能だという結論を冗談めかして言う人がいる。しかし、ある活動やプロセスが未来永劫続かないのであれば、それを持続可能だとみなすことはできないなどと考える人がいるだろうか。ある活動がどれくらい長く、またどの程度まで持続しうるかということは、その背景にある諸々の条件が与えられれば、さまざまな方法で測ることができる。これらの条件に劇的な変化が起こるというだけでは、そうした活動が持続可能でなくなると考える理由にはならない。これは「もし彗星が地球にぶつかったらどうなるか」といった類の思考実験のようなものだ。現在では、およそ六六〇〇万年前に、ある大きな天体が私たちの惑星に衝突して大規模な絶滅が起きたと考えられている。気候の急激な変化により、その当時存在していた種のおよそ五〇%が絶滅したと推定されている。これらの絶滅種は隕石の衝突から生き延びることができなかったのだからその生命プロセスは持続不可能だったのだ、などと言う人がいたとしたら、その人が何を言いたいのかよくわからないだろう。
 とはいえ、現在生きている人々は、その人生の内で、当時と同じくらいの種の絶滅を目の当たりにすることになるかもしれないと予測する環境科学者もいる。先にも述べたが、気候変動についての科学的なモデルには、現存する多くの生命体(人間を含む)がこの惑星に生息できなくなるシナリオが含まれている。地球上の生命を支える背景条件にこうした劇的な変化が生じることになれば、持続可能性を高めようとする現在進行中の試みの多くは無意味になってしまうだろう。伝統的な宗教や哲学は、世界の終わり、アルマゲドン、終末、混沌への逆戻りといった可能性に思いを巡らす。こうした出来事をポジティブなものとみなす場合もあれば、それらを循環する宇宙のサイクルの一場面とみなす場合もあるが、いずれにせよそこでは、現在私たちの人生を有意義にしているものの多くが破滅や変動や荒廃にさらされていることが絶えず示唆されてきた。科学的なものであれ、神学的、宇宙論的なものであれ、持続可能性の確保が可能かどうかについての問いは答えるに値する。ひょっとすると、この節の問いはそんなに馬鹿げたものではないのかもしれない。
 しかし、持続可能性がこのように宇宙レベルの遠大な期間でも確保されるかどうかを、ここであえて考えてみるつもりは私たちにはない。人生の旅の歩みをそのつど吟味することも、みんなが依存しているシステムに誰かがダメージを与えているのかどうかを問うことも、どちらも十分に意味のあることだ。そうだとすれば、持続可能性の確保がすべての問題を解消した後にたどり着くことのできるゴールだと考える必要はなくなる。実際、専門家たちが自然のシステムの観察をとおして学んだこと(第3章)は、地震やハリケーンや洪水といったことがらが引き起こす衝撃的な出来事に自然のシステムが反応したり、それに応じて変化したりするということだった。この知見を経済や家計や政府といった人間のシステムに応用すれば、これらのシステムが混乱に対処して持続できるものなのかどうか、もしくは深刻な事態により存続が脅かされるものなのかどうかを評価することができる。
 科学的なアプローチは要となるシステムの統合性を強めることをめざしており、そのシステムが崩壊する可能性を調べるときにですらその姿勢は変わらない。伝統的な神学や哲学は、すべての人が日常の生活を続けなければならないし、自らの人生が意味あるものだと信じることを諦めるべきではないと主張する。科学が崩壊を予測しようが、宗教が人類の末路についてどんな憶測をしようが、今ここで不道徳な振る舞いをしてよいことにはならない。伝統的な宗教と哲学に従えば、人類にいつか終わりの時がくるとわかっていても、世界が存続する限り、人類はできる限り最善を尽くす義務を免れることはない。私たちを取り巻くさまざまな害悪を終わらせるよう努力しながら自らの暮らしを続けることは、たとえ最後の最後にはすべてが無に帰するほかないとしても、現在私たちが果たすべき責任なのだ。事実、終末論的な崩壊に思いを巡らすことで、過ちや喪失がもうすでに起きてしまっていることに私たちは気づかされる。そしてこの認識は、数十年前、もしくは一世紀前に世界の終わりを経験した人々がいたという事実を真摯に受けとめることを促す。工業化と植民地の拡大は、多くの先住民の生活環境をすっかり変えてしまった。先住民たちは自分たちが終末後の世界に適応しようとしているところだと思っている。だからと言って、これからも生き続けることや持続可能性を追求することが彼らにとって重要なことでなくなるわけではない。そうした人々の境遇を考えてみれば、持続可能性の追求ということで、世界を救い、崩壊を回避することだけを考えている人々も、少しは謙虚な気持ちになれるのではないだろうか。
 持続可能性を終着点とは考えないほうがよい。特に持続可能性を「ビッグアイデア」のようなものと考えるときには気をつける必要がある。このことに注意を向けるために、持続可能性の追求は旅のようなものであって目的地ではない、という言い方を好んでする人もいる。みんなが依存しているシステムを今よりさらに持続可能にすることはできるし、他の活動やプロセスの持続可能性にどのような影響を与えるのかを考慮して自分たちの選択を評価することもできる。このようなことをしたとしても、持続可能性というプロジェクトが終了した後に完全な世界がおとずれるとは限らない。しかし、完全な世界がおとずれるかどうかわからないからといって、このようなことをする必要がないということにもならないのだ。
 
持続可能性の考え方はどこからきたのか
 この問いに対する答えは一つではない。環境歴史学者であれば、森から持続的に収穫できる樹木の量を決定する方法の出現を挙げることが多い。しかし、ドイツの林業でこの方法が登場するずいぶん前に、政治学者は国家や政治体制の持続可能性を明確に問題にしていた。持続可能性の考え方が古くから存在していたと考えるのはおかしなことではないのだ。とはいえ、この節の問いに対する答えが一つに決まらないとしても、持続可能性のアイデアが現代になってポピュラーになり始めた時期を特定することは可能だ。それは一九八七年、環境と開発に関する世界委員会が「我ら共有の未来(Our Common Future)」というレポートを公にした年だ。それ以降、さまざまな議論において、このグループはブルントラント委員会として知られるようになり、「我ら共有の未来」は今でもよくブルントラント・レポートと呼ばれている。グロ・ハーレム・ブルントラントは元ノルウェー大統領であり、この委員会の委員長を務めた。彼女は環境問題への世界的な取り組みを促進するうえで主導的な役割を果たした人物だ。
 ブルントラント・レポートでは、工業化の恩恵は享受していないが、一方で環境質は維持しているような国々の経済発展を継続的に促進することが課題として報告された。解決すべき主要な問題としては、化石燃料のような有限な資源が最終的には枯渇してしまうことが挙げられている。また、もう一つの課題として、食料やきれいな水といった再生可能な資源を支えている生態系に対してもたらされるダメージの潜在的な危険性が提示された。そして、すべての国がこれらの課題に向き合い、持続可能な発展を遂げるべきだという主張がなされた。ブルントラント委員会の次の言葉は記憶にとどめておきたい。持続可能な発展とは、「将来世代が自らのニーズを満たす能力を損なうことなく現在世代のニーズを満たすこと」なのだ。
 ブルントラント・レポートは、グローバルな計画や方針に数々のめざましい影響を与えた。このレポートによると、(アメリカやヨーロッパのような)先進国の経済は資源を使い果たし、生態系にダメージを与えており、将来世代に対する責任を果たしていない。その一方で、貧困率が高く生活レベルの低い社会は経済成長を続けてよいことにしなければならない。世界の生活水準が偏った状態を続けるのは、許されるべきことではないのだ。この未来像の出現によって、アフリカ、アジア、ラテンアメリカの経済発展を促すさまざまな活動を、「将来世代は自らのニーズを満たすことができなければならない」という原則に抵触せずに持続するにはどうしたらよいか、またそうしたことはそもそも持続できるのかということについての研究や報告が活発になり急増した。持続可能な発展の議論の興隆は、最終的には、他の領域の計画や方針にも広がっていった。ブルントラント委員会が明確にしたこの根本的な問題は広く一般化されて、地域や国家の計画、ビルの工事、建設から農業にまでおよぶさまざまな活動に適用されるようになった。このようにして、「将来世代が自らのニーズを満たす能力を損なうことなく現在世代のニーズを満たす」という考え方は、多くの人々の間で持続可能性そのものと同一視されるようになった。
 
持続可能性の考え方は時代とともに変わってきたのか
 これは一文や二文で答えられるような問いではない。今後の章で検討する事例が示すように、ある活動やプロセスから別の活動やプロセスへ(例えば、林業からグローバルな経済発展へ)話題を変えると、それに伴い持続可能性の意味も変わる。あるものが持続可能かどうかは、それが何であるかに大きく左右されるのだ。しかし同時に、その事例からは、一つの活動やプロセスからもう一つの活動やプロセスに当てはめることができるような、持続可能性の核となる意味の存在も見えてくる。しかしながら、社会目標としての持続可能性の変化について語るとすれば、ブルントラント・レポートによって定義された「持続可能な発展」が脚光を浴びるようになった一九八〇年代後半以降の重要な変化に注目することになる。
 一九八〇年代に人々が持続可能性について語り始めた時、主要な問題は資源の枯渇や汚染、自然の多様性の保全をめぐるものだった。経済発展はエネルギーを必要とする一方で化石燃料は有限であり(一九八七年には、潜在的な供給量が今考えられているよりもっと少なく見積もられていた)、工業のプロセスは人間の健康に害を与えるような汚染を引き起こす。持続可能な発展とは、資源利用の効率性を高めるとともに汚染を劇的に減らすようなプロセスだと思われていた。しかし、工業化が進んでいない国々には、野生動物の楽園である熱帯雨林や未開発の広大な地域の保全が、経済発展という目的と直接衝突するように感じられただろう。当時の文脈では、持続可能な発展にコミットすることは、人々の富と福祉を増加させることにコミットすることであると同時に、自然のためにたくさんの土地を確保し環境へのダメージを最小化することにコミットすることでもあった。二〇二〇年代の現在では、地図上に線を引いてこのような保護地域への人間のアクセスや利用を制限するだけでは、人間社会は自然の多様性を保護できないということを、環境科学者たちはすでに理解している。早い話が、工業化社会からの排出物による汚染の影響は、それ以前に考えられていたよりもずっと広範囲に拡散しているのだ。二酸化炭素やメタンといったガスは、太陽光と相互作用して、温暖化と寒冷化、風、降雨のサイクルを不安定にしている。気候変動により地球の平均気温が徐々に上昇していることは、この影響の一つのあらわれだ。このようなサイクルの変化を観測しているがゆえに、いくつかの主要な社会目標は再検討されている。またこれに伴い、人々が持続可能性ということで考えている内容も変化している。なかには、持続可能性を乗り越える時がきたとさえ主張する人もいる。レジリエンスこそが新しい目標だと言うのだ。
 
レジリエンスとは何か
 狭義には、レジリエンスとは、洪水や山火事のように極めて強いストレスがもたらされた後で生態系が立ち直る能力をはかるための尺度だ。とはいえ、この言葉は他のタイプの回復や復旧を表すのにも使われることがある。ある企業が景気後退後に黒字を回復することができたとすれば、その企業はレジリエントだと言われる。また、経済や社会に対する壊滅的な打撃(主要な雇用先を失ったり、パンデミックを経験したり、人種間の抗争が破壊的な出来事に発展するのを経験したり、等々)を切り抜けて、そこから回復するコミュニティもまたレジリエントだと言えるだろう。レジリエンスについてのこうした大まかな考え方は、長らく持続可能性を測る尺度の一つとなってきた。あるシステム(例えば生態系、組織、社会グループ)が大きなストレスから回復できるかどうかを測る尺度が、そのシステムが持続可能であるかどうか、すなわち「そのシステムが存続できるのか」ということを示す指標でもあるのは当然のことだ。レジリエンスに関しては、生態学を主題的に扱う際(第3章)に再び問いを立てることにしたい。「レジリエンスとは何か」という問いについては、その際により詳しく答えることになる。
 
持続可能性とレジリエンスの違いはどこにあるのか
 これはいい質問だ。この二つの言葉は区別なく使われることがある。違いをはっきりさせるとすれば、持続可能性は、活動やプロセスが存続するために必要となる主要な資源や資金の不足に関連づけられるのが一般的だ。石油や水の不足に対する懸念は、まさにこの意味で持続可能性についての課題とみなされる。これに対して、活動のプロセスやシステムが混乱に対して著しく脆弱な場合、その問題はレジリエンスの不足として説明されるだろう。本書で私たちがとるアプローチでは、レジリエンスに関連する要素を、持続可能性の指標として扱っている。資源の不足とは対照的に、レジリエンスの点で持続可能性が問題になる場合には、システムがうまく組織化されていないことが強調されることになる。例えば、流れてくる情報のなかでどの情報に反応し、どの情報をブロックするのかうまく取捨選択できていない場合がそれにあたる。私たちは章を追うごとにさらに多くの事例を出していくが、そのなかでレジリエンスと持続可能性が異なる二つのものとして扱われる傾向が強まっていくことに注意しておいてほしい。
 
持続可能性はなぜ流行っているのか 流行ることのメリットは何か
 流行りのものにはみんなが飛びつくものだが、持続可能性の流行もまた、ある部分ではこのような現象に過ぎないということは認めざるを得ない。みんながみんな持続可能性のことを話題にしているように見えるし、だからこそバンドワゴン効果で持続可能性にいっそう注目が集まる。しかし、持続可能性への関心はもっと深刻な理由でも高まっている。以前にもまして多くの人が気候変動を意識し始めているのだ。みんな自分たちがしていることの多くを今後も継続したいと思っており、さらに重要なことだが、そのなかには例えば食べものを食べたり水を飲んだりといったように、私たちが生存するために不可欠な活動も含まれている。私たちが生存するために不可欠な物資へのアクセスを、気候変動(あるいは何か他のもの)が脅かしていると考える根拠があるのだとしたら、それは私たちの暮らし方が、みんなが望むほどには持続可能でないことを示す証拠になるかもしれない。持続可能性に関心が集まるのには、こうした理由が根底にあることを見失ってはならない。とはいえ、実のところ、持続可能性について考えることが重要視されるようになった背景には、もっと微妙で、ことによるともっと興味深い理由があるように思われる。
 人類の現在の活動がどれくらい持続可能かを正確に見積もろうとする際には、たいてい、あるプロセスや活動が他の多くの活動にどれくらい依存し、またどれくらい影響を与えるのかということを考慮に入れるだろう。ここでは、つまり、システムの観点からものごとが考えられていることになる。システム思考を通じて相互依存性や相互関連性を発見すること自体は有益だ。それによって隠れていた脆弱性だけでなく、見過ごしてしまいがちなチャンスを明るみに出すことができる。持続可能性をより深く理解することができれば、その助けを借りて、例えば安全や利益、社会正義といった持続可能性以外の他の目標も達成することができるようになる。持続可能性がビジネスのマネージメントや都市計画、建築、農業、国際的な発展にまで至る広い領域で流行している理由の一つはこの点にある。持続可能性について考えることは一つのツールとして有用であり、人々が依存するプロセスや活動がこれからも引き続きしっかりと機能して力を発揮するための助けとなる。言い換えれば、持続可能性はシステム思考へと至るための架け橋であり、システム思考は多くの目標を達成するのに役立つのだ。
 さらに言えば、システム思考は、どうして多くの害悪が繰り返されしつこく残り続けるのかを理解する助けにもなる。私たちの暮らし方のポジティブな要素を維持し、それをレジリエントにするために何が必要なのかを理解できるようになれば、ネガティブなことがうんざりするほど何度も繰り返し起きてしまう理由を理解するツールを手にすることにもなる。個人や集団は、あるプロセスや活動が持続可能かどうかを分析することで得られる概念、計画、管理に関するツールを、コントロールしたかったり終わらせたかったりするプロセスや活動に適用することができるようになるのだ。持続可能性という考え方には、混乱や意見の対立の種になるような要素がないわけではない。しかし、一般的に言えば、持続可能性のための尺度を私たちの思考に組み込むことができれば、世界中の文化や社会集団が追求する暮らし方のポジティブな特性を維持し改善する能力は高まることになる。また同時に、このことは社会生活に含まれる望ましくない特性を再生産するメカニズムを理解する助けにもなる。
 要するに、何がある活動やプロセスをさらに持続可能にするのかと考え始めた人々は、自分が大切にしている多くのものごとについて考える際に、より効果的な思考法へといつの間にか引き込まれていくのだ。資源消費や環境の脆弱性といった事実が、持続可能性の現在の流行の大きな一因ではある。しかし、システム思考が持つこの潜在的な力こそ、持続可能性についてみんなが知っておくべきことだ。それゆえ、私たちにとって大切なものごとが社会と自然の両システムにどれほど依存しているのか、それを考えるためのコツを読者がうまくつかむことができるよう工夫して本書は構成されている。私たちはお金に関する事例から話をはじめる。というのも、お金はみんなにとって身近なものだからだ。自分たちの暮らしを続けるためにはお金が定期的に懐に入ってくることが決定的に重要であり、このことをほとんどの人は身にしみてわかっている。それに続いて、人間からの入力や指示がほとんどなくても、機能し続け、自らを再生産し続ける自然システムへと話を進めることにする。どちらの場合でも、持続可能性を測るためには、一つ一つの構成要素がより大きなシステムの中に埋め込まれていることを理解する必要がある。
 
持続可能性の追求は個人の義務か、それとも社会の義務か
 どちらの義務でもある。ほとんどの人は、自分の家計や暮らしの持続可能性について多少なりとも考えたことがあるだろう。みんな無駄づかいをしないようにするし、大変なことになる前に家や車を修理する。こうしたごく普通の計画性は個人レベルでの持続可能性の確保に役立つ。その一方で、私たちが論じる事例のほとんどは、もっと大きくて複雑な社会システムや自然システムに関連している。ある地域の生態系や経済が持続可能かどうかは、多くの個人の相互作用のあり方と相関している。こうしたより大きなシステムの持続可能性を一個人ですべて確保できる人など誰もいない。とはいえ、人々が個人として行うことは積み重なっていく。そして、その個人の選択パターンがより大きくて包括的な社会システムや自然システムを持続不可能にするかもしれない。
 ところで、私たちは少し前に「持続可能性はデータと分析によって評価できる」と述べていたのだが、今度は「持続可能性を追求する責任がある」と主張していることから、困惑してしまう読者もいるかもしれない。しかしそのような方は、もう一度ここまでの議論を読み返してほしい。私たちが支持しているのは個人的、社会的な選択肢についてより責任あるかたちで考えることとしての持続可能性の追求だ。それは、無作為に選ばれた活動やプロセスの持続を後押しする道徳的な義務が私たちに課せられるということではない。先に述べたように、活動やプロセスの持続可能性を評価することと、それらの活動やプロセスが持続すべきかどうかを評価することは無関係ではない。持続不可能なプロセスに期待をかけるとしたら、それは馬鹿げたことだ。この二つの評価プロセスの間にある緊張関係は折に触れて表面化してくるが、どんな活動やプロセスについて議論する場合でも、それが置かれている文脈を見れば、その緊張関係を解消する手がかりが見つかると私たちは考えている。そしてそのことは「私たちの暮らし方」と呼ばれる、大きくて曖昧なシステムにも当てはまる。
 個人には仲間である市民の振る舞いを規制するだけの権力はないが、そうだとしても、重要な社会的、生態学的システムの持続的な機能を促進するようなかたちで行為すれば、個人でも自分の所属する社会がさらに持続可能になるよう後押しすることができる。個人が貢献できるやり方は三つある。第一に、さまざまな結果は蓄積していくものなので、人々が個人として取る行動は、社会的、経済的、環境的な健全性の維持全般に直接的に貢献する。第二に、より持続可能なライフスタイルで暮らすことは、二一世紀に生きる私たちみんなが市民としてそなえるべき重要な徳の一つとなっている。他人の振る舞いと互いに影響し合う自分の行動のあり方を反省することで、個人は社会レベルでより大きな持続可能性を確保するために必要な責任あるシチズンシップという資質を示すのだ。そして第三に、各々が政治的なプロセスを通して行動することにより、企業や政治家や他のリーダーに対し、社会的なレベルで持続可能性を向上させる意思決定をするよう促すことができる。最終章では、持続可能性を高めるために個人ができるいくつかの具体例を挙げ、これらに関連する特に重要な諸問題ついて論じることにする。
 
この本はどう使ったらいいのか
 オックスフォード大学出版局の「みんなが知っておくべきこと」シリーズのねらいは、特定の分野で主題となっている専門的で複雑なことがらのエッセンスを読者に紹介することだ。このシリーズの本では、それぞれの主要なトピックについて理解したいと思っている人が疑問に思いそうなことが、質問形式で次々と並べられていく。その質問に答える中で、著者である私たちはそのトピックに関連する重要な考え方を説明し、誰もが知っている状況にそういった考え方をどう適用することができるのかを具体的な実例を挙げて解説する。これらの問いに一つずつ順番に取り組むことで、持続可能性の核心にあるシステム的な思考に読者のみなさんが徐々に親しんでいけるように工夫して問いが並べてある。とはいえ、気軽に一番気になる問いから読んでもらっても、一向にかまわない。
 第2章から具体的な議論を始めるわけだが、そこでまず私たちは持続可能性の概念がビジネスを運営する際にどのように使われるのかを見ることにしたい。「企業が経済競争で生き残るためには何が必要か」ということなら、誰もが理解しやすいのではないかと思う。第3章では、持続可能性の考え方が生態系プロセスの理解を深めるためにどのように応用されるのかを具体的に示す。第4章では、引き続き環境をテーマにする。持続可能性の考え方は、汚染や資源の枯渇など、環境質に対する脅威への対処法の一つとしてこれまで利用されてきた。その鍵となる在り方について検討したい。第5章では、読者に経済発展の基本的な考え方を紹介し、ブルントラント委員会のグローバルな経済発展へのアプローチが持続可能性の考え方全般に強い影響を及ぼした経緯を説明する。ブルントラント委員会は、成長の限界という文脈で世界の発展を再考することに意欲的に取り組み、現在世代の貧しい人々と将来世代の両方にとって公平であることを目標とするアプローチを構築した。これは第6章の持続可能性と社会正義というトピックへとつながる。すでに述べたように、持続可能性は、善と悪、公平と不公平、進歩と堕落という私たちの考えと本質的に結びついている。私たちはお説教にはならないよう努力するが、第6章では、倫理と価値が持続可能性の議論を具体化するあり方を概観する。そのあとに、持続可能なガバナンスに関する第7章が続く。そこでは、「ガバナンスシステムの持続可能性に影響を与える要因は何か」、「ガバナンスプロセスは、より一般的な観点から見て持続可能性にどのように影響するのか」という二つの問いをめぐって議論を組み立てる。第8章では、それまでの章で展開された持続可能性の考え方に照らして、社会の他の領域(芸術、宗教、特に科学)の問題を論じる。最後に、持続可能性の向上についてみんなが何を問うべきかを検討する章を置いて、この本を締めくくることにする。
(傍点と注は割愛しました。pdfファイルでご覧ください)
 
 
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