あとがきたちよみ
『ニュースの政治社会学』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2022/8/16

 
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山腰修三 著
『ニュースの政治社会学 メディアと「政治的なもの」の批判的研究』

「はじめに」「第三章 原発事故をめぐるメディア経験の政治性」(冒頭)(pdfファイルへのリンク)〉
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はじめに
 
 「ニュース」と呼ばれる情報は、現代の政治社会、とくに民主主義社会にとっていかなる価値や問題を有するのか。そして批判的なメディア・コミュニケーション研究はそうした価値や問題をどのように明らかにしうるのだろうか。本書はこれら二つの課題に取り組むことを目的としている。
 以下、六つの章で理論と日本社会を主たる対象とした事例から探究を進める中で、次の点を論じていく。第一に、専門的組織を通じて生産されるニュースは、現代社会の民主主義のあり方と密接に関わる。そして社会秩序の形成・維持・変容のメカニズムに深く組み込まれている。第二に、ニュースは社会の価値観や利害関心を不可避的に反映しつつ社会的な「現実」を構築する。言うまでもなく、このニュースの表象をめぐる問題は批判的コミュニケーション論やニュース研究が長らく取り組んできたテーマである。ただし本書では、それが現代社会の民主主義のあり方と結びついている点が強調される。そして第三に、こうしたニュースと民主主義社会との関係性そのものが、現代的な危機に直面している。それはフェイクニュース、ポスト真実(トゥルース)の政治、あるいは既存のジャーナリズムに対する信頼の低下といった形で展開しつつある。この危機はニュースやニュースメディアをめぐる社会的認識の変容と関連するが、その要因はメディア環境の変化にとどまらず、政治的、経済的、社会的諸要素から複合的に構成されている。先に挙げたニュースの表象をめぐる問題が伝統的な問題系だとすると、このニュースやニュースメディアをめぐる現代的危機は、分析に際してこれまでとは異なる概念や理論が求められる新たな問題系だと言える。
 本書は冒頭に挙げた二つの課題について、ニュースやニュースメディアと「政治」との関係性に注目することでアプローチする。この場合の「政治」は、議会、選挙、政策過程といった狭義のものではなく、権力関係や主体形成、社会秩序をめぐる広義の「政治的なもの(the political)」を指す。すなわち、第一にニュースが社会秩序の形成・維持・変容をめぐる力学や、政治的主体の構築をめぐる「境界線の政治」にどのように関わっているのかという問題である。第二に、ニュースの生産・流通・消費をめぐる「ニュース文化」が「政治」との関係でどのように制度化し、あるいは変容しつつあるのかという問題である。これらの問題に注目することで、ニュースと民主主義社会との関係性をめぐる独自の視点を提示する。
 このようなアプローチを行ううえで、本書は従来のジャーナリズム論とは異なる理論や方法論を採用する。第一は、今日のデジタル環境を分析するメディアの社会理論の展開と連動した、ニュースをめぐるメディア実践に注目する点である。第二は、権力、実践、秩序に関わる政治理論を積極的に参照する点である。第三は、一部のメディア研究やニュース研究でも用いられてきた言説分析をラディカル・デモクラシーの言説理論を通じて修正、発展させることである。こうした理論や方法論の用い方は批判的コミュニケーション論で採用されてきたものと重なり合う。そしてそれを通じてニュースとは何かを明らかにするだけではなく、ニュースやニュースメディアが埋め込まれた現代の社会秩序や民主主義の特徴、矛盾、可能性を明らかにすることを目指す。
 本書の概要は次の通りである。第Ⅰ部は本書の分析枠組みを構想するための理論的検討を行う。第一章では、「ニュースの政治社会学」の今日的な展開を論じる。ここでは既存のニュース研究やジャーナリズム研究の中でニュースメディアと「政治」との関係性がどのように捉えられ、分析されてきたのかを検討する。近年、「政治制度としてのニュースメディア」「政治のメディア化」「ハイブリッド・メディアシステム」などの諸アプローチによって研究が活性化してきた点を確認しつつ、「ニュースメディア」と「政治」の両概念がともに流動化し、それらが指し示す範囲を拡大させる中で、両者の複雑な相互作用を分析するための新たな視座が求められている点を指摘する。
 第二章はニュースを分析するための方法論について検討する。その際に、批判的コミュニケーション論において発展してきた「意味づけをめぐる政治」というコミュニケーション概念を手がかりにする。とくに、「意味づけをめぐる政治」概念に基づく方法論の現代的展開として位置づけられる批判的言説分析がテクスト還元主義の傾向を持つために、ニュースと「政治」との複雑な相互作用を分析するうえで困難性や課題を抱えている点を指摘する。そしてこうした困難性や課題に対応するためにメディアの社会理論およびラディカル・デモクラシーの言説理論が展開してきた「実践」概念や「秩序」概念を参照し、「意味づけをめぐる政治」を「ニュースをめぐるメディア実践の政治」へと発展させる。
 第Ⅱ部では、第Ⅰ部の理論的検討を踏まえ、ニュースをめぐるメディア実践が「政治的なもの」の構築、そして社会秩序の変容や維持において果たす機能を分析する。第三章は、日本におけるチェルノブイリ原発事故の報道、およびその後の脱原発運動に関する報道を事例とし、ニュースの政治的意味作用を分析する。ここでは前章で検討した分析枠組みに依拠しつつ、原発事故やその後の脱原発運動を通じて活性化した「政治的なもの」を制御・統制し、日常的な秩序を維持するニュースメディアの政治的機能を明らかにする。
 第四章も引き続き、「ニュースをめぐるメディア実践の政治」に関する事例分析を行う。ここでは沖縄問題の報道について、境界線の政治という概念を用いながら分析する。そして沖縄問題をめぐる政治的主体の構築をめぐり、全国メディアとローカルメディアがそれぞれ異なる境界線の政治を展開してきたことを論じる。さらに近年はソーシャルメディアがこの「ニュースをめぐるメディア実践の政治」に新たな展開をもたらしている点を指摘する。
 第Ⅲ部では、ニュースあるいはニュースメディアと民主主義との関係性をめぐる現代的危機について検討する。第五章は、ポスト真実の政治がジャーナリズムや民主主義にとっていかなる点において危機をもたらしうるのかを検討する。ポスト真実の政治はしばしばトランプ現象との関連から論じられてきた。その結果、メディア研究やジャーナリズム研究の領域では、このテーマがフェイクニュースや米国におけるメディア環境の問題へと還元される傾向がある。それに対して本章では、ポスト真実の政治をより幅広い民主主義の危機の問題として捉えるアプローチを参照する。そして日本におけるポスト真実の政治を「ニュースをめぐるメディア実践の政治」の観点からどのように捉えられるかを考察する。
 第六章はジャーナリズムの現代的危機について、ニュース文化を手がかりに考察する。とくに、ラディカル・デモクラシーの言説理論およびメディアの社会理論におけるメディア実践概念を参照しつつ、「ニュース文化のレジーム」という分析概念を提示する。そして日本社会において、このニュース文化のレジームの危機がどのように進展してきたのかを明らかにする。この危機診断を踏まえて本章では最後にニュース文化の再生の可能性について理論的検討を行う。そして「声」および「聴くこと」というメディア実践が有する意義について試論を展開する。(以下、本文つづく)
 
 
第三章 原発事故をめぐるメディア経験の政治性――チェルノブイリ原発事故報道の言説分析を中心にして――
 
1 原発事故をめぐる「危機」と「日常」
 本章では、原発事故という「危機」がニュースを通じてどのように経験されたのか、そしてその「政治的」意味はいかなるものかを、第二章で検討した「ニュースをめぐるメディア実践の政治」の視座から論じることにしたい。とくにここでは危機をきっかけに活性化する「政治的なもの」を制御し、日常的な秩序を回復させるニュースメディアの機能を明らかにする。
 二〇一一年の東京電力福島第一原子力発電所の事故から一〇年以上が経過する中で、日本社会の(あるいは世界中の)人々はこの事故に起因するさまざまな出来事を経験してきた。とくに、国内初のメルトダウン、放射性物質の大量飛散による広範囲の汚染、被ばく、海水の汚染、あるいは電力不足や計画停電といった一連の出来事は「危機」として経験されたと言える。これらの危機は、日常生活の中断として、あるいは社会秩序の揺らぎとして経験されたのである。
 日常生活の中断は、日常の秩序を成立させていた諸前提を可視化させることになった。すなわち、社会の多数によって「常識」と受け入れられていた原発の安全神話であり、その担い手としての「原子力ムラ」という主体である。人々は、それらが日常生活を規定する社会秩序を成立させていた「技術立国」の論理や「経済大国」の論理といった社会的論理の一部であることを(改めて)認識したのである。その結果、危機をもたらした一連の論理の正統性に疑問を持ち、あるいは対抗的な論理を担う異議申し立てが活性化した。そのような異議申し立ては、新しい社会や政治のあり方を構想する政治的論理に基づいた言説実践でもあった。
 以上のような説明図式は、「リスク社会論」と多くの共通点を持つ。よく知られるように、代表的な論者であるウルリッヒ・ベックは近代化の過程で科学技術が産業化と結びつきながら高度に発展した結果、予測不能で甚大な被害を及ぼす「リスク」を生み出す可能性が高まってきたと論じている。こうしたリスク社会においては、「科学技術がリスクを造り出してしまうというリスクの生産の問題、そのようなリスクに該当するのは何かというリスクの定義の問題、そしてこのリスクがどのように分配されているかというリスクの配分の問題」が中心的課題となるとしている(ベック 一九八六=一九九八:二三。訳一部変更)。
 注目すべきは、「技術=経済システム」の諸領域の「政治性」が明るみになるという指摘である(ベック 一九八六=一九九八:三七七、三八二)。ベックはこの新たな「政治」が議会のような既存の制度的枠組みとは異なる領域で生じると論じ、それが新しい社会形成の原動力となりうる点を強調する(ベック 一九八六=一九九八:三八二、四四〇)。この議論に基づくならば、原発事故は既存の社会秩序のあり方そのものを揺るがし、新たな社会編成に向けた「政治的なもの」を活性化させる出来事とみなされることになる。
 こうしたリスク社会論は、福島原発事故、あるいは一九八六年のチェルノブイリ原発事故の経験、そしてそれらの「政治性」をくまなく説明しているように見える。しかし、このリスク社会論では説明しえない局面が存在する。それは「日常」の再秩序化である。東日本大震災と原発事故以後、日本社会のさまざまな領域で「危機」と「変革」が叫ばれつつも、結果的に大きな変化が生じなかったという見解は、二〇二〇年代の今日では広く受け入れられている(サミュエルズ 二〇一三=二〇一六)。いわば、日本社会は「戦後最大の危機」という経験から「日常」という経験へと移行した(あるいは移行しつつある)のである。
 例えば福島原発事故では首都圏から数千万人を避難させるという破局的な状況を回避したことに加え、二〇一一年一二月の政府による「収束宣言」などを通じて社会的な危機意識は次第に低下していった。また、これまでの原子力政策を正統化させてきた一連の言説に対する不信感は社会で広範に残存しているものの、他方で人々は例えば汚染水問題の存在を知りつつもそうした問題が存在しないかのように振る舞っている。あるいは東京二〇二〇オリンピックの招致過程においては、このイベントを「復興」の一つの区切りとする主張に対する異議申し立てが幅広い世論を喚起することはなかった。これらはリスク社会論では説明しえない危機と社会秩序をめぐる「政治性」の一つの局面である。
 この「危機」と「日常」の関係性の力学は、一部の政策決定者や専門家の間で認識されてきただけでなく、一般の人々の経験の問題でもあり、そうした経験を可能にする言説実践の問題でもある。危機をめぐる社会秩序の揺らぎと再生は、一般の人々の間でどのように経験されてきたのであろうか。この点を考えるうえで一つの手がかりとなるのが、一連の危機が多くの人々にとってメディアによる報道を通じて経験されたという点である。ここで参考になるのが、メディアが日常生活の秩序化において果たす権力作用に注目するアプローチである。このアプローチでは、メディアによる表象、そしてメディアに関する日常的な諸実践の中に、既存の社会秩序を維持し、再生産する不可視の権力作用があるとする(クドリー 二〇一二=二〇一八)。代表的な論者であるロジャー・シルバーストーンは「現れの空間」としてのメディアの表象機能に注目する中で、「メディアは日々、いとも簡単に、人々の感覚を麻痺させるような方法で、非日常的な出来事を日常的な報道や表象へと変えていく」と指摘している(シルバーストーン 二〇〇七=二〇一四:九〇)。
 つまりメディアによって生産されるニュースは、原発事故のような危機が生じると、これまでの原子力開発・利用のあり方、あるいはそれを可能とする近代社会そのもののあり方の矛盾を明らかにするような対抗言説を編成する可能性に対して開かれている一方で、そうした出来事をこれまで原子力政策を正統化してきたコードによって意味づけ、それを通じて日常的な秩序を回復させる可能性に対しても開かれていると考えることができる。日本社会の多数の人々にとって、この出来事がメディアを通じて経験されるものであったがゆえに、ニュースを中心とした日常的な社会秩序感覚の揺らぎと再秩序化に関する「メディア実践の政治」を分析する必要がある。本章では、第二章で検討した言説分析のアプローチ、とくに政治的論理、社会的論理、幻想的論理から構成される政治的意味作用の分析枠組みに依拠しつつ、原発事故をめぐる報道がいかなるメディア実践だったのかを明らかにする。とくにここで注目されるのは、対抗言説の編成と「政治的なもの」の活性化を抑制・制御するニュースメディアの幻想的論理である。本章はこのニュースメディアの言説実践の政治的意味作用について、『朝日新聞』(以下『朝日』)と『読売新聞』(以下『読売』)を対象に分析する。
 日本社会における原発事故のメディア経験を分析するうえで、本章では一九八六年に発生したチェルノブイリ原発事故を対象とする。なぜ福島原発事故ではなく、チェルノブイリ原発事故なのか。第一に、福島原発事故は日本社会において関心が低下しつつも依然として「展開中」の出来事であり、また、そのように受けとめているメディアや世論も一定程度、存在しているのに対し、チェルノブイリ原発事故は三五年以上が経過し、「ニュースをめぐるメディア実践の政治」の過程とその帰結を析出することが比較的容易であるためである。第二に、チェルノブイリ原発事故が発生した当時のメディア環境は、デジタル化によって複雑化した現在と比較してマス・メディアの圧倒的な影響力のもとで形成されており、ニュースメディアが果たした政治的機能をより明確に分析できるためである。第三に、チェルノブイリ原発事故と福島原発事故は出来事としての相同性を有するためである。したがって、チェルノブイリ原発事故に関する分析と検証を通じて、福島原発事故、そして現在生じているさまざまな危機に関する「ニュースをめぐるメディア実践の政治」の理解を深めるための知見を提供したい。(以下、本文つづく。注は割愛しました)
 
 
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