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『フロイトと教育』

 
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デボラ・P・ブリッツマン 著
下司 晶・須川公央 監訳/波多野名奈・関根宏朗・後藤悠帆 訳
『フロイトと教育』

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はしがき
 
 フロイトと教育――このタイトルは凡庸にすぎるだろうか。
 フロイト(Sigmund Freud, 1856-1939)と彼が創始した精神分析ほど、二十世紀以降の教育に大きな影響を与えた思想はない。子ども時代の心的外傷や発達の阻害がその後の成長に深刻な影響を及ぼす可能性があることは、今や常識となっている。トラウマ(心的外傷)、無意識、コンプレックス、アイデンティティ、モラトリアム、ナルシシズム、アンビヴァレンツ(両価性)、アタッチメント(愛着)等々、もともとは精神分析の専門用語だったものが日常に定着している例も多い。PTSD、児童虐待やドメスティック・バイオレンスなどを問題化するようになった潮流の源泉が、フロイトにあることも疑いない。
 フロイトと教育――あるいはこのカップリングは、あまりにもミスマッチだろうか。
 前述の人口への膾炙とは裏腹に、フロイトと教育とが直接に結びつくことは存外に少ない。なによりフロイト自身は教育に関してまとまった著作を残していない。もちろん、症例「少年ハンス」以降、子どもを対象とした精神分析研究は蓄積されており、そのなかには教育経験が病因となっている例もある。とはいえそこから直ちに教育論や教育学が立ち上がるわけではない。フロイトや精神分析が現代の精神医学や臨床心理学の基盤となっていることは、ことさらにいうまでもない。そして同じく、現代の哲学や思想の源流ともなってきたことも、付言する必要などないだろう。フロイトを二十世紀の「時代精神」と表現する者さえいる。にもかかわらず教師など教育に携わる人の多くは、自らの教育実践をフロイトとは無関係なものと考えるだろう。精神分析を教育に応用する試みが全くないわけではないが、それが広く浸透しているとはいいがたい。
 だがフロイトには、今なお現実化していない潜在的可能性が秘められているのではないか。フロイトと教育とを組み合わせることによって、この両者に新たなヴィジョンがもたらされるのではないか。そのために求められるのは、フロイトを教育に応用するといった一方向的な手法ではない。フロイトを通して教育を考え、教育を通してフロイトを考えるという往還運動によってはじめて、新たなフロイト像に、そして新たな教育の姿に出会うことができるはずである。本書の意図を簡単に述べれば、以上のようになるだろう。
 本書の著者デボラ・P・ブリッツマン氏は、教育学者にして精神分析家でもあり、教育と精神分析という二つの領域を自在に行き来できる世界的にみても希有な存在である。詳細な経歴は「あとがき」に記すが、彼女は高校の教員を務めた後、教育学者として大学に職を得て、その後に精神分析家としても活動することとなった。現在はカナダのヨーク大学で教壇に立つとともに、精神分析家として心理臨床にも携わっている。
 本書は、親や教師など教育に関わる人にとっても、将来教育の仕事に携わる学生にとっても、有益な一冊となるだろう。やや大仰な表現だが、本書を読めば誰もが教育においてフロイト思想を用いることができるようになるに違いない。しかしそのために必要なのは、フロイト理論にもとづく教育のマニュアルではない。教育も精神分析も人と人との不確かな相互作用によって生起するのだから、さらにいえば複雑な感情が入り交じってこそ成立するのだから、そもそもマニュアルなど作成不可能なのだ。
 では私たちには、頼るべきものは何も残されてはいないのだろうか。詳細は本論に譲るが、ここであらためて思い起こして頂きたいのは、精神分析はフロイトの自己分析から生まれたという事実である。この原点に立ち返る時、教育者と被教育者の間にも、私たちとフロイトの間にも、これまでとは異なる相互作用が生まれることになるだろう。
 読者にとって本書が、新たなフロイトとの出会いの契機となるならば、教育との新たな関わりへの兆しとなるならば、訳者としてこれ以上の幸せはない。
 
訳者を代表して
下司 晶
須川公央
 
 
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